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     ■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■    

                      vol.33(隔週発行)
                      2003年7月14日号
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 メールマガジン「西行の京師」ご購読ありがとうございます。
 まだ梅雨が明けません。ほぼ毎日の降雨です。例年、近畿は18日から20日
 くらいの梅雨明けですからもうすぐです。今年は陰性梅雨とでもいうのか、
 豪雨もなく、晴天の日も数日だけで、いつもどんよりと曇っていたという
 印象です。今までのところ各地で大きな被害が発生していないのは、
 良い事ですね。
  
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     ■ 西行の京師  第33回 ■

   目次  1 今号の歌と詞書
        2 補筆事項       
        3 所在地情報
        4 関連歌のご紹介
        5 お勧め情報
        6 エピソード

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   《 1・今号の歌と詞書 》

  《 歌 》

 1 紫の色なきころの野邊なれやかたまほりにてかけぬ葵は
                       (223P 神祗歌) 
                   
  《 詞書 》

 1 斎院おはしまさぬ頃にて、祭の歸さもなかりければ、紫野を
   通るとて
                       (223P 神祗歌)
   この詞書の次に(1)の歌があります。


 2 春は花を友といふことを、せが院の斎院にて人々よみけるに
                        (26P 春歌)
   この詞書の次に下の歌があります。

  「おのづから花なき年の春もあらば何につけてか日をくらさまし」

 3 夢中落花といふことを、前斎院にて人々よみけるに
                        (38P 春歌)
   この詞書の次に下の歌があります。

  「春風の花をちらすと見る夢は覚めても胸のさわぐなりけり」

  今号の地名=紫野
  今号の寺社名=せが院の斎院・前斎院 

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 (1)の歌と(1)の詞書の解釈

○かたまほりにて=「かたまほり」で調べてみたのですが、古語辞典にもあり
            ません。新潮版によると「片祭」という意味のようです。
○祭りの歸さも=賀茂祭が終われば斎院は賀茂社に一泊し、翌日、紫野の斎院
          御所に帰るのですが、その行列がないことを表しています。
○かけぬ葵=賀茂祭は葵祭ともいいます。行列の人々や牛車は葵の葉で飾り付け
         るのですが、斎院がいないときは飾り付けしなかったようです。
         牛車などは飾り付けていたのかもしれません。
         この点については勉強不足で、よくわかりません。

 この歌は新潮版の方が分かりやすいので以下に記述します。

「むらさきの 色なきころの 野辺なれや 片祭にて かけぬ葵は」

 「斎館のある紫野とはいえ、斎院はおいでにならず、紫の色もない紫野の
  野辺とでもいうべきだろうか、祭の帰途の行列もなく、葵のかづらを
  かけることもないことを思うと。」
                 (新潮日本古典集成、山家集より抜粋)

 「斎院おはしまさぬ頃」とは何年のことか特定できません。西行出家後からの
  斎院不在について記述してみます。
  
  第32代斎院 (イ善)子内親王
  斎院卜定 1169/10/20 退下 1171/2/22
  
  第33代斎院 頌子内親王
  斎院卜定 1171/6/28 退下 1171/8/14

  第34代斎院 範子内親王
  斎院卜定 1178/6/28 退下 1181/1/14

  第35代斎院 礼子内親王
  斎院卜定 1204/6/23 退下 1212/9/4 
  「1212年より以後、斎院制度廃絶」

 これからみると、賀茂祭のときに斎院がいなかったのは、1171年から1178年
 まで、次に1181年から1204年までということです。1140年から1170年の間は
 斎院はいました。
 したがって、この歌は西行の年齢を考えると、1171年から1178年までの可能性
 が強いと思います。1171年として西行54歳です。

  (2)の詞書と歌の解釈
 
○せが院の斎院=せが院とは清和院のことです。ですから、清和院の中の斎院
           御所のことです。西行の時代は第26代斎院、官子(きみこ)
           内親王が住んでいました。
           官子内親王は1108/11/8から1123/1月まで斎院でした。
           1090年出生、没年不詳、白川院の皇女です。

 (2)の詞書は清和院の斎院御所で歌会があって西行も参加したことを示して
 います。西行は何度も清和院の歌会に参加しています。ここでも参加した
 歌人の個人名まではわかりません
 歌の意味は、もしも桜の花の咲かない年があるとするなら、どのようにして
 春の日々を過ごしたらいいのだろうか・・・という素直な述懐の歌です。
 「桜」という固有名詞は出していませんが「花」はそのまま「桜」を意味
 していて、桜に対しての西行の思い入れが伝わってくる歌です。
   
