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■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■
vol.38(隔週発行)
2003年10月01日号
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メールマガジン「西行の京師」ご購読ありがとうございます。
すっかり秋になりました。残暑の厳しかった頃と比較すると街の風景
も一変して、秋の光景へと衣替えしています。
この春に楽しませてくれた桜の木も、その営みのままに落葉して
います。秋のやわらかな日差しを浴びて、自然の中を歩いてみたい
と思います。
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■ 西行の京師 第38回 ■
目次 1 今号の歌と詞書
2 補筆事項
3 所在地情報
4 関連歌のご紹介
5 お勧め情報
6 エピソード
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《 1・今号の歌と詞書 》
《 歌 》
1 ふりつみし高嶺のみ雪とけにけり清瀧川の水のしらなみ
(15P 春歌)
2 高雄寺あはれなりけるつとめかなやすらい花とつづみうつなり
(248P 聞書集)
※ 編集の都合により、今号は詞書は省略いたします。
今号の地名=清瀧川
今号の寺社名=高雄寺
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(1)の歌の解釈
○み雪=(み)は美称の接頭語
○清滝川=京都市北部を流れる川
この歌は「異本山家集」と「御裳濯河歌合」に収められている歌です。
西行を代表する歌の一つと言っても良いと思います。自身の心象を
花や月にからめて詠い上げるという傾向の作品ではなくして、あくま
でも自然の情景を詠った歌です。この自然詠における写実性と言葉の
用法は西行ならではのものがあると思います。特に、高嶺の雪を見た
わけでもないのに、想像するしかないものを「とけにけり」と「けり」
という断定で終えた三句の強い調子、そして「しらなみ」という体言
止めで、一首全体が格調を保って引き締っています。
全体の言葉の調子が、初句から終句まで互いに緊張をはらんだまま、
響き合い、作用しあっていると思います。
「三句(とけにけり)と強く言い切り、五句での体言止。(清滝)に
対する(白波)なども印象が強くて、いわゆる(丈高い歌)でも
あろうか。」
(宮柊二「西行の歌」から抜粋)
「清滝川の水が、春となって青く澄んだ色の深さを増しつつ、白波を
立てている様を見ながら、上流にある高嶺に降り積んだ雪がとけた
ことだ、と詠嘆しているのである。第三句で強く言い切って詠嘆
している表現は生き生きとしており、その強くさわやかなひびきを
受けて、第四句に(清滝川)というこれまたさわやかな語を出し、
結句を名詞止めにして、しっかりとおちつかせている。
(安田章生「西行」から抜粋)
(2)の歌の解釈
○高雄寺=神護寺のこと。
○やすらい踊り=ひところ法華会で行っていた行事。
この歌は聞書集の「嵯峨に棲みけるに、たはぶれ歌とて人々よみけるを」
と詞書のついた十三首のうちの一首です。
西行晩年の作品と言われています。具体的には、二度目の陸奥旅行から
帰って、河内の弘川寺に移る前の嵯峨の草庵に住んだ頃、西行71歳、
1188年頃の作品と見られています。(「西行の研究」窪田章一郎氏)
三月十日に行われた神護寺の法華会のことを詠った歌です。
第35回の「今宮神社」の項でも記述しましたが、今宮神社の(やすらい
祭り)は1154年から1210年までは中断しています。しかし各寺社で、
魔除けのための鎮花祭として、やすらい踊りが行われていたようです。
当日、女の子達が装いをこらして、神護寺に詣でて「やすらい花よー」
と囃し、鉦や鼓を打って、舞い踊ったということが古書にも見えます。
「高雄寺のまことにあわれでおもしろいつとめよ。「やすらい花よ」と
はやし言葉をかけてつづみを打っているのである。」
(渡部保氏著「西行山家集全注解」より抜粋)
これは女児だけでなくて、僧侶も一緒になってつづみを打ったりして
いたものでしょう。ここにある「あはれ」は他の歌にある「あはれ」
とは多少意味合いが違っているようにも感じます。僧侶の本分から離れ
て俗そのものの風流踊りみたいなものに熱中していたのだとしたら、
侮蔑とか嘲笑という気持が西行にはあっただろうと思います。
この時代の田楽の流行も驚くべきことです。集団で踊り狂う様は集団
ヒステリーと言って良いでしょう。後世のおかげ参りと同質のものです。
そういうのは僧侶などはもっとも嫌うものではないかとも思います。
「たはぶれ歌」は西行が老年になって幼児の頃を回想しての連作です。
やすらい祭りが神護寺の法華会と結びついたのは1182年頃からという研究
がありますので、それを信じれば、西行は二度目の陸奥旅行から帰京した
1187年以降に神護寺に行って、この法華会のことを見聞したものでしょう。
したがって、この歌は神護寺の歴史などから考えても、西行が自身の幼児
