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     ■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■    

                       vol.29(隔週発行)
                       2003年5月19日号
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  メールマガジン「西行の京師」ご購読ありがとうございます。
  近くの方の植えているアジサイが生き生きとしてきています。葉の色具合の
  瑞々しさが際立っています。小さな蕾が付いています。ほどなく咲いて、
  今年も眼を楽しませてくれるはずです。
  沖縄ではすでに梅雨入りしたそうですが、近畿地方も来月になれば入梅です。

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     ■ 西行の京師  第29回 ■

   目次  1 今号の歌と詞書
        2 補筆事項       
        3 所在地情報
        4 関連歌のご紹介
        5 お勧め情報
        6 エピソード

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   《 1・今号の歌と詞書 》

   《 歌 》

 1 白河の春の梢のうぐひすは花の言葉を聞くここちする
                       (31P 春歌) 

   《 詞書 》
  
 1 上西門院の女房、法勝寺の花見られけるに、雨のふりて暮れ
   にければ、歸られにけり。又の日、兵衛の局のもとへ、花の御幸
   おもひ出させ給ふらむとおぼえて、かくなむ申さまほしかりし、
   とて遣しける
                      (27P 春歌)
   この詞書の次に下の歌があります。

  「見る人に花も昔を思ひ出でて戀しかるべし雨にしをるる」

   「返し」として兵衛の局の歌があります。

  「いにしへを忍ぶる雨と誰か見む花もその世の友しなければ」
   

 2 白河の花、庭面白かりけるを見て  
                      (27P 春歌)
 
   この詞書の次に下の歌があります。

  「あだにちる梢の花をながむれば庭には消えぬ雪ぞつもれる」

   今号の地名=白河
   今号の寺社名=法勝寺
   今号の人名=上西門院・兵衛の局
 
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 (1)の歌の解釈

  一読してみて「聞く」は「言う」の方がふさわしいと思いました。
  花の発する声を聞いたウグイスが、花の声を翻訳して、それをウグイスの
  言葉で話しかけているという風に解釈できます。
  しかしなぜ「言う」ではなくて主客転倒したような「聞く」にしたのかと
  いうことを考えると、また別の解釈が成立します。「聞く」に対して
  「言う」は主動的である分、あまりにもストレートで、粗雑で俗っぽい
  イメージがして、歌のフレーズとしてはふさわしくないと私などは考えて
  しまいます。ここは、作歌上のテクニックとして、ひとつひねりを加えて
  「聞く」としたとみるのが良いでしょう。「春の梢の鶯は花の言葉を聞く」
  と「ここちする」は文法的に成立するものかどうか疑問です。「ここちする」
  は鶯のものではなくて、あくまでも作者個人の感覚だからです。「ここちする」
  で作者の独立した感覚を述べていると理解するべきですから、この間にある
  意図的なひねりについて考えたいと思います。

  「白河の、春美しく咲いた桜の梢に鳴く鶯の音は、あたかも桜が語りかける 
   言葉を聞くような心地がすることだ。」
                  (新潮日本古典集成、山家集より抜粋)

  西行の歌には「心地する」「心地こそすれ」で終わる歌がたくさんあります。
  西行が好んで用いた言葉であり、使い方であるといっていいでしょう。
  軽く心のはずんだ発揚感を表していると思います。
  以下に「心地」歌をまとめています。

    http://kazu02aa.hp.infoseek.co.jp/sanka10.html   
   
  (1)の詞書と歌の解釈

  ○上西門院の女房=上西門院に仕える女性のこと
  ○御幸(みゆき)=上皇、法皇、女院などの外出を指します。
    行幸(みゆき)=天皇の外出を指します。

  詞書は上西門院の女房が法勝寺で花見をしたが、雨も降ってきたし、日も
  暮れてきたので帰られました。
  別の日に、昔に行われた花見の御幸を思い出して、兵衛の局に歌を贈った
  ということです。
 
  「花の御幸」とは、百錬抄の1124年2月12日条にある「両院、臨幸、法勝寺、
  覧、春花・・・於、白河南殿、被、講、和哥」とある花見を指している
  もののようです。新潮版の山家集でも、そのように解釈されています。
  とするなら、1124年は西行6歳。上西門院の出生は1126年ですから、この
  2年後に生まれたということです。1185年頃に死亡したとみられる兵衛の局
  は、この詞書と歌を信じるなら、すでに待賢門院には仕えていて、花の御幸
  に随行したということでしょう。1105年ほどの出生になるのでしょうか。
  
  「かつての御幸に随われた人が桜を見に来られたので、桜の花もあなたと
   同じように昔の事を思い出して恋しく思ったのでありましょう。懐旧の
   涙にぬれてしおれております」

