もどる
=================================
■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■
vol.23(隔週発行)
2003年2月24日号
=================================
メールマガジン「西行の京師」ご購読ありがとうございます。
本日はもう24日。梅見月とも言われる二月は足早に過ぎ去り、
すぐに三月になります。今のうちに、今年の梅を楽しみたいと
思います。
=================================
■ 西行の京師 第23回 ■
目次 1 今号の歌と詞書
2 補筆事項
3 所在地情報
4 関連歌のご紹介
5 お勧め情報
6 エピソード
================================
《 1・今号の歌と詞書 》
《 歌 》
1 かぎりなく悲しかりけりとりべ山なきを送りて歸る心は
(204P 哀傷歌)
2 鳥邊野を心のうちに分け行けばいまきの露に袖ぞそぼつる
(192P 雑歌)
《 詞書 》
1 「ゆかりありける人はかなくなりにける、とかくのわざに鳥部山
へまかりて、歸るに」
(204P 哀傷歌)
この詞書の次に(1)の歌があります。
2 「東山に清水谷と申す山寺に、世遁れて籠りゐたりける人の、
れいならぬこと大事なりと聞きて、とぶらひにまかりたりける
に、あとのことなど思ひ捨てぬやうに申しおきけるを聞きて
よみ侍りける」
(241P 聞書集)
この詞書の次に下の歌があります。
「いとへただつゆのことをも思ひおかで草の庵のかりそめの世ぞ」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(1)の歌と詞書の解釈
○ゆかりありける人=西行自身とゆかりのある人と思いますが、誰を
さしているのか特定できません。
○なき=死者のこと。
○とかくのわざ=葬送を意味します。葬儀のことです。
「ゆかりの人(西行の近しい親族か、あるいは極めて親しい友人)が亡く
なって、東山の鳥辺野で葬儀が行われました。死者を荼毘に付して
(火葬して)から、帰りました」
「亡くなったゆかりある人を鳥部山で見送って、そして家に向かって
帰る私の心は、これ以上もなく悲しいものだよ」
上が詞書、下が歌の解釈ですが、ともに死者を見送るということの
悲しみを直截的に表現しています。技巧を用いず、気持ちを直情的に、
そのまま詠っていて、少しの説明も要しないと思います。西行の時代
であれ、現在であれ、個人にゆかりのある人を見送るのは悲しいもの
です。この哀切の感情は誰にも響きあい、そして共有することのできる
極めて人間的な感情であるはずです。
伊藤嘉夫氏は「日本古典全書山家集」の中で、「ゆかりありける人」
とは西行の妻だと予想しています。西行の妻は出家して高野山山麓の
天野に住んでいたはずですが、出身地の京都に帰って、最後を迎えた
のかもしれません。その場合は、西行が葬儀を執行したものかもしれ
ません。この歌にあるダイレクトな表現、痛切な階調から考えて、私も、
西行が妻を見送ったというふうに思えてきます。
(2)の歌の解釈
○いまきの露=意味不明です。山家集によって「いぶきの露=新潮日本
古典集成」「いそぢの露=西行法師家集」と、異同があり
ます。
「無常の世を思いながら鳥辺野の道を分けてゆくと、嘆きの息吹が
露になったのだろうか、しとどに袖の濡れそぼつことであるよ。」
「新潮日本古典集成山家集より抜粋」
「鳥辺野という、人の終わりを象徴する場所の事を考えていると、
これまでの来し方、そしてこれからのことにまであれこれと分け
行って、思いをいたせば、人の命のはかなさ、人の生に対する無常
感が涌き起こって、いつのまにか涙で袖を濡らしてしまっているよ」
というふうにも解釈できます。
(2)の詞書の解釈
「清水谷」とは、どのあたりをさすのか判明しません。地名であると
するなら清水山の麓だろうと思います。寺の名称と受け取れる詞書
ですが、これはやはり地名だろうと思います。
「山家集の風土と風景(名古屋茂郎氏著)」では、
「谷らしい境目の 南側に当たる斜面」
と記述されていますが、私は確認していません。
「清水谷という山寺に住んでいた出家者が危篤になったので、最後を
