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     ■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■    

                      vol.41(隔週発行)
                      2003年11月10日号
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  メールマガジン「西行の京師」ご購読ありがとうございます。
  秋が深まりつつあります。昨年の今頃は奈良の門跡寺院である
  円照寺に行きました。仲間達と秋の一日を過ごしましたが、私には
  格別に忘れられない一日です。
  すでに立冬も過ぎて、今年も残りわずかです。京都の紅葉はまだまだ
  ですが、今年もできるだけ楽しみたいと思います。
  
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     ■ 西行の京師  第41回 ■

   目次  1 今号の歌と詞書
        2 補筆事項       
        3 所在地情報
        4 関連歌のご紹介
        5 お勧め情報
        6 エピソード

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   《 1・今号の詞書と歌 》
  
   《 詞書 》

 1 五條の三位入道、そのかみ大宮の家にすまれけるをり、寂然・
   西住なんどまかりあひて、後世のものがたり申しけるついでに、
   向花念浄土と申すことを詠みけるに
                       (259P 聞書集)
   この詞書の次に下の歌があります。

   心をぞやがてはちすにさかせつるいまみる花の散るにたぐへて

 2 覺雅僧都の六條の房にて、忠季(宮内大輔)登蓮法師なむど歌よみ
   けるにまかりあひて、里を隔てて雪をみるといふことをよみけるに
                         (260P 聞書集)
   この詞書の次に下の歌があります。

   篠むらや三上が嶽をみわたせばひとよのほどに雪のつもれる

 3 覺雅僧都の六條房にて心ざし深き事によせて花の歌よみ侍りけるに
                         (278P 聞書集)
   この詞書の次に下の歌があります。

   花を惜しむ心のいろのにほひをば子をおもふ親の袖にかさねむ   

 4 山家枯草といふ事を、覺雅僧都の坊にて人々詠けるに
                           (93P 冬歌)
   この詞書の次に下の歌があります

   かきこめし裾野の薄霜がれてさびしさまさる柴の庵かな

   今号の建物名=大宮の家・六條の房
   今号の人名=五條三位入道・寂然・西住・覺雅僧都・忠季・登蓮法師
   今号の山名=三上が嶽

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  (1)の詞書と歌の解釈

○五條三位入道=藤原俊成のこと。後述します。
○大宮の家=大宮通りにあったものと思いますが場所不明です。

 藤原俊成が以前に大宮の家に住んで顕廣と名乗っていた時のことです。
 寂然や西住が訪ねてきて共に死後のことごとについて話し合って、花に
 向かって浄土ということを念じ上げるという題で歌を詠みました。

 今、目前で花の散る光景を見ていると、盛りのあるものもやがては散ると
 いう、そのはかなさに無常感を覚えます。しかし、咲き、散るということ
 の真実の意味に思いいたれば、それは悟りに通じて、やがては心の中に蓮
 の花を咲かせることでしょう。

 以上が詞書と歌の意味するところだろうと思います。この歌も倒置法に依っ
 ている歌でしょう。まず始めに「いまみる花の散るにたぐへて」があって、
 その後に「心をぞやがてはちすにさかせつる」が結語のはずですが、そう
 しないで倒置法という技巧を凝らすことによって、より膨らみのある歌にと
 なっているとも思います。

  (2)の詞書と歌の解釈

○覺雅僧都=六條右大臣源顕房の子。神祗伯源顕仲の弟。
○六條の房=六條に面した屋敷のはずですが、場所の特定は不可能です。
○忠季=源顕仲の子。待賢門院堀川や兵衛局の兄弟。覺雅の甥。
○登蓮法師=出自、経歴は不明です。勅撰集に19首入首しています。
○篠むら=不明。夫木抄に「しのはら」とあり、篠原の誤記説が有力です。
         篠原は滋賀県にある地名です。
○三上が嶽=近江平野にある三上山のことです。標高432メーターで、その優美
        な山容から近江富士と呼ばれます。この山には藤原秀郷の
        ムカデ伝説があります。

 「歌の自然詠は、把握のしかたが新しくて強い。初句は「夫木抄」に「しの
  はらや」とあり、「三上が嶽」とともに近江であるから、「夫木抄」のほう
  がいいであろう。一夜は一節(よ)に音が通って篠の縁語、三上と一夜は、
  一と三の対照など、理知的な修辞が用いられていて、いかにも歌会むきの
  作品であるけれども、それを目立たぬまでに、強い調子で素朴に歌っている
  ところに新しさがある。」
               (窪田章一郎氏著「西行の研究」より抜粋)

 「篠むら」は「篠群(しのむら)」でも良いですし、夫木抄の「しのはら」でも
  差し支えないと思います。普通名詞として読めば、「しのはら」も「しの
  むら」も篠が群生している場所を指しますので、どちらであっても意味は
  通じます。「三上が嶽」がありますので地名の「篠原」と解釈した方が、
  歌の収まり具合が良いかとは思います。

