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     ■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■    

                      vol.35(隔週発行)
                       2003年8月11日号
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  メールマガジン「西行の京師」ご購読ありがとうございます。
  残暑お見舞い申し上げます。なんと、今年は暑中お見舞いの言葉を言え
  ないまま夏が過ぎ、いきなり残暑御見舞いになってしまいました。
  梅雨が長引きましたので仕方ありません。厳しい残暑が続くと思います。
  皆様、ご自愛を願いあげます。

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     ■ 西行の京師  第35回 ■

   目次  1 今号の歌と詞書
        2 補筆事項       
        3 所在地情報
        4 関連歌のご紹介
        5 お勧め情報
        6 エピソード

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   《 1・今号の歌と詞書 》

  《 歌 》

 1 船岡のすそ野の塚の數そへて昔の人に君をなしつる
                       (208P 哀傷歌)

 2 波高き世をこぎこぎて人はみな舟岡山をとまりにぞする
                       (212P 哀傷歌)

  《 詞書 》

 1 七月十五日月あかかりけるに、舟岡と申す所にて
                        (191P 雑歌)
   この詞書の次に下の歌があります。

  「いかでわれこよひの月を身にそへてしでの山路の人を照らさむ」
  
 2 五十日の果つかたに、二條院のお墓に御佛供養しける人に具して
   参りたりけるに、月あかくて哀なりければ
                       (204P 哀傷歌)
  この詞書の次に下の歌があります。

  「今宵君しでの山路の月をみて雲の上をや思ひいづらむ」

  今号の地名=舟岡山
  今号の人名=二條院

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  (1)の歌の解釈 

○船岡=船岡山のこと。上京区にある小高い山。後述します。
○昔の人=故人。亡くなった人。
○君=院の二位の局のこと。

 船岡山の裾野にはたくさんの塚があります。今また、あなたが塚の数を
 一つ増やして、故人となられてしまいました。

 上が歌の意味ですが、この歌は「院の二位の局身まかりける跡に、十の歌、
 人々よみけるに」という詞書が付いた十首のうちの一首です。十首を通
 して読むと、哀切感の強い歌群であることが分かります。それはそのまま、
 院のニ位の局に対しての西行からの歌による弔辞であり、挽歌でありして
 います。惜別の譜です。
 この歌は玉葉集にも採録されています。 
この歌の次に「少将ながのり」などとの贈答歌もあるのですが、それに
 ついては割愛します。

  (2)の歌の解釈

○とまり=掛詞です。船の泊まりである港と、人生の最終的な泊まりである
      墓所としての船岡山のことです。墓所に船という文字があるから、
      人生を船にたとえています。
○波高き=決して安穏のまま終わるのではないという人生を表徴しています。
     ドラマチックで変化に富んでいるというニューアンスもあるので
     しょう。

 いろいろつらいことの多く波瀾に富む世を、人は一生懸命に漕いでわたり、
 最後には船岡山を泊まりとして、皆そこに葬られることだよ。
               (新潮日本古典集成、山家集より抜粋)   

  (1)の詞書と歌の解釈

○七月十五日=盂蘭盆会のこと。 

 この歌は西行の何歳頃の歌かわかりません。私の解釈では出家後、間もない
 頃の歌ではないかと思います。満月の頃、月が煌煌として明るかったので、
 たまたま船岡に行って・・・ということでしょう。何かの目的があって
 行ったのかも知れません。

 私も何とかして、この夜の月のように明るい光りを出す存在になって、
 死に行く人達を導きたいものである。

 歌はそういう意味ですが、若い年代の密かな覚悟が伝わってくる雰囲気を
 懐胎していると思います。年配になってからこういう風に詠うのは、なん
 だか滑稽でもあり嫌味な感じもします。年配ならこんな風に願望と思える
 ものを、直截的に出すことはしないのではないかと思います。若者らしい
 といえば若者らしい一途な感情の発露が感じられます。

