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■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■
vol.21(隔週発行)
2003年1月27日号
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メールマガジン「西行の京師」ご購読ありがとうございます。
私は第6号で「終刊号までの道筋が見えてこない」と記述しています。
今でも明確には分からないのですが、45号までになるのではないかと
思います。おそらくは年内一杯、長丁場になるということですね。
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■ 西行の京師 第21回 ■
目次 1 今号の歌と詞書
2 補筆事項
3 所在地情報
4 関連歌のご紹介
5 エピソード
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《 1・今号の歌と詞書 》
《 歌 》
1 わきて今日あふさか山の霞めるは立ちおくれたる春や越ゆらむ
(14P 春歌)
2 都出でてあふ坂越えし折までは心かすめし白河の關
(130P 羇旅歌)
《 詞書 》
1 春になりける方たがへに、志賀の里へまかりける人に具して
まかりけるに、逢坂山の霞みたりけるを見て (14P 春歌)
この詞書の次に(1)の歌があります。
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(1)の歌と詞書の解釈
○方たがへ=現在で言う方除けのこと。後述します。
○わきて=とりわけ。わけても。特に。
○あふさか山=逢坂山のこと。滋賀県大津市にある山。
「方たがへ」の基準はたくさんあって、この歌の場合は(春になりける)と
ありますので3月の節句の「方たがへ」のことだろうと解釈できます。
「春になって節句の方たがへのために、志賀の里に行く人に同行した
ときに、逢坂山がかすんでいるのを見て」
「とりわけて今日見る逢坂山がかすんでいるのは、少し遅れていた春が、
いま、逢坂山を越えて京都にむかっているからだろうか・・・」
上が詞書の意味、下が歌の意味です。歌は類型的表現とも言えますが、
あまり固さはなくて、むしろ自由でのびのびとしたリズムがあります。
待望の春を待つことに共感できる、楽しい読後感が味わえると思います。
春が山を越えてくるという擬人法もそれほどの違和感はありません。
このように、当時は春が山を越えて京都にやってくるという共通認識が
あったものと思います。
(2)の歌の解釈
この歌の前にある詞書が、西行の心境を表していて、味のあるものです
ので、 記述しておきます。「心ひとつ」という言葉は、能因法師と心が
ひとつになったと解釈することもできますが、むしろ私は、西行自身が
自分の身の処し方なり、今後の生き方についての覚悟なりの万感の思いを
「心ひとつ」という言葉に託している、少なくともその比重の強いものだと
解釈します。
「さきにいりて、しのぶと申すわたり、あらぬ世のことにおぼえてあはれ
なり。都出でし日數思ひつづくれば、霞とともにと侍ることのあとたどる
まで來にける、心ひとつに思ひ知られてよみける」 (129P 羇旅歌)
○白河の關=陸奥の国西白河郡(現在の福島県白河市)にあった古代の有名な関。
「都を出立して逢坂の関を越えた時までは、折々心をかすめた程度だった白河
の関のことを、その後はひたすら思い続け、今こうしてたどりついたよ」
「新潮日本古典集成山家集から抜粋」
詞書によると、白河の関を越えて「しのぶ」という所で詠った歌である
ことがわかります。西行の初度の陸奥旅行の時の歌群のうちの一首と
いわれています。
詞書にある「霞とともにと侍ることのあとたどる・・・」ということは
能因の下の歌をさします。
「都をば霞とともに立ちしかど 秋風ぞ吹く白河の関」
「後拾遺和歌集」
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《 2・補筆事項 》
1 方たがへについて
〔以下、「方たがへ」は「方たがえ」と記述します。〕
「方違え(かたたがえ)。陰陽道でいう凶方に向かうさいに行われる習俗。
前夜、別の方角に泊まるなどして、方角を変えてから目的地に向かう。」
「講談社 日本語大辞典より抜粋」
方たがえの基準はさまざまであって、節分の方たがえとか、年単位、三年単位
のものまであります。天一神の60日周期、太白神の10日周期などもあって、
一定の法則で動いています。それらのいるところに凶事があるということです
から、凶のある方向を忌むこと、(方忌=かたいみ)、その方向と合わさる
ことを避けるために回避行動をしました。それが「方たがえ」です。
源氏物語にも、この方たがえのことが、何度も描かれています。節分の夜は、
自邸ではなくほかの家で過ごすことによって、自邸には方忌が及ばないと
信じられていたそうです。
(朝日新聞社刊 (平安の都) 角田文衛 編著を参考にしました。)
現代ではまったくの俗信に類することと解釈されますが、方除けのお守り
などは現代でも各寺社の重要な財源になっているようです。
2 逢坂山・逢坂の関
逢坂山は滋賀県と京都市を隔てる山です。現在は滋賀県大津市に属します。
平安時代は逢坂の関は鈴鹿の関(三重県)と、不破の関(岐阜県)とともに
三関の一つでした。
ちなみに平城時代は鈴鹿、不破、愛発(あらち)の関が三関でした。
この逢坂は男女の恋愛、逢瀬という意味をこめて万葉集の時代から歌に詠み
こまれてきました。国道1号線に逢坂の関所跡の石碑があります。
平安時代は、この場所よりは大津市寄りに関所があったようです。
下は逢坂の関跡の画像です。
http://kazu02aa.hp.infoseek.co.jp/saigyo2/yamasina04.htm
3 白河の関
現在の福島県白河市にありました。勿来(なこそ)の関、念珠(ねず)の関と
合わせて、奥羽三関のひとつです。古代に蝦夷対策のために設置されたもの
です。
蝦夷(えぞ)といわれた現地在住集団との戦闘でも有名ですが、能因法師らの
歌にも詠み込まれて、歌枕としても有名になりました。
4 能因(988〜?)