  覺雅僧都は堀川局、兵衛の局、源忠季などの叔父にあたります。1146年の
  8月に57歳で没しています。1146年は西行29歳ですから、覺雅僧都の六條の
  房での歌会は西行の若い時代の歌であることは確実です。
  
  (3)の詞書と歌の解釈

  「2」や「4」と同様に覺雅僧都の六條の房での歌会の題詠歌です。
  窪田章一郎氏は「西行の研究」の中で、「子を失った親の心であり、
  西行に子を失った体験があって詠まれたのではないかと想像されているが、
  よるべき資料はない。」と記述しています。

  「散る花を愛惜する心の色(気持)を亡くなった子を愛し惜しむ親のかな
  しみの涙の袖に重ねよう。」
         (渡部保氏著「西行山家集全注解」より抜粋)

  (4)の詞書と歌の解釈

  この詞書は「六條の房」と明記していませんが、前出の覺雅僧都の邸での
  歌会と解釈して差し支えないと考えます。尚、新潮版では「覚範僧都の
  房にて」となっています。「覚範僧都」とは不明です。
  また「房」と「坊」の文字が使われていますが、意味は同一です。

 「草庵をその繁みの中に閉じこめてしまった裾野の薄が、霜のために枯れて
  しまった。薄に閉じ込められていた時にもまして、柴の庵は一層寂しく
  なったなあ。」
 「○かきこめし「かき」は接頭語。山家を、さらにはそこに住む人を
  薄が「こめ」るのである。」
                (新潮日本古典集成、山家集から抜粋)

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   《 2・補筆事項 》

  1 俊成と西行の関係

  御裳濯河歌合に俊成の次の記述があります。

  「よりて近き年よりこの方、長くこのこと(判者となること)をたち終り
  にたれども、上人円位、壮年の昔より互いに己を知れるによりて、二世
  の契りを結びをはりにき。おのおの老に臨みて後、かの離居は山川をへだ
  てたりと雖も、昔の芳契は旦暮に忘るることなし。是は世の○○の儀に
  はあらざるよし。強ひて示さるる趣を伝へ承るによりて、例の物覚えぬ
  僻事どもをしるし申すべきなり。」 ○は不明文字。

  この言葉によって俊成と西行は若年より親交があったことが分かります。
  俊成は藤原道長の子の長家の系譜に連なり、俊忠の子です。長家が御子左
  家の祖です。その四代あとに俊成がいます。
  俊成は1114年生まれ。西行とは四歳年長です。俊成が10歳の時に父の俊忠
  が没しています。
  俊成の妹が藤原実能の子である公能と結婚して実定を生んだのは西行21歳の
  時といいますので、この頃にはすでに二人は面識があったはずです。
  俊成は若年に葉室顕頼の養子となって「顕廣」と名乗っていました。顕頼
  の「顕」の字を名前に入れて改名したようです。
  他方、西行の妻の出自は全く分かりませんが、新人物往来社刊行の「西行の
  すべて」の13ページでは「葉室家ゆかりの女性」と明記されています。
  そうであれば俊成の養子先のゆかりの女性ということだと考えられますので、
  その関係でも西行と俊成は親交を結ぶ契機があったものと考えられます。
  西行は御裳濯河歌合という自歌合の判を俊成に頼んでいますし、二人は終生、
  親しい感情を持ち合っていたということになります。

  2 俊成の住居について

  俊成の住居はよく分かっていません。「大宮の家」というのは俊成の家
  ではなくて葉室家の邸宅のあった場所ではないかと思います。
  俊成の家としては「五條京極第」が知られています。五條とは松原通りの
  こと、京極とは東京極で寺町通りのことです。したがって寺町松原あたり
  にあったとみるのが妥当です。大宮とは離れています。
  烏丸松原下る東側に「俊成社」という小さな祠があります。
  また、烏丸松原に西入るに「新玉津神社」があります。この新玉津神社は
  俊成が自邸の敷地の一部に勧請して建てたものだと言われています。
  明証はありませんが俊成の邸宅(五條京極第)は1180年の火災で焼亡して、
  1192年に再建されたものと思います。(明月記、建久三年三月条。ただし
  私は未確認です。)
  ところが、新玉津神社は社伝によると1186年にできています。自邸の再建
  よりも先に社殿を建立していることになり、にわかには信じられません。
  しかし、1180年よりあとは、この付近で仮寓の生活だったはずだと考える
  なら、五條京極第と新玉津神社は別物であると理解できます。自分の土地が
  二ヶ所あったものでしょう。
  尚、新玉津神社は後に二条為明が伝領して、「新拾遺集」を撰した所と
  言われています。 

  私の撮影の俊成社と新玉津神社の画像です。

  http://kazu02aa.hp.infoseek.co.jp/saigyo2/wakaiti02.html

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   《 3・所在地情報 》
   
  ◎ 新玉津神社(にいたまつじんじゃ)

