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     ■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■    

                           vol.22(隔週発行)
                            2003年2月10日号
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  メールマガジン「西行の京師」ご購読ありがとうございます。
  暦の上では立春も過ぎましたが、まだまだ寒さの渦中にあります。
  でも、あちこちから梅だよりも届いています。春も、もうすぐです。
  
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     ■ 西行の京師  第22回 ■

   目次  1 今号の歌と詞書
        2 補筆事項       
        3 所在地情報
        4 関連歌のご紹介
        5 お勧め情報
        6 エピソード

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   《 1・今号の歌と詞書 》

  《 歌 》
 
 1 春たつと思ひもあへぬ朝とでにいつしか霞む音羽山かな
                       (14P 春歌)

  《 詞書 》

 1 「さだのぶ入道、観音寺に堂つくりに結縁すべきよし申しつかはすとて」
                      観音寺入道生光  
                         (215P 釋教歌)

  この詞書の次に下の歌があります。
 
 「寺つくる此我が谷につちうめよ君ばかりこそ山もくづさめ」
                       (215P 釋教歌)
 「かへし」として西行の下の歌があります。

 「山くづす其力ねはかたくとも心だくみを添へこそはせめ」
                       (215P 釋教歌)

  《参考歌》

 1 音羽山いつしかみねのかすむかなまたるる春は關こえにけり

 2 春たちて音羽のさとのかげの雪にしたの清水のとくるまちける

 3 いつしかにおとはの瀧のうぐいすぞまづみやこには初音なくべき

 上記参考歌三首は松屋本山家集に収録されているものです。第一書房発行、
 伊藤嘉夫氏校註の日本古典全書にも再録されています。  

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  (1)の歌の解釈

 この歌は「立春の朝よみける」という詞書のついた五首の内の一首です。

 ○春立つ=二十四節季のひとつで、立春のこと。
 ○思ひもあへぬ=思いもかけぬ。思いもよらぬ。
 ○朝とで=朝戸出=朝、戸外に出て見ること。

  「立春の日を迎えても、とても春とは思えない朝の寒い外出だが、
  それでもいつのまにか霞のかかっている音羽山だ。」
           (宮柊ニ「西行の歌」より抜粋)

  「昨日までと特に変わった様子もなく、立春とは思いもよらなかったが、
  朝外へ出てみると、春がやって来るといわれる東の方に見える音羽山に
  いつの間にか霞がかかり、春になったことを告げている」
            (新潮日本古典集成「山家集」より抜粋)

  なんだか上三句と下ニ句の関係性がまだるっこしい感じで、スムーズさに
  おいて引っかかるものを感じます。「春たつと」という説明的序詞、「思い
  もあへぬ」という作者の感覚表現、「朝とでに」という行動説明、そして
  「いつしか霞む 音羽山かな」という遠景の状況説明。それらによって成立
  しているこの歌ですが、自分の拠って立つ卑近な位置から遠くにあるものを
  表現することによって、つまりは微視から巨視という絵画的な遠近法の効果を
  生み出しているのかは疑問です。私見では西行の初期の歌で、この歌はまだ
  まだ推敲の余地があると思います。特に「思ひもあへぬ朝とでに」という
  二句と三句の関係性は、恣意性が強いと思います。でも西行らしい言葉の
  用い方、リズム感はありますし、気持ちのゆったりとした、幸福感みたいな
  ものを味わわせてくれることは確かです。

  (1)の詞書の解釈 

 ○さだのぶ入道=藤原定信のこと。官職は宮内大輔。世尊寺定信ともいう。
         藤原行成の子孫。能書家で著名。彼の書いたものが現在も 
         何点か残っています。
 ○観音寺入道生光=定信入道の法名。
 ○観音寺=東山区の「今熊野観音寺」と考えられる。
 ○結縁=(けちえん)=仏道の縁を結ぶこと。
 ○かたくとも=難くとも=むつかしいこと。 
 ○心だくみ=心匠=気持ちの上での手助け

  詞書は、定信入道が観音寺に堂を作っているので、結縁ということ、要する
  に定信入道の歌から解釈すると、協力してほしいという事なのでしょう。
  
  「今、観音寺に堂を作っていますので、この私の谷に、山を崩して土を
  埋めてください。」という定信入道の歌に対する返歌として、

  「山を崩してほしいとおっしゃられても、その力はありませんが、気持ち
  だけは、できる限り力を尽くすようにしましょう」
  という西行の歌が続きます。

  定信入道は1088年生まれですので、西行とは丁度30歳違います。が、同じ
  仏道修行者として親しい関係であったのかも知れません。藤原定信は藤原
  定実の子とあり、待賢門院中納言の局と兄弟といいますので、西行とは早く
  から面識があったことも想像できます。
         (上記、目崎徳衛氏箸「西行の思想史的研究」を参考)

