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     ■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■    

                        vol.36(隔週発行)
                        2003年9月01日号
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  メールマガジン「西行の京師」ご購読ありがとうございます。
  みなさん、この夏は楽しく過ごされたでしょうか。長い梅雨が続き、
  その後も夏らしい日にならず、それなのに突然に厳しい残暑の日々が
  続いています。某日、拙宅で39度にもなっていることを確認しました。
  本日から9月です。長月です。今年もすでに3分の2が過ぎたことに
  なります。天候はできるだけ自然のままに推移してほしいものですね。

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     ■ 西行の京師  第36回 ■

   目次  1 今号の歌と詞書
        2 補筆事項       
        3 所在地情報
        4 関連歌のご紹介
        5 お勧め情報
        6 エピソード

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   《 1・今号の歌と詞書 》

   《 歌 》

 1 露と消えば蓮台野にを送りおけ願ふ心を名にあらはさむ
                        (212P 哀傷歌)

 2  若葉さす平野の松はさらにまた枝にや千代の數をそふらむ
                         (142P 賀歌)

   《 詞書 》

 1 ある人、世をのがれて北山寺にこもりゐたりと聞きて尋ねまかりたり
   けるに、月あかかりければ
                         (174P 雑歌)

   この詞書の次に下の歌があります。 

  「世をすてて谷底に住む人みよと嶺の木のまを出づる月影」

 2 北山寺にすみ侍りける頃、れいならぬことの侍りけるに、ほととぎすの
   鳴きけるを聞きて             (258P 聞書集)

   この詞書の次に下の歌があります。

  「ほととぎす死出の山路へかへりゆきてわが越えゆかむ友になるらむ」 

  今号の地名 蓮台野・平野
  今号の寺社名 北山寺 
  
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  (1)の歌の解釈

○露と消えば=死亡したら、という意味。
○蓮台野=船岡山の西方にある地名。
○願ふ心=死後、極楽に行き蓮の台(はすのうてな)に座りたいという望み
       のこと。
○蓮の台(はすのうてな)=仏教用語で菩薩などが座る台のこと。

 この歌は一読して、理解できない方もいると思います。理解するにはむつ
 かしい歌であることは事実です。

  私が死んだなら遺体は京都の蓮台野に送って弔ってください。私の望む
  死後は極楽浄土で蓮の台に座りたいということです。蓮台野は私の願望を
  そのまま土地の名にしているところですから・・・
  
 ということが歌の意味です。敬虔に仏教を信仰したという西行の自己証明の
 歌であるとも思います。「名にあらはさむ」は西行自身の名声ということ
 ではなくて、蓮台野という地名にかかっています。

  (2)の歌の解釈

○若葉さす=若葉が出て、成長すること。
○平野=上京区にある地名。平野神社があります。
  
 この歌は直接には平野神社を詠ったものではなくて、京都北部の七野の
 ひとつの平野を詠ったものと思います。平野といえば松との取り合わせで
 詠まれますので、京都の平野を詠った歌であることは確かです。

  「若葉が萌え出た平野の松はその枝にさらにまた、八千代も色の
   変わることのない数多くの葉を添えることであろう。」
              (新潮日本古典集成、山家集より抜粋)
 
   (1)の詞書と歌の解釈

○ある人=人物の特定はできません。
○北山寺=不明です。北山寺というお寺ではなくて、北山にあったお寺を
      指していると言われます。ちなみに金閣寺は「北山殿」とも
      呼ばれましたので、あのあたりにあったお寺ではないかと思い
      ますが・・・場所までは正確にはわかりません。

  西行の知人である、ある人が出家して北山にあるお寺に籠りましたので、
  訪ねて行きました。その日は月が煌煌として明るかったので・・・
  ということが詞書の意味です。歌の意味は以下です。

  俗世間を捨てて出家した人は谷底にあるお寺に住んでいますが、その
  人の上にも真如の月の光がふりそそいでいます。

  「人見よと」は月の光がその人を照らしているという意味と、人が真如の
   月の光りを見ているという意味とが渾然と一体となっています。
   
  散文的な言葉を連ねた歌ですが、ここでは西行の出家者に対する同類と
  しての近しい感情を読み取ることができます。

  (2)の詞書と歌の解釈

○れいならぬこと=急病。重篤な病態をさします。 

 この詞書と歌の場合は西行が実際に「北山寺」に住んだということがわかり
 ます。山家集では出家直後に住んだ「鞍馬の奥」という詞書のある「わりな
 しや・・・」の歌もあります。窪田章一郎氏は「西行の研究」の中で、この
 歌は「必ずしもこの頃の作とはいえないが・・・」と前述した上で「出家直後
 と考えていいだろう・・・」と記述しています。渡部保氏の「西行山家集全注解」
 では「北山寺とは鞍馬寺を指すのだろう」と記述しています。
 しかし山家集中に「北山寺」がどの寺なのか明証がなく、他の資料でも特定
 できない以上は、出家直後の歌ということも、そして北山寺は鞍馬寺という
 ことも速断に過ぎるように思います。この歌のように確証がない場合は場所
 にしろ作歌年代にしろ特定するのは良くないと考えます。それが私の姿勢で
 あり見解です。
 詞書の意味は以下です。その下が歌の意味です。

