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     ■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■    

                         vol.39(隔週発行)
                         2003年10月13日号
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 メールマガジン「西行の京師」ご購読ありがとうございます。
 本日13日は体育の日です。私は基本的に休みは取らない仕事であり、
 カレンダーを見ることのない生活を続けていると、何日が日曜日で
 何日が祝日なのか、非常にうとくなってしまいます。
 メディアは新聞のみで、テレビは1ヶ月に1時間程度ニュースを見る
 くらいです。まるで仙人です。良くない生活かもしれません。
 秋本番です。何をするにも、絶好のシーズンです。

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     ■ 西行の京師  第39回 ■

   目次  1 今号の歌と詞書
        2 補筆事項       
        3 所在地情報
        4 関連歌のご紹介
        5 お勧め情報
        6 エピソード

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   《 1・今号の歌と詞書 》

  《 歌 》

 1 くらぶ山かこふしば屋のうちまでに心をさめぬところやはある
                       (229P 聞書集)

 2 さえもさえこほるもことに寒からむ氷室の山の冬のけしきは
                       (250P 聞書集)

  《 詞書 》
 
 1 世をのがれて鞍馬の奥に侍りけるに、かけひの氷りて水までこざり
   けるに、春になるまではかく侍るなりと申しけるを聞きてよめる 
                        (94P 冬歌)

  この詞書の次に下の歌があります。

  「わりなしやこほるかけひの水ゆゑに思ひ捨ててし春の待たるる」

  今号の地名=くらぶ山・氷室の山・鞍馬

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 (1)の歌の解釈

○くらぶ山=特定不可。後述します。
○かこふ=覆う・囲う、という意味です。
○しば屋=柴の木で作られた家のこと。
○心をさめぬ=心が収まること。心の平安、充足感を表していると思います。

 この歌は聞書集の、法花経二八品の中のもので「神力品 如来一切秘要之蔵」
 という詞書が付いています。法花経とは法華経のことです。栄花物語が栄華
 物語と書かれることと同様の記述で「花」は通用語とのことです。
 私には仏典の知識がなくて、法華経のことも理解不能です。
 西行が僧として研鑚を重ねて、法華経にも通暁して、その果てにこういう
 歌を詠んだものでしょう。いかにも僧侶らしい悟りの境地を感じさせます。

 「くらぶ山にかこっている柴葺きのさびしい家の内までも心をしずかに
  おさめないところがあろうか、全ては思をおさめるによいところ
  ばかりである」
             (渡部保氏著「西行山家集全注解」より抜粋)

 (2)の歌の解釈

○さえもさえ=冴えも冴え=凛とした寒さが冴えわたっている状態。
○氷室の山=北区西賀茂氷室町にある山。

 「夏の歌に」と詞書のついた八首のうちの一首です。
 この歌は氷室の里の情景を想像して、暑さの盛りの時に詠んだ歌のよう
 ですが、実景表現と言っても良い内容から考えると、やはり「夏の歌に」
 ではなくて「冬の歌に」とした方がふさわしい気もします。
  
 「冴えも冴えわたり、氷ることも特別に寒いことであろう、名前からして
  氷に縁のある氷室山の冬がれの景色は。
             (渡部保氏著「西行山家集全注解」より抜粋)

 (1)の詞書と歌の解釈  

○世をのがれて=1140年10月15日の出家を指しています。
○鞍馬の奧=どこか不明です。必ずしも鞍馬寺を指しているわけでは
        ありません。
○かけひ=筧のこと。樋。
○わりなしや=道理にあわないこと。ものごとの道筋があわないこと。

 「道理に合わないことだなあ。春の花のことも思い捨てて鞍馬の奥に
  世を遁れたのに、筧の水が氷って流れて来ないため、春が待たれる
  とは。」
             (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