 この神社は観光寺社ではありません。行っても何もありません。

 所在地    下京区松原通り烏丸西入る玉津島町309
 電話     不明
 交通     阪急烏丸駅から徒歩約10分
        市バス烏丸松原下車すぐ
 拝観料    なし
 拝観時間   なし

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   《 4・関連歌のご紹介 》

01  世のなかよ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる
                   藤原俊成 (千載集)

02  ふぢ浪もみもすそ川のすゑなれば下枝もかけよ松の百枝に
                   藤原俊成 (山家集)

03  秋は来ぬ年もなかばに過ぎぬとや萩吹く風のおどろかすらん
                   寂然法師 (千載集)
 
04  乱れずとをはり聞くこそうれしけれさても別れはなぐさまねども
                   寂然法師 (千載集)

05  まどろみてさてもやみなばいかがせん寝覚めぞあらぬ命なりける
                   西住法師 (千載集)

06  手枕のうへに乱るる朝寝髪したに解けずと人は知らじな
                   西住法師 (千載集)

07  心をも君をも宿にとどめおきて涙とともに出づる旅かな
                   僧都覺雅 (千載集)

08  旅衣涙の色のしるければ露にもえこそかこたざりけれ
                   僧都覺雅 (千載集)

09  もろともに見し人いかになりにけん月は昔にかはらざりけり
                   登蓮法師 (千載集)

10  おどろかぬ我が心こそうかりけれはかなき世をば夢と見ながら
                   登蓮法師 (千載集)

11  五月雨になには堀江のみをつくし見えぬや水のまさるなるらん
                    源忠季 (詞花集) 

12  なかなかにちるをみじとやおもふらん花のさかりにかへるかり金
                    源忠季 (詞花集)

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   《 5・お勧め情報 》

 広隆寺の御火焚祭が11月22日に行われます。その時に、聖徳太子像が公開
 されます。太子33歳の時の像ということです。1年にこの日だけの公開です。
 私も必ず行く予定です。このお寺にある弥勒菩薩半跏像が私のお気に入りです。

  広隆寺 (こうりゅうじ)

 所在地   右京区太秦蜂岡町32
 電話     075‐861‐1461
 交通     京福電鉄嵐山線、太秦駅下車すぐ
         JR京都駅から山陰線、太秦駅下車徒歩10分
         京都バス京都駅から(71,72,73系統)太秦広隆寺前下車すぐ
 拝観料   700円 
 拝観時間  9時から16時まで
 駐車場   70台、無料
        
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   《 6・エピソード 》

先日、岩倉の円通寺に行きました。近くには栗栖野瓦窯跡(くるすのがようあと)
があります。国の史跡に指定されています。飛鳥時代から平安後期にかけて瓦を
製造した跡です。窯跡は40基もあるということ。現在もひなびた所という印象
です。そういう所に円通寺はあります。もともとは後水尾天皇の幡枝御所だった
ものを寺に改めたものということです。小さなお寺ですが、ここの特色は叡山を
借景とした枯山水の庭があるということです。
当日は秋晴れの一日であり、ここの客殿からは庭の向こうに比叡の雄峰が指呼の
間に見渡せました。結構の大きな観光寺社ではなくて、こんな小さなお寺の方が
気持が安らぎます。
この寺の修復の寄進者名に窪田章一郎氏のお名前を発見しました。偶然の発見
ですが、うれしく感じました。
後水尾帝については修学院離宮を作った天皇という程度で、ここでは詳述する
紙幅がありませんので割愛します。

次いで東山の詩仙堂に行きました。こじんまりしたお寺です。紅葉はまだまだ
です。実は私はこのお寺には格別の思い入れがあります。私が20歳代には他の
お寺には行かずに、この寺ばかりにきていました。朝、早く来て終日過ごした
こともあります。20歳代に10回にはきかないだけきていると思います。当時の
私をかりたててこのお寺に来させた気持ちはなんだろうと今は思います。
21歳の時に私は自分の全人格を否定するだけのことが起こりましたし、それから
このお寺に来るようになりました。
でもいつの頃からか足も遠くなって、今回は数十年ぶりの来訪です。
まごうことなく、私の若い頃のひとつの時代が象嵌されているお寺だと思います。
人には説明できない、言うに言われぬ思いを持ちながら、私は久しぶりにこの
お寺を楽しみました。私にとっては、とても嬉しいことでした。
同行者に感謝します。

私は京都の歴史、寺社、ほかの事ごとについて熟知しているわけではありません。
書物の上での絶えざる勉強も大切ですが、実際に歴史の上に登場する地名の
現地に行く事も大切なことだと思います。そこで西行とは関係はありませんが、
近いうちに全国の愛宕社の総本山である愛宕山に登って見たいと思います。
標高924メーター。きちんと山頂まで登れるようでしたら、次回に報告します。

今号からの数回は詞書を中心にしてご紹介します。

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