もどる


==================================
     ■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■    

                          vol.32(隔週発行)
                          2003年7月01日号
================================== 

 メールマガジン「西行の京師」ご購読ありがとうございます。
 本日から7月です。昨日で今年も半分が過ぎてしまいました。早いものですね。
 季節はまだまだ梅雨の最中です。今までのところ、まとまった降雨のない
 京都ですが、ほぼ毎日、どんよりと曇った不安定な天候です。
  
==================================

     ■ 西行の京師  第32回 ■

   目次  1 今号の歌と詞書
        2 補筆事項       
        3 所在地情報
        4 関連歌のご紹介
        5 お勧め情報
        6 エピソード

==================================
          
   《 1・今号の歌と詞書 》

  《 歌 》

 1 みたらしにわかなすすぎて宮人のま手にささげてみと開くめる
                        (225P 神祗歌)

  《 詞書 》

 1 賀茂のかたに、ささきと申す里に冬深く侍りけるに、人々まうで
   来て、山里の戀といふことを
                         (146P 恋歌)
   この詞書の次に下の歌があります。

   「かけひにも君がつららや結ぶらむ心細くもたえぬなるかな」

 2 そのかみこころざしつかうまつりけるならひに、世をのがれて
   後も、賀茂に参りける、年たかくなりて四国のかた修行しけるに、
   又帰りまゐらぬこともやとて、仁和二年十月十日の夜まゐりて幣
   まゐらせけり。内へもまゐらぬことなれば、たなうの社にとりつぎて
   まゐらせ給へとて、こころざしけるに、木間の月ほのぼのと常よりも
   神さび、あはれにおぼえてよみける
                         (197P 雑歌)
   この詞書の次に下の歌があります。

  「かしこまるしでに涙のかかるかな又いつかはとおもふ心に」

 3 北まつりの頃、賀茂に参りたりけるに、折うれしくて侍たるる程に、
   使まゐりたり。はし殿につきてへいふしをがまるるまではさること
   にて、舞人のけしきふるまひ、見し世のことともおぼえず、あづま
   遊にことうつ陪従もなかりけり。さこそ末の世ならめ、神いかに見
   給ふらむと、恥しきここちしてよみ侍りける
                         (224P 神祗歌)
   この詞書の次に下の歌があります。

  「神の世もかはりにけりと見ゆるかな其ことわざのあらずなるにて」

  今号の地名=賀茂・ささき・四国
  今号の寺社名=たなうの社・はし殿

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 (1)の歌の解釈

 ○わかな=若菜。神前に供えるための野菜。
 ○ま手=両手のこと。
 ○みと=御戸。扉のこと。 

 ひとつの風景を模写しただけの歌であり、そこには作者の心象が全く入っていず、
 その点が不満に思います。西行という斯界の稀有の才能が、その才能足り得ている
 のは作者の固有の心象の発露の形に依ると私は理解していますが、こういう傾向の
 歌はいくらうまくまとまっていても私の感興をひかないものです。とはいえ、
 それは多様な解釈の内の一つですから、別の見方も当然に成立すると思います。

 賀茂社の神官が神前に供えるために御手洗川で若菜を洗っています。洗い終えた
 若菜を両手に捧げ持って、神前に向かう扉を開きました。

 というほどの意味です。神官に対しての親愛の感情や、神社に対しての崇敬の
 気持を汲み取るには無理があるのではないでしょうか。 

 (1)の詞書と歌の解釈

 ○ささきと申す里=「ささき」という里名についてはわかりません。賀茂社の付近
          の里名を調べたのですが、どうしてもみつかりません。賀茂社
          が領有してきた里名としてもなく、現在の町名としてもありま
          せん。
          「山州名勝志」には上賀茂の北にあったとのことですが、私は
          未確認です。
         
  この詞書については、「人々まうで来て・・・」が新潮版の山家集では
 「隆信など詣できて・・・」と変わっています。
 「侍りけるに」とありますので、賀茂の近くにも庵があったのかもしれません。
  ただし、隆信との年齢差を考えると、西行は50歳過ぎの高齢になってからです。
  西行50歳という年は、まだ高野山にこもっていた年代です。
  下に窪田章一郎氏の「西行の研究」から抜粋します。