  「花見御幸の昔をしのんで涙が雨となったとは誰が見ましょうか。桜の花
   もその昔の友である私がいなかったことですから」

  新潮版の山家集から抜粋しました。上が西行の歌、下が兵衛の歌の解釈です。
  西行歌にある花見には兵衛は参加していなかったということです。風邪の
  ようでした。西行はこの花見のことを伝え聞いて、兵衛が不参加だったこと
  を知らないままに兵衛に歌を贈ったということになります。 
  

  (2)の詞書と歌の解釈

  「庭面、白かる」とも読めますが「庭、おもしろかる」の方が、作者の感覚が
  入っている分だけ良いかと思います。どこの庭か特定不可ですが、前の歌
  から考えて、法勝寺の庭と解釈するべきだろうと思います。
  「あだ」は「仇」で、はかなく散って行く桜花に対しての愛惜の感情が込めら
  れていると思います。はらはらと散り敷く花弁を雪に見立てて、それが降り
  積もるという情景を詠っていますが、この視覚的な歌は音を遮断した静謐な
  世界を作り出しています。ゆっくりと流れていく時間というものが主題かも
  しれません。そのように思う時、この歌は単純な情景表現の歌ではなくて、
  人生の深淵さということをも表していそうな気がします。
  
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    《 2・補筆事項 》

 1 法勝寺及び六勝寺について

  法勝寺は白河天皇の御願寺として1075年に造営に着手されました。もと
  もとは藤原氏の「白河殿」があった場所です。この地は白河天皇が藤原
  師実から献上を受け、そこに法勝寺は建立されました。1077年の末には
  洛慶供養が営まれています。順次、伽藍が増築されて1083年には高さ82
  メートルという八角九重の塔が完成しています。
  ところが、この寺も約100年後の京都大地震で「うへ六重ふり落とす
  (平家物語巻十二、大地震)」と被災しています。1185年7月のことです。
  1185年は平氏が壇ノ浦で滅びた年です。それから、度重なる落雷や火災に
  見舞われ、1468年の応仁の兵火で、ほぼ壊滅状態になりました。
  場所は現在の京都市動物園を中心にした一帯です
  現在、動物園内に九重の塔の碑文があるということです。私は未確認です。
  
  六勝寺は、この法勝寺の近くの「勝」の文字が用いられた六寺を指します。
  すべて法勝寺の付近にありました。現在も法勝寺、円勝寺、最勝寺、成勝寺
  は町名として残っています。
  
  尊勝寺は堀川天皇のご願により建立。1102年落慶供養。 
  最勝寺は鳥羽天皇のご願により建立。1118年落慶供養。
  円勝寺は待賢門院のご願により建立。1128年落慶供養。
  成勝寺は崇徳天皇のご願により建立。1139年落慶供養。
  延勝寺は近衛天皇のご願により建立。1149年落慶供養。 

  いずれも焼亡などにより応仁の大乱後までには廃寺などになっています。

              (平凡社「京都市の地名)を参考にしました)

 2 上西門院 (じょうさいもんいん)
  
  鳥羽天皇を父、待賢門院を母として1126年に出生。統子(とうこ・むねこ)
  内親王のこと。同腹の兄に崇徳天皇、弟に後白河天皇がいます。1189年没。
  幼少の頃に賀茂斎院となるが、6歳の時に病気のため退下。1145年に母の
  待賢門院が没すると、その遺領を伝領します。
  1158年8月に上西門院の1歳違いの弟の後白川天皇は、にわかに二条天皇に譲位
  して上皇となります。統子内親王は、後白河上皇の准母となり、1159年2月に
  上西門院と名乗ります。それを機にして、平清盛が上西門院の殿上人となり、
  源頼朝が蔵人となっています。
  同年12月に平治の乱が起こり、三条高倉第にいた後白河上皇と二条天皇、
  そして上西門院は藤原信頼・源義朝の勢力に拘束されています。1160年1月に
  義朝は尾張の内海で殺され、3月には頼朝が伊豆に流されています。
  上西門院は1160年に出家していますが、それは平治の乱と関係があるのかも
  知れません。生涯、独身で過ごしています。
  西行とは極めて親しかったことが山家集からもわかります。
  
 3 兵衛の局

  生没年未詳です。村上源氏の流れをくむ神祇伯、源顕仲の娘といわれて
  います。姉の待賢門院堀河とともに待賢門院璋子(鳥羽天皇中宮)に仕えま
  した。1145年に待賢門院が死亡すると、堀川は出家、兵衛は上西門院に仕え
  ます。1160年、上西門院の落飾に伴い出家したという説があります。それ
  から20年以上は生存していたと考えられます。上西門院より数年早い死亡
  です。
  窪田章一郎氏は「西行の研究」の中で80歳は超えていたのではないかと推定
  しています。ちなみに、川田順氏「西行研究録」では、西行と堀川の局の
  年齢差は約20歳としています。「西行の研究」の中の森本元子氏説では西行
  と堀川は39歳の差があります。それから勘案して兵衛は西行より年長である
  ことは確実です。
  いずれにしても1124年には兵衛の局は20歳ほどになっていたと解釈できます。
  歌には秀でていて、西行とは最も親しかった女性歌人であったといえます。