  尚、創元社、昭和15年発行の奥付けのある川田順氏の「西行研究録」では
  中納言の局は、藤原の俊成の姪にあたり、葉室顕頼の娘とあります。
  中納言の局は西行より年配と考えられますので、年齢的にみて俊成の姪と
  いうことはありえないと思います。俊成は1114年生まれで、西行よりわずかに
  四年だけ年長です。
  従って中納言の局は目崎氏説の方が正しいと考えていいと思います。
  
  参考歌の三首については解釈を割愛します。

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   《 2・補筆事項 》

 1 音羽山

  山科盆地の東にあり、京都府と滋賀県の堺をなす。北は逢坂山、南は醍醐山に
  連なる。海抜593メーター。音羽山は「名所都鳥」に

   《をとは山、をとにきく所三ところにあり。清水のをとはと、相坂の関
    より南にあたる山と、ひえの西、きらら坂の中程となり、又の説には
    清水のをとはと牛尾のをとはと白川のをとはと三つ也。》

  とあるように三ヶ所が知られる。(中略)
  山科の音羽山は歌枕である。郭公・紅葉・秋風などと詠合わせられることが
  多い。「能因歌枕」が山城と近江にそれぞれ入れているのは、この山が国境
  をなすからであろう。     (上記、平凡社「京都市の地名」より抜粋)
 
  東山区にある清水寺の背後の山は、清水山とも音羽山とも呼ばれてきました。
  (1)の歌にある「音羽山」は東山区清水山のことか、山科区音羽山のことか
  特定できません。資料によっては東山区ともあり山科区ともあって、私も
  結論を出すことは不可能です。
   
 2 観音寺

  現在は東山区の泉涌寺の塔頭の一つです。今熊野観音寺といいます。
  京都に観音寺は八ヶ所ほどあったようですが、藤原定信の詞書にある
  ように「山を崩す・・・」という描写に該当する観音寺は、多くはなかった
  ようです。研究者の間では、「観音寺」はこの「今熊野観音寺」を指すという
  ことで一応の決着をみているようです。
 
  今熊野観音寺は嵯峨上皇の発願により、空海が開基となったという説もあり
  ます。後白河天皇が那智の熊野権現を山麓に勧請してから今熊野観音寺と称
  するようになったそうです。現在の泉涌寺道は過去において観音寺道と呼ば
  れていたそうですから、その殷賑振りが想像できます。
  この観音寺あたりは、京都の街中から少し離れているだけですのに、深山幽谷
  の趣きがあります。郭公の名所とも言われますので、西行も一再ならず、ここ
  にきたことと思います。
  
  下は今熊野観音寺のページです。その下は私の撮影画像です。

  http://www.kannon.jp/access/index.html

  http://kazu02aa.hp.infoseek.co.jp/ima02.html

 3 「小野」歌について

  山家集には「小野」の地名が単独で用いられている歌が四首あります。
  ところが京都には「小野」という地名がいくつかあって、場所を特定する
  ことができません。音羽山の南にも「小野」はありますが、ここでは取り
  上げずに、左京区の所で一括して紹介いたします。ただし、この地にある
  随心院と勧修寺について簡略に触れておきます。

 4 随心院

  随心院は仁海僧正の開基により991年に創建された曼荼羅寺が前身です。
  第五世増俊僧正の時に随心院と改め、第七世親厳僧正の時に随心院門跡と
  なったとあります。ですから西行は「曼荼羅寺」時代しか知らないものと
  思います。
  随心院は仏教関係でも真言宗の小野流として有名ですが、深草少将の百夜通い
  の伝説とか、小野小町のゆかりの寺としても有名です。
  「卒塔婆小町坐像」という晩年の小町の木像もあります。
  百人一首第九番。小野小町。

  「花の色は移りにけりないたづらに わが身世にふるながめせし間に」 

  http://kazu02aa.hp.infoseek.co.jp/saigyo2/yamasina02.htm

 5 勧修寺

  勧修寺は随心院よりも古くからのものです。第60代醍醐天皇(885〜930)の
  生母(胤子=いんし)が生まれた所で、900年創建と伝えられます。胤子の
  弟が藤原定方です。1300年代に後伏見天皇の皇子が入寺して、門跡寺院と
  なりました。山階門跡ともいいます。醍醐天皇の勅願寺でもあった醍醐寺
  とは長く確執があり、何度も焼かれています。
  勧修寺の庭園にある「氷室の池」に張り詰めた氷を1月2日に朝廷に献上する
  習わしがあったそうです。また、樹齢750年というヒノキ科の「ハイビャク
  シン」という常緑潅木、及び、同じ根元から幹が出ている三代同根の梅の
  木は一見の価値があります。

  http://kazu02aa.hp.infoseek.co.jp/saigyo2/yamasina03.htm

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   《 3・所在地情報 》

 ◎ 随心院 (ずいしんいん)

 所在地     山科区小野御霊町35
 電話      075−571−0025
 交通      JR山科駅から地下鉄東西線小野駅下車徒歩約10分
 拝観料     400円 梅林は別途400円
 拝観時間    9:00〜16:30
 駐車場料金   無料
 