 「鞍馬は、洛北の地で寒さがきびしい。その奥で、西行は、筧の水も
  氷って流れないことを始めて経験し、その状態が春までつづくという
  ことを聞いて、さっぱりと思い捨ててきたはずの俗世の春を待つ思い
  が、心中にふと涌きくるのを覚えたのである。そして、その心の矛盾
  を、自ら「わりなしや」(理に合わないことだ)と詠嘆したのである。
  とくにすぐれている歌とはいえないけれども、出家後まもない頃の西行
  の生活と心境との一端が素直に出ている一首である。」
                 (安田章生氏著「西行」より抜粋)

 西行の出家日については春の出家で10月15日説は間違いとする説もあり
 ますが、ここでは百錬抄(作者不詳)にある「10月15日に出家」とする
 記述に従います。
 したがってこの歌は1140年の冬に詠まれたものと思います。そして36号に
 紹介した、以下の詞書と歌が次の年の晩春から初夏にかけてのものと解釈
 しても良いのではないかと思います。
 
 北山寺にすみ侍りける頃、れいならぬことの侍りけるに、ほととぎすの
 鳴きけるを聞きて             (258P 聞書集)

 「ほととぎす死出の山路へかへりゆきてわが越えゆかむ友になるらむ」 

 場所については「鞍馬の奥」とあるばかりで、どこかを特定することは
 不可能です。鞍馬寺、もしくは、それより奥にあるお寺だったことは確か
 なことでしょう。

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   《 2・補筆事項 》

 1 くらぶ山

 くらぶ山は特定することは不可能です。京都に確かにあった山のはずですが、
 現在ではどこの山を指すのか分かりません。
 能因歌枕では伊賀にある山といい、五代集歌枕、八代集抄、八雲御抄などは
 京都にある山と記述しています。
 地誌の「山城名勝志」「都名所図会」が(貴船山)、「京羽二重」が(鞍馬
 山のつづき)、「都花月名所」が(鞍馬山)、家集の「源順集」が(嵯峨野
 から遠くない所)と、いろいろです。鞍馬山は今なお鬱蒼とした森が続いて
 います。その「暗部」「闇部」という印象から転じて鞍馬山となったとも
 一説にはありますが、それは当時の文献での明証はなく、逆に鞍馬山と暗部
 山との混同説さえあります。つまり、古い時代から「くらぶ山」は特定でき
 ないということです。西行の歌も特定の山を指しているとは言えないと思い
 ます。
 私見ですが、実際の山でなくて架空の山であっても差し支えないと考えます。
 暗部山の歌も多いのですが、人生の折々に触れて「暗い山の中の道ををたど
 るようだ・・・」という悲しいこと、難しいことを表す意味で多くの歌が詠み
 込まれています。だから形容としての意味合いの強い山の名前だと思います。
 
 2 氷室

 日本書紀仁徳62年条(374年)に都祁(つげ)氷室のことが記述されてい
 ます。文献上はこれが初出でしょう。都祁氷室は奈良県山辺郡都祁ですが、
 他に大阪府枚方市、交野市、四条畷市などにも氷室がありました。
 京都では松ヶ崎氷室、小野氷室、長坂氷室、栗栖野氷室などがありました。
 ほかに山科区勧修寺の氷室の池の氷を毎年正月2日に朝廷に献上する習わし
 があったということです。
 氷室山は全国に多数ありますが、この歌にある氷室の山は現在の北区西賀茂
 氷室町にある氷室の山と解釈していいでしょう。私は行ったことはないの
 ですが文献でも地図でも山間の地であることが分かります。平地は乏しく、
 古代は氷室に住んでいた人々は薪を売って生計を立てていたそうです。
 氷室町には「栗栖野氷室跡=くるすのひむろあと」があります。
 氷室の人達が冬に池で氷結した氷を直径10メーター、深さ3メーターほどの
 穴に入れて、氷が溶けないように上に草などで覆って、夏まで貯蔵していた
 設備です。氷室町にはこの穴が3ヶ所あります。
 氷室の管轄は「主水司=もんどのつかさ」で、この役は鴨氏の同族が担当
 していました。毎年元旦に各氷室の氷の厚さを計って、その年の豊作を
 占っていたそうです。氷が薄いと凶作ということです。でも、陰暦でも
 元旦を過ぎてからの方が氷も厚くなるのではないかと思います。
 占い以外の用途は真夏の食膳に供しました。また、夏に死亡した貴族達の
 遺体の防腐用にも用いられていたそうです。

