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■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■
vol.24(隔週発行)
2003年3月10日号
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メールマガジン「西行の京師」ご購読ありがとうございます。
三月に入って啓蟄も過ぎると、さすがに暖かくなってきました。
とはいえ、まだまだ三寒四温の日々です。桜の開花が待たれます。
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■ 西行の京師 第24回 ■
目次 1 今号の歌と詞書
2 補筆事項
3 所在地情報
4 関連歌のご紹介
5 お勧め情報
6 エピソード
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《 1・今号の歌と詞書 》
《 歌 》
1 鳥部山わしの高嶺のすゑならむ煙を分けて出づる月かげ
(211P 哀傷歌)
2 なき跡を誰としらねど鳥部山おのおのすごき塚の夕ぐれ
(212P 哀傷歌)
《 詞書 》
1 「鳥部野にてとかくのわざしける煙のうちより出づる月
あはれにみえければ」 (211P 哀傷歌)
この詞書の次に(1)の歌があります。
2 「世につかへぬべきやぅなるゆかりあまたありける人の、さも
なかりけることを思ひて、清水に年越に籠りたりけるにつか
はしける」 (216P 釋教歌)
この詞書の次に下の歌があります。
「此春はえだえだごとにさかゆべし枯たる木だに花は咲くめり」
今号の地名=鳥辺山・鳥辺野・わしの高嶺
今号の寺社名=清水(清水寺)
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(1)の歌と詞書の解釈
○わしの高嶺=釈迦が説法したというインドの霊鷲山のことです。
後述します。
「鳥辺野は釈迦が説法なさった霊鷲山の流れをくんだ末の山なので
あろうか。火葬の煙を分けて美しい月の姿が現れたよ」
(新潮日本古典集成より抜粋)
この歌は上三句と下ニ句の表現に乖離があり過ぎているという印象
ですが、私にはとても良い歌だと思えます。一言隻句の言葉の用い方
に無駄がなく、西行らしい用法だとも思います。一首全体を統御して
いる言葉のリズムも疑問を感じたり立ち止まったりすることのない
自然ななめらかさがあると思います。下二句は静謐を基調とした絵画
的なイメージを喚起させます。
前回23号でも記述しましたが「とかくのわざ」とは葬送の儀式のこと
であり、そのうちに火葬も含まれます。(1)の詞書及び歌にある煙と
は火葬の煙のことであり、この歌と詞書は夜間になっても火葬が行わ
れていた事を示しています。誰の葬送かということまでは分かりませ
んが、西行が鳥辺野での光景を実際に見て、歌にしたものでしょう。
火葬の煙の立ち上る中に現れた月は、ことさらに、さえざえとした
ものだったはずで、秋、もしくは初冬に荼毘に付されたものではないか
という、季節をも想起させます。
インドの霊鷲山と日本の京都の鳥辺山とでは実際的な距離はありすぎま
す。しかし実際的な距離の長短はここでは問題ではないのです。霊鷲山
も鳥辺山も、この歌の中ではすでに心理の領域のものとして転化されて
おります。両者は人の生死ということを表徴するための喩としてあります。
つまりは三句の「すゑならむ」までに人の誕生から死滅までの全てを包摂
し、そして最後の「出づる月かげ」で真理の光に見守られた、入寂を象徴
しています。人の一生と仏教的な世界の融合をこの歌はみごとに表して
いるものと思います。
(2)の歌の解釈
鳥辺野とは、その場所だけで、あるいは、その地名だけで人生の無常感を
表しています。生前には名前も持ち、その人なりの活動もしてきましたが、
死して鳥辺野に葬られてしまえば、もう、誰とも見分けがつかなくなって
しまいます。死者達の塚がたくさんある鳥辺野は、ことに夕暮れの鳥辺野
の光景は、ことさらに無常感を覚えます。
ということが歌の意味なのでしよう。