 (3)の詞書と歌の解釈

○前斎院=新潮版の山家集では「前斎院」が「せか院の斎院」とありますので、
       それに従います。

 この歌は上西門院統子内親王関係の歌会とする資料もありますが、ここは
 清和院ですから官子内親王の事を指していると見るのが妥当です。いずれに
 しても「前斎院」という言葉で、上西門院と特定することはできません。
 窪田章一郎氏「西行の研究」、安田章生氏「西行」では、上西門院と特定
 していますが、目崎徳衛氏「西行の思想史的研究」162Pに記述のある
 「清和院歌会への出席は、清和院の景観及び、会衆との親しさによるもの」
 という指摘の方が説得力があると考えます。
 この詞書でも歌会に参加した人々の個人名は不明です。しかし官子内親王
 とは縁戚である源頼政は出席していただろうと考えられます。

 歌は題詠歌でありながら西行らしい情動の世界が広がり、奥の深い含蓄の
 あるものになっています。
 春の風が満開の桜を散らしている夢を見てしまった。夢から覚めてみても、
 気持がさわぎ、不安になって仕方ないことだ・・・というほどの意味ですが、
 こんな皮相的な解釈などは全く無意味のような奥深さが感じられる歌です。
 
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   《 2・補筆事項 》

  1 紫野

 現在の北大路通り以北、大徳寺、今宮神社あたり一帯を指します。
 今宮神社はかつては紫野社と言われていて、平安時代は紫野の中心地は
 今宮神社あたりだったそうです。江戸時代は大徳寺あたりが紫野の中心に
 なっていたらしく、都名所図会には舟岡山は「紫野の西にあり」と説明がなさ
 れています。ともあれ、大徳寺、今宮神社あたりを指す古くからの地名です。
 
 平安時代は紫野は禁野でした。朝廷の狩猟とか遊覧の場でもあったようです。
 西行の時代には大徳寺はありませんでした。しかしこの大徳寺ができる前に
 同じ土地に雲林院があって雲林院はまた紫野院とも呼ばれていたそうです。
 この紫野雲林院あたりでの朝廷の狩猟とか遊覧の記録が残っています。
 現在の紫野は京都の北部の繁華街となっています。

  2 清和院

 清和院とは現在の京都御宛の中にありました。
 もともとは藤原良房の染殿の南にありました。良房の娘の明子は第56代、
 清和天皇の母であり、明子は清和天皇譲位後の上皇御所として染殿の敷地内
 に清和院を建てました。
 ちなみに清和天皇の后となった藤原高子はこの染殿で第57代、陽成天皇を
 産んでいます。在原業平との関係で有名な女性です。
 清和院は清和上皇の後に源氏が数代続いて領有し、そして白川天皇皇女、
 官子内親王が伝領しています。清和院の中に官子内親王の斎院御所があり、
 そこで歌会が催されていたということです。
 その後の清和院は確実な資料がなく不詳ですが、1661年の寛文の大火による
 御所炎上後、現在の北野天満宮の近くの一条七本松北に建てかえられたそう
 です。
 「都名所図会」では1655年から1658年の間に、現在地に移築されたとあり
 ます。現在は小さなお寺です。

  3 京都御所と京都御苑

 現在の京都御所は南北朝時代の北朝が皇居としていた場所にあります。
 平安時代末頃には、平清盛に取り入って大納言になったという藤原邦綱邸で
 あり、この邸宅が後に後白川天皇内親王の宣陽門院に譲られ、南北朝時代の
 1331年に光厳天皇が皇居としたものです。土御門東洞院内裏という里内裏です。
 
 もともとの平安京内裏は1227年焼失後は再建されませんでした。それまでにも
 内裏はたびたび火災にあっていて、内裏の再建までの期間は摂関家などの邸宅
 などを皇居としていました。それを里内裏といいます。
 
 現代の御所も何度も火災により炎上しています。そのつど、織田氏、豊臣氏、
 徳川氏などが再建や修復をしています。
 現在の御所は1855年に再建されたものです。

 この御所を取り囲むようにして、鷹司邸、九條邸、近衛邸、閑院宮邸、桂宮邸
 などの公家や宮家の邸宅がありましたが、明治二年の東京遷都のために東京に
 移転しました。その跡地を含めた苑地が京都御宛です。
 京都御苑は自由に散策できますが御所は春と秋の各5日間の一般公開の時以外は、
 事前に、はがきによる参観申し込みが必要です。