期を回想してのもの・・・というには無理があります。
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《 2・補筆事項 》
1 清滝川
現在の北区小野の桟敷が嶽を源流として、中川、高雄などを貫流して、
桂川に注いでいる全長20キロほどの川です。川そのものは大河ではなくて、
細い清流です。
京都の東の比叡山と並んで西の雄峰として愛宕山があります。全国の愛宕
社の総本山です。この愛宕社の登山口に「清滝」という地名の集落が
あります。地名としての清滝は、そこを指します。
古来、愛宕山に詣でる人々は、この清滝を流れる清滝川で水垢離して
から愛宕山に参詣しました。愛宕山はそれほど神聖な山だったので
しょう。
清滝川の愛宕山上り口付近では、昔からゲンジボタルが生息していま
した。関連歌に紹介した平忠度の歌がそれを証明しています。
平安時代には嵐山の大井川から舟で清滝川を遡っていたという歌もあり
ます。また清滝川上流から木材を筏にして流していたともありますが、
現在の川幅や深さから考えても、信じられない思いがします。
平安時代はもっと水量の多い、大きな川だったのかもしれません。
下は清滝川の画像です。
http://kazu02aa.hp.infoseek.co.jp/saigyo2/takao4.html
2 高雄寺(神護寺)
(1)神護寺の歴史
京都の高雄山の山腹にあり、薬師如来を本尊とする真言宗の別格本山
です。高雄は高尾とも書き、北東の槇尾(まきのお)、栂尾(とがのお)
とともに三尾と言われます。
神護寺は桓武天皇の父、第49代光仁天皇が和気清麻呂に命じて創建した
との説もありますが、実際には九州の宇佐八幡宮の神託を受けた清麻呂が
桓武天皇に奏請して、800年前後にかけて伽藍を創建して神願寺と号した
のが始まりといわれています。
ただし、このお寺は仏教寺院として適さなくて、現在はありません。
場所も京都の高雄ではなくて、大阪の河内に建立されたという説もあり
ます。高雄には創建年代不詳の高雄寺がありました。和気氏の氏寺です。
この高雄寺と神願寺が合併して神護寺ができたというのが定説です。
延暦21年(802)に最澄はここで法華会を行っています。810年に伽藍が
整備されてお寺の結構が整ったのですが、同年に空海が住持して最澄
などの弟子に金剛界や胎蔵界潅頂の伝授をしており、その名前を記した
「潅頂歴名」が国宝として現存しています。もともと最澄の弟子だった
僧侶も潅頂を受けて空海の弟子に変わったことが発端で、空海と最澄は
決別しています。空海はこのお寺で14年間活動しました。
800年代末から900年代初頭にかけて、伽藍も増築されて隆盛を誇った
神護寺も1149年の火災により焼失。それより以降は衰退します。
後白河院と源頼朝の助力を得て、文覚、及び上覚が復興に努めて、1220年
代にはほぼ緒堂宇が再建されたようです。
その後、応仁の乱で衰退。徳川秀忠の時代に、寺観は整えられましたが
明治4年の上地令(あげちれい=寺域を国が接収する命令)によって、
またもや衰退します。が、その後、漸次復興を遂げ、現在に至っています。
「紅葉といえば高雄」ということばがあるほど、神護寺は京都でもっとも
有名な紅葉の名所として知られています。室町時代には足利義政が毎年、
紅葉見物に訪れていたそうですので、その頃にはもう紅葉の名所として
知られていたことになります。
文化財も多く、寂超の子供の藤原隆信筆と伝わる「源頼朝像」「平重盛像」
などもあります。
(2)神護寺と文覚
待賢門院と鳥羽天皇の娘である上西門院の北面の武士であった遠藤盛遠
が出家して、文覚と名乗りました。彼は1168年に神護寺の境内に草庵を
建てて住みつきました。
1149年以降、荒廃していた神護寺の再建を果たすために彼の鬼神のごとき
活動が始まります。1173年、後白河法皇の法住寺殿に出向き神護寺再興の
為の荘園の寄進を強訴しています。結果は伊豆配流となりました。この
あたりの経緯は平家物語巻の五に詳しく書かれています。平家物語の
「勧進帳」の文章と、神護寺に残る「高雄山中興記」の中に記されている
「勧進帳」は、ほぼ同文ということです。
1182年、初めて文覚の要請が受けいれられ、後白河法皇や源頼朝からの
荘園寄進もあり、1184年頃には寺観もかなり回復したようです。
1185年に書かれた国宝の「文覚45箇条起請文」の内容は、寺院生活の規範
となるものであり、私には古文は完全に理解はできませんが、とても立派
な内容のものであると思います。
この文覚も、源頼朝が1199年1月に没すると、同年3月に佐渡へ流罪となり
ました。理由は不明です。許されて1201年に帰洛しましたが、1204年には
後鳥羽院によって対馬に配流され、その地で没しています。
文覚の事績としては他に東寺の復興が上げられます。弘法大師を慕う文覚
は、その頃荒廃していた東寺の再建に着手しますが、志半ばにして流罪と
なりました。
岩波文庫山家集4ページの後半に西行と文覚のことが記述されています。
この中に、神護寺の法華会に西行が出向いて、一夜の宿を請うてのことが
書かれています。
「文覚が西行を打ちのめすと言っていたが、あの西行は文覚をこそ打ち
のめす面である。」云々という記述は頓阿の「井蛙抄」にある有名な挿話
