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     ■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■    

                      vol.34(隔週発行)
                      2003年7月28日号
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  メールマガジン「西行の京師」ご購読ありがとうございます。
  今年のこの季節の気候としてはかなり異常でした。近畿の梅雨明けは
  例年より1週間も遅くなりました。東北地方では気温がとても低くて、
  稲の生育状況が懸念されています。
  ともあれ、これから夏本番です。
  
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     ■ 西行の京師  第34回 ■

   目次  1 今号の歌と詞書
        2 補筆事項       
        3 所在地情報
        4 関連歌のご紹介
        5 お勧め情報
        6 エピソード

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   《 1・今号の歌と詞書 》

  《 歌 》

 1 これや聞く雲の林の寺ならむ花をたづぬるこころやすめむ
                       (235P 聞書集)   

  《 詞書 》

 1 せが院の花盛なりける頃、としただがいひ送りける
                        (26P 春歌)

   この詞書の次に「としただ」の歌があります。

  「おのづから来る人あらばもろともにながめまほしき山櫻かな」

   返しとして西行の歌があります。 

  「ながむてふ数に入るべき身なりせば君が宿にて春は経なまし」

 2 としたか、よりまさ、勢賀院にて老下女を思ひかくる戀と申す
   ことをよみけるにまゐりあひて
                       (260P 聞書集)

   この詞書の次に下の歌があります。
  
  「いちごもるうばめ嫗のかさねもつこのて柏におもてならべむ」 

 「参考歌」

  「君すまぬ御うちは荒れてありす川いむ姿をもうつしつるかな」 
                       (223P 神祗歌)

  今号の寺社名=雲林寺・せが院・勢賀院
  今号の人物名=としただ・よりまさ                      
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  (1)の歌の解釈

○雲林院=紫野にあった淳和帝の離宮です。雲林院は現在の大徳寺あたり
       にありました。後述します。

 この歌は聞書集に収録されていて、「尋花至古寺」という詞書がついて
 います。
 雲林院は上賀茂神社とそれほど離れてはいませんので、賀茂社にはたび
 たび参詣している西行は、この雲林院にも何度となく立ち寄ったことが
 あるものと思います。西行の時代には雲林院は衰退に向かっていたよう
 です。いみじくも詞書の「・・・古寺」という言葉が当時の雲林院の様子
 を表しています。ただし、この詞書は西行の書いたものかどうか、私とし
 ては疑問です。
 雲林院はまた桜や紅葉の名所であったという記録があります。西行は桜を
 尋ねて雲林院に花見に行ったものでしょう。
 「これや聞く」という言葉の意味は「源氏物語」などに雲林院のことが記述
 されていて、西行の時代より200年ほど前から広く人々に知られていて有名
 であった事を示しています。雲林院は塔頭もいくつかあって、誰でも知って
 いる有名な寺院でした。

 このお寺が昔の物語にも記述されている有名な雲林院だ。花の盛りのこの
 雲林院に実際に来ているので、昔をしのび、桜を楽しみ、ひととき心を
 やすめることにしょう。

 以上が歌の意味です。雲の林の寺という詠み方が歌枕となっています。
 このお寺での西行の歌が他に残っていないのは不思議な気もします。
 
  (1)の詞書と歌の解釈

○としただ=
   人物は特定できません。新潮版では「としたか」です。大宮佐俊孝と
   見られていますが不詳です。260Pの「としたか」とは別人かどうかも
   不明です。尾山篤ニ郎氏説では「としただ」は平時忠です。
○数に入るべき=
   僧侶の身であることの謙譲語。一般の人達に対して、一段へりくだって
   いる意識を表しています。もう一説は、階級として貴族からみると身分
   の低い事を表しています。

 この歌は「としただ」との贈答歌ですが、先述のように「としただ」という
 人物は不詳です。「としただ」の歌は

  あるいは、来ていただけるなら、この清和院の桜をご一緒に眺めたいもの
  です。

 というほどの意味で「花見に来てください」と西行を誘っている歌です。
 「おのずから・・・」という不確定要素に満ちた、しかし少し我意が入り
 込んでいる言葉の調子に「としただ」の願望が伺い知れます。
 この歌の返事として西行は歌で不参加を伝えています。下が西行の歌の解釈
 です。

  ご一緒に桜を眺めようとしても、世をのがれて人の数にも入らない僧体の
  身です。だからご遠慮させていただきます。もしそうでなかったら、清和院
  で、あなたとともにこの春のひとときを過ごしたいものなのですが・・・。