 「山家恋の題詠は女性の立場のもので、山家の筧の垂氷ともなって、君の
  つらい心は、固く凍っていることであろう。心細くも絶えてしまったこと
  かな、という歌意である。生まれたばかりの隆信を残して出家した寂超を
  加賀の立場で詠んだと想像しても適切であり、西行の場合を考えても、
  このような女性の立場はあったろう。世捨人の山家の生活に入ったばかりの
  頃を作者はおもっているのである。」

  藤原隆信は大原三寂の一人、寂超の子供です。母の加賀は後に藤原俊成と
  再婚して定家などを生みました。したがって隆信と定家は同腹の兄弟です。
  美福門院が1160年に崩御した時に、当時18歳の隆信は美福門院の遺骨を
  持って高野山まで行っています。隆信は能書家及び画家としても有名ですが、
  建礼門院右京大夫集などを見ると、艶福家としても有名だったようです。
  この歌は隆信に対する西行の気持ちが伝わってくる歌です。

 (2)の詞書と歌の解釈

 ○仁和二年=仁和二年とは886年のことですから、ここは仁安です。仁安ニ年は
       1167年、西行50歳の頃。西行法師歌集では仁安三年とあります。
 ○たなうの社=上賀茂神社の棚尾社のこと。
 ○幣=へい・ぬさ=緑の葉のある榊に白地の布や紙を垂らしたもの。
 ○しで=四手=注連縄や玉ぐしにつける白地の紙。昔は白布も用いました。

 この詞書によって四国旅行に出発した時の西行の年齢が分かります。旅立ちに
 際して上賀茂社に参詣したのですが、「又歸りまゐらぬこともやとて」とある
 ように、自分で大変な旅になるかも知れないという覚悟があったことがわかり
 ます。
 「たなうの社」は現在は楼門の中の本殿の前にあるのですが、詞書から類推
 すると西行の時代は本殿と棚尾社は離れていたのかもしれません。僧侶の身
 では本殿の神前までは入られないから、幣を神前に奉納してくれるように、
 棚尾社に取り次いでもらったということです。

 「かしこまり謹んで奉る幣に涙がかかるよ。四国行脚へ出かける自分はいつまた
  お参りできることか、もしかしたら出来ないのではと思うと。」
               (新潮日本古典集成、山家集から抜粋)


 (3)の詞書と歌の解釈

 ○北祭り=岩清水八幡宮の南祭に対して、賀茂社の祭りを北祭りといいます。
 ○はし殿=賀茂両社に橋殿はあります。この詞書ではどちらの神社か特定
      できません。
 ○へいふし=新潮版では「つい伏し」となっています。
       膝をついて平伏している状態を指すそうです。
 ○東遊び=神楽舞の演目の一つです。現在も演じられています。
 ○ことうつ陪従=琴打つ陪従=付き従う人と言う意味ですが、神楽舞で琴を
         打っている人を指します。

 この詞書と歌はいつのものなのか分かりません。賀茂社の衰退を感じさせる
 詞書であり歌ですので、これはやはり源平争乱ということを背景とした当時の
 社会不安と連動したものと考えていいのかもしれません。ただし手持ちの文献
 ではこの歌の作歌年代について触れたものはありません。私見ですが、先の
 四国旅行よりは後のことと思います。

 賀茂祭の頃に賀茂社に参詣したのですが、具合良く、少し待っただけで朝廷
 からの奉幣の勅使が到着しました。勅使が橋殿に着いて平伏して拝礼される
 ところまでは、昔ながらのしきたりのままでした。
 ところが東遊びの神楽舞を舞っている舞人の舞い方は昔に見たものと同じ舞とは
 思えないほどにお粗末で、舞に合わせて琴を打つ人さえいません。これはどうした
 ことでしょう。いくら末法の時代とはいえ、この事実を神はどのように御覧に
 なっていることだろう。まったく、恥ずかしい気がします。
 ということが詞書の意味です。下は歌の解釈です。

 「人の世のみならず、神の代もすっかり変わってしまったと見えることだ。琴の
  陪従もいなくなり、祭のことわざ、舞人の振舞も昔のようではなくなったこと
  につけても」
                  (新潮日本古典集成、山家集から抜粋)
    