この歌も密度の濃い、引きしまった歌であると思います。
当時の墓地は現在のように戒名を彫った墓石が立てられているわけでは
なく、小塚を築いて、その上に石や木の卒塔婆を立てる程度のものだった
ようです。当然に誰の墓ともわかりません。
貴顕の場合でも、薄葬の習慣が定着していましたので、華美な葬儀は
行われませんでした。大化の時代以来、数次にわたる薄葬令が出されて
いて、53代淳和天皇などは「骨を砕いて粉にして山中に散らせ」と遺言し、
その遺言のままになりました。
(2)の詞書の解釈
○清水に年越=観音信仰による晦日籠りのこと。ここでは大晦日に清水寺
に参籠したことを指しています。
詞書は誰に当てた歌か不明です。「ゆかりあまたありける・・・」と
いうことばによって、著名な一門のうちの人であることがわかります。
ともに清水寺に参籠していて、西行はこの歌を贈ったものでしょう。
「著名な一門に連なる人ですのに、しかるべき地位についていない貴方の
ことを思って贈ります」
ということが詞書の意味です。下が歌の意味です。
「今度の春は、一門連枝の方々それぞれが栄えられることになるでしょう。
観世音の法力で、枯れている樹にだって花は開くこともあるのです
から・・・」
当時、地方官の役職の任命が春に行われていたそうです。
この「枯れている木」という比喩は栄えていない人、位のない人という
意味も込められているのでしょう。そうでないと、あまりにも即物的な
印象を受けます。決して老齢になって枯れているという意味ではないと
思います。
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《 2・補筆事項 》
1 わしの高嶺
インドにあって、釈迦が無量寿経、法華経などを説いた山とされています。
鷲の形をした山で原名「グリゾラ・クーター(鷲の峰)」と呼ばれていた
そうです。そこから、霊鷲山(りょうじゅせん)とも言われます。
ブッダ(釈迦)が創始した仏教は、インドでは13世紀にほぼ消滅しました。
以来、霊鷲山も風化、荒廃して、その所在地さえも分からなくなっていま
した。
1903年に日本の本願寺の大谷探検隊がジャングルに埋もれていた山を発見
して、その山を釈迦が説法していた霊鷲山と断定したものだそうです。
比叡山も鷲峰の別称がありますが、これもインドの霊鷲山から名付けたもの
でしょう。また、東山三十六峰の27番「霊鷲山」は、インドの霊鷲山をその
まま山号にしています。山の名前からでさえも仏教的な背景を感じとること
ができます。日本という国に住む我々は、やはり宗教的な要素が強い国に
住んでいると言ってよいようです。
2 清水寺
清水寺は征夷大将軍、坂上田村麻呂が創建したものと伝えられています。
「扶桑略記」によれば782ー806年の創建と伝えられます。清水山(音羽山)
を借景としています。
平安時代の「木造十一面観音立像」を本尊としていて、そのために「北観
音寺」という別称がありました。
鎮護国家のための道場として用いられ、田村麻呂の子孫が代々「寺家の職」
として管理していたとのことです。
付近の六道珍皇寺、清閑寺、八坂神社などとの争いで何度も焼失しています。
また、奈良の興福寺に属していた清水寺は、興福寺と敵対していた延暦寺
からも攻められています。
応仁の乱でも堂宇はことごとく焼亡しています。
現在の清水寺は1633年に徳川家光が竣工したものです。清水の舞台、音羽の
滝、アテルイ・モレの石碑などが有名です。清水寺のサイトを御覧願います。
平安時代中期には観音信仰が高まり、滋賀の石山寺、奈良の長谷寺などの観音
を本尊とするお寺などは、観音の縁日である十八日などに、籠る風習があった
とのことです。奈良の長谷観音への参詣は「初瀬詣」として、京都からも頻繁
に行っていたことが「源氏物語」でも描かれています。
「正月に寺にこもりたるは、いみじぅさむく、雪がちに氷りたるこそをかしけれ。
雨うち降りぬるけしきなるは、いとわろし。清水などにまぅでて、局する程、
くれ階のもとに、車ひきよせて立てたるに、帯ばかりうちしたるわかき法師
ばらの、足駄といふものをはきて、いささかつつみもなく、下りのぼるとて、
なにともなき経の端うち誦み、倶舎の頌(ず)など誦しつつありくこそ、所に
