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     ■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■    

                        vol.30(隔週発行)
                        2003年6月02日号
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  メールマガジン「西行の京師」ご購読ありがとうございます。
  昨日から6月になりました。6月は水無月ともいいます。ほどなく梅雨です。
  この季節の花といえばアジサイにまさるものはないでしょう。変化(へんげ)
  する花の色から「移り気」などという、ありがたくない花言葉になったよう
  ですが、雨上がりに雨滴を含んでしっとりとたたずんでいるアジサイは、
  まさに梅雨時を代表する花であると思います。

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     ■ 西行の京師  第30回 ■

   目次  1 今号の歌と詞書
        2 補筆事項       
        3 所在地情報
        4 関連歌のご紹介
        5 お勧め情報
        6 エピソード

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    《 1・今号の歌と詞書 》

  《 歌 》

  
 1 月のすむみおやがはらに霜さえて千鳥とほたつ聲きこゆなり
                       (222P 神祗歌)

  《 詞書 》

 1 月の夜賀茂にまゐりてよみ侍りける
                       (222P 神祗歌)
   上の詞書の次に(1)の歌があります。

 2 不尋聞子規といふことを、賀茂社にて人々よみけるに
                        (44P 夏歌)
   上の詞書の次に下の歌があります。

  郭公卯月のいみにゐこもるを思ひ知りても來鳴くなるかな

 3 加茂の臨時の祭かへり立の御神楽、土御門内裏にて侍りけるに、
   竹のつぼに雪のふりたりけるを見て
                        (99P 冬歌)
   上の詞書の次に下の歌があります。
 
  うらがへすおみの衣と見ゆるかな竹のうら葉にふれる白雪

  今号の地名=みおやがはら・賀茂
  今号の寺社名=賀茂社・土御門内裏

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(1)の歌と(1)の詞書の解釈

  「みおやがはら」とありますので、この歌は下鴨神社での歌です。
  ただし、「みおやがはら」という固有名詞はありません。
  なんでもないような叙景歌とも解釈できますが、単純に自然の風物を詠った
  だけの叙景歌を超えて叙情歌になっているとも思います。
  限定的な情景を詠いながら、ひとつの情景説明にとどまらず、直接的に人の
  心に呼びかけるだけの奥行き、広がりを持っていると思います。人の心の中
  で深化しつつ拡散する余情を感じさせてくれます。私の好きな歌の一首です。
  西行は多作している分、何の感興も呼び起こさない、つまらない歌もたく
  さんありますが、こういう歌に出会った時、私の背筋は伸びます。読む側の
  私も姿勢を正して、きちんと読み込みたいと思う歌です。

  西行は自身の心のありようを直截に表したいために言葉自体にはあまり配慮を
  しないという傾向の書き手ともいえます。この歌はこういう情景を表現したい
  という作者の意思に沿って、言葉が自然に浮びあがっている感じです。こう
  いう歌をみても、後鳥羽院の「後鳥羽院口伝」にある「西行は生得の歌人、
  不可説の上手なり」という評が納得できます。
  三句「さへて」の「て」及び五句の「なり」に技巧があります。それによって
  韻の深さが出ています。
  初句の「月のすむ」は「住む」と「澄む」を同時に表しています。ここにある
 「月」はあるがままのさえざえとしたものであり、それが鴨の流れを照らして
  いると見るのが自然です。仏教でいう真如の月という意図的な意味も重ねて
  いるのかもしれません。2句、3句の「みおやがはらに霜さえて」も自然詠ですが、
  さえざえとした月のある光景と照応しています。一つの情景を限定して、明確な
  イメージを写実的に固定しています。
  4句の「千鳥とほたつ」で転調になり、ここで始めて主体的な動きが出ていて、
  しかしそれは3句までのイメージを損なうものではなくて、より発展させるも
  のとして提示されています。この場合は「とびたつ」という言葉の韻では即物
  的になりすぎて、歌の感興をそぐと思います。あくまでも「とほたつ」でない
  と言葉の韻律に余情が乏しくなると思います。「びぃ」は厳しく、「ほぉ」の
  ぼかしたような表現が奥行きを出していると思います。この点は校訂者の
  佐佐木信綱氏の配慮が働いているのかも知れません。
  終わりの「聲きこゆなり」で、一つの世界をまとめていますが、この5句に
  よって叙景歌ではなくて叙情歌になっているとも思います。この聲の意味を、
  西行は自身の心情と重ね合わせて聞き取ったはずであり、そしてそれを表明
  したかったともいえるでしょう。このフレーズだけで西行は自身だけを恃む
  という強固な覚悟の気概を表し、そしてその覚悟に裏付けされた澄明な心象が
  投影されているとみることもできるでしょう。