 (2)の詞書と歌の解釈

○五十日のはつかたに=資料では没後50日の法要だそうですが、現在の49日
           のことでしょうか。資料では忌明けとあります。
○ニ條院のお墓=平野神社の西、等持院の東にある香隆寺陵です。
○雲の上=字義通り雲の上の事。転じて宮中や位階としての天皇などを
       指します。
 
 この歌は1165年に詠まれた歌です。ニ條院の墓所で五十日の法要が営まれ、
 その席に読経などする人と一緒に行きましたが、ニ條院を哀れに思って歌を
 詠んだということが詞書の意味です。下が歌の意味です。

 今宵、君(ニ條院)はあの世で死出の山路の月をご覧になって、雲の上の
 こと、生前の宮中のことを思い出しておいでになるだろう。
              (渡部保著「西行山家集全注解」より抜粋) 

 西行はニ條院とは個人的に親しい関係にはありません。その親しさの度合い、
 互いの心情的な距離ということもあって、この歌は哀傷歌とはいえ西行自身
 の悲しい感情が伝わってくるものでもなく、単なる儀礼的な歌ともいえます。

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  《 2・補筆事項 》

 1 船岡山

 山の形が船に似ているから船岡山と名付けられたということです。高さ112
 メートルです。
 船岡山は遊宴の地であり、刑場の地であり、葬送の地です。戦国時代には戦場
 にもなっています。985年に円融上皇の催した子の日の遊行が記録されています。
 保元の乱で敗れた源為義はここで斬首され、ニ條天皇も院の二位の局もここで
 葬儀が行われました。応仁の乱では西軍が船岡山に城砦を築いて篭もり、戦場
 となりました。西陣の地名は西軍が陣を置いたということから来ています。

 「都の中におほき人、死なざる日はあるべからず。1日に一人、二人のみ
  ならむや。鳥部野・舟岡、さらぬ野山にも、送る数多かる日はあれど、
  送らぬ日はなし」

 徒然草137段から抜粋しました。
 現在も船岡山の西麓には荼毘に付したと思える所に小さな石仏がおかれており、
 五基ほどで固まったそれらが場所を点々と替えて、たくさんあります。

  2 院の二位の局

 紀伊守藤原兼永の娘の朝子のこと。父親の官職名で「紀伊」と呼ばれます。
 藤原通憲(入道信西)の後妻。藤原成範、脩範の母。待賢門院の女房の紀伊
 の局。
 後白河院の乳母。従ニ位になり、紀伊ニ位、院の二位とも呼ばれます。
 1166年1月に没して、船岡山に葬られました。

 近衛天皇が1155年に崩御して次に後白河天皇が即位しています。この新天皇
 即位の時に二位の局は裏で活躍したとみられています。次の年、1156年に
 鳥羽帝が崩御すると保元の乱が起きました。結果、白川北殿に拠っていた
 崇徳上皇は敗れて、仁和寺に入り、次に讃岐に配流となりました。乱後の
 一連の処理が信西入道の主導によって進められました。1159年に起こった
 平治の乱は保元の乱の戦後処理に端を発しているともいえます。後白河天皇
 の信任を得て、平清盛とも結びついた信西は実権を掌握し専制的な政治を
 行いました。
 反信西の勢力が強くなって、その葛藤が平治の乱につながっていきます。
 藤原信頼や源義朝らの勢力の起こした反清盛、反信西という性格の強い平治
 の乱は1159年12月に起きました。結果だけ言えば、信西は宇治田原の山奥で
 自害、藤原信頼は六條河原で斬首、義朝は尾張内海で斬殺され、ひとり清盛
 だけが、権力を手中にすることになり以後は平氏の天下となります。
 この激動の時代を、二位の局は生き抜いたことになります。
 崇徳天皇と親しかった西行とは立場が違いますが、それでも立場の違いを
 超えて、二人は親しい関係を保っていたものでしょう。そうでないと二位の
 局に対しての十首歌など、西行は詠まなかっただろうと思います。