  賀茂両社の画像です。橋殿を御覧下さい。

   http://kazu02aa.hp.infoseek.co.jp/kamokamo001.html

=====================================

   《 2・補筆事項 》

  1 鴨氏と賀茂社 (3)

  賀茂社の分霊社は日本全国にあります。総数1186社ということです。
  これは伏見稲荷大社の約4万社、北野天満宮の天神社の約1万2千社などから
  見ると数字的には少ないものです。
  しかし、古代から広く日本全国にわたって信仰されてきたことがわかります。
  多い順に埼玉県119社、群馬県64社、栃木県59社、宮城県58社、長野県56社と
  なっています。

  賀茂社は1036年に式年遷宮の制度を命じられました。それからは20年目ごとに
  社殿の全てが建てかえられることになりました。ところが戦国時代などの戦乱期
  とか神社の経済的理由により、必ずしも規則通りに遷宮が行われたわけでは
  ありません。最近では1937年第31回式年遷宮、1973年第32回式年遷宮、1994年
  第33回式年遷宮とあります。下鴨神社の殆どの社殿は1628年の建立によるもの
  ですから、本殿のみの造替で済ましたようです。その本殿も、現在のものは
  1863年の建立ですから、遷宮といっても社殿の建て替えはせず、形式化して
  いることが分かります。
  上賀茂神社の場合は、もっと簡略化して社殿の修理程度で済ませていたとの
  ことです。
                       (平凡社「京都市の地名」)
                 (賀茂御祖神社社務所「賀茂御祖神社」)
                       上記二冊を参考にしました。

 2 四国旅行について

  1156年7月11日朝、保元の乱で敗れた崇徳上皇は仁和寺に監禁された後、讃岐に
  流されました。そして1164年8月、讃岐の御所で没して、白峰で火葬されました。
  西行は鳥羽天皇や近衛院、二条院、後白川院よりも、待賢門院所生のこの崇徳院
  と、もっとも親しい関係であったことは明らかです。
  西行の四国行脚の主たる目的は、崇徳院の白峰御陵に参拝することと解釈して
  いいと思います。仁安三年説を採るなら崇徳院崩御後四年目にしての参拝という
  ことになります。四国まで行くには、それなりの準備も必要だったのでしょう。
  ルートについては歌がルート順になっていない配列ですので推定するしかありま
  せん。まず山城の三豆から津の国で同行の西住を待ち、備前国児島、日比、渋川
  を経て讃岐国松山にて下船。白峰御陵を参拝してから善通寺に回って弘法大師
  空海の遺蹟を訪れて庵を結んでいます。そこでしばらく住んでから、讃岐三野津
  より乗船。真鍋島、塩飽島を経て帰途に着いたとも考えられます。
          (ルートについては窪田章一郎氏著「西行の研究」を参考)
 
 3 西念寺

  山家集に西念寺についての記述はありません。しかし西行との関係も深いよう
  ですので平凡社の「京都市の地名」を参考にして記述してみます。
  西念寺は現在はありません。いつ頃の廃寺か分かりません。蓮台野の西向寺の
  記録では、明治維新の廃仏毀釈運動により廃寺になったとあるそうです。

  「上賀茂の南にあった。廃絶時期は不詳。江戸時代の地誌によれば、行基の開創
  で本尊阿弥陀仏は行基自作と伝える。賀茂川堤の低地にあり、賀茂河の傍堤の
  南鴨の一の鳥井を去て三四町未申にあたる。とあり、賀茂社司の葬送に関与した
  ことが知られる。
  また当寺は西行発心の地と伝え、それ以前、西行の姉の尼が住んでいたとも記す。
 
   とめこかし梅さかりなる我宿をうときも人は折りにこそよれ
                           (233P 聞書集)
 
  の歌は当寺の梅を詠んだものといい、「尋来梅=とめこむめ」として、梅の
  名所の一つに数える。」
                 (平凡社「京都市の地名」より抜粋)
  
