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■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■
vol.31(隔週発行)
2003年6月16日号
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梅雨入りしてから降雨はそれほどありませんが、毎日、雨雲が浮んでいます。
じめじめとした、蒸し暑い日々が続きます。
近くの家のアジサイが見頃です。
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■ 西行の京師 第31回 ■
目次 1 今号の歌と詞書
2 補筆事項
3 所在地情報
4 関連歌のご紹介
5 お勧め情報
6 エピソード
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《 1・今号の歌と詞書 》
《 歌 》
1 長月の力あわせに勝ちにけりわがかたをかをつよく頼みて
(225P 神祗歌)
2 みたらしの流はいつもかはらぬを末にしなればあさましの世や
(224P 神祗歌)
《 詞書 》
1 ふけ行くままに、みたらしのおと神さびてきこえければ
(224P 神祗歌)
この詞書の次に(2)の歌があります。
2 御あれの頃、賀茂にまゐりたりけるに、さうじにはばかる戀といふ
ことを、人々よみけるに
(145P 恋歌)
この詞書の次に下の歌があります。
「ことづくるみあれのほどをすぐしても猶やう月の心なるべき」
3 同じ社にて、神に祈る戀といふことを、神主どもよみけるに
(145P 恋歌)
この詞書の次に下の歌があります。
「天くだる神のしるしのありなしをつれなき人の行方にてみむ」
今号の地名=賀茂・かたおか
今号の川名=みたらし
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(1)の歌の解釈
○長月=陰暦九月のこと。
○かたおか=上賀茂神社本殿の東側にある山。片岡山のこと。片岡社がある。
○力あわせ=九月九日の重陽の節句の神事で、相撲のこと。
歌としては、おもしろいものでもありません。
上賀茂神社の9月の相撲で、たまたま自分で思っていた片方の力士が相手に
勝った。片岡社の神を強く頼みとしていたので・・・というほどの意味です。
ここでは「わがかたおか」というほどに、賀茂社に対しての西行の崇敬の
感情を読み取ることができます。
(2)の歌と(1)の詞書の解釈
○みたらし=御手洗川のこと。
○神さびて=神々しく・神聖な、という意味。
○末にしなれば=仏教でいう末法の時代。
「御手洗川の流れはいつも変らず神々しく聞こえるけれど、末の世ともなれば、
流れも浅くなるごとく、神事も昔通りではなく、何ともいえないあさましい
世であることよ。」
(新潮日本古典集成、山家集から抜粋)
(2)の詞書と歌の解釈
○御あれ=御あれの神事を指します。
○さうじ=精進のこと。
○ことづくる=かこつける・口実にするの意味。
○う月=卯月=4月の事。
賀茂社の歌会での恋をテーマにした題詠の歌です。複数人のグループのはず
ですが、他の歌人の名前まではわかりません。「賀茂社の歌会の主宰者は
多くは重保(賀茂重保)であったと想像される」という目崎徳衛氏の指摘は
30号でも記述しました。
加茂社の祭りの頃で精進潔斎して、それを逢わない事の理由にしていたの
ですが、祭りを過ぎてもまだ逢う事もないのは卯月のためだろうか・・・。
女性の立場に立って詠っている歌だと思います。う月は憂う月(卯月=憂月)
として言葉を重ねている掛詞です。
(3)の詞書と歌の解釈
これも賀茂社での歌会の題詠歌です。あらかじめテーマを設定して詠み合うと
いう形では、歌自体が作り物のフィクションの感じがして、私は好きではあり
ません。作者の奥深い心情と密接に関わり合える部分に乏しく、それはつまり、
歌そのものが緊張感に欠けるという事も意味していると思います。
「賀茂の神様に恋の成就を祈ることであるが、天降ります神の霊験(しるし)
があらたかかどうか、つれない人のこれからの行動により判断することと
しょう」
(新潮日本古典集成、山家集から抜粋)
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《 2・補筆事項 》
