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■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■
vol.27(隔週発行)
2003年4月21日号
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メールマガジン「西行の京師」ご購読ありがとうございます。
この春の初めのひとときに咲き誇っていた桜もすでに葉桜となりました。
葉桜となればなったで、葉の緑のういういしさ、みずみずしさに、
心洗われる気がします。
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■ 西行の京師 第27回 ■
目次 1 今号の歌と詞書
2 補筆事項
3 所在地情報
4 関連歌のご紹介
5 お勧め情報
6 エピソード
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《 1・今号の歌と詞書 》
《 歌 》
1 風あらみこずゑの花のながれきて庭に波立つしら川の里
(27P 春歌)
《 詞書 》
1 雙林寺にて、松河に近しといふことを人々のよみけるに
(260P 聞書集)
この詞書の次に下の歌があります。
「衣川みぎはによりてたつ波はきしの松が根あらふなりけり」
2 いにしへごろ、東山にあみだ房と申しける上人の庵室にまかりて
見けるに、あはれとおぼえてよみける
(165P 雑歌)
この詞書の次に下の歌があります。
「柴の庵ときくはいやしき名なれども世に好もしきすまひなりけり」
今号の地名=しら川・衣川・東山
今号の寺社名=雙林寺
今号の人名=あみだ房
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(1)の歌の解釈
「風が強いので、吹き散らされた梢の花が庭に流れて来て、散り敷いた
花片が白波のたつように見える白川の里である」
「新潮日本古典集成、山家集より抜粋」
庭に散り敷いている桜の白い花弁が、風に吹かれてうごめいている、その
様子を歌にしたものです。地名の「白川」にかけていますので、ここ
では雪のように降り積もるという表現ではなく、白い花弁が波のように
揺れ動いているという表現をしています。実景が浮んでくる歌であり、誰も
が経験としてこの情景を実感できるでしょう。情景歌として優れていると
思います。
この歌を自然石に彫った歌碑が北白川天神宮の境内にあります。
この神宮については後述します。白川はこの神宮の前を流れています。
(1)の詞書と歌の解釈
○松河=詞書の松河は「松の木が川に近い」という事をテーマにして
詠んだということです。松河は地名の可能性がないかと、いろ
んな資料にあたったのですが、やはり無理でした。
日本古典全書山家集では、「雙林寺にて、松汀に近し・・・と
あります。
○衣川=岩手県南西部にある土地名及び川名のこと。
土地名としては「岩手県胆沢(いさわ)郡衣川村」のことです。
源義経はここの「衣川の館」で攻められて死亡しています。
雙林寺とは25号補筆事項(3)で紹介した、京都東山の双林寺のことです。
この歌は西行が初めての奥州旅行から帰った頃の歌と解釈できます。
双林寺にて松の木が川に近いというテーマで人々と詠みました。
上が詞書の意味です。歌は平明な情景歌ですし、説明するまでもないと
思います。衣川の早い流れが鮮明に浮びあがってきます。汀に松の樹が
一本あるいは数本あって、樹の根本の一部は水に洗われています。そういう
自然の一光景が、まるで絵画のように表現されています。
(2)の詞書と歌の解釈
○いにしへごろ=遠い昔という意味です。出家してある程度の年数が経過
してから、出家前のことを詠った歌と解釈できます。
○あみだ房=俗名は不明です。藤原信西の子供の「明遍上人」説があり
ますが、この上人は1142年生まれであり、西行より24歳若い
人ですので別人と考えられます。尚、現代表記では「房」では
なく、「坊」が正確と思いますが山家集の表記に従います。
昔、東山にあるあみだ房の柴で作った庵を見て、余りのみすぼらしさに
哀れに思って詠みました。
柴の庵(しばのいお)と言うのは、いかにも粗末な住居であって悔しい
気もするが、でも、なんと好もしい住まいであることだろうか・・・
歌は上3句までが俗世の感覚が働き、下2句は遁世者としての感覚で
詠まれていると思います。出家前の西行の不安定さの残る心理状態が
伺える歌です。
山川出版社「京都府の歴史散歩(上)」から抜粋します。
「芭蕉堂は、かつて西行が当地の阿弥陀房を訪れて詠んだ歌にちなんで芭蕉
が「柴の戸の月やそのまま阿弥陀房」と詠んだので、1783(天明3)年に
俳人高桑蘭更(らんこう)が草庵南無庵を営み、3年後に芭蕉堂を建立した」
とあります。これを信じるなら阿弥陀房の庵は双林寺にあったということ
です。これと同等の記述は「都名所図会」にもあります。
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《 2・補筆事項 》
1 京都の西行歌の歌碑について
京都市は文化都市を標榜しながら、なぜか西行歌の歌碑は殆どありません。
北白川天神宮のものは昭和45年に北白川保勝会によって作成されました。
以下、私が確認している分で、京都にある西行歌碑を記述します。
木の立て札の歌碑は嵯峨野の二尊院に下の歌があります。
「我かものと 秋の梢を思うかな 小倉の里に 家居せしよ里」
この歌碑の画像です。
http://kazu02aa.hp.infoseek.co.jp/ara06.html
二尊院の少し南にある弘源寺墓地の小さな石柱に以下の三首が彫られています。
昭和61年に作成されたものだそうです。