  西念寺が廃寺になるときに阿弥陀仏が西向寺に移されて、そのことを記述した
  文書が阿弥陀仏の体内から出てきたそうですので、ほぼ間違いはないと思います。

  私が知る限りは「西行の姉」の記述はこの書物だけにあります。「都名所図会」
  も改訂版では、西行と西念寺の関係について触れています。初期刊行版では、
  尋来梅の歌は鳥羽の西行寺のものとしています。
  西行はこの西念寺で出家した可能性も考えられます。勝持寺と西行寺はどち
  らも寺伝で出家した所とありますが、法輪寺の南の西光院、そしてこの西念寺
  なども、出家場所であったとしても不思議ではありません。 
 
 4 大田神社

 大田神社は上賀茂神社の境外摂社です。上賀茂神社から東に600メーターほど
 の所にあります。
 創建については詳らかではありませんが、地主神を祀った古い社として地域住民の
 崇敬を受けてきたそうです。
 毎月10日に里神楽の奉納があります。また、現在は2月24日に「さんやれ祭り」が
 行われています。
 この神社のカキツバタ群生は古来から有名で、藤原俊成の歌もあります。

    神山や大田の沢のかきつばた 深き頼みは色に見ゆらむ
                        (藤原俊成)

 下は大田神社の画像です。

   http://kazu02aa.hp.infoseek.co.jp/kamoka002.html

===================================

   《 3・所在地情報 》

 ◎ 大田神社 (おおたじんじゃ)

 所在地    北区上賀茂本山340
 電話     075‐781‐0907
 交通     京都駅烏丸口から市バス9番・快速9番の西賀茂行きで
        上賀茂御園橋下車、徒歩10分
        京都駅から地下鉄烏丸線で北大路駅下車、市バス北3番で
        上賀茂御園橋下車、徒歩10分
 拝観料    無料
 拝観時間   規定はないようです
 駐車場    なし

==================================

   《 4・関連歌のご紹介 》

 1 みたらしや影絶えはつる心地して志賀の波路に袖ぞ濡れにし
                     式子内親王 (千載集)

 2 石間ゆくみたらし川の音さえて月やむすばぬこほりなるらん
                      藤原公時 (千載集)

 3 風そよぐならの小川の夕暮はみそぎぞ夏のしるしなりける
                     藤原家隆 (百人一首) 

 4 みそぎするならの小川の川風に祈りぞわたる下に絶えじと
                     八代女王 (新古今集)

==================================

   《 5・お勧め情報 》

   楊静と結アンサンブル

  日時    7月24日(木)
        18時30分開場、19時開演
会場   青山音楽記念館バロックザール
 (席は200席です。早めの予約が必要です)
場所   京都市西京区上桂
交通    阪急京都線桂駅乗り換え
   上桂駅下車西へ300メートル
演奏曲目   平安音楽絵巻・火山泉・江上流韻・琵琶夜曲など

演者   中国琵琶=シズカ楊静氏・チェロ=橋本しのぶ氏・他
  料金    3000円(全自由席) 
  
  問い合わせ  TEL 075ー392ー6421
         FAX 03ー3489ー9341

   http://www2u.biglobe.ne.jp/~m-miki/jp/concert/20030724.html

===================================

 《 6・エピソード 》

 今号32号の発行は、どうしても昨日発行することができず、1日遅れてしまい
 ました。お詫び致します。全体の構成に時間がかかり、かつ、多忙で時間が取れ
 なかったことが原因です。今後もこのようなことがあるかとも思います。
 遅れたとしても、できる限りは2.3日以内にしたいと思います。ご了承願います。

 さて、京都の7月といえば祇園祭です。16日の宵山、17日の山鉾巡行ではたくさん
 の人出で賑わいます。私はこの数年は見たことがありませんが、今年も時間が取れ
 そうにもなく、行く事はできないと思います。
 下は祇園祭の紹介サイトです。

  http://www.kyoto-np.co.jp/kp/koto/gion/gion.html

 今号で賀茂が終わりましたので、次号から街中に移ります。詞書と歌のバランスが
 悪くて、構成に戸惑いますが、京都の地名の入ったものはすべて紹介致します。
 
 画像もまだまだ未撮影場所があって気がかりですが、出不精でもあり時間もないと
 いう事情で、全ての場所の撮影は不可能と思います。この点もご了承願います。
 
===================================