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     ■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■    

                      vol.26(隔週発行)
                      2003年4月07日号
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  メールマガジン「西行の京師」ご購読ありがとうございます。
  桜の盛りです。昨年は開花が早くて、4月3日にはもう散り頃でした。
  境内すべてが桜の樹で満たされている平野神社などは染井吉野の桜吹雪の
  最中でした。今年の桜はまだまだ楽しめそうです。
  
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     ■ 西行の京師  第26回 ■

   目次  1 今号の歌と詞書
        2 補筆事項       
        3 所在地情報
        4 関連歌のご紹介
        5 お勧め情報
        6 エピソード

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    《 1・今号の歌と詞書 》

  《 歌 》

 1 白河の梢をみてぞなぐさむる吉野の山にかよふ心を
                      (30P 春歌)
              
  《 詞書 》
 

 1 世にあらじと思ひける頃、東山にて、人々霞によせて
   思をのべけるに            (19P 春歌)

   この詞書の次に下の歌があります。

  「そらになる心は春の霞にてよにあらじとも思ひたつかな」

2 長楽寺にて、夜紅葉を思ふといふことを人々よみけるに
                      (90P 冬歌)
   この詞書の次に下の歌があります。

  「よもすがらをしげなく吹く嵐かなわざと時雨の染むる紅葉を」


   今号の地名=白河・吉野・東山
   今号の寺社名=長楽寺
   
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  (1)の歌の解釈

 ○吉野=奈良県の吉野山のこと。西行は吉野にも住んでいました。
     西行歌には吉野の地名を読み込んだ歌が59首あります。

 「白川の花盛りの桜を見ていると、自分のこころの中では、吉野の満開の
 桜と通じ合い、交じり合い渾然と一体となって、それが、自分の心を
 慰めていることだよ」

 ということが歌の意味です。とりたてて説明を要しない平明な歌です。
 この歌は西行の若くはない時代の歌だと解釈できます。充分に吉野の桜を
 知っている事をうかがわせます。それは通りすがりの傍観者の視点のもの
 ではなく、実際に吉野に住んで、吉野の桜に愛着を覚えているということを
 感じさせます。そういう時代の西行が、京都に来て白川の満開の桜を詠った
 もののはずですし、作者の中では吉野の桜ということがより深い意味あいで
 捉えられていたものだと思います。

 「花もちり人も都へ歸りなば山さびしくやならむとすらむ」
                    (33P 春歌)

 「山」とは吉野山のことです。この歌からも分かるように吉野山は桜の名所
 でした。人々は吉野山に花見に出かけていました。
 西行は白川の花盛りに吉野山の桜との同一性をも見ていたものとも思います。
 しかしながら歌は単なる述懐、感傷にしか過ぎず、問題になる部分もなく、
 歌を味わう事による感興を引き起こしてくれません。
 ちなみに、この時代は桜の一つの品種である「染井吉野=ソメイヨシノ」は
 ありません。現在の私達は普通に見る品種ですが、西行の見たのはソメイ
 ヨシノではなく、山桜です。
 
 白河(白川)については25号の補筆事項1をご参照願います。白川から近江に
 抜ける道の「山中越え」も桜の名所だったらしくて、西行もこのルートでの
 桜を楽しんでいたことが分かります。
 「山中越え」の歌は「志賀の山越え」という言葉で表記されています。
 「志賀の山越え」歌については後の号で取り上げます。

 (1)の詞書と歌の解釈 

 この歌の後に「同じ心を」という詞書に続いて、次の歌があります。

 「世を厭ふ名をだにもさはとどめ置きて数ならぬ身の思出にせむ」

 ○世にあらじと思ひける頃=これまでの生活をすてて出家しょうと思って
              いる頃。

 出家しょうと思っている頃に、東山で歌会があって、霞に寄せるという
 テーマで人々が歌を詠みました。

 上が詞書の意味ですが、詞書からも分かるように、出家前の佐藤義清と
 名乗っていた時代の歌です。西行23歳の春の歌だと言われています。
 西行はこの年の10月15日に出家していると考えられています。したがって、
 一部の人達には義清は出家するものとして知られていたということです。
 この歌会に出ていた人達にとっては、10月の義清の出家は突然のものでは
 なかっただろうと思います。