  (2)の詞書と歌の解釈

  ○子規・郭公=ホトトギスのこと。
  ○卯月=陰暦4月の別称。
  ○卯月のいみ=卯月の忌み。田植え祭りの前の物忌みを指します。賀茂社の
         祭礼に加わる人は精進潔斎をします。

  賀茂社でも頻繁に歌会が開かれていたらしく、西行も何度か参加しています。
 「西行の思想史的研究」で目崎徳衛氏は「賀茂重保が主宰していたものだろう」
  と記述しています。
 「不尋聞子規」は「郭公の声を尋ねて行かないのに」というほどの意味です。
  下は歌の意味です。 

  「郭公は、自分が賀茂祭のため卯月の忌に籠っているのをよく知っていて、
   こちらからたずね求めないのにやって来て鳴いてくれるのだなあ。」
                  (新潮日本古典集成、山家集より抜粋)
  
  (3)の詞書と歌の解釈
  
  ○加茂の臨時の祭=陰暦11月の下の酉の日に行われる賀茂社の祭りです。
           889年より始められて、899年には「賀茂社臨時祭永例
           たるべし」と定められています。応仁の乱により中絶、
           江戸時代に復興。明治3年廃絶しています。   
  ○土御門内裏=鳥羽・崇徳・近衛三天皇の里内裏のこと。場所は現在の
         烏丸通り西、上長者町通り付近。
         1117年新造。1138年・1148年に火災に遭う。1153年頃、
         方忌みにより廃絶。西行の歌は1148年までのものと解釈
         できます。おそらくは出家前の歌でしょう。
  ○竹のつぼ=竹を植えた坪のこと。竹のある中庭のこと。
  ○おみの衣=小忌の衣。神事用の衣服のこと。

  「前栽の竹の末葉に降った白雪は、舞人が着ている小忌衣をひるがえして
   舞っている、その袖のように見えるよ。」
                 (新潮日本古典集成、山家集より抜粋)

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    《 2・補筆事項 》
 
 1 鴨氏と賀茂社 (1)

  鴨氏は奈良県の三輪山を本拠地とする三輪氏と同族と伝えられています。
  奈良県の西の葛城古道の道伝いに高鴨神社、鴨都波神社があり、それらは
  鴨氏の氏神社といわれていますので、古代鴨氏は、葛城山や金剛山を本拠地
  としていたことは確実視されています。
  時代が下がって、鴨氏は京都府南山城の加茂町などを経て京都盆地に来た
  と伝えられます。その時代は縄文時代のことです。糺の森の旧境内地から
  縄文時代の遺蹟も出土していますし、鴨氏系図、下鴨神社社記、日本書紀、
  その他の文献からも推定できます。そういう古い時代から鴨氏は京都に住んで
  いたということになります。

  下鴨神社は正しくは「賀茂御祖神社(かもみおやのじんじゃ)」と言います。
  まず賀茂御祖神社が作られました。本殿は東西にあって、ともに国宝です。
  西殿の祭神は賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)、東殿の祭神は賀茂
  建角身命の娘である玉依媛命(たまよりひめのみこと)です。
  ある時、玉依媛が瀬見の小川で川遊びをしていると、上流から丹塗りの矢が
  流れてきたので、持ち帰って寝所に置いていたら玉依姫は妊娠しました。
  生まれたのは男児で賀茂別雷命(かものわけいかづちのみこと)といいます。
  この賀茂別雷命が上賀茂神社の祭神となっています。