看取るために出かけて行きました。その人は自分の死後のことに
ついて、あれこれと思いを残しているようなので、そのことを聞いて、
詠みました」
○いとへただ=(厭え、ただ)という意味ですが、この歌では多少ニュー
アンスが違うものと思います。強い調子で注意している
のではなくて、やさしく、さとしている感じです。
「人の生は草の庵(いおり)に住む、かりそめのもの、無常のものです
から、露と落ちたあとの事などは、なにもご案じなさらないよう、
心やすらかに」
ということが歌の意味だと思います。
出家遁世した人達の間では、同じ道を歩む者としての連帯感が
あったものと思います。危篤に陥った同行の人達を看取るための
「臨終念仏」ということを重視していたそうです。西行自身も醍醐の
東安寺(257P)で危篤に陥った時に、このことを体験しています。
「西行の思想史的研究(目崎徳衛氏著)を参考」
=================================
《 2・補筆事項 》
1 東山三十六峰について
東山連峰は北の比叡山から南の稲荷山までの12キロほどの間に、
三十五の峰があります。双林寺山は山とありますが峰はありません。
ですから実際は三十五峰です。一応、峰の名称を北から順に記述して
おきます。なんでも江戸時代にすべての峰の名が決められ、大正から
昭和にかけて歌などにより有名になったそうです。
以下は正式名ですが、清水山は音羽山というように、多くの山に別称が
あります。都名所図会によれば、比叡山つまり叡山の別称は天台山・
我立杣・艮岳・鷲峰・台嶺・叡岳・大日枝・小日枝と八つの別称が書か
れています。
山は、ここからここまでがこの名称の山というように、明確な境界はあり
ません。
1 比叡山 13 紫雲山 25 東大谷山
2 御生(みあれ)山 14 善気山 26 高台寺山
3 赤(せき)山 15 椿が峰 27 霊鷲山(りょうじゅせん)
4 修学院山 16 若王子山 28 鳥辺山
5 葉山 17 南禅寺山 29 清水山
6 一乗寺山 18 大日山 30 清閑寺山
7 茶山 19 神明山 31 阿弥陀が峰
8 瓜生(うりゅう)山 20 粟田山 32 今熊野山
9 北白川山 21 華頂山 33 泉山
10 月待山 22 円山 34 恵日山
11 如意が岳 23 長楽寺山 35 光明峰
12 吉田山 24 双林寺山 36 稲荷山
2 鳥辺野・鳥部山
鳥辺野は、西の仇野、北の蓮台野とともに、京都の三大葬送地の
ひとつです。平安京発足の時代は鴨川以東はまだまだ未開地が
多かったそうで、死体は鴨川以東にも遺棄していたとも、何かで
読みました。おそらくはそれが実態だったのでしょう。野ざらしの
風葬です。火葬が普及したのは八世紀の初頭あたりからのようです。
ですが、羅城門の上で女の死体から髪の毛を抜く老婆の話が「今昔
物語集」で記載されているように、庶民の場合は火葬とか埋葬とか
されずに遺棄されていたものが殆どだったようです。とくに飢饉
とか疫病が原因の時は、都大路にもたくさんの死体が捨てられて
いたということです。
吉田兼好の「徒然草」第七段に
「あだし野の露きゆる時なく、鳥部山の烟立ちさらでのみ住みはつる
ならひならば、いかに物のあはれもなからむ。世は、定めなきこそ
いみじけれ」
とあり、鳥辺野は人の世の無常を表す代名詞です。王朝時代に栄華を
極めた、かの藤原道長もここで火葬されたということです。
鳥辺野と一くくりにして言いますが、皇室や公卿などの貴顕の場合は
阿弥陀が峰の南西の今熊野観音寺とか泉涌寺あたり、庶民は阿弥陀が峰
の北西というよりも清水山の南西あたりで荼毘に付されました。親鸞も
そうです。司馬遼太郎氏もここで眠っています。
鳥辺野墓地は、古代は六道珍皇寺が管理していたようですが、江戸時代に
なってからは西本願寺が管理しているということです。
この墓地を歩いて上がれば清水寺に着きます。
下は大谷本廟・鳥辺野墓地の画像です。じつに驚嘆すべき規模です。
http://kazu02aa.hp.infoseek.co.jp/saigyo2/higa6.html
3 泉涌寺
泉涌寺山、月輪山とも呼ばれる泉山の麓にあります。
通称「御寺(みてら)」と呼ばれています。
800年代、空海がこの地に「法輪寺」と号する草庵を築いたことが起こり
と伝えられます。その後、四条天皇が1242年にこのお寺で埋葬されて
