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■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■
vol.28(隔週発行)
2003年5月05日号
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メールマガジン「西行の京師」ご購読ありがとうございます。
本日は端午の節句です。菖蒲の節句ともいい、また、子供の日です。
五月の始めの、年間を通してもこれ以上はないという、すばらしい
気候です。爛漫の春です。日本には四季があり、それぞれの情趣を
味わえますが、とりわけ、この季節はとてもいいと思います。
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■ 西行の京師 第28回 ■
目次 1 今号の歌と詞書
2 補筆事項
3 所在地情報
4 関連歌のご紹介
5 お勧め情報
6 エピソード
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《 1・今号の歌と詞書 》
《 歌 》
1 波もなく風ををさめし白川の君のをりもや花は散りけむ
(36P 春歌)
《 詞書 》
1 東山にて人々年の暮れに思ひをのべけるに
(104P 冬歌)
この詞書の次に下の歌があります。
「年暮れしそのいとなみは忘られてあらぬさまなるいそぎをぞする」
2 雪の朝、霊山と申す所にて眺望を人々よみけるに
(98P 冬歌)
この詞書の次に下の歌があります。
「たけのぼる朝日の影のさすままに都の雪は消えみ消えずみ」
3 野の邊りの枯れたる草といふことを、双林寺にてよみけるに
(93P 冬歌)
この詞書の次に下の歌があります。
「さまざまに花咲きたりと見し野邊の同じ色にも霜がれにけり」
今号の地名=白川・東山・霊山
今号の寺社名=双林寺
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(1)の歌の解釈
○君のをりもや=君の折には。君の時には。
一読してみて「君のをりもや」という言葉があることによって、白川の
風景を詠っただけの単純な情景歌ではないことがわかります。君とは誰を
指すのか、この1首の中だけでは特定されていません。この歌の前に下の
歌があります。
「勅とかやくだす御門のいませかしさらば恐れて花やちらぬと」
桜の花に散ってはいけないという勅を下す天皇がいたら、天皇の威光を
恐れて桜の花は散らないだろうか・・・という無邪気な歌です。
「波もなく・・・」の歌は白河天皇が、ある年の催事の時に雨が降った
ので、雨滴を器に入れて獄に閉じ込めた、という故事談を踏まえた歌との
ことです。
そういうことも考え合わせ、かつ「白川」が「白河」に掛かった言葉である
ことも思い合わせると「君」とは白河天皇であることが分かります。そう
いう背景となる知識がないと、この歌を理解できにくいものです。こういう
詠い方は、私はちょっと感心しません。歌の背景を知らなくても、味わえる
歌の方が良いと私は思います。
「白河天皇の御世には国を揺るがすような大きな事件もなく、泰平の世で
した。うまく波風を治めた白河院の治世でした。その治世下では桜の花も
散ることはあったのでしょうか・・・」
以上が歌の意味です。西行がこんなに詠んでしまうほどには白河院の治世も
穏やかなものではありませんでした。しかし白河院の権力が強かったために
保元や平治の乱のような大きな争いはありませんでした。長い院政期を通して、
権力基盤は安泰でしたから、西行の詠み方も理解できます。
白河天皇は西行の子供の頃に死亡していますが、白河天皇に寄せる親しい感情
とともに西行自身の子供時代に対しての郷愁をも込めていると思います。
(1)の詞書と歌の解釈
この詞書にある「東山」は双林寺を指してはいませんが、双林寺もしくはその
付近と考えていいと思います。歌の意味は以下です。
「年が暮れて俗世の歳暮の営みが忘れられなくて、出家の身らしからぬ準備
をする」
(高橋庄次「西行の心月輪」より抜粋)
この歌は出家してすぐの年末の歌だと解釈できます。当時も歳暮の習慣が
あったということがわかります。
(2)の詞書と歌の解釈
人々との歌会で、雪の朝に、霊山から都を見て詠んだという意味です。
霊山とは高台寺の少し南にある山名であり土地名です。
「雪の朝、霊山から都を見わたすと、たち昇る朝日のさすままに、早く日に
照らされる所は雪が消え、照らされない所は消えずに残っているよ」