  古来、両社を指して「賀茂社」「賀茂下上(かしょう)大神宮」などと呼称
  していました。「上賀茂」「下鴨」という言葉で分けられるようになったのは
  中世になってからの事だそうです。現在の賀茂御祖神社(通称は下鴨神社)、
  賀茂別雷神社(通称は上賀茂神社)と呼ばれるようになったのは明治初年から
  です。この年に神社制度が改革されています。
                                   以下、次号に続きます。
            
  2 糺の森

  下鴨神社境内にある森です。国指定の史跡となっています。
  面積は12万4千平方メートル。東京ドームの約3倍の規模とのことです。樹齢は
  200年から600年の木が約600本あるそうです。
  それより古い樹木はみられないようです。なぜ古い木がないのか不思議ですが、
  応仁の乱および建武の乱で糺の森が戦場となったため、樹木もほぼ焼失したこと
  が原因のようです。従って、平安時代にいくつかの文学作品にうたわれた糺の
  森の景観と、現在の糺の森の様相は少しは違いがあるでしょう。
  樹木の種類は72%がムクノキ、16%がケヤキ、後の12%をイチイカシ、エノキ
  その他で占めているとのことです。
  糺の森の南は高野川と賀茂川の合流する地点で、糺河原、もしくは河合河原と
  呼ばれていたと記録にあります。この三角州では、室町時代以降は芸能興行の
  一大拠点となり、大変な賑わいをみせていたということです。

3 鴨長明

  鴨長明は平安末期の激動の時代を生きた下鴨神社ゆかりの人です。出生1155年、
  没年1216年といわれています。
 「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず・・・」という人生の
  無常観を格調高い書き出しで著した「方丈記」、説話集の「発心集」、歌集の
 「長明家集」などがあります。
  下鴨神社の河合社の禰宜から昇進して下鴨神社の禰宜となった鴨長継の次男と
  して生まれました。長明19歳頃に長継が死亡してから、とたんに悲運の人生を
  送る事になります。若い長明を支えてくれる人がいなくて、その境涯を自身で
 「みなしご」とさえ記述しています。
  歌は北白川で歌林宛を主宰していた源俊恵に師事していて、長明33歳の時に
  千載和歌集に1首が撰入しています。
  1200年頃から盛んに歌合に出ていますので、歌人として華々しく活躍していた
  事がわかります。後鳥羽院からも身分を超えて厚遇されていました。
  長明50歳頃に河合社の禰宜職につく好機が訪れて、後鳥羽院も推薦するのです
  が、賀茂社の反対のため実現しませんでした。突如、訪れた好機に長明はとても
  喜んでいた事が長明の文章からも分かりますが、結局は実現せず、このことが
  契機となって長明は後鳥羽院の和歌所の寄人の職も投げ出して出家し、大原に
  隠棲します。54歳頃に山科日野の山中に方丈の庵を結んで移り住み、58歳頃に
  方丈記を出しました。その4年後、62歳頃に没しています。
  河合社には方丈記をもとにした、長明が住んでいた方丈が復元されています。
  しかしこの方丈はあまりにも立派すぎる気がします。河合社では鴨長明関係
  資料展も公開されています。

  「石川やせみの小河の清ければ月もながれを尋ねてぞすむ」
                          鴨長明 (新古今集)

  下は私撮影の賀茂社の画像です。

   http://kazu02aa.hp.infoseek.co.jp/kamokamo001.html


         この項の参考文献   平凡社 「京都市の地名」
                    山川出版社 「京都府の歴史散歩」
                    賀茂御祖神社社務所 「賀茂御祖神社」
                    角川文庫(簗瀬一雄訳注)「方丈記」

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    《 3・所在地情報 》

 ◎ 下鴨神社 (しもがもじんじゃ)

 所在地     左京区下鴨泉川町59
 電話      075ー781ー0010 
 交通      京都駅烏丸口から市バス205番で下鴨神社前下車すぐ
          三条京阪から市バス1番・54番で下鴨神社前下車すぐ
 拝観料     拝観自由。宝物殿500円
 拝観時間    6:30〜17:30
 駐車場     300台