1 鴨氏と賀茂社 (2)
「山背(やましろ)の国」と呼ばれていたこの地が、都となったのは794年のこと
です。第50代の桓武天皇は平城京の旧弊を嫌い、長岡京に遷都しました。しかし
長岡京も藤原種継暗殺、早良親王幽閉などの暗い事件があり、凶事も多発したため
に、わずか10年でおわり、桓武天皇はまたしても遷都したのでした。
そこが千年の王城の地となった平安京です。山背の国を山城の国と改め、新京を
平安京としました。
ここには秦氏や鴨氏が住んでいて、それぞれに氏寺も造っていました。
平安遷都以前から鴨氏と朝廷との結びつきは強いものがあり、賀茂社は784年に
従二位、794年に正二位、807年には伊勢神宮に次ぐ社格の正一位の位階を授けら
れています。810年には斎院の制度も整い、賀茂祭(葵祭)を朝廷が主催する官祭
にふさわしい儀式として、形式が整えられました。
賀茂祭は500年代中ごろから始まり、大変な賑わいの祭りでした。朝廷が騎射
禁止令を出しているほどです。斎院の前身ともいえる制度もあって鴨氏の女性が
「阿礼乎止売=あれおとめ」として巫女になっていたとのことです。
ところが800年代になって、鴨氏という氏族の祭礼を朝廷が肩代わりして主催する
ことになったわけです。別の言い方をするなら、大変な人気のある祭りを朝廷が
乗っ取って、主催することになりました。
この賀茂祭も1502年から中絶、復興されたのは1694年のことでした。以来、今日
まで続いています。
ただし、1943年から1952年までは「路頭の儀」は中止されています。
2 御手洗川
平凡社「京都市の地名」から、そのまま引用します。
「現在は明神川と称するが、古くは御手洗川の名で知られた。賀茂川の分水で、
柊原より別れて南流し、上賀茂神社の社殿の背を回って楼門の南に至り、東より
流れてくる御物忌川と合流、楢小川と名を変える。境内より出て再び明神川と
なり、一部は賀茂川に合するが、一部は上賀茂社家町の北を東流する。その名の
とおり、上賀茂社の御手洗の水である。(中略)
御手洗の名は、元来は神社の前にあって、参詣に際して手を清めるための川の
意で普通名詞であるが、歌枕としてはほとんど賀茂社の御手洗川を意味し、他社
の場合は特にその旨を断って詠んでいる。」
尚、御手洗祭は7月の土用の丑の日に行われています。今年は27日になります。
北野天満宮にも御手洗祭があって、こちらは7月7日です。
御手洗団子は賀茂社の御手洗に由来しているもので、賀茂社発祥の団子です。
3 かたおか
前述したように片岡山のことです。古くは賀茂山とも言っていたそうです。この
山も先回30号に記述した「神山」と同様に賀茂社の神体山ともいえます。
山がつの片岡かけてしむる庵のさかひにたてる玉のを柳
(23P 春歌)
片岡にしばうつりして鳴くきぎす立羽おとしてたかからぬかは
(24P 春歌)
以上の歌に見える「片岡」は賀茂社を指すものではなくて、片方が小高い岡
というほどの意味で用いられています。
4 みあれ
御生(みあれ)と表記します。
「人間をはじめ森羅万象すべてに生命が存在し、人間が呼吸しているように
天地すべてが呼吸し、活動して相互に作用しあい、作用しあうところから
生命が誕生する。それを御生という。」
現在、5月15日に賀茂祭(葵祭)が行われますが、それに先駆けて、5月12日に
御蔭祭(御生神事)が行われています。
(賀茂御祖神社社務所発行「賀茂御祖神社」より抜粋)
5 賀茂の斎院
810年に賀茂斎院制度が制定されてから、皇室の未婚の内親王を斎王とする
ことになりました。伊勢神宮の斎宮と区別するために斎王といい、斎王の住む
住居を斎院といいます。斎王はまた同時に斎院とも呼ばれます。
普段は紫野にあった斎院御所に住んでいましたが、葵祭の期間には賀茂社の
斎院に移り住みました。上下社隔年だったとのことです。
初代斎王は嵯峨天皇の皇女、有智子内親王です。それから約400年間、1212年に
後鳥羽天皇の皇女、第35代斎王、礼子内親王をもって斎院制度は廃絶しました。
現在は斎王の代わりの斎王代が葵祭りの主役となっています。1956年(昭和31年)
からです。
尚、紫野斎院はどこにあったか今では分かりません。櫟谷七野神社に紫野斎院跡
の碑がありますが、きちんと検証されて信用に足るもの、ということではない
ようです。
6 末法思想
「仏教の歴史観。釈迦入滅後、正法、像法に次ぐ末法の時期には仏教がすたれ、
