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     ■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■    

                         vol.37(隔週発行)
                         2003年9月15日号
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  メールマガジン「西行の京師」ご購読ありがとうございます。
  季節は移って節季は白露です。重陽の節句も仲秋の名月の日もすでに
  過ぎ去りました。
  まだまだ残暑は厳しいですが、天高く馬肥ゆる秋の到来です。いや、
  今の時代に(馬肥ゆる)でもありません。しかし、いかにも秋という
  感じで、空はあくまでも高く、そして澄み渡っています。

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     ■ 西行の京師  第37回 ■

   目次  1 今号の歌と詞書
        2 補筆事項       
        3 所在地情報
        4 関連歌のご紹介
        5 お勧め情報
        6 エピソード

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   《 1・今号の歌と詞書 》

   《 歌 》

 1 つばなぬく北野の茅原あせ行けば心ずみれぞ生ひかはりける
                            (40P 春歌)
 
 2 しにてふさむ苔の筵を思ふよりかねてしらるる岩かげの露
                      (212P 哀傷歌)

   《 詞書 》

 1 徳大寺の左大臣の堂に立ち入りて見侍りけるに、あらぬことになりて、
   あはれなり。三條太政大臣歌よみてもてなしたまひしこと、ただ今と
   おぼえて、忍ばるる心地し侍り。堂の跡あらためられたりける、さる
   ことのありと見えて、あはれなりければ
                           (185P 雑歌)

   この詞書の次に下の歌があります。

  「なき人のかたみにたてし寺に入りて跡ありけりと見て帰りぬる」

 2 三昧堂のかたへわけ参りけるに、秋の草ふかかりけり。鈴虫の音かすかに
   きこえければ、あはれにて
                           (186P 雑歌)
   この詞書の次に下の歌があります。

  「おもひおきし浅茅が露を分け入ればただわづかなる鈴虫の聲」


  今号の地名=北野・岩かげ
  今号の寺社名=徳大寺の左大臣の堂・三昧堂
  今号の人名=徳大寺の左大臣・三條太政大臣

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 (1)の歌の解釈

○つばな=イネ科の多年草。初夏に咲き、葉は50センチほどの長さになる。
       チガヤのこと。つばなは チガヤ の別名。
○北野=京都市上京区にある地名。北野天満宮があります。
○茅原(ちはら)=つばなの群生している原のこと。
○すみれぞ=心が澄むということと、すみれの花をかけていることば。

 新潮版の山家集では以下のように表記されています。

 つばな抜く 北野の茅原 褪せゆけば 心すみれぞ 生ひかはりける

 (抜く)(褪せ)が漢字表記になっていて、少し分かりやいですが、
 まだまだ何を詠っているのか、よく分からないと思います。

 「茅花を抜きとって、北野の茅原がまばらになってゆくと、心を澄ませて
  くれる菫がそれに代わって生えたことだ。」
              (新潮日本古典集成、山家集から抜粋)

 「あせ行けば」はここでは人間の歩行という行為を指しているわけでは
 ありません。一面がみごとな茅原だった場所が、つばなを抜いていけば
 行くほどに残りも少なくなって、みごとな茅原もすっかり色褪せたものに
 なったというほどの意味です。私の自己流の解釈ですが、この歌は北野の
 住民が集って複数でつばなを抜く作業をしたものと思います。そしてその
 跡に菫を植えたものでしょう。
 抜いた跡を放置していたら菫ではなくて雑草がはびこるはずと思います。
 菫としたのは願望か想像か実際にあったできごとか分かりませんが、とも
 かく菫は自然に生えたものではなくして、人為的に植えたものであろうと
 考えます。
 

 むかし見し妹(いも)が垣根は荒れにけり茅花(つばな)まじりの菫のみして
    藤原公実 (堀河百首)

 この歌の場合は菫は自生していたとも考えられます。でも、西行の歌の場合は
 人為的に植えたものであろうという私の解釈はかわりません。

 尚、北野は京都の北野と断定する材料がありませんが、ここでは多くの資料が
 京都の北野と解釈していますので、私も踏襲することにします。
 
 (2)の歌の解釈

○岩かげ=京都市北区にある地名。後述します。

 「死んで後、伏すであろう苔の敷物のことを思うから、あらかじめ生きている
  時より、そこが良いと思い知らされる岩陰(岩かげと地名岩陰とをかけて
  いる)の露である。」
               (渡部保氏著「西行山家集全注解」から抜粋)