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    《 4・関連歌のご紹介 》

 1 稲荷にも言はると聞きしなき事を今日は糺の神にまかする
                      和泉式部 (和泉式部集)

 2 何事と知らぬ人には夕綿襷(ゆふだすき)なにか糺の神にかくらん
                      和泉式部 (和泉式部集)

 3 我に君劣らじとせし偽りをただすの神も名のみなりけり
                     和泉式部 (和泉式部残集)

 4 葵草かざしてゆくと思ふより急ぎ立たるる賀茂河の波
                      和泉式部 (和泉式部集)

 5 神山のまさきの葛くる人ぞまづ八平手の数はかくなる   
                      和泉式部 (和泉式部集)

 6 神山と榊をさして祈るかな常磐のかぎり色も変へじと 
                     和泉式部 (和泉式部残集)

 「和泉式部」
  
 生没年未詳。977年前後の出生とみられています。父は大江雅致、母は平保衡
 の娘といわれています。20歳前後に橘道貞と結婚して小式部内侍を生んでいま
 す。のち、親王ふたりとの恋愛遍歴を経て、藤原保昌と再婚しました。
 波乱に満ちた奔放な生涯を送り、激情的でもあり、哀切な歌を多く残しています。

  「神山」

(こうやま)と発音する場合は、上賀茂神社北方にある山を指す固有名詞です。
 神山は日影山、二葉山、御影山、賀茂山、御生(みあれ)山などの別称があり
 ます。
(かみやま)と発音する場合は「神山=こうやま」の歌枕で、上賀茂を指して
 います。ちなみに万葉集では「神山=かみやま」とは奈良県三輪山の歌枕です。

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    《 5・お勧め情報 》

    嵐山花灯路

  京都近辺に在住の方々限定のお勧めです。

  場所   嵐山、嵯峨
  日時   6月7日(土)から8日(日)
   
  詳しくは下のサイトをご覧ください。

  http://www.kyorokyoro.net/event/tsusin/2003/830.html
  
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    《 6・エピソード 》

 なんとか30号を発行することができました。一号、一号を積み重ねてきた
 結果です。誰にでもない、自分自身に対して課せてきた責務をこれまでは
 何とか果たして来たということです。
 ほぼ3分の2が過ぎました。最近はより詳述する傾向にあり、ついつい長く
 なってしまいます。良くない事だとも思います。気軽に読み流せないマガ
 ジンですし、その分、読むためにはそれなりの時間と熱意を読者の方々に
 要請していることになります。
 来年の早い時期にこのシリーズは終わる予定です。
 いろんな方に触発を受けたことでもあり、この「西行の京師」が一応の終了
 をみても何らかの形で西行及び京都の事について発信したいものと思います。
 ですがまだ、スタイル、内容については固着したイメージができていません。
 ともかくは「西行の京師」をやりあげることです。終わって、成してきた事
 を振り返って始めて見えてくるものもあると思います。つまりは、終わって
 から具体的な事は考えたいと思います。

 今号から賀茂社を取り上げます。
 仏教でいう、菩薩が人々を救うために神の姿をして現れる・・・という本地
 垂迹思想をことさらに持ち出すまでもなく、西行には神も仏もほぼ同一の
 ものとして認識されていただろうと思います。基本的な信仰という意味に
 おいてです。
 古来から神仏混交は普通にみられることでもあり、神と仏は全く別のものと
 して厳しく分けられていたものではありませんでした。

 西行は出家前も、そして僧体になってからさえも賀茂社にはしばしば参詣
 していたことが山家集からも分かります。それは僧侶が神社に詣でることは
 決して禁忌ではなかったということを表しています。むしろ、僧体でありな
 がら、賀茂社に対する崇敬の気持ちの強さに西行の独自性をみます。

 読者の方々にも、一度は賀茂両社を訪ねてほしいものと思います。

 本日6月2日、午後3時。良い天気の京都です。
 今号はなかなか進まず、仕事をさぼって打ち込んでいます。
 もうすぐ梅雨に入ります。アジサイが楽しみでもあります。
  
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