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■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■
vol.25(隔週発行)
2003年3月24日号
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メールマガジン「西行の京師」ご購読ありがとうございます。
3月21日の春分の日も過ぎました。1日ごとに春めいてきています。
桜はまだ蕾が固いままです。でも、まもなく開花することでしょう。
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■ 西行の京師 第25回 ■
目次 1 今号の歌と詞書
2 補筆事項
3 所在地情報
4 関連歌のご紹介
5 お勧め情報
6 エピソード
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《 1・今号の歌と詞書 》
《 歌 》
1 なき人をかぞふる秋の夜もすがらしをるる袖や鳥邊野の露
(282P 補遺)
2 行末の名にや流れむ常よりも月すみわたる白川の水
(171P 雑歌)
《 詞書 》
1 世をのがれて東山に侍る頃、白川の花ざかりに人さそひければ、
まかり歸りけるに、昔おもひ出でて (28P 春歌)
この詞書の下に次の歌があります。
ちるを見て歸る心や櫻花むかしにかはるしるしなるらむ
2 八條院の宮と申しけるをり、白川殿にて蟲あはせられけるに、
かはりて、蟲入れてとり出だしける物に、水に月のうつりたる
よしをつくりて、その心をよみける (170P 雑歌)
この詞書の次に(2)の歌があります。
今号の地名=鳥辺野・白川・東山
今号の建物名=白川殿
今号の人名=八條院の宮
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(1)の歌の解釈
鳥辺野の歌はこれが最後です。鳥辺野は歌枕ですが「八雲御抄」には
「憚り有り」と注記しているそうです。当然に晴れの場では詠みこむべき
地名ではありません。哀傷歌として詠まれているのも必然です。
「秋の長い夜を徹して、これまでに亡くなった何人もの親しい方々の
ことを偲んでいます。その方々のことを思えば自然に涙が流れてきて、
涙を拭く袖は露を含んだように濡れてしまいます。」
ということが歌の意味です。
(2)の歌と詞書の解釈
この歌は白川殿での蟲合わせの時に人に替わって代作したものです。
○八條院の宮=(日に章)子で、あき子内親王のこと。鳥羽天皇第三皇女。
(日に章)の文字はありますが「まぐまぐ」で受け付け
拒否されます。
○白河殿=ここでは白河南殿のことと思います。確証はありません。
○蟲合わせ=貝合わせと同じで、上流階級の女性たちの遊びの一つです。
虫を持ちよって、その鳴き声や姿形の美しさを競ったよう
です。虫だけでなく、意匠を凝らした虫かごや、そして歌
なども優劣の対象になったようです。
「白川の水に常よりも月が澄んでいることを題材として、初二句によって
宮の将来を祝った賀歌としているのは、公的な作品として型通りのもので
あり、貝合の場合とおなじである。しかし、ただ一首のみであり、心の
はなやかに躍ったところもなく、特に取り上げる内容はない。西行が
女房の代作者として、40代に貴族社会の歌の催しを楽しんでいたことが、
生活の一部にあった・・・(後略)」
(窪田章一郎著「西行の研究」より抜粋)
○行く末の名にや流れむ=白川の清流に掛けて、八條院の将来を
寿いでいます。
「この虫籠の川の水に月が映るごとく、ここ白川の水にはいつもより一層
月が澄んだ光を落として映り、今宵の虫合の評判は行末遠く伝わる
ことでしょう。」
(新潮日本古典集成、山家集より抜粋)
この歌は西行が40歳代の歌といわれています。白河院の仙洞御所である
白河殿に、なぜ西行が入る事ができたのか、かつ、女性たちの「蟲合わせ」
の場にどうして同席できるのか、私には不明のままです。
ご存知の方はご教示してください。
(1)の詞書と歌の解釈
出家して、東山の庵に住んでいる頃、人に誘われて白川の桜を見に行きま
した。帰ってきて出家前のことを思い出して詠みました。
以上が詞書の意味です。
この歌は新潮日本古典集成山家集では「散るを見で」となっています。