 この歌も、読者に響いてくるものは乏しいと思います。突き放した言い方を
 するなら、ああ、そうですか・・・ということで終わりだろうと思います。

 (1)の詞書と歌の解釈

○徳大寺の左大臣の堂=徳大寺のこと。保元元年5月(1156)に放火により
            炎上しています。
○徳大寺の左大臣=藤原公実の四男で藤原実能のこと。
○あらぬことになりて=焼失してしまったことを指します。
○三条太政大臣=藤原公実の次男で、実能の兄の実行のこと。

 この詞書は徳大寺実能の別荘である徳大寺を訪れた時のものです。ただし、
 徳大寺焼失後ほどない時期のものでしょう。1157年9月に藤原実能は死亡して
 いますので1157年、もしくは1158年の秋のことだと思います。焼け跡がまだ
 完全には整備されていない頃のことだと考えられます。
 この徳大寺で歌会などもあって、藤原実行が歌を詠ったことが分かります。
 この歌会は何年のことか分かりません。西行が実能の随身だった1140年までの
 ことか、それとも出家してからのものか不明です。実能の建てた徳大寺での
 歌会とするなら1147年以降のことです。
 ともあれ、西行はこの実能の家系に連なる人々とは終生、親しい交流があった
 ものと思います。203Pには右大将公能との贈答歌もあります。
 下は歌についての解説です。

 「一首にしみじみとした気分が歌い据えられている。亡き実能が、その人を
  偲ばせるものとして建てた寺に西行はいま訪れて来ているのであるが、
  かつての面影は全くない。しかし焼跡の整理がされ、修築もされる様子を
  みて、「跡ありけると見て帰りぬる」という言葉になっているのではなか
  ろうか。「跡ありけり」は、邸宅と、実能の跡を継ぐ公能とを絡ませた感慨
  だととれるのである。(後略)」
                 (窪田章一郎氏著「西行の研究」より抜粋)
  
 (2)の詞書と歌の解釈

○おもひおきし=昔の出来事を偲ぶという意味。
○浅茅(あさじ)が露を=まだ充分に生育していず、丈の短い茅に露が宿っている
             状態を指します。
○三昧堂=この場合は仏教を専修する堂のことをいいます。

 (1)の次にこの詞書がありますので、徳大寺を訪れた時のものと解釈して
 さしつかえないと考えます。ただし、ここに出てくる三昧堂は高野山とか
 法金剛院の三昧堂という説もあります。ですが徳大寺に三昧堂があって、そこに
 参ったという解釈が一番自然のように思います。歌の解釈ですが、これはことば
 通りに解釈すると良いのですが、私の自己流の解釈を以下に記してみます。

 浅茅を浅路と掛けていると解釈します。つまり人生のはかなさ、短さとか
 人との機縁の薄さ、浅さを表しているものと思います。

  「これまでの来し方を振りかえり偲んでいます。さまざまなことが去来します。
  人生とはいかに短くはかないものなのか、人々との機縁もはかないがゆえに
  涙がこぼれてしまいます。浅茅の原を分けて進むようなものが人生です。
  だけど、そこには確かに鈴虫の聲が聞こえてくるのです」

 「鈴虫の聲」は暗喩として用いられているとも思います。実能との関係で
 ということであっても、待賢門院とのことであっても、自身のこれまでの
 全ての思い出ということであっても「鈴虫の聲」が象徴的に表しているもの
 があると思います。