つけてはをかしけれ」
「平凡社 (京都市の地名) より抜粋」
上の括弧内は清少納言の「枕の草子」の中の一文です。晦日籠りのことを
かなり批判的にみているのがわかります。西行もこのように見られていた
のかもしれません。
下は清水寺のサイトです。その下は私の撮影画像です。
http://www.kiyomizudera.or.jp/index.html
http://kazu02aa.hp.infoseek.co.jp/saigyo2/higa4.html
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《 3・所在地情報 》
◎ 清水寺 (きよみずでら)
所在地 東山区清水一丁目294
電話 075ー551ー1234
交通 京都駅烏丸口から市バス206・208系統、五条坂下車徒歩15分
京阪四条から市バス207番、清水道下車徒歩15分
拝観料 本堂300円
拝観時間 6:00〜18:00
駐車場 なし
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《 4・関連歌のご紹介 》
1 たきぎ尽き雪ふりしける鳥部野は鶴の林の心地こそすれ
法橋忠命 (後拾遺集544番)
2 思ひかね眺めしかども鳥部山はては烟もみえずなりにき
円融院 (詞花集)
3 鳥部山谷に煙のもえたつははかなく見えし我と知らなむ
読み人しらず (拾遺集)
4 分け来つる袖のしずくか鳥辺野のなくなく帰る道芝の露
藤原俊成 (玉葉集)
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《 5・お勧め情報 》
今回は私の業務の関連で、全くの個人的な興味からのお勧めです。
京都近辺にお住まいの方は、時間がありましたらどうぞ。
「男も女も装身具-江戸から明治のわざとデザイン」展
会期 2/28〜3/30 一般1000円
場所 京都文化博物館 中京区高倉三条上がる
交通 地下鉄烏丸御池駅徒歩10分程度
時間 10時〜18時。月曜休館。
電話 075ー222ー0888
常設展 京都の歴史と文化、他 一般500円
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《 6・エピソード 》
「ねがはくは花の下にて春死なんそのきさらぎのもち月の頃」
(岩波文庫山家集31P)
まぎれもなく、西行歌を代表するいくつかの歌の中の一首です。
この歌は辞世の歌のように見られますが、そうではなくして、比較的
若い年代に詠われたものだと言われています。窪田章一郎氏は「西行の
研究」の中で、「第5期に入る以前の、やや早い頃の作品」と推定して
います。第5期とは西行の63歳から入寂した73歳までを指します。
ですから西行50代後半から60代はじめ頃の歌でしようか。
ちなみに、この歌は御裳濯河歌合にも収録されています。
1190年2月16日は西行の入寂した日です。今年の2月16日は今月18日に
あたります。今年の命日は桜がまだ開いていないのが残念です。
旧暦は大幅な変動があって、1190年の2月16日は、現在でいうなら3月30日
ということがわかっています。3月30日ですと、当時でもあるいは桜は咲き
はじめていたことでしょう。
この歌を残し、そして、この歌のように入寂した西行に対して、当時の歌檀
でも(感嘆すべき不思議な事実)として、驚きを持って受け止められたよう
です。慈円・俊成・寂蓮・良経なども、西行入滅について触れているとの
ことです。さまざまな西行伝説は、ここから派生したものでしょう。
さて、私は今年のお花見は醍醐寺に行くことにしました。メーリングリスト
「西行を学ぶ、西行から学ぶ」のオフ会としてのものです。主に関西在住の
有志の方々と、醍醐の桜の下で集うことになります。醍醐の花見は若い頃
にも一度しましたが、「西行」をキーワードに集うお花見の楽しさは、また、
格別のものがあると思います。
醍醐寺についてはマガジン第16号を御覧願います。
みなさんにも、この春の桜を存分に楽しんでいただきたいものと思います。
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