 3 鞍馬

 鞍馬寺は京都の北に位置していて、標高569メーターの鞍馬山の中腹にあり
 ます。
 山号は松尾山金剛寿命院といい、本尊は毘沙門天。昭和22年に鞍馬弘教の
 総本山となりました。
 鞍馬寺の歴史は古く、鑑真和尚の弟子の鑑禎という僧が770年に草庵を結んで
 住んだのが起こりといい、次いで造東寺長官の藤原伊勢人が私寺を建立した
 と伝えられます。800年末葉には真言宗のお寺でしたが、1100年代初めに
 天台宗に変わり、以後、鞍馬寺は延暦寺の末寺となります。戦後になって
 延暦寺から離れて、鞍馬弘教を起こしてその本山となります。
 毘沙門天は京都を鎮護する北方の守護神として、それぞれの時代の権力とも
 結びつきました。時代の権力だけでなく、鞍馬寺の毘沙門天や観世音信仰が
 一般の人々の中に浸透していくにつれて、鞍馬寺は朝野の崇敬を集めるように
 なりました。後白河天皇、後醍醐天皇、源頼朝、新田義貞、武田信玄、豊臣
 秀吉、徳川家康などもこの寺に関わりを持っていますので、いかに時代の
 動きと関連していた寺だったかということがわかります。
 源義経が牛若丸と言っていた幼少時の7歳から10年ほどを、ここで過ごして
 います。毎年9月15日には義経祭があります。
 また、鞍馬寺は徒然草第203段、更級日記、宇津保物語などの文学作品にも
 登場しています。歌人の与謝野晶子もこの寺を何度も訪ねていて、彼女の書斎
 が「冬柏亭」として東京から移築されています。
 明治維新の廃仏毀釈という狂乱の騒動に巻き込まれて、10院9坊といわれた
 鞍馬寺の多くの院坊が破却されました。
 創建以来、鞍馬寺は何度も火災を起こしていて、そのたびに再建されました。
 昭和20年にも火災により炎上しています。
 戦後の混乱期の中で再建に着手されて、現在に至っています。
 鞍馬山にはたくさんの経塚があります。経塚とは陶器製や銅製のほぼ円筒形の
 経筒に仏法の経典や仏像、仏具や銅銭などを入れて地中に埋めたものを指し
 ます。鞍馬寺とその周辺に200余点があります。
 鞍馬山のもうひとつの特色は、日本列島の成立ちが検証できる山だということ
 です。地質的には二億数千万年前の地質ということであり、赤道付近の
 プレートに乗っていたということです。それが移動し隆起して現在の鞍馬山に
 なりました。サンゴやウミユリなどの古代の海洋生物の化石が、この山で発見
 されています。
 現在の行事の主なものとして、6月20日の「竹切り会式」、9月15日「義経祭」、
 10月14日「秋の大祭」、10月22日「鞍馬の火祭り」などがあります。

 下は私撮影の鞍馬寺の画像です。

  http://kazu02aa.hp.infoseek.co.jp/saigyo2/kura1.html

           補筆事項の参考文献

            鞍馬寺出版部発行「ガイドブック鞍馬山」
            学藝書林「京都の歴史 2 中世の明暗」
                    平凡社「京都市の地名」 
             朝日選書、角田文衛氏編著「平安の都」

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   《 3・所在地情報 》

   ◎ 鞍馬寺(くらまでら)

 所在地      左京区鞍馬本町1074
 電話       075-741-2003
 交通       京都バス出町柳駅から32番の広河原行きで鞍馬下車
           叡山電鉄出町柳駅から約30分。鞍馬下車
 拝観料      愛山費として200円。ケーブルは片道100円
           霊宝殿は別に200円 
 拝観時間     9時から16時30分まで
 駐車場      なし。民間で400円程度