 北山あたりの寺に住んでいた時に病気をして、それが命にかかわる重病になり
 ました。その時にほととぎすの声を聞いて思いました。

 死出の田長(たおさ)ともいわれるほととぎすよ。私が死出の山路を越えて
 行こうとする時、道先案内をしてくれる友になってくれないだろうか・・・。

 ほととぎすの声が聞こえたということですから、季節は晩春から初夏にかけて
 のことなのでしょう。病気が重い状態にあって、感傷的で非常に素直な歌に
 なっていると思います。孤独ということからくる寂寥感が伝わってきます。

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   《 2・補筆事項 》

 1 蓮台野

 洛北七野のひとつで船岡山の西から紙屋川(街中で天神川となります)
 までの一帯を指します。船岡の西野とは蓮台野を指しています。
 西の仇野と東の鳥部野とともに蓮台野は古来から著名な葬送地でした。
 蓮台野は紫野の一部としても見られていて、紫野の地名の入った葬送の歌は
 蓮台野でのものと解釈していいと思います。
 この蓮台野の火葬場は、今宮神社の鳥居の東、大徳寺の頭塔である竜光院
 あたりにあったそうですから、紫野と蓮台野の境界は古来から判然として
 いなかったことが分かります。
 
 2 上品蓮台寺

 千本通り、船岡山の西に上品蓮台寺があります。
 寺伝では聖徳太子が母の菩提寺として創建し、宇多上皇の中興によるとあり
 ますが、「日本紀略」では960年9月9日条に「権僧正観空、供養北山蓮台寺」
 とありますので、この時に創建、もしくは再建されたものでしょう。
 蓮台野の地名は、この蓮台寺より起こったものと資料に見えます。
 堂宇は応仁の戦火で焼失しましたが、豊臣秀吉の帰依を得て再興されました。
 十二の子院を持ち紫野十二坊と呼ばれ、京都三昧所(葬送地・墓所)の一つと
 して栄えましたが、現在は三宇があるばかりです。
 
  
 3 西向寺

 蓮台野という地名は上品蓮台寺からきた名前であると先述しましたが、現在の
 西蓮台野町及び東蓮台野町は、上品蓮台寺から離れた位置にあります。今宮神社
 の西北、紫野高校の北にあたります。江戸時代には船岡山の西から鷹ガ峯までを
 「蓮台野村」と言っていて「蓮台寺境内共 蓮台野村」と、地誌にみえます。
 東蓮台野町に西向寺があります。1600年中葉の創建ということですから、西行
 は当然に知りません。
 西向寺は幸阿弥谷と号する浄土宗のお寺ですが、今宮神社や紫野高校から見ると
 地形は高台になります。このお寺は境内一円が墓地です。
 このあたりは庶民の葬送地として機能していたのでしょう。まだ西向寺ができて
 いない古い時代から、遺体は高台にあたる西向寺あたりまで担ぎ上げて、捨てて
 いたものと思います。
 西行の歌にある蓮台野は、上品蓮台寺や大徳寺あたりを指すか、西向寺あたりを
 指すか分かりません。

 上品蓮台寺と西向寺の画像です。

  http://kazu02aa.hp.infoseek.co.jp/saigyo2/funaoka03.html 

 4 平野神社

 平野神社は西大路通りに面していて、船岡山からは西南にあたり、直線距離
 で約1km離れています。
 平安遷都の年の794年に創建されました。官幣二十二社に列する社格を持つ
 式内社として、篤い尊崇を受けてきました。
 祭神は今来(いまき)神、久度(くど)神、古開(ふるあき)神、比売
 (ひめ)神の四座です。
 この四座については諸説があります。たとえば今来神は日本武尊=源氏、
 久度神は仲哀天皇=平氏、古開神は仁徳天皇=高階氏、比売神は天照大神=
 大江氏の氏神と言われています。
 また、今来神は桓武天皇の外祖父である百済からの渡来人の倭氏、比売神は
 桓武天皇の母である高野新笠の母がたの大江氏=土師氏を祀っているとも言わ
 れます。
 平家物語では、比叡山の僧侶を懐柔するために平野神社とともに延暦寺を平氏の
 氏寺にするという記述もみえます。
 1622年から1644年の間に造られた比翼春日造りと言われる本殿は、よく見て
 いると、落ち着いた雰囲気を感じさせます。
 平野といえば松との組み合わせで詠われている歌が多いのですが、この神社の
 桜は見事としか言えません。春ともなれば、境内全てが桜で埋まります。
 私撮影の平野神社の画像です。 

    http://kazu02aa.hp.infoseek.co.jp/saigyo2/hirano.html

      (補筆事項は主に平凡社「京都市の地名」を参考にしました。)        
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   《 3・所在地情報 》