から、次々と皇族方が葬られることになりました。月輪陵、後月輪陵など
に25人が葬られているそうです。
この泉涌寺は前回22号で紹介した観音寺のすぐ東の山側にあります。
大門をくぐると、参道は下り坂になっていて、本堂ともいうべき仏殿が
建っています。山を崩して、谷を平地にして建立したものでしょう。
下は泉涌寺の画像です。
http://kazu02aa.hp.infoseek.co.jp/ima01.html
=================================
《 3・所在地情報 》
◎ 泉涌寺 (せんにゅうじ)
所在地 東山区泉涌寺山内町27
電話 075ー561ー1551
交通 京都駅八条口からタクシーで約10分
京都駅烏丸口から市バス208番、泉涌寺道下車徒歩約10分
拝観料 300円
拝観時間 9:00〜16:30 (12月〜2月までは16:00まで)
駐車場 30台。無料
=================================
《 4・関連歌のご紹介 》
1 けぶりだにしばしたなびけ鳥辺山たちわかれにし形見とも見ん
寂然法師 (千載集)
2 鳥辺山君たづぬとも朽ちはてて苔のしたには答へざらまし
大江公景 (千載集)
3 鳥辺山思ひやるこそかなしけれひとりや苔のしたに朽ちなん
民部卿(藤原)成範(千載集)
4 はれずこそ悲しかりけれ鳥部山立ち返りつるけさの霞は
小侍従命婦 (後拾遺集545番)
=================================
《 5・お勧め情報 》
異例ですが、友人発行のマガジンをお勧めします。
老人性痴呆症に罹患した母親を介護する過程で編まれた作品を連載して
いるマガジンです。
「痴呆」という題で一冊の作品集として、すでに刊行されています。
「痴呆」は一昨年の宇治市の「紫式部市民文学賞」を受賞しました。
受賞にふさわしく、とても良い、感動的な作品集であると私も思います。
マガジン名 「痴呆」作品集とその周辺
発行者名 村山 豊 氏
発行形態 不定期
発行者メールアドレス glass-ok@sea.plala.or.jp
【配信システム】 Pubzine( http://www.pubzine.com/ )
【購読解除】 http://www.pubzine.com/detail.asp?id=4416
【問い合わせ先】 awadachiso@msn.com
=================================
《 6・エピソード 》
「木曽人は海のいかりをしづめかねて死出の山にも入りにけるかな」
(256P 聞書集)
この歌は西行晩年の伊勢時代のものです。心情的に平氏の側に立って
いた西行が、源義仲の敗死を知って詠んだ歌です。義仲を痛烈に揶揄
しています。
源平争乱は、この国を二分するような戦いでした。国の命運を左右する
ような大規模の戦いは壬申の乱以来です。
武士としての系譜からみても西行は戦いそのものについては肯定的に捉
えていたのではないかと思います。人間の社会は戦いを繰り返すもので
あり、それは仕方ないという思いがあったでしょう。しかし出家遁世した
宗教者としての西行は「・・・こは何事のあらそひぞや。あはれなること
のさまかなと覚えて(255P詞書)」と、あるように戦いの愚かしさを嘆き、
批判しています。
殺戮と破壊を好む指導者がいます。彼と、かの国の危険な思潮が世界の
潮流ともなっています。まるで猫が鼠をいたぶるように、圧倒的な軍事
力で、今、まさに戦端を開こうとしています。様相は戦いというよりも
一方的な殺戮、破壊になるはずです。彼の狂気としかいえない正義感の
ために、またしても多くの人命が失われ、自然が破壊されます。
聖書にあるカインとアベルの寓話のように、私達は罪深い存在であるの
でしょう。戦いの連環、罪の連環のなかで、かの指導者は確実に滑稽で
愚かな役回りを演じています。
しかし、なんとしてでも一人の人命も失わせてはならないと思います。
政治家が世界を動かすのではなくて、最終的には人々の良心こそが世界を
動かさなければならないと痛切に思います。
現在、梅の花が咲き誇っています。次には桜がこの一春を咲き誇ります。
戦いの時代に、西行は伊勢にあって桜を楽しめたのでしょうか?
私達は殺戮の春を楽しめるでしょうか?
=================================