 「そらになる・・・」及び「世を厭う・・・」のニ首は出家前の西行の
 心境を表す貴重な歌として、多くの方が触れていますので抜粋してみます。
 
 「出家を決意した頃の心境をにじませている。空にただよいゆくかのごとく
 おちつかない心は、あたかも春の霞のようだと自ら思いつつ、そのとめども
 なくただよう心のなかで俗生を離脱しょうと願う。また、世を厭った人だと
 いう名だけでもこの世にとどめておいて、数ならぬ身の思い出にしょうと、
 わが心に呼びかける。後者には、身ぶりのようなものが感じられないでは
 ないが、この身ぶりもまた、若い西行の心逸(はや)りのあらわれだと
 いえよう。」
                    (安田章生「西行」より抜粋)

 「いかにも若者らしいみずみずしさにあふれているとともに、出家のため
 の強い決心を表しているが、誰もこのような上の句から、このような下の
 句が導きだされるとは、思ってもみなかったに違いない。それが少しも
 不自然ではなく、春霞のような心が、そのまま強固な覚悟に移って行く
 ところに、西行の特徴が見出せると思う。」
                    (白州正子「西行」より抜粋)

 「(そら)は空・虚の字に当たる。「世にあらじ」と遁世を思い立つ心は、
 霞のように茫漠として焦点の定まらない心理状態で表現されている。それは
 佐藤一族の棟梁としての苦悩であり、荘園問題の重圧に疲れた虚脱状態
 だろう。」 
                (高橋庄次「西行の心月輪」より抜粋)

 「霞は東山の空に立っている実景として感じられて来るところがあり
 理知的な寄物陳思歌を超えた気分のひろがりのある作品」
                (窪田章一郎「西行の研究」より抜粋)

  (2)の詞書と歌の解釈

 都名所図会の長楽寺の項には「洛東第一の風景・・」と書かれています。
 詞書は長楽寺で夜に歌会があったという説明です。西行がここに住んで
 いたわけではなく、歌会に参加しただけでしょう。

 「わざわざ時雨が染めて美しく紅葉させた梢を、夜通し惜しげもなく吹い
 て、散らしてしまう嵐だなあ。散りゆく錦の惜しまれることよ」
               「新潮日本古典集成、山家集より抜粋」

 尚、山家心中集によれば、24Pにある次の歌も、長楽寺での歌とのこと
 です。

  「玉づさのはしがきかとも見ゆる哉とびおくれつつ歸る雁がね」
  
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   《 2・補筆事項 》

 1 長楽寺

  長楽寺も双林寺と同様に桓武天皇の勅願により最澄が開基となったとありま
  すが、諸説あって、創建は詳らかではありません。古いお寺であることは確か
  です。はじめは天台宗でしたが、国阿上人の時に(1385年)時宗霊山派に転じた
  とのことです。
  このお寺は、壇ノ浦で助けられた建礼門院が落飾したお寺とも言われています。
  安徳天皇の服を用いて作ったという幡(ばん=仏前に飾り付ける荘厳具)及び
  建礼門院の遺品や肖像画などがあります。
  広大な敷地を持っていましたが、江戸時代に東大谷廟のために割譲し、明治
  になってからは円山公園造営で寺地を大幅に減らしました。
  西行の時代は北に安養寺、南に双林寺、南西に八坂神社、西には真葛が原が
  ありました。青蓮院及び知恩院の前身である吉水禅房もすでにできていました。
  長楽寺には頼山陽・頼三樹三郎のお墓もあります。また、この山の上には
  京都に変異があれば鳴動するという言い伝えがある「将軍塚」があります。
                (平凡社「京都市の地名」を参考にしました)
   下は長楽寺の画像です。

   http://kazu02aa.hp.infoseek.co.jp/saigyo2/higa2.html
  
    長楽寺ホームページ

   http://www.age.ne.jp/x/chouraku/index1.htm

 2 建礼門院

  平清盛の次女、平徳子のことです。16歳で80代、高倉天皇の中宮となり、
  22歳で81代、安徳天皇を生みましたが、壇ノ浦の戦いで捉えられて京都
  に連れ戻されました。この時、建礼門院は29歳でした。
  1185年5月に長楽寺の僧を戒師として落飾。次の年に大原、寂光院のそばに
  庵を結んで住んでいました。義父にあたる後白河法皇が、この庵を尋ねて
  行ったことは「大原御幸」として平家物語でも詳述されています。
              (学藝書林「京都の歴史2」を参考にしました)
  