1 を鹿鳴く小倉の山のすそ近み ただひとり住むわが心かな
2 仏には桜の花をたてまつれわが 後の世を人とぶらはば
3 願はくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ
弘源寺墓地の少し東に、西行井戸と呼ばれているものが平成の時代になって
登場して、自然石に次の歌が彫られています。
「を鹿なく 小倉の山の すそ近み ただひとり住む わが心かな」
井戸自体は古いもののようですが、つい数年前に突然に「西行井戸」と
命名されました。地元の古い記録にも西行との関わりは一切記録されて
いないとのことですので、その信憑性を疑われています。
私としても少なからず懐疑的な気持ちです。
(岡田隆「歌碑が語る西行」を参考にしました。)
2 北白川天神宮
北白川天神宮の創建については詳らかではありませんが、第50代桓武天皇が、
平安遷都した794年以前からの古刹であることは確実のようです。
もともとは白川通り以西の北白川久保田町にありましたが、1400年間に
足利義政の要請により現在地に移築されたということです。
北白川の産土神(うぶすながみ)で祭神は少彦名命(すくなびこなのかみ)。
付近住民に厚く崇敬されてきて、現在も体育の日の前日の秋季大祭には神輿
巡行をしています。
尚、この辺りの白川の扇状地一帯は縄文時代の人々の住んでいた所であり、
「北白川遺跡」として考古学では著名です。
下は北白川天神宮の画像です。その下は北白川天神宮のホームページです。
http://kazu02aa.hp.infoseek.co.jp/kitasi.html
http://www.h3.dion.ne.jp/~y-hirota/tenjingu/tenjingu.html
北白川天神宮の神輿をかつぐ会である「若中会」では、神輿のかつぎ手を
募集しています。「若中会」ホームページ。
http://www.h3.dion.ne.jp/~y-hirota/wakachuu/wakachuu.html
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《 3・所在地情報 》
◎ 北白川天神宮 (きたしらかわてんじんぐう)
所在地 左京区北白川仕伏町42
電話 075ー781ー8488
交通 市バス京都駅烏丸口発5番、北白川小学校前下車徒歩5分
市バス松尾橋発3番北白川仕伏町下車5分
銀閣寺から徒歩約10分
拝観料 無料
拝観時間 自由
駐車場 なし。事前に電話連絡すれば都合をつけていただける
とのことです。
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《 4・関連歌のご紹介 》
1 何となく春の心に誘はれぬ今日白川の花のもとまで
藤原良経 (秋篠月清集)
2 しら川の春の木ずゑを見渡せば松こそ花のたえまなりけれ
源俊頼 (詞花集)
3 ゆくすゑをせきとどめばやしらかはのみづとともにぞはるもゆきける
土御門右大臣師房
(後拾遺集)
4 しら川のながれを憑(たの)む心をばたれかは空にくみてしるべき
藤原成通 (詞花集)
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《 5・お勧め情報 》
神護寺寺宝特別公開
日時 5月1日(木)〜5月5日(祝)
電話 075-861-1769
公開品目 平重盛像・源頼朝像(ともに国宝)など
拝観料 700円
駐車場 なし
場所 神護寺。 京都市右京区梅ケ畑高雄町
曲水の宴
日時 4月29日
電話 075ー623ー0846
拝観料 神宛は400円
駐車場 あり。250台
場所 城南宮。 伏見区鳥羽離宮町7
URL http://www.jonangu.com/
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《 6・エピソード 》
「西行の京師」創刊号発刊は昨年の4月15日でした。この号で発刊以来、一年が
経過したことになります。一年間きちんと発行することができて、自分でも、
ある驚きを感じています。
創刊当初から不安を抱えた船出でした。一番は私の体調。次は私の知識。
私はいくつかの慢性病を持っていて、体調に関してはこれまで以上に不安な
状態が続くことになると思います。
知識については義務として勉強しなくてはなりませんし、それなりにやって
きたつもりですが、まだまだ知らないことが多すぎます。少しずつ勉強して
いきたいと思います。
京都の地名を詠み込んだ歌の紹介も残り少なくなりました。おそらくは来年の
2月頃までで全てご紹介できるはずです。ですが、まだ終刊号までの道筋は見えて
きませんし、終わってからのことも白紙の状態です。
ともかく、今は目前の一号一号をしっかりとやりとげたいと思います。
昨夜、4月20日、河原町御池にある京都ホテルのスカイレストランでフレンチを
食しました。窓外に小雨に煙る東山一帯が見渡せます。見えるのは霊山観音から
北です。知恩院の端正で豪華な三門も明かりがついていて、くっきりと見えます。
辺りは次第に夜の帳(とばり)の中に沈んでいき、こうしてこの夜も更けました
が、俯瞰的に東山を見ることができたのは、うれしい事でした。
当然のように京都も季節ごとにさまざまな表情を見せます。私の知っている京都
はごくごく一部だけの京都の表情です。もっともっと、いろいろな形での京都を
知らなくてはならないなーという思いを強くしたものでした。
このマガジンのことが京都新聞に簡単に紹介されました。以下のページです。
http://www.kyoto-np.co.jp/kp/rensai/net-hito/m/012m.html
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