(新潮日本古典集成、山家集から抜粋)
(3)の詞書と歌の解釈
この歌は双林寺のものですが、いつの頃の歌か判然としません。
宮柊二の「西行の歌」から抜粋します。
「野づら一面の枯れている草ということを双林寺でよんだときに」
「いろんなふうに花が咲いたよと思って見ていた野辺であるが、やがて冬が
来てみると、どこも同じ色にまあ霜枯れたことだなあ。」
「すなおに簡潔に風懐を述べていて、また歌の姿がのびやかである。ただ、
三句「野辺の」の「の」に休止の気味があり、ここに時間が入る。
「おなじ色にも」の「も」を詠嘆に訳してみたがあるいは、そうなったことは
是非もないといった気持ちがあるのかも知れない。(後略)」
この歌については私は現在の高台寺あたりを思い浮べます。
高台寺については後述します。
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《 2・補筆事項 》
1 白河天皇
第72代天皇。父は後三条天皇、母は藤原茂子。1053年生、1129年没。
在位は1072年から1086年まで。以後、堀川・鳥羽・崇徳天皇の三代に
渡って43年間の院政を行いました。鳥羽天皇の時代には藤原摂関家の
勢力の衰退を受け、次第に専制的な政治的基盤を確立していきます。
鳥羽殿や白川殿、そして左京区岡崎の法勝寺をはじめ、たくさんの寺社
を創建しています。
院の北面の武士の制度を創設したのも白河天皇です。
鳥羽天皇の中宮であり、崇徳天皇の生母でもある待賢門院璋子を寵愛して
いて、崇徳天皇の実父は白河天皇だとする説もあります。
「後拾遺和歌集」と「金葉和歌集」の撰集編纂を命じています。
御陵は鳥羽の成菩提院陵です。下は白河天皇陵の画像です。
http://kazu02aa.hp.infoseek.co.jp/saigyo2/toba05.html
2 霊山
高台寺の南に位置していて、(りょうぜん)と読みます。東山三十六峰の
ひとつ、霊鷲山を略した言葉です。鷲の山あるいは鷲の尾山ともいいます。
釈迦が説法したというインドの山も霊鷲山といい、鷲の山ともいいます。
また、比叡山も鷲の山という別称があります。私にはこの霊鷲山の由来は
わかりません。インドの霊鷲山という山名をそのまま借用したものかもしれ
ません。
この辺りは鷲尾氏が領有していました。現在も鷲尾町があります。高台寺の
建立の時も鷲尾氏と敷地のことで一悶着あったそうです。鷲尾氏の姓氏から
きた地名かとも思いますが、逆に、地名を姓氏名にした可能性もあります。
高台寺の山号が「鷲峰山」であるのも、鷲尾氏から来たものだとも考えられ
ます。
山家集にも「鷲の山」歌はたくさんありますが、この霊山を指しているわけ
ではなく、インドの霊鷲山を指していると考えられています。
3 高台寺
高台寺は豊臣秀吉の正室、北政所高台院が建立したものであって、西行は
高台寺を見ていません。西行の時代は、この地に「雲居寺」がありましたが、
応仁の乱で焼亡して、以後再建されていないということです。ただし岩栖院
があって、高台寺建立の時に敷地のことで大きな裁判沙汰になったようです。
敷地の一部は双林寺が割譲したという文献もあります。庭園は国の史跡ですが、
臥竜池(がりゅうち)は細川満元のもと岩栖院の池だと伝えられています。
霊屋須弥檀の高台寺蒔絵は有名です。
都名所図会巻4では、「高台寺萩の花」として記述がありますので紹介します。
「西行法師、宮城野の萩を慈鎮和尚に奉りし、その萩いまに残り侍りしを、草庵
にうつしうゑ侍りし。花の頃、その国の人きたり侍りしに、
露けさややどもみやぎ野萩の花 宗祇
小萩ちれますほの小貝こさかづき はせを 」
とあります。「はせを」とは芭蕉のことです。
高台寺ホームページ
http://www.kodaiji.com/index.html
尚、円山音楽堂は昭和二年の建立ですが、その時代でも、萩の名所として
有名だったそうです。西行が宮城野から持ち帰ったなどというのは、真偽は
分かるはずもありませんが、もし事実としたら、おもしろいことだと思います。
(補筆事項3までは主に平凡社「京都市の地名」を参考)
4 真葛原
東山のこの辺りは真葛原(まくずがはら)と言っていましたので、少し記述
してみます。
真葛原は現在の知恩院辺りから円山公園・八坂神社・双林寺辺りまでを総称
して言っていました。
「わが戀は松を時雨の染めかねて真葛が原に風さわぐなり」(慈円)
新古今集にある慈円のこの歌の解説を都名所図会から抜粋します。
「前略・・・真葛原とおもひかけても、つれなく色もかはらねば、恨むる