「見て」と「見で=見ないで」では全く意味が異なります。歌としては
「見て」の方が良いと思いますが、文脈としては「見で」のほうがふさ
わしいかと思います。
それにしても、この歌には違和感を覚えます。つまり時間の経過が不透明
になっています。桜花の咲き始めは一日待っても散らないはずですし、
散り頃であれば、いくら見たくなくても、散るのが見えてしまいます。
そういう桜花のありようを無視しているような、もどかしさのある歌です。
書写した人のミスがあるのではないかと思います。あるいは別の意味が
隠されているのかも知れません。
昔(出家前)は桜の花びらが散るのを見ないで帰ってもなんともなかったが、
その頃とは違って、遁世した今は、花の散るのをしっかりと見るように
なった。これが出家前とは違うことなのだろう。
「見で・・・」の場合は、この解釈の反対になってしまいます。
「で」の用法一つで解釈が正反対になってしまいますから、言葉は
むつかしいものと思います。
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《 2・補筆事項 》
1 白川
白川は京都市左京区を流れる小さな川です。比叡山と如意が嶽の間、
滋賀県の山中村を源流としています。北白川天神宮の前を過ぎて白川
通今出川、真如堂の東を南流し、南禅寺の西で琵琶湖疎水と合流して
います。かつての白川は、これから、三条通りの北を西に流れて鴨川と
合流していたそうですが、現在はこの部分の白川本流はありません。
代わりに、勧業会館の西端から夷川発電所にと向かっています。平安
神宮前で分岐して、祗園を流れる川も現在は白川といいますが、これは
かつての白川の支流の小川です。
従って、西行の歌にある白川が川を指す場合は、現在の平安神宮あたり
から以北を流れる白川を指しています。
川名としては以上ですが、土地名としては、鴨川の東を現在の九条以北
を白川と呼び、北白川・南白川・下白川の呼び名があったそうです。
ただし狭義の地名としては滋賀県と通じる山中越えの周辺一帯を、
「白川村」と言っていました。
祗園白川、双林寺などの画像です。
http://kazu02aa.hp.infoseek.co.jp/saigyo2/higa1.html
2 東山の庵
西行は23歳で出家して以後、ほぼ10年近く、東山や嵯峨の庵に住んで
いたことが知られています。32歳の頃に高野山に移ったようです。
東山の庵の所在地は円山公園の南にある双林寺の敷地内だったのでは
ないかと考えられています。
現在、双林寺と道路を隔てて、双林寺の飛び地に西行庵があります。
西行庵の西に芭蕉堂があります。西行庵では毎年4月第二日曜日に
「西行忌」を営んでいます。
3 双林寺
双林寺は西行とは格別にゆかりのあるお寺です。出家してしばらくは
東山のこのお寺あたりに庵を構えていました。
円山公園の南、高台寺の北に位置します。
桓武天皇の勅願により、最澄が開基として創建したという由緒ある
お寺です。広大な寺域に多数の塔頭がありました。1141年には鳥羽天皇
内親王のあや御前が住持し、1196年には土御門天皇の靜仁親王が住持
していましたので、その盛時が偲ばれます。そういう時代の双林寺の
敷地内か、その付近に西行は庵を結んでいたということです
元弘の乱で戦場となって荒廃し、国阿上人が中興しましたが、応仁の
乱でも焼亡しています。1605年の高台寺造営の時に寺域を削られ、また、
明治3年(1870)及び、円山公園造営のために明治19年にも大幅に削られ
ました。現在は小さな本堂一宇を残すのみです。
鹿ケ谷の変で、平家打倒を企てて鬼界が島に流された平康頼は、ここで、
「宝物集」を書いたそうです。
「西行物語」では、西行はこのお寺で入寂したと書かれています。
西行と頓阿と平康頼の小さな墓があります。
双林寺ホームページ
http://www.sourinji.com/
4 白川殿
白川南殿と北殿がありました。「みなみどの」「きたどの」と呼びます。
南殿は岡崎公園の西、二条通りの北側に1095年に白河法皇によって
造営されました。泉殿ともいい、しばしば花見の宴が催されたようです。
「百錬抄」1124年条に白川、鳥羽の両院、中宮の藤原璋子とその女房達が
花見をしたことが記述されています。
他方、北殿は南殿の北に位置し、同じく白河法皇により1118年に造営され