 4 平安神宮と時代祭り

  平安神宮は西行とはまったく関係はないのですが、少し記述してみます。
  平安神宮は明治28年(1895)に、平安遷都1100年を記念して造営されました。
  昭和3年に完成した、神宮道に建つ(美術館の横)朱塗りの大鳥居の正面に
  ある二層の楼門は平安京大内裏の応天門を模し、楼門を入って、白砂の庭の
  つきあたりにある拝殿は大極殿を模しています。実際の平安京内裏の8分の5
  の規模で建立されています。拝殿の東に蒼竜楼、西に白虎楼があって、いず
  れも朱塗りのきらびやかな建物です。拝殿の奥に内拝殿と本殿が続きますが、
  本殿は昭和51年正月に焼失し、54年に再建されたものです。
  拝殿の奥には造園家、小川治兵衛によって作られた神苑があります。

  京都三大祭のひとつ、時代祭も平安神宮の祭礼として1895年から始められ、
  毎年10月22日に行われています。
  下は平安神宮ホームページです。

    http://www.heianjingu.or.jp/  

                (平凡社「京都市の地名」を参考にしました)

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    《 3・所在地情報 》

  ◎ 平安神宮 (へいあんじんぐう)

  所在地     左京区岡崎西天王町
  電話      075ー761ー0221
  交通      阪急電鉄河原町下車
           河原町四条から市バス5番、32番で美術館前下車すぐ
           京都駅烏丸口から5番、100番、特206番で京都会館、
           美術館前下車すぐ
  拝観料     境内は自由拝観。神宛拝観料600円
  拝観時間   神苑 8:30〜16:30
          
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    《 4・関連歌のご紹介 》

 1 白川のたえぬ流れを尋ねきて万代契る友千鳥かな
                  覚助法親王 (新千載集)

 2 白川の滝のいとみまほしけれどみだりに人をよせじものとや
                      中務 (後撰集)

 3 白川の滝の糸なみ乱れつつよるをぞ人はまつといふなる
                    藤原忠平 (後撰集)

 4 たれもみな花に心をうつしきてみやこの春はしらかはのさと
                  藤原雅経 (明日香井集)
 
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    《 5・お勧め情報 》
  
  ◎  秋野不矩展

  会場   兵庫県立美術館
  場所   神戸市中央区脇浜海岸通り1
  交通   阪神電鉄岩屋駅から南へ徒歩8分
        JR灘駅から南へ徒歩10分 
  会期   6月8日(日)まで。月曜は休館日
  料金   一般は1200円
  電話   078ー262ー0901
 
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    《 6・エピソード 》

 「青梅雨」というのでしょうか・・・。このところ雨の日が多くあります。
 沖縄地方ではすでに本格的な梅雨入りをしたということですが、近畿地方
 では例年6月10日頃の入梅です。つい先日、桜の花を楽しんだと思ったら、
 もう入梅のことが話題ですから、本当に光陰は矢の如しです。

 「准母」という言葉があります。准(じゅん)とは、準の俗字で(正式なもの
 につぐ)(なぞらえる)と辞書にみえます。
 上西門院の院号宣下を調べていた時です。結婚もせず子供もいない統子内親王
 がなぜ上西門院と名乗ることができたのか・・・これは内親王の救済措置みた
 いなものではないかと思います。かりそめであれ、天皇の母の地位につくこと
 によって院号を名乗るに値します。当時、そういう内親王がたくさんいました。

 ただ、なぜ後白河だったのか・・・ということです。後白河は上西門院の1歳
 違いの弟です。1158年には、すでに上皇です。そんな彼の准母とは変だとは
 思いますが、歴史書では、そのように書かれています。
 目崎徳衛氏は「西行の思想史的研究」の中で、後白河の次の天皇である二条
 天皇の准母と明記されています。目崎氏の著述は一番信用できると思っていま
 すが、しかしこれはミスではないかと思います。院号宣下が目的であって、
 誰の准母になるかは自由という面があったものなのでしょう。後白河の准母で
 あっても、差し支えなかったものと思います。この点についてご存知の方は
 ご教示して下さい。
 
 今号で「白川」「白河」の地名の入った歌は終わります。白川近辺の地名の
 ある詞書が多かったために、歌の紹介は1首ずつにしました。次回は賀茂に
 移ります。賀茂の詞書も多いので、歌は一首ずつの紹介になると思います。

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