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   《 2・補筆事項 》

 1 北野と北野天満宮
  
 北野天満宮のある辺り一帯を北野といいます。平安京大内裏の北側に位置
 するので北野という地名になったとのことです。北野天満宮ができる以前は
 朝廷の放牧地でもあり、また、右近の馬場があって競馬を開催していた事が
 いくつかの文献からも分かります。他には、天神地祇(てんじんちぎ)を祀る
 聖地でした。天神地祇とは全ての神という意味ですが、農耕神でもある雷神
 も早くから信仰されていました。
 天満宮ができたのは950年頃です。本格的な造営は959年、藤原師輔が神殿を
 建立してからのようです。祭神は903年に大宰府で死亡した菅原道真です。
 道真の霊を怨霊として、それを鎮めるために祀ったのが始まりです。
 この北野天満宮は創建当初からいろいろありすぎて、私の筆力では短くまと
 めあげることはできません。以下、断片的に記述します。
 北野天満宮もたびたび火災に遭っています。現在の社殿は豊臣秀頼が造営した
 ものが殆どといわれます。1607年の造営といわれます。
 豊臣秀吉の築造した御土居が現在も境内西側に残っています。
 北野天満宮(菅原道真)は早くから学問の神様として慕われていて、1204年に
 後鳥羽院、定家、家隆、良経などが北野宮歌合をやっています。時代が下がっ
 てからは連歌の興行がたびたびなされました。現在は全国から献詠された和歌
 が10月29日に披露される(余香祭)があります。
 また、芸能との関係も深く、舞楽、猿楽の興行もたびたび行われました。
 出雲阿国が1603年3月に歌舞伎踊りを演じたのもこの北野天満宮なので、北野
 天満宮は歌舞伎発祥の地ともいわれます。
 秀吉が北野大茶会を催したのもここでした。1587年のことです。
 現在、管公菅原道真の忌日にあたる2月25日に梅花祭があります。

 「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」
                      菅原道真 (拾遺集)

    私撮影の北野天満宮です。

   http://kazu02aa.hp.infoseek.co.jp/saigyo2/kitano.html

 2 岩陰

 北区衣笠鏡石町にあった地名です。左大文字山の東麓付近を指します。
 江戸時代には岩陰の地名は消失したことが知られています。ここは第66代
 一条天皇と第67代三条天皇が火葬された所です。一条天皇は竜安寺の北山に
 改葬されましたが、三条天皇陵は岩陰の地にあります。
 蓮台野の続きの地であり、このあたりも往古は送葬地であったことは確か
 でしょう。西行の歌からも、それは読み取れます。
 ここには鏡石という町名にもなっている名物の石があります。都名所図会
 には「鏡石ハ物の顔よくうつりてあきらかな怪石なり(後略)」とあります。

 3 徳大寺左大臣の堂

 藤原実能が衣笠山の西南麓に山荘を営みました。この山荘の中に得大寺
 (徳大寺とも表記します)を建てました。1147年に堂の供養がされたので、
 その年に落成したものと考えられます。これが徳大寺左大臣の堂です。
 それで実能は徳大寺の祖と言われます。
 しかしそれより先に藤原実成が同所に寺院を営み、これを得大寺、あるいは
 徳大寺といい、その辺りが地名として徳大寺と言われていました。
 実能の立てた徳大寺は1156年の保元の乱のはじまる直前に賊徒により放火され、
 灰燼に帰しました。百錬抄では「勇士乱入」として、放火犯を褒め称える言葉を
 使っていますが、これは政治的な意図があるのでしょう。もしくは「勇士」
 という言葉の解釈が現在とは違うのかも知れません。
 実能は1157年に死亡しています。実能の跡を継いだ公能も1161年に死亡しま
 したので、焼けてしまった徳大寺の再建は進んでいなかったものと考えられます。
 ここに新たに寺を建てたのは公能の嫡男の実定(1139〜1191)です。
 実定は後徳大寺の左大臣と呼ばれ、百人一首にも撰入しています。81番です。
 この徳大寺は1458年(1450年とも)に藤原公有が細川勝元に譲り渡して、
 竜安寺となり、今日に至ります。
 竜安寺の枯山水式の石庭は白砂と15個の石でできていて、特別名勝に指定されて
 います。古来、虎の子渡しと呼ばれてきました。一説には北斗七星をかたどった
 ものとも言われます。
 また、境内南部にある鏡容池は美しい池です。徳大寺の頃からのものと言われ
 ますので、西行もこの池畔にたたずんだことは確実だろうと思います。
 下は竜安寺の画像です。

   http://kazu02aa.hp.infoseek.co.jp/saigyo2/ryuan1.html
 
      補筆事項は全体に平凡社「京都市の地名」を参考にしています。

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   《 3・所在地情報 》

 ◎ 北野天満宮 (きたのてんまんぐう)