ばかりといふ心なり。真葛はこころ多く一筋ならぬことにてさわぐといふ
字力あるなり。恨むるこころのつよく切なるをいはんためなり・・・後略」
このように真葛原は人の心の恨みということと掛け合せて詠われて
いる歌が多くあります。慈円の歌はこの東山の真葛原を詠ったものと思い
ますが、比叡山にも真葛原がありますので、どこか断定はできません。
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《 3・所在地情報 》
◎ 高台寺 (こうだいじ)
所在地 東山区高台寺下川原町526
電話 075ー561ー9966
交通 阪急電鉄河原町下車徒歩20分
京阪四条下車徒歩15分
市バス京都駅烏丸口から18番、100番、206番
にて祗園下車。徒歩10分
拝観料 500円
拝観時間 9:00〜17:00
夜間拝観は17:00から21:30まで。5月5日まで
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《 4・関連歌のご紹介 》
1 白川の知らずともいはじ底きよみ流れて世々にすまんと思へば
平貞文 (古今集)
2 春のこぬ所はなきをしら川のわたりにのみや花はさくらん
小式部内侍 (詞花集)
3 わが戀は松を時雨の染めかねて真葛が原に風さわぐなり
慈円 (定家八代集・新古今集)
4 嵐吹く真葛が原に啼く鹿はうらみてのみや妻を戀ふらむ
俊恵法師 (新古今集)
5 もの思ふ心の秋の夕ま暮真葛が原に風渡るなり
源信定(慈円の別称) (六〇〇番歌合)
6 かれはてて言の葉もなきまくず原なにを恨みの野べの秋風
西園寺公経 (続後撰集)
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《 5・お勧め情報 》
葵祭り
京都三大祭りのひとつ、上賀茂神社・下鴨神社による葵祭りが5月15日に
行われます。古式ゆかしい祭りです。下のサイトを御覧ください。
http://www.genji.co.jp/yukari/aoi/aoifes.html
http://www.kyoto-np.co.jp/kp/koto/aoi/saio/saio_index.html
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《 6・エピソード 》
本日でGWも終わりです。みなさんは、この連休を楽しまれたでしょうか。
今年の場合はGWではないとの声もありますが、しがない自営の私などから
みれば3日もまとまった休みがあるということは、うらやましい事です。
結局、私は1日も休まずに、あくせくと仕事でした。とはいえ1日に5時間
程度しかしない日もありますので、いいかげんといえばいいかげんです。
良い季節です。気温は30度ほどにもなって初夏という感じさえさせます。
部屋の中で作業机の前に座りきりの仕事は、この季節には、つらいものが
あります。こんなに良い陽気の日々には、仕事を早めに切り上げて、パソ
コンにも触らず、街に出よう・・・などとラチもないことをついつい思って
しまいます。しかし思うだけで、なかなか実現しません。
河原町御池にある京都市役所前で「阿国踊り」があったそうです。詳しくは
分かりません。出雲の出身といわれる阿国は男装して、鴨川の河原で踊りました。
大変な人気だったようです。それが歌舞伎の元ともなっているのですが、この
阿国踊りを再現したイベントということでした。当時、京都市役所あたりも
鴨川の河原だったそうですが、これはちょっと間違いでしょう。確かに鴨川は
何度も流路を変える工事をしていますが、阿国の時代は現在の鴨川と流路は
大差ないと思います。下は川端四条にある阿国像です。
http://www6.ocn.ne.jp/~abe/kyoto/okuni1.html
見たいものがたくさんあります。本日の各寺社の「競馬」の神事も見たかった
のですが来年に持ち越しです。井手のヤマブキの撮影にも行けませんでした。
仕方がありません。これもいつかは撮影して公開したいと思います。
西行ゆかりの場所の撮影もまだの所が多くあります。少しずつ充実させたいもの
と思います。
訂正
先号で西行歌の歌碑について触れましたが、双林寺の近くの「西行庵」にも
石に彫られた歌碑があります。ただ、西行庵は個人所有と思いますので勝手に
入るのは遠慮があって、私は未見です。もちろん歌碑の撮影もしていません。
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