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   《 4・関連歌のご紹介 》

 1 したさゆる氷室の山のおそざくら消えのこりける雪かとぞ見る
                      源仲正 (千載集)

 2 春秋ものちの形見はなきものを氷室ぞ冬のなごりなりける
                    覚性法親王 (千載集)

 3 あたりさへ涼しかりけり氷室山まかせし水のこほるのみかは
             大炊御門右大臣(藤原公能)(千載集)

 4 外はなつあたりの水は秋にしてうちは冬なる氷室山かな
                   藤原良経 (秋篠月清集)

 5 梅の花にほふ春べはくらぶ山やみに越ゆれどしるくぞありける
                      紀貫之 (古今集)

 6 わがきつる方もしられずくらぶ山木々のこのはのちるとまがふに
             としゆきの朝臣(藤原敏行)(古今集)

 7 わが恋にくらぶの山のさくら花まなくちるともかずはまさらじ
                     坂上是則 (古今集)

 8 秋の夜の月の光しあかければくらぶの山もこえぬべらなり
                     在原元方 (古今集)
 
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   《 5・お勧め情報 》

       時代祭り

  京都三大祭の一つである時代祭が今月22日に行われます。時代祭りは
  平安神宮創建を記念して、1895年に始められたものです。
  昨年と同様に今年も「YSC 京の玉手箱」様の時代祭りのサイトを
  紹介いたします。
  
  http://www.kyt-ysc.co.jp/kyo/matsuri/jidai/index.htm

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   《 6・エピソード 》

 またまたやってしまいました。校正ミスです。このマガジンの校正は、
 ある方にお願いしているのですが、最近は発行日当日に脱稿することが
 多くて、ゆっくりと校正をしていただく時間がありません。
 とても丁寧に校正をしていただけますので、ぜひお願いしたいのですが、
 それにはまず早めに脱稿して充分な校正時間を確保しないといけません。
 私一人で校正をすると必ずチェック漏れがあります。
 先回38号も私のみで校正して、当然のように校正ミスが出ました。申し訳
 ございません。以下です。

 1 補筆事項 1 の清滝川
  平忠盛→平忠度。盛は度のミスです。
  忠盛は清盛の父で1153年58歳で没しています。忠度は清盛の末弟で
  1184年に没しています。平家都落ちの時に、忠度は俊成の屋敷に行って、
  作品集を渡しており、千載集に「さざ波や志賀の都は・・・」の歌が
  詠み人しらずで撰入しています。

 2 所在地情報
   駐車馬→駐車場。馬は場のミスです。

 他にもあるかもしれません。お気づきの方はお知らせ願います。

 秋晴れの日々が続いています。試みに秋の季語を調べてみました。
 たくさんあります。拙宅は西京区桂の近くですが、まだまだ田園風景が
 広がっていて、稲を刈り取った跡の牧歌的な光景が散見できます。多くは
 「ひつじ田」になっています。刈り終えた稲株から新しく伸びてきた芽を
 「ひつじ」というそうです。「ひつじ」という漢字もあるのですが、変換が
 できません。
 
 自宅での仕事の合間に、時々はふらっと近所を散歩します。カメラを持って
 出て、花の写真などを写しています。
 コスモスや菊などの秋の花が盛りです。今を盛りと咲き誇っている花々を見て、
 写真を撮る。なんでもない日常の平凡なできごとなのですが、これはこれで、
 あるいは幸せの形のひとつなのかも知れません。
 
 知人が肺ガンの手術を終えたのですが、すでに全身に転移していて、余命は
 いくばくもない。私より10歳近く年配の方です。
 そういうことを知るにつけ、平凡なものの中にある幸せということを考えて
 しまいます。元気でいることが一番の幸せです。
 読者の方々のご健勝を祈り上げます。  

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