出自は橘氏。俗名、橘永やす(たちばなのながやす)。父は肥後守橘元やす
(たちばなのもとやす)と言われています。二十六歳ごろに出家し、諸国を
歩いて歌を作った僧です。摂津国(大阪)に住んでいました。
家集に「能因集」があります。ほかに私撰集「玄々集」歌学書「能因歌枕」
があります。中古三十六歌仙の一人です。
(名前の やす の漢字は使えませんので、仕方なくひらがな表記にしました。)
百人一首第69番。
「嵐吹く三室の山のもみぢ葉は龍田の川の錦なりけり」
5 奥州旅行について
西行は生涯で二度の奥州旅行をしたことが知られています。
二度目の旅は1186年、西行69歳の時であることは「吾妻鏡、巻五」
によって、明らかになっています。この時の旅の目的は奈良、東大寺
再建の為の砂金拠出を陸奥の藤原秀衡に要請するためでした。1187年
春には京都に帰ってきたようです。
初めの旅については、年代は確定していません。諸説があります。
出発年は西行26歳(川田説)から30歳(窪田説)までの説があり、開きがあり
ます。旅のルートについても明確ではなく、目的も推定の域を出ません。
ルートについては、歌が「白河の関」以前のものがありませんので不明です
が、「小夜の中山」を通ったことは確実視されています。目的については、
明白なものがなく、歌枕の探訪だろうと言われています。
尚、待賢門院が西行28歳の時に崩御していますので、このことが奥州行脚の
契機になったものとも考えられます。
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《 3・所在地情報 》
◎ 三井寺 (みいでら)
所在地 滋賀県大津市園城寺町246
電話 077−522−2238
交通 京阪電鉄三井寺駅から徒歩約10分
JR湖西線西大津駅下車 京阪バス三井寺下車すぐ
拝観料 500円
拝観時間 8:00〜17:00
駐車場料金 普通車500円。
三井寺は通称名で正式には園城寺といいます。天台寺門宗の総本山です。
西行とは直接には関係ないのですが、逢坂の関の近くでもありますし、
日本屈指の古刹でもありますので、ここに紹介いたします。
下は三井寺のサイトです。
http://www.shiga-miidera.or.jp/
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《 4・関連歌のご紹介 》
1 夜をこめて鳥の空音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ
清少納言(百人一首・定家八代抄・後拾遺集)
2 これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関
蝉丸(百人一首・定家八代抄・後撰集)
3 名にし負はば逢坂山のさねかづら人に知られでくるよしもがな
三条右大臣(藤原定方)(百人一首・後撰集)
4 あら玉の年にまかせて見るよりはわれこそ越えめ逢坂のせき
謙徳公(新古今集)
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《 5・エピソード 》
寒さの厳しい日々が続いています。空気の粒子が尖っているような感じです。
その尖りの先が、いくら衣服をまとっていても、衣服を通して肌に直接に突き
刺さってくるようにさえ感じます。寒さというのは決してやさしいものでは
なくて、「痛い」という感覚ですね。身体の芯から冷え込むような思いを味
わいます。けれども、子供の頃には、その寒さ自体を全身で楽しんでいたよう
にも思います。今はもう、コタツに入って背を丸めて、猫を抱いている図が
似合いそうな、そういう年齢の私です。いかにも好々爺という図でしょうか。
都市は夜も眠りませんが、雪の多い地方などはモノトーンに覆われた世界の
ただ中にあるものと思います。私の伯母の住む長野県下水内郡も豪雪地帯
です。降雪の多い時は二階の窓から外に出入りするとも聞きました。出入り
できるならまだ恵まれているのかもしれません。冬の内は誰とも交流のない
という、隔絶された世界にお住まいの方もおられるのでしょうね。
訪ねてくる人などいない雪の吉野の庵で、西行法師はどうしてこの寒さを一人
でやり過ごしていたのだろうか・・・。現代と違って暖房器具もなく、暖かな
寝具もない時代。時間だけは無尽蔵にあるけれども、ただ、静謐だけが支配する
世界では、風流とか数奇とか言ってみたところで、どうにも耐えられないという
厳しい寒さが現実としてあったはずだと思います。西行は孤独とか弧絶という
ものにはとても強い人ですが、それは同時に、人恋しい面も合わせ持っていた
ことが歌からもわかります。孤独の中にいて孤独というものの本質を知りぬいて
いる人だからこそ、他人の生をも愛せる人だったのではないかとさえ思います。
しかし、それとは関わりなく深い山の中の自然環境の過酷さは西行の身体を
苛んだものであることは確かでしょう。
「寒さ」ということをキーワードにして、私はいろんなことに思いをはせて
しまいます。
春が待たれます。春、夏 秋、冬と季節ごとに区切ってみれば、不連続のよう
にも錯覚しますが、自然のサイクルはすべて連続しています。今日の日が
あって明日がある。連続した日常の営みの中で、寒い寒いとは言ってはいても、
すでに早咲きの梅便りも聞かれます。春はもうすぐとも言えるのでしょう。
西行がことさらに愛した桜も、あと2ヶ月もすると開花します。
私も今から待ち遠しい想いでいます。
今回の「逢坂」は京都ではなく滋賀県です。構成の関係で、今回取り上げる
事にいたしました。次回から京都市内となります。
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