  (2)の詞書と歌の解釈

○勢賀院=せが院と読み、清和院のことです。
○としたか=伊藤嘉夫氏は日本古典全書山家集で醍醐源氏の俊高としています。 
○よりまさ=源頼政のこと。
○いちごもる=
    市児(町民の小ども)の子守りをする年配の女性のこと。「いちこ」
    とは巫女のことでもありますので、あるいは宗教的な意味合いがある
    のかもしれません。 
○うばめ=
    不明。「姥女」の可能性があるかも知れません。「うはめ=上目」
    の事であるなら「うばめ嫗」で美しい老女の意味のようにも解釈でき
    ます。
○嫗(おうな)=年配の女性のこと。翁(おきな)は年配の男性。
○このて柏=
    児手柏=ヒノキ科の常緑樹。小枝全体が平たい手のひら状であり、
        葉は表裏の区別がつかないところから、二心あるものの
        たとえとされた。 (講談社「日本語大辞典」を参考)

 なんとも驚くような突飛な題です。こんなに遊び心の入った遊興的な題は、
 他にはありません。老下女に対して思いをかける恋というテーマで詠み合う
 歌会にたまたま参り合わせて詠んだということが詞書の意味ですが、なん
 だか、お酒の入っている感じのする、くだけた題です。現在であったらセク
 ハラで訴えられそうな感じさえさせます。歌の意味は以下です。

 「市児(町家の子)の子守りをする年老いた子守り女が重ねて持っている
  このてがしは(柏の一種とも女郎花とも)それは表裏の別がなく、
 「このでかしはの二面」と言われている通り、私も同じく顔を並べよう。
 (他の人と同じく老下女に思いをかけよう。)(このてがしはは児の手柏と
  かけている。)」
           「 」内は渡部保著(西行山家集全注解)から抜粋

 なんだかよく理解できない解釈ですね。歌自体が良くないと思います。

 「参考歌」について

 この歌は本来はこの紫野の歌です。歌の前後の関係からみても先回33号に
 紹介するべきでした。現在では紫野斎院の場所も特定できず、また紫野に、
 ありす川もありませんので、やむなく、有栖川のある右京区のところで紹介
 しました。第10号です。やはりここで紹介するべきだったかもしれません。
 興味のある方は第10号をご参照願います。

  http://www6.ocn.ne.jp/~abe/merumaga/10.html

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  《 2・補筆事項 》

 1 雲林院

 西行の見た雲林院は現在はありません。現在、大徳寺の少し東南の北大路大宮
 下るにある雲林院は、1700年始め頃に大徳寺の塔頭(たっちゅう)として建て
 られたものです。
 もとの雲林院の創建は830年以前と伝えられ、823年に即位した第53代天皇の
 淳和帝の離宮としてのものです。その頃は紫野院と呼ばれていましたが、832
 年に雲林亭と改称され、歴代天皇の行幸、遊園の記録が残されているそうです。
 次いで仁明天皇の第七皇子の常康親王に伝領されて雲林院と改めました。この
 常康親王は雲林院の皇子(みこ)と呼ばれ、古今集に一首のみ入集しています。
 親王は869年2月に出家して同年5月に没しています。出家を機に寺に改めて、
 僧正遍昭が管理するようになりました。この頃の雲林院の寺域は船岡山の東
 一帯を占め、東西、南北ともに73丈(220メーターほど)と記録されています。
 
 その後の雲林院は900年末に境内に念仏寺が建てられ、菩提講が盛んになりま
 した。西行の時代に東山鹿ケ谷事件に連座した大納言成親卿の北の方が隠棲
 したと平家物語巻の一に記述のある場所も、この雲林院の菩提院です。1177年
 のことです。
 1334年に(1315年とも)雲林院の敷地を削って大徳寺が建立されてから、寺勢
 の衰えていた雲林院は大徳寺の子院となってしまいました。まさに庇を貸して
 母屋まで大徳寺に乗っ取られてしまった事になります。当時の雲林院は応仁の
 乱ですべて灰燼に帰したということです。1700年代に再建された雲林院も、
 これまでには、ながく無住の時代が続いていたということです。
 雲林院の名を冠した地名が雲林院町として現在も残っています。
 下は雲林院の紹介サイトです。
 
   http://homepage1.nifty.com/heiankyo/unrinin.html

  下は私撮影の雲林院などです。

   http://kazu02aa.hp.infoseek.co.jp/saigyo2/funaoka01.html

 2 僧正遍昭
 
 雲林院に関係ある人物として遍昭がいます。
 遍昭は桓武天皇の孫として816年に生まれました。俗名は良岑宗貞といいます。
 遍昭は仁明天皇に厚遇されていましたが、850年に仁明天皇が崩御すると、
 出家して比叡山に登り、後に洛東に元慶寺を建立しています。869年に雲林院を
 管轄したのは先述したとおりです。没年は890年。75歳。子供に素性法師がい
 ます。
 歌をよくし、六歌仙及び三十六歌仙の一人です。小野小町との贈答歌もあり、
 小町伝説で有名な深草少将のモデルとも言われています。今昔物語の本朝部
 巻19にも記述されています。
 