 ◎  平野神社 (ひらのじんじゃ)

 所在地     北区平野宮本町
 電話      075-461-4450
 交通      京都駅烏丸口より市バス205、50番で衣笠校前下車、徒歩1分
          四条大宮より市バス55番で衣笠校前下車、徒歩1分。
 拝観料     無料
 拝観時間   早朝より17時まで
 駐車場     数台。無料 
 
  平野神社ホームページ

  http://www.geocities.jp/daa01397/

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   《 4・関連歌のご紹介 》

1 おひしげれ平野のはらのあや杉よ濃き紫に立ち重ぬべく
                        清原元輔 (拾遺集)

 2 千早振る平野の松の枝繁み千代も八千代も色はかはらじ
                       大中臣能宣 (拾遺集)

 3 おひのぼる平野の松は吹く風の音に聞くだにすずしかりけり
                      藤原清輔 (清輔朝臣集)

 4 難波津に冬ごもりせし花なれや平野の松にふれる白雪
                       藤原家隆 (続古今集)

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   《 5・お勧め情報 》

    エミール・ガレ展

 会場   美術館 えき
 場所   京都駅ビル内。伊勢丹に隣接する7階
 電話   075-352-1111
 会期   8月30日から10月19日まで
 入場料  一般は1000円

 エミール・ガレ(1846〜1904)はアール・ヌーヴォの巨匠です。日本の美術の
 様式美に強く影響されています。ガラス製品、陶器、家具など102点が展示され
 ます。 

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   《 6・エピソード 》

9月になりました。残暑が厳しくて、遅れてきた夏という感じです。
本当に今年の夏は夏らしい夏ではありませんでした。梅雨が平年より長く続き、
東北地方では地震も頻発しました。7月の平均気温も低いものでした。
凶兆として感じました。天変地異には私たちは無力とも感じました。
天災は仕方ないものとはいえ、できるだけ平穏無事に推移してほしいものです。

8月14日から18日まで四国愛媛県の西端の郷里にいました。パソコンなしの生活が
数日続きました。我々はもうパソコンなしの生活は考えられませんが、しかし、
パソコンのない生活もシンプルで良いものかもしれません。毎日モニタを見ている
のが普通ですが、パソコンを持っていない人から見たら、パソコンを使うという
よりもパソコンに使われているのが実情かも知れません。「そんなに情報に接して
どうするの?」といわれれば、返す言葉がありません。返す言葉はないけれども、
現在社会にあってパソコンが必要なことも事実です。

生地では雨の日が多くて、なんだか、ただひたすらに惰眠をむさぼっていた感じ
です。1日だけ、早朝四時半に起床して父の操船する船で立て網を上げに行きま
した。帰省した時の私の習わしです。五張り入れた立て網を上げるのは私の仕事
です。まだ夜が明けていません。暗い海に出て、網のブイ(浮標)を懐中電灯で
照らして捜して、網上げの作業が始まります。
電動ロールがついているわけではなくて、網は手でたぐし上げます。船べりに
片足を乗せて腰に力をいれて引き上げるのですが、これが重労働です。二張りも
上げたら息が切れ、汗が滴ります。腰にくるダメージは相当なものです。漁師は
大変な仕事です。
全て上げ終わったら港に帰るのですが、その頃にはもう空はうっすらと白んで
きています。まさに朝を連れて来る様に船は港に帰りつきます。港に帰りついて
から、網の獲物をはずす作業を船の上で一時間から二時間やります。その日は
イセエビ三匹、サザエ五個程度、ハギ二匹、ガシラ二匹、ガシラを半分ほど食って
いて網にからまった海蛇一匹、アイゴ二匹、ハマチ一匹。アイゴ、ガシラ、海蛇は
食用にはなりません。
脂の乗ったハマチ一匹がその日の朝食に造りとなって出されて、舌鼓を打ったの
でした。
でも、本当に沿岸漁業は趣味の世界になりました。沿岸漁業は生業(なりわい)
にはなりえない時代です。それもこれも乱獲が原因です。私の子供時代は少し
潜れば大きなイセエビがたくさん見えました。夏は海で泳ぐのではなくて、潜る
のが普通でした。

生地のこととなると、ついつい長く打ってしまいます。
京都もこれから秋の観光シーズンを迎えます。日増しに良い季節になります。
みなさんも、この秋を十分に楽しんでいただきたいものと思います。

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