 所在地    上京区馬喰町
 電話      075-461-0005
 交通      京都駅から地下鉄で今出川まで。今出川から市バス
          51.102.203番などで北野天満宮前まで
          京都駅から市バス50.101番で北野天満宮前まで
 拝観料    無料。ただし毎月25日に開かれる宝物殿は300円
 拝観時間   冬期 5時30分から17時30分まで
          夏期 5時から18時まで
 駐車場    300台。ただし25日は駐車不可


   北野天満宮のホームページ

   http://www.kitanotenmangu.or.jp/top.html
  
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   《 4・関連歌のご紹介 》

 1 身を知れば哀とぞ思ふ照日疎き岩陰山に咲ける卯花
                   藤原俊成 (長秋詠藻)

 2 氷室山いかにちぎりて岩陰や夏の氷の淵となりけん
                   藤原家隆 (壬ニ集)

 3 岩陰の烟を霧にわきかねて其夕くれの心地せし哉
                   藤原資業 (玉葉集)

 4 千早ふる神の北野にあとたれてのちさへかかるものや思はん
                   藤原定家 (拾遺愚草)

 5 この里は北野の原の近ければ隈なき月の頼もしきかな
                   藤原良経 (秋篠月清集)

 6 月のすむ北野の宮の小松原幾代をへてか神さびにけむ
                   源実朝 (金槐集)
                      
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   《 5・お勧め情報 》

    新選組と坂本龍馬展(特別陳列)

   新選組の実像を、手紙・史料・絵巻などを通じて探ります。坂本龍馬に
   関する資料・遺品なども展示。

 日時      9月4日から10月5日まで
 会場      京都国立博物館 新館
 電話      075-541-1151
 交通      市バス「博物館・三十三間堂前」下車すぐ
 開館時間   9時30分から17時00分まで(入館は16時30分まで)
 料金     大人420円、高大生130円
 休館日    月曜日(祝日の場合は開館)

  京都国立博物館ホームページ

   http://www.kyohaku.go.jp/

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   《 6・エピソード 》

前号36号にミスがありました。

(正) 若葉さす平野の松はさらにまた枝にや千代の數をそ[ふ]らむ

(誤) 若葉さす平野の松はさらにまた枝にや千代の數をそ[へ]らむ

(ふ)が(へ)になっていました。お詫びして訂正します。
校正恐るべし。一言隻句であれ、ミスを犯したらいけません。ことに著作物から
引用する文章はミスがあったら致命的だと思います。すべて私の責任です。とこ
ろが私ときたら抜け作ですので、今後もミスを犯すと思います。お気付きの方は
お知らせ願います。
この度のミスをご指摘いただいた方に感謝いたします。

さて、秋です。残暑はまだ厳しくて日中は35度にもなりますが、良い季節です。
秋の味覚が店頭に並んでいます。なんと柿も売られていました。私は柿はとても
好きなのですが、いくらなんでも、今年収穫したものではないでしょう。昨年
収穫したものを冷凍にしていて、今の時期に店頭に並べたものと考えて買い込む
のはやめました。
それとも、柿でも温室栽培などしていて、早く出荷しているのでしょうか。
私の郷里の愛媛県でもミカンのハウス栽培をしているところがあって、そこでは
通年の出荷をしているようです。
でも、なんだか、それでは食べたくないですね。秋になったから食べるという季節
限定でないと、果実のうまみがないようにも思います。
本当に季節感と言うのは食品に限れば喪失してしまった感じです。
今の時期、植物が実をつけているのを見るのはとても嬉しいことなのですが、
でも、流通とか消費のことを考えると難しい問題になりますね。

私の身体的な理由により、次号発行はあるいはすこし遅れるかも知れません。
号外を出しませんので、ここで一応、お知らせいたします。
きちんと期日に発行できたら一番良いと思いますが、どうなるかは「神様だけが
知る」でしょう。良い秋をお楽しみ願います。

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