ました。大炊(おおい) 御殿ともいいます。
1156年の保元の乱の際に崇徳上皇の御所となったために、平清盛・源義朝
らに攻められて炎上しました。
5 八條院の宮
鳥羽天皇と美福門院との間の(日と章)子内親王のことです。1137年出生、
1211年、75歳で崩御。
第76代近衛天皇の姉にあたります。
1161年、25歳で八条院となっていますので、宮と呼ばれていたのは、
これ以前の事です。西行44歳以前のことです。1156年に白川北殿は
炎上していますので、おそらくは白川南殿での蟲合わせでしょう。
高野山に生活の拠点を置いていた西行は、しばしば京都に来ていますが、
たまたま、この蟲合わせの席に参加したものでしょう。
尚、八條院については12号及び13号で少し触れています。
(補筆事項は全体に平凡社「京都市の地名」を参考にしています)
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《 3・所在地情報 》
◎ 双林寺 (そうりんじ)
所在地 東山区鷲尾町527
電話 075ー561ー5553
交通 京阪四条駅から徒歩10分
市バス京都駅烏丸口から18番、100番及び206番にて
祗園もしくは東山安井下車。徒歩5分
拝観料 志納
拝観時間 9:00〜16:00(予約制)
駐車場 なし
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《 4・関連歌のご紹介 》
1 末の露もとのしずくも鳥へ山おくれ先だつけぶりなりけり
藤原家隆 (壬ニ集 098番)
2 夕まぐれ霧たちわたる鳥辺山そこはかとなく物ぞかなしき
藤原俊成 (長秋詠藻 083番)
3 万代のためしと見ゆる花の色をうつしとどめよ白川の水
上西門院兵衛 (金葉集)
4 血の涙おちてぞたぎつ白川は君が世までの名にこそ有りけれ
そせい法師 (古今集)
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《 5・お勧め情報 》
今はまだ3月ですが、4月の始めといえば、やっぱり桜です。
この春、京都に来て桜を見られる方は、事前に下のページを御覧
下さい。桜情報満載です。
http://kyotocity.cool.ne.jp/hana202/2002haru4_0.htm
また、私のページに置いていただいている「もみの木歌集」も
ますます充実してきました。歌に興味のある方は是非御覧願います。
http://kazu02aa.hp.infoseek.co.jp/momi032.html
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《 6・エピソード 》
3月14日、なんと上醍醐まで登りました。標高は450メーターしかなく、
低い山です。ですが、急峻な登り道が続いていて、50歳代半ばの、しかも
肥満体の私には、きついものでした。何度も休憩して、同行の方の励まし
も受けて1時間少しを要して、なんとか登る事ができました。
登れば登ったで、やはり気持ちの良いものでした。
木立の中の道を歩けるのは嬉しい事です。登りきってからの、さやさやと
した風のなかに身を置くことも至福ということを感じさせるひとときでした。
上醍醐には薬師堂、清滝宮拝殿、如意輪堂、開山堂、五大堂、准胝堂などが
あります。昭和になってから再建されたものが多いのですが、しかし、それ
ぞれに醍醐山の歴史の重さを感じさせるお堂です。
有名な醍醐水も飲んでみました。言葉では形容できない味です。
この醍醐寺は、修験道の当山派と言われます。別に聖護院が本山派として
あります。醍醐寺では、奈良の大峯に模して滋賀県の石山まで抜けるコース
を僧侶達が踏破していたようです。重畳として連なるその山並みをみて、
西行も歩いたことがあるのだろうか・・・と思ったりしました。
下は上醍醐の画像です。
http://kazu02aa.hp.infoseek.co.jp/saigyo2/yamasina5.html
ついにアメリカはイラク攻撃を始めました。ブッシュ氏の不幸であり、
アメリカの不幸であり、人類の不幸です。
罪もない人々に被害がないこと、そして、1日も早く終わることを願わず
にはおれません。
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