です。西行と文覚は何度かは面識もあったものでしょう。
(3)神護寺と明恵
文覚が配流されてから神護寺の運営は文覚の弟子の上覚によってなされ
ました。上覚は高弁上人明恵の叔父に当ります。明恵は上覚を師として
1188年に出家して神護寺の僧となります。その直前に奈良の東大寺で受戒
していることが知られています。明恵16歳の時です。
明恵の出家直後頃に、西行と明恵は面識ができたものと思います。
神護寺に帰属していた渡賀尾寺は文覚によって再興されました。しかし、
文覚が流罪になってから荒廃に向かっていた同寺を後鳥羽院の院宣に
よって明恵が住持して、華厳宗の道場としたのは1206年のことです。
同時に渡賀尾寺から高山寺と改称しました。
明恵は高山寺を住持しながら、神護寺の指導的な僧として活躍しました。
1220年から1230年にかけて、神護寺文書に明恵の活動ぶりが記されて
います。
西行の到達した究極の和歌観を示す文章として「栂尾明恵上人伝」が
あります。「和歌は如来の真の形態であり、歌を詠むことは仏像を造り、
秘密の真言を唱えるにひとしい」などの内容ですが、西行の語った言葉
として有名なものです。「西行上人常来物語云・・・」で始まる文章で
すが、これは「西行の研究」の窪田章一郎氏も、「西行の思想史的研究」
の目崎徳衛氏も事実だろうとして肯定的に捉えています。目崎氏は「西行
が上覚を高雄に訪ねて、明恵・喜海らの侍する前で如上の「物語」をした
ことは、まことにありそうな情景である」と記述しています。
(補筆事項は主に、平凡社の「京都市の地名」を参考にしています。)
下は私撮影の高雄の画像です。
http://kazu02aa.hp.infoseek.co.jp/saigyo2/takao3.html
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《 3・所在地情報 》
◎ 神護寺 (じんごじ)
所在地 右京区梅ケ畑高雄町5
電話 075-861-1769
交通 京都駅烏丸口からJRバスで約50分。山城高雄下車
徒歩20分
四条烏丸から市バス8番で約40分。高雄下車徒歩20分
拝観料 400円
拝観時間 9時から16時まで
駐車場 なし
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《 4・関連歌のご紹介 》
1 清滝やせぜのいはなみ高尾やま人も嵐のかぜぞ身にしむ
高弁上人明恵 (新勅撰集)
2 明からぬ心の隈をたづぬれば清滝河の月もすみけり
和泉式部 (和泉式部集)
3 清滝の瀬瀬の白糸くりためて山分衣おりて着なまし
神退法師 (定家八代抄・古今集)
4 岩根越すきよたき川のはやければ波をりかくる岸の山吹
権中納言国信 (新古今集)
5 いしばしる水の白玉かず見えて清滝川に澄める月かげ
藤原俊成 (千載集)
6 筏おろす清滝川にすむ月はさをにさはらぬこほりなりけり
俊恵法師 (千載集)
7 秋近くなりやしぬらむ清滝の河瀬涼しく蛍とびかふ
平忠度 (忠度集)
イ 清滝の水汲み寄せて心太 芭蕉
ロ 清滝や波に散りこむ青松葉 芭蕉
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《 5・お勧め情報 》
東寺秋期特別展
月日 9月20日から11月25日まで
時間 9時から16時30分まで(受付は16時終了)
拝観料 宝物館は500円、宝物館込み拝観料800円
電話 075-691-3325
交通 京都駅から市バス「東寺東門」下車すぐ
近鉄(東寺駅)から徒歩約10分
東寺ホームページ。
http://www.kobodaishi.org/general/temples/toji/html/index.html
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《 6・エピソード 》
まず、今号の発行が遅れましたことをお詫びいたします。私の怠慢です。
構成にも迷ってしまって、発行日の9月29日になっても七割方しかできて
いませんでした。期日にきちんと発行したいと思いますが、むつかしい
面もあります。今後も遅れることがあると思います。ご了承願います。
先日、胃カメラの検診を受けました。私は自営業ですので定期的な検診は
受けていません。少し具合の悪いことがあって急遽、受診ということに
なったのですが、結果は心配のいらないものであり安心しました。
27年前にも胃カメラの検診を受けたことがあります。今回が二度目です。
カメラが小さいことに驚きました。27年前のことは記憶は曖昧になって
いますが、現在のカメラよりはもっと大きかったと思います。異物が喉に
入っている感覚がしばらく取れなかったことを覚えています。
本日より10月です。10月のはじめの日の京都は、秋晴れのすばらしい天気
でした。これから秋も深まり行き、夜間の冷え込みも厳しくなります。
この冷え込みが紅葉の色付き加減を決定するようです。
私はまだ紅葉の高雄には行ったことがありません。今年はなんとか時間を
作って、訪ねてみたいと思います。
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