 3 ニ條院と陵墓について

 ニ條院は後白川天皇の第一皇子として1143年に生まれました。後白河天皇の
 後を継いで1158年に第78代天皇として即位しましたが、1165年に病没。23歳
 でした。子に第79代の六條天皇がいます。この六條天皇も13歳で夭折してい
 ます。弟に以仁王、高倉天皇、妹に式子内親王などがいます。
 平家物語巻一で少し記述がありますので抜粋します。

 「七月廿七日、上皇ついに崩御なりぬ。御歳廿三。(中略)香隆寺のうし
  とら、蓮台野の奥、船岡山にをさめ奉る。御葬送の時、延暦寺・興福寺の
  大衆、額打論と云事し出して、互いに狼藉に及ぶ。(後略)」
  
 葬送の儀式なのに僧達は刀、槍をたずさえて臨んでいることが分かります。
 この後に興福寺側の狼藉が記述され、その果てに東山の清水寺が、興福寺の
 関係する寺というだけで延暦寺の攻撃を受けて炎上しています。
 鴨の流れとすごろくの目と山法師はどうにもならないと白河院が嘆くのも
 当然です。この頃の僧達は武装化して争いを繰り返していました。 

 新潮日本古典集成では、「太秦香隆寺で荼毘に付し、山城香隆寺に葬る」と
 記載があります。いくつかの資料に散見できますが、これは原典の記述ミス
 だと考えます。太秦広隆寺のことかと思いますが広隆寺は香隆寺と記述され
 たことはなく、また1150年に全焼、1165年に再建供養があったばかりです。
 太秦には他に(こうりゅうじ)と発音するお寺はありません。
 ニ條院の遺骸は船岡山の西野で荼毘に付して、現在の等持院近くの香隆寺陵
 に葬られたものでしょう。尚、この香隆寺も中世には廃絶し、陵も歴史の流
 れとともに荒れ果ててしまって、どこか特定不可だったものを資料をもとに
 比定されたものであり、必ずしも現在地が本来の香隆寺陵であるかは疑問です。

 西行はニ條院と親しかったというわけではなくて、たまたまニ條院の墓に詣
 でる知り合いがいて、法要のために同道したというだけでしょう。

 左京区神楽岡の菩提樹院陵の被葬者にニ條院とする資料もありますが、これ
 はニ條院という建物に住んでニ條院とも呼ばれた後一條天皇の第一皇女、章子
 内親王のことです。ニ條天皇の陵ではありません。菩提樹院陵は在原業平の墓と
 言われていたものですが、それを明治22年になって後一條天皇と章子内親王の
 陵墓として比定されたものです。
 下はニ條天皇香隆寺陵の画像です。

   http://kazu02aa.hp.infoseek.co.jp/saigyo2/ryuan2.html


 4 今宮神社

 平安遷都である794年以前から疫病を鎮める社として、紫野に創建されていた
 ようです。疫神と言われる須佐鳴尊(スサナオノミコト)を祀っていたという
 ことです。
 京都ではしばしば疫病が流行しました。西暦1000年前後はことに疫病が大流行
 しています。この疫病を鎮める御霊会が各地で行われました。八坂神社の祇園祭
 の起源は祗園御霊会に求めることができます。
 1001年に新たに神殿三宇を建て、今宮社と名付けて御霊会を執り行いました。
 それまでは疫神社と言っていたようです。これが今宮神社の起こりであり、
 疫神社から引き継いだ御霊会がやすらい祭りの起源です。
 朝廷、武家からの崇敬も厚くて、1282年には正一位の位階も授けられています。
 歴史の流れの中でそれなりの盛衰はありましたが、今日まで存続しています。
 