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   《 3・所在地情報 》

 ◎ 長楽寺 (ちょうらくじ)

  所在地  東山区円山町626
  電話      075ー561ー0589
  交通      阪急電鉄河原町下車徒歩20分
          京阪四条下車徒歩15分
          市バス京都駅烏丸口から18番、100番、206番
          にて祗園下車。徒歩10分 
  拝観料     500円
  拝観時間    9:00〜17:00
  休観日     木曜日
  駐車場     なし

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   《 4・関連歌のご紹介 》

 1 影清き花のかがみと見ゆるかなのどかに澄める白川の水
               花園左大臣(源有仁) (千載集)

 2 いにしへも底に沈みし身なれどもなほ恋しきは白川の水
                    藤原家基 (千載集)

 3 何事を春のかたみに思はましけふしら川の花見ざりせば
                    伊賀少将(後拾遺集)

 4 馴れ馴れてみしはなごりの春ぞともなぞしらかはの花の下蔭
                   藤原雅経 (新古今集)

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   《 5・お勧め情報 》

    京都御所 春の一般公開

 日 時    4月9日(水)〜13日(日)
 時 間    9:00〜15:00
 場 所    上京区京都御苑
 
 入場料は無料です。

     12日(土)…雅楽演奏(春興殿前) 
     13日(日)…琴の演奏(御学問所) 

   京都御所一般公開のページ

   http://www.kunaicho.go.jp/13/d13-07.html

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   《 6・エピソード 》

この春の桜が咲きました。爛漫の桜です。西行がことさらに愛でた桜です。

花見という行為は昔から続けられてきました。花見の花が桜を指すように
なったのは、本居宣長の言を借りれば「花といひて桜のことにするは、古今集
のころまでは聞こえぬことなり・・・」とあるように、900年代前後の頃の
ようです。藤原氏の私邸や各御所での観桜の宴のことが記録されています。

西行には桜を詠んだ歌が200首以上あります。おびただしい歌数とも思います。
西行の歌は桜そのものをより具象的にスケッチとして詠むのではなくて、桜の
態様に触れて沸き起こる西行自身の情動を詠むという歌風の歌です。決して
桜そのものを説明的に詠うという傾向のものではありませんが、桜を愛し、
それなりの思い入れがないと詠めない歌であることは確かです。

それはまた、あきれるほどに強い個人的な感覚を桜に託しているという見方も
できます。あくまでも自然の景物のひとつでしかない桜に対して、個人の心情
という精神性を付与しているということです。

 「佛には櫻の花をたてまつれわが後の世を人とぶらはば」

西行の個人的な願望を述べたこの歌なども、桜という植物を詠ったものでは
ありません。したがって桜とはなんであるのか、桜そのものについての説明
を歌の中ではしていません。私達の桜についての共通認識に委ねられています。
こういう歌に接するとき、西行の強い情念と同調できるならば、とてもよく
心に染み入ってくると思います。同調できないならば、あるいは批判的に見る
ならば、「ああ、そうですか」と言われるばかりで、問題にもならない歌だと
思います。

ともあれ、西行の歌はいつの時代であれ、人口に膾炙して人々に読み継が
れてきたことは間違いありません。西行の心がつむぎ出した多くの歌が、
時間の流れということを超えて、時代の洗礼を受けてもなお滅びる性質の
ものではなかったということは、人間の命の根源に根ざした普遍性がある
からである、と言ってもさしつかえないでしょう。

昨日、伏見区の醍醐寺と山科区の随心院及び勧修寺に行きました。西行
メーリングリストのオフ会としてのお花見会でした。天気もよく、桜も
満開でした。この春の桜を充分に堪能したという思いです。 

前回25号の補筆事項の4にある「白川法皇」は「白河法皇」の誤りです。
お詫びして訂正します。

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