 清和天皇の清和院はこの御苑にあったのですが、現在は、寺町通りに面した門に
 「清和院御門」という名称がわずかに残っているばかりです。

      (補筆事項は主に平凡社「京都市の地名」を参考にしています。)

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   《 3・所在地情報 》
   
  京都御所・京都御苑 (きょうとごしょ・きょうとぎょえん)


 所在地    上京区京都御苑
 電話     075‐211‐6348
         075‐211‐1215 (宮内庁京都事務所)
 交通      地下鉄丸太町駅、今出川駅下車すぐ
         市バス 烏丸丸太町から今出川の間に下車すぐ
         市バス 河原町丸太町から今出川の間に下車すぐ
 拝観料    御苑の苑内自由。御所の拝観は春秋の一般公開か、
         はがきによる申請制です
 拝観時間   苑内6時から18時まで
 駐車場    270台、有料

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   《 4・関連歌のご紹介 》

 1 明日はまた賀茂の川浪立ちかへり紫野にや色を添ふべき
                    六百番歌合(藤原隆信)

 2 しろたへのとよみてぐらをとりもちていわひぞそむるむらさきののに
  (白妙の豊みてぐらにとりもちていわひぞそむる紫の野に)
                    後拾遺集 (藤原長能)

 3 むらさきのくものかけてもおもひきやはるのかすみになしてみむとは
   (紫野雲のかけても思ひきや春の霞になして見むとは)
                    後拾遺集 (藤原朝光)

 4 わかやとのまつにひさしきふちのはなむらさきのにはさきやしぬらむ
(わが宿の松に久しき藤の花紫野には咲きやしぬらむ)
                   夫木和歌集02170番 (壬生忠見)

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   《 5・お勧め情報 》

     安倍晴明と陰陽道展

  会場   京都文化博物館
  場所   中京区三条高倉
  電話   075‐222‐0888
  会期   7/12日から8/17日まで
  料金   1000円
 休館日   月曜日
        
        京都文化博物館ホームページ
       http://web.kyoto-inet.or.jp/org/bunpaku/

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   《 6・エピソード 》

私自身は躁鬱病などとはまったく無縁です。神経がずぶといのかもしれま
せん。自分の精神は自分でコントロールするもの、精神を感情という言葉に
置換しても良いのですが、自分の感情は自分で演出し管理するものという
認識があります。それは人間の知恵ではないかとも思います。
日常を過ごす中で、自分の身の上にいかなることが起きようと、沈んで、
沈んで、その果てに狂ってしまいそうな現象があったとしても、自身の感情は
結局は自身でコントロールすればすむ話です。私も躁鬱程度なら自分で体験
してもいいと思います。そうでないと、その病態の理解が言葉の上だけの理解
にとどまったままでしょう。それにしても自身の感情を自身で制御する事の
できないという病態は想像はできても、信じたくはないことです。

甥のうちの一人はもう10年ほどの引きこもりです。高校時代にいじめにあった
のが発端で自閉症となりました。現在なら統合失調症という病名でしょうか。
外出はできます。スーパーなどで買い物はする事ができます。
しかしながら人との濃密な形での接触は無理であり、多くの人の中で仕事を
するというような社会生活は望めません。
彼の精神は病んでいるのかどうか・・・私の尺度で計ることは自身に禁じて
いますが、しかし一度しかない人生を、自身の可能性を試すこともなく、
自身の小さな世界に閉じこもったままであるというのは、良いことであるとは
思えません。

「自分の自立に向かって頑張れ」と私は言います。
鬱性の病気の時は「頑張れ」ということばは禁句だと専門家は言います。
しかしそれは明白な間違いでしょう。「頑張れ」と、促し励ましすればいいの
です。むしろ「頑張らないでもいい」などというのは非常に良くないことだと
思います。無責任です。問題を直視しないで、目をそらそうとするやり方を
伝えるのは、むしろ危険です。
ただし、頑張れという言葉の根底に、「いつも見守っているから」という、
そういう姿勢があるということを前提としてなければなりません。
この種の病気は、脳の前頭葉が萎縮しているとも聞きますが、器質的のものが
原因であるなら、将来に快復が望めることかもしれません。実際に自分で苦し
んでいる人達がいて、その人達の救いとなるような治療法が開発されることを
望みます。

祇園祭ももうすぐです。梅雨もまもなく明けて、京都の夏が到来します。

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