 踊りと囃子で繰り広げられる、やすらい祭りは1154年に禁止され、再興は1210
 年のことです。禁止の理由は華美になりすぎたからということです。
 このやすらい祭りの囃子の歌譜を寂蓮法師が書いていて、現在は国立博物館に
 所蔵されています。寂蓮法師の達筆ぶりがわかります。
 やすらい祭りは禁止されましたが、各寺で3月10日に行われる「鎮花祭」として
 定着していて、法華会の魔除けの為に行われるようになりました。248Pにある
 高雄寺(神護寺)のやすらい祭りは、このことを表しています。
 雲林院地区、西賀茂地区でも、やすらい祭りは伝承されています。

 尚、この神社の末社である若宮社には紫野斎院が祀られています。
 今宮神社は紫野の総鎮守社的な性格を有していたそうですので、その関係なの
 かもしれません。
         (「今宮神社由緒略記」及び「京都市の地名」から抜粋)

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  《 3・所在地情報 》

   今宮神社 (いまみやじんじゃ)

所在地    北区紫野今宮町72
電話     075-491-0082
交通     京都駅より地下鉄烏丸線北大路駅下車、徒歩15分
       市バス204、205、206、北8などで船岡山下車、徒歩5分
       四条大宮より市バス46で今宮神社前下車すぐ
拝観料    自由拝観
拝観時間   随時
駐車場    なし。ただし民営の駐車場が付近にあり

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  《 4・関連歌のご紹介 》

 1 舟岡に若菜摘みつつ君がため子日の松の千代を送らむ
                         清原元輔 (元輔集)

 2 船岡の野中に立てる女郎花わたさぬ人はあらじとぞ思ふ
                       読み人知らず (拾遺集)

 3 けふの日のさして照らせば舟岡の紅葉はいとどあかくぞいりける
              凡河内躬恒(おおしこうちみつね)(躬恒集)

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  《 5・お勧め情報 》

  美を求める心 小林秀雄

 場所  ミホミュージアム
     滋賀県甲賀郡信楽町

 会期  8月20日まで
  
  詳しくは下のページをご覧下さい。  

  http://www.teisan-konan-kotsu.co.jp/koutsu/koutsu_event.htm##02

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  《 6・エピソード 》

台風一過、夏らしい良い天気です。立秋はすでに過ぎていますので、強い日差し
の中にも秋の気配が漂っている事が分かります。季節は緩慢に移ろい行きます。

私は京都の街中に出ることはあまりないのですが、先日、休みをとって久しぶり
に歩きまわって見ました。写真の撮影のためです。
昼過ぎから「俊成社」に行きました。松原烏丸にある1坪半ほどの小社です。
由緒を記した立て札と小さな祠があるばかりです。この俊成社についてはいつか
記述します。

次いで岡崎の法勝寺町で数枚撮影。そこから歩いて真如堂に向かいました。
真如堂の南にある金戒(こんかい)光明寺もそうですが、夏の日の昼下がり、
境内は閑散としています。わずかに数人の参拝者を見かけただけです。
両寺ともに西行との関係は見出せないので、詳述する機会はないと思います。
真如堂は一時、慈円が別当になっていましたが慈円との関係がなくても西行は
一度は訪れたことがあるでしょう。
金戒光明寺は幕末に京都守護職の宿舎となった所です。 
近くにある神楽岡の陽成天皇陵と後一條天皇の菩提樹院陵も見てきました。

運動靴が合わず、坂道を上り下りしているうちに足の疲れが出てきました。
歩くのが苦痛です。生活習慣病もいくつか抱えていて、強い日差しの下を
歩いていると足の痛みだけでなく、かなりの疲労を覚えます。体力がなく
なっていることを自覚します。

京都御苑にたどりついたのは、すでに18時近い頃でした。ここでは清和院御門
など数枚撮影しただけで、蛤御門を経て家路につきました。
この日の撮影画像はまだアップしていません。お盆過ぎには作業をしたいと思い
ます。

お盆は数日間、生地の愛媛県に帰省するつもりです。私のつかの間の非日常と
いうことになります。
 
次号36号の発行は9月1日とします。

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