教えのみあって行ずる人・悟りを得る人がないとする思想。日本では永承
七年(1052)がその始まりであるとして、当時の社会不安と相まって平安末
から鎌倉時代に流行し、浄土教などの鎌倉新仏教の出現につながった。」
(講談社「日本語大辞典」より引用)
1052年の天皇は後冷泉天皇、関白は藤原頼道です。
藤原頼道が宇治の別荘を平等院としたのもこの年の事です。末法の時代に
入ったということは良く知られていて、平等院の鳳凰堂は死後の極楽浄土を
祈念して阿弥陀如来が本尊となっています。
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《 3・所在地情報 》
◎ 上賀茂神社 (かみがもじんじゃ)
所在地 北区上賀茂本山339
電話 075ー781ー0011
交通 京都駅烏丸口から市バス9番・快速9番の西賀茂行きで
上賀茂御園橋下車、徒歩5分
京都駅から地下鉄烏丸線で北大路駅下車、市バス北3番で
上賀茂御園橋下車、徒歩5分
拝観料 拝観自由
拝観時間 9:00〜16:00
駐車場 160台
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《 4・関連歌のご紹介 》
1 さりともと頼みぞかくるゆふだすき我が片岡の神と思へば
加茂政平 (千載集)
2 郭公こゑ待つほどはかた岡の森のしづくに立ちや濡れまし
紫式部 (新古今集)
3 年を経て憂き影をのみみたらしの変る世もなき身をいかにせむ
周防内侍 (新古今集)
4 月さゆるみたらし川に影見えて氷に摺れるやまあゐの袖
藤原俊成 (新古今集)
5 恋せじと御手洗川にせしみそぎ神はうけずも成りにけるかな
よみ人しらず (古今集)
6 君がためみたらし川を若水にむすぶや千世のはじめなるらん
源俊頼 (千載集)
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《 5・お勧め情報 》
天得院の桔梗鑑賞
天得院は東福寺内の一支院です。
月日 6月13日から7月7日まで
時間 9時30分から16時まで
場所 東山区本町15丁目、東福寺山内
電話 075ー561ー5242
交通 JR及び京阪電車「東福寺」下車。徒歩10分
料金 300円
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《 6・エピソード 》
梅雨入り以来、雨もよいの日々が続いている京都です。本日16日も雨空が
広がっていて、降ったり止んだりしています。家の中が湿っぽくなって閉口
します。あと一ヶ月ほどはこの季節が続きます。梅雨が明ければ、京都の
夏の到来です。
過日、神戸市の兵庫県立美術館で開催していた秋野不矩展に行ってみました。
彼女のたくさんの作品に触れて、その画風を堪能したという感じです。これ
までに何度か彼女の作品を見てはいるのですが、個展は初めてでした。
秋野さんは若い頃から日本画の作品を描いていて、絵画に対する情熱は終生
変わらないものでした。1962年、54歳の時に客員教授として一年間、インドに
滞在しています。以後たびたびインドを訪れていて、インドの風景の作品を
多く描いています。54歳から何度も外国に行っているのですから、その活動
的な生き方や、気持の若々しさには驚きます。現在54歳のわたしには真似が
できません。
秋野さんは2001年10月に京都府美山町のアトリエで、心不全のため逝去されて
います。93歳でした。
彼女の描くインドの大地はやさしく呼吸していると思いました。それはその
まま作者のやさしさに通じているように感じました。鋭角的な線を用いず、
かつ暖色系統を多用することによって、厳しいもの、荒々しいものをもはら
んでいるはずのインドの大地の表情を、なぜかなつかしい、親しみの持てる
ものにしているようにも感じました。
風景を風景として転写するということではなく、インドという固有の土地、
風、温度、生物、人間、その他のインドの大地そのものの出している呼吸と
一体化するということ。一体化した事々を自身の感覚器を通して表明すると
いうこと。そういう事が、やさしさを主調音として描かれていると思います。
絵画を見るということは、作者そのものと対峙するということでもあります
から疲れる行為です。しかしそれは快い疲れだとも思います。
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