  万葉集第十二番 僧正遍昭

 「天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ をとめの姿しばしとどめむ」

 3 大徳寺

 西行没後にできたお寺で、西行とは関係ありません。雲林院との関係で少し
 記述してみます。
 大徳寺は北大路通りを挟んで船岡山の北に位置する臨済宗大徳寺派の本山です。
 赤松則村の庇護を受けた大燈国師が1315年に雲林院の地に一宇を設けたのが
 起源と伝えられています。その後、大徳寺は天皇家の勅願寺として隆盛を迎え
 ます。この頃には、雲林院は大徳寺の一塔頭となっていたものでしょう。
 室町時代初期に大徳寺は衰退しますが、81歳の一休禅師が住持してからは急速
 に寺観が整えられました。たくさんの戦国大名の帰依を受け、織田信長の葬儀
 もこの寺で盛大に執り行われました。
 山門の上層部は千利休が完成させたのですが、そこに自身の木像を飾ったため
 に秀吉の不興を買って、利休は自刃することになりました。真偽は不明です。
 利休も含めてたくさんの戦国大名のお墓があります。
 真珠庵その他の塔頭も多く、国宝や重文も無数にあります。
 ただ、22の塔頭のうち、公開しているのは大仙院、高桐院、龍源院、瑞峯院の
 4ヶ所のみです。
 「大徳寺の茶づら」として「茶の湯」との関係の深いお寺です。

        (補筆事項は平凡社「京都市の地名」を参考にしています。)

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   《 3・所在地情報 》

  大徳寺 (だいとくじ)

 所在地    北区紫野大徳寺町53
 電話     075-491-0019
 交通     京都駅烏丸口から市バスで101、205、206系統、
         大徳寺前下車、徒歩3分
         地下鉄烏丸線、北大路駅下車、徒歩15分
 拝観料    境内自由。ただし各塔頭は拝観料が必要です
 拝観時間   9時から16時まで
 駐車場    100台(有料)
 
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   《 4・関連歌のご紹介 》

 1 聞かせばやあはれを知らん人もがな雲の林の雁の一声
                    和泉式部 (和泉式部集)

 2 この世をば雲の林に門出してけぶりとならんゆふべをぞ待つ
                    良暹法師 (千載和歌集)

 3 むらさきの雲の林を見わたせば法にあふちの花咲きにけり
                       肥後 (新古今集)

 4 木の本におらぬ錦のつもれるは雲の林の紅葉なりけり
                    よみ人知らず (後撰集)
                  
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   《 5・お勧め情報 》

    五山の送り火

 京都三大祭りとともに京都を代表するビッグイベントです。
 五山とは、東山如意ヶ嶽の「大文字」、松ヶ崎の「妙法」、西賀茂妙見山の
 「船型」、大北山の「左大文字」、北嵯峨水尾山の「鳥居形」を指します。
 8月16日の午後8時にまず東山の大文字が点火されます。最後の鳥居形の点火
 時間は8時20分です。詳しくは下のサイトを御覧願います。

   http://www.kyoto-np.co.jp/kp/koto/gozan/dai.html

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   《 6・エピソード 》

7月26日(土)の宮城県の地震には驚きました。午前0時過ぎに震度6弱、午前7時
過ぎに震度6強、午後5時前に震度6弱と同日に三度も強震が起きました。その間
にも強い揺れがあり、震度4以上が1日に15回記録されたそうです。
観測史上過去に例のない頻発でした。

ほぼ震源地にあたる地域にネットで知り合った方が住んでいます。安否が気がかり
でしたが、「元気です。安心して」というメールが入ってきて、ほっと胸をなで
おろしたものでした。
ただし住居の中は物が散乱して、どこから手をつけていいか、呆然とするしかない
ような状況のようです。午前7時過ぎの地震があってから、自宅はそのままにして、
勤め先の販売店に出勤すると、そこでも商品が散乱しています。関係者で協力して
やっと片付けが終わったら、またもや震度6弱の地震が起こり、再び散乱したそう
です。

数年前の淡路・神戸の被災の状況がよみがえってきます。ひどい、未曾有の災害
でした。あのときは拙宅の所も震度5でした。揺れに気付いたら、同時に枕元にある
本棚の本が落ちてきて、上半身は本で埋まったものでした。

今回の宮城県の地震は強い揺れが連続して続いたにもかかわらず、被害が少なかった
のは不幸中の幸いです。しかし、人々に地震の怖さは長く後遺症として残るのでは
ないかと思います。いつまた強い揺れが来るかと不安になり、怯え、心身の不調を
きたさないともかぎりません。それが心配です。

さて、梅雨もやっとあけて、これから夏です。
この年のこの季節を私も自分なりに楽しみたいものと思います。

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