 ◎ 勧修寺 (かしゅうじ)
 
 所在地     山科区勧修寺仁王堂町27−6
 電話      075−571−0048
 交通      JR山科駅から地下鉄東西線小野駅下車徒歩約5分
 拝観料     400円
 拝観時間    9:00〜16:00
 駐車場料金   無料

 ◎ 今熊野観音寺 (いまくまのかんのんじ)

 所在地     東山区泉涌寺山内
 電話      075ー561ー5511
 交通      京都駅八条口からタクシーで約10分
         京都駅烏丸口から市バス208番、泉涌寺道下車徒歩約10分
 拝観料     自由拝観
 拝観時間    8:00〜17:00
 駐車場料金   無料

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   《 4・関連歌のご紹介 》

 1 音羽山音に聞きつつ逢坂の関のこなたに年を経るかな
           藤原(在原)元方 (古今集・定家八代抄・王朝秀歌選)

 2 音羽山こだかくなきて郭公きみがわかれををしむべらなり
                         紀貫之 (古今集)

 3 秋風の吹きにし日より音羽山みねのこずゑも色づきにけり
                         紀貫之 (古今集)

 4 音羽山けさこえくれば郭公こずゑはるかに今ぞ鳴くなる
                         紀友則 (古今集)

 5 山科の音羽の山のおとにだに人の知るべくわが恋ひめかも
                       読人しらず (古今集)

 6 おとはやまこのしたかけにかほとりのみえかくれせしこゑのかなしさ
  (音羽山木の下蔭にかほどりのみえがくれせし聲の悲しさ
                      伊勢 (夫木和歌集8239番)
  
   おとはやまこのしたかけにかほとりのみえかくれせしかほのこひしさ
  (音羽山木の下蔭にかほどりのみえがくれせし顔の恋しさ
                      伊勢 (伊勢集417番)

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   《 5・お勧め情報 》

 「京の梅の香めぐり」

 行き先    しょうざん庭園・北野天満宮・梅宮大社
 乗り物    京都定期観光バス 
 日時     2/22〜3/18 京都駅烏丸口、午前10時20分発
 代金     7300円。食事付き

 詳しくは京都観光バスのページをごらん下さい。ご希望の方は予約してください。

  http://www.kyototeikikanko.gr.jp/ 

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   《 6・エピソード 》

 東山連峰の東に位置する山科盆地は、東山区に属していましたが昭和51年に
 山科区として分区しました。この地も古くから人々が住みついていて、縄文や
 弥生の時代の中臣遺跡があります。藤原氏の祖となった藤原鎌足(中臣鎌足)も
 山科の出身です。ほかにも歴史的な遺跡は散在しています。今回記述した音羽、
 随心院、勧修寺以外にも、天智天皇陵、山科本願寺の跡、忠臣蔵の大石寺、平安
 歌人の遍昭の元慶寺、宗教団体の一燈園、醍醐天皇陵や坂上田村麻呂の墓、
 明智光秀の小栗栖・・・などがあります。醍醐寺や日野誕生院は山科盆地の
 南部にありますが、行政区としては伏見区となります。

 山科には、何度か西京区の自宅から自転車で行っています。
 伏見の観月橋から六地蔵を経由して、日野、醍醐寺に向かうコースを取ったり、
 深草から国道35号線で稲荷山の南端を越えて、勧修寺の横に出るコースを取ったり
 します。自宅から山科までは直線距離にして20KMとないはずですが、各ルートの
 道路距離はそれ以上になります。

 今回取り上げた勧修寺のことを調べていて、大石順教尼のことについての記述を
 発見しました。簡単に彼女について触れておきます。

 1888年に大阪道頓堀で生まれる。本名は大石よね(よね子)。早くから花柳界に
 出ていたらしく、11歳で京舞の名取りになったともいいます。
 17歳の時に養父が一家を斬殺するという「堀江六人斬り」の事件を起こします。
 よね子は両腕を切断されるも、かろうじて命を永らえました。治療にあたったのは、
 道修町の高安病院。歌人の高安やす子、高安国世の実家です。
 その後のよね子は旅芸人生活などをしていましたが、画家と結婚。出産、離婚を
 経験しました。仏門に帰依し、1933年に出家、得度。勧修寺の塔頭になっている
 「仏光院」で障害者福祉に余生をささげました。自身は口に筆を咥えて書画を
 書き、日展にも入選しています。1968年死去。享年80歳、著書に「無手の法悦」
 春秋社があります。その他、彼女の生涯は何度もドラマ化されたそうです。 
 下は「仏光院」のページです。

   http://web.kyoto-inet.or.jp/people/bukkouin/

 「堀江六人斬り」のことは二年ほど前に知ることができましたが、大石順教尼の
 ことは知りませんでした。今回調べてみて、ドラマのような生涯を送ったことに
 対して、感嘆のあまり、声も出ないありさまです。
 
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