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     ■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■    

                       vol.42(隔週発行)
                       2003年11月26日号
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  メールマガジン「西行の京師」ご購読ありがとうございます。
  暖かい日々が続いていましたので今年の紅葉は多くの所で見頃が遅れて
  しまった感じです。ここに来て最低気温が10度以下になりましたので、
  これからの一週間ほどが紅葉は盛りとなるでしょうか。
  紅葉ひとつにしても良い色付きになるのはさまざまな条件が錯綜して、
  あやうい均衡の上に成立っている事がわかります。

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     ■ 西行の京師  第42回 ■

   目次  1 今号の詞書と歌
        2 補筆事項       
        3 所在地情報
        4 関連歌のご紹介
        5 お勧め情報
        6 エピソード

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   《 1・今号の詞書と歌 》

  《 詞書 》

 1 寄紅葉懐舊といふことを、法金剛院にてよみけるに
                           (194P 雑歌)
 この詞書の次に下の歌があります。

  「いにしへをこふる涙の色に似て袂にちるは紅葉なりけり」

 2 十月中の十日頃、法金剛院の紅葉見けるに、上西門院おはしますよし
   聞きて、待賢門院の御時おもひ出でられて、兵衛殿の局にさしおか
   せける
                           (194P 雑歌)
  この詞書の次に下の歌があります。

  「紅葉見て君がたもとやしぐるらむ昔の秋の色をしたひて」

 3 待賢門院かくれさせおはしましにける御跡に、人々、又の年の御はて
   までさぶらはれけるに、南おもての花ちりける頃、堀川の女房のもと
   へ申し送りける
                          (201P 哀傷歌)
  この詞書の次に下の歌があります。

  「尋ぬとも風のつてにもきかじかし花と散りにし君が行方を」

  今号の寺社名=法金剛院
  今号の人名=上西門院・待賢門院・兵衛の局・堀川の局

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  (1)の詞書と歌の解釈

○懐舊=懐旧=(舊)は(旧)の古い文字です。
○こふる=恋ふる=ここでは昔を偲び慕う感情のこと。

 新潮版の山家集では詞書の「法金剛院」は「宝金剛院」と表記されています。
 私の知る限りは「法金剛院」であって「宝金剛院」ではありません。これは
 西行が意図的に「宝」の文字を用いたか、あるいは山家集を書写した人の
 ミスなのか断定はできません。高橋庄次氏は「西行の心月輪」の中で、
 「西行はこの詞書で法金剛院の「法」を「宝」と書いている。こんなところ
 にも女院への思いがこめられているのだろうか」と記述していますが、
 はたしてどうなのでしょう。

 詞書の意味は、法金剛院庭園にて以前に見たことのある紅葉を偲び、懐か
 しんで・・・という意味ですが、言葉以上の深い意味がこめられているとも
 解釈できます。

 「西行はこの歌で生前女院が美しい声と姿を見せていた昔を恋い慕うあまり、
  袂を濡らす涙の色が紅葉の色に似ると歌ったのである。これは血の涙だ。
  西行の袂に散りかかる鮮やかな紅葉の色が、そのまま袂を濡らす鮮血の
  色になる。なんとも狂おしいまでの激しい女院への思慕だ。法金剛院の
  庭園の紅葉が燃えているようにも見え、散りかかる紅葉がしたたり落ちる
  鮮血のようにも見える。」
                (高橋庄次氏著「西行の心月輪」より抜粋)

 この歌の作歌年代まではわかりません。1145年8月、西行28歳の時に待賢門院
 は死亡していますので1145年以降の歌です。その痛切な歌いぶりから類推
 して、待賢門院死亡後、数年以内の歌のように思います。

  (2)の詞書と歌の解釈

○上西門院=鳥羽天皇と待賢門院の娘の統子内親王のこと。

 この詞書には上西門院と記述されています。統子内親王が後白河院の准母と
 なって院号宣下があり、上西門院と称したのが1159年2月ですから、それより
 後の歌ということになります。待賢門院死亡後14年以上、西行42歳以降の作品
 といえます。西行は高野山から京都に出てきて法金剛院に行ってみると、
 上西門院がたまたまいるということなので、そのことを聞き知って兵衛の局
 に歌を届けたということです。兵衛の局との贈答歌です。

 新潮版では以下のようになっています。

 紅葉見て 君がためとや 時雨るらん 昔の秋の 色をしたひて

 「上西門院のお供をして宝金剛院の紅葉を御覧になるにつけ、待賢門院を
  お偲び申し上げて、紅葉を染めた時雨のごとく涙にかきくれられること
  でしょう。女院御在世の折の秋の様子をお慕いになって。」
              (新潮日本古典集成、山家集から抜粋)

 あくまでも兵衛の局に宛てた歌であり、上西門院のお供をしたのは西行
 ではなくて、兵衛の局です。兵衛の局は待賢門院没後に上西門院に仕え
 ました。西行と兵衛の局の親密な関係性がわかる歌です。下は兵衛の局
 の返歌です。

 「色深き梢を見てもしぐれつつふりにしことをかけぬ日ぞなき」
 
  (3)の詞書と歌の解釈

○待賢門院=藤原公実の娘の璋子のこと。鳥羽天皇皇后。崇徳天皇・
       後白河天皇の母。
○かくれさせ=死亡すること。待賢門院の崩御は1145年8月22日。
○御跡=三条高倉第のこと。
○又の年の御はて=女性は1年間は服喪の期間でした。忌日あけのこと。
○南おもて=三条高倉第の南側に面した庭。
○堀川の女房=待賢門院堀川のこと。源忠季や兵衛の局の兄弟。著名な歌人。
○風のつて=それとなく人づてに聞く知らせ。風の便りのこと。
○花と散りける=1146年の春、喪に服していた堀川の局に歌を贈ったという
         こと。「花」は待賢門院と桜の二重の意味を持ちます。 
○君=死亡した待賢門院のこと。

 以上で詞書の説明はできていると思います。

 「待賢門院がおかくれになったあとに(三条高倉御所)お仕えしていた人々
  は次の年の御一周忌の喪のあける日まで居られたのであるが、宮中の
  南御殿の花の散っている頃、堀川の局のもとへ申し送った歌」
 
 「いくら尋ねても風のたよりにも聞かないであろうよ。今散っている花の
  ごとくに、花となってはかなく散って行った君の御行方は。」
             (渡部保氏著「西行山家集全注解」より抜粋)

 「かえし」として堀川の局の下の歌があります。

 吹く風の行方しらするものならば花とちるにもおくれざらまし

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   《 2・補筆事項 》

 1 法金剛院

 法金剛院は京都には珍しい律宗寺院です。律宗とは教義上の厳しい戒律を
 実践することに本義をおく宗派で、鑑真和上が苦難の果てに日本にたどり
 ついて伝えたものです。鑑真創建の奈良の唐招提寺を総本山とします。
 法金剛院が律宗になったのは律宗の別格本山、壬生寺を再興した円覚上人
 が1276年に住持してからの事だといわれます。この上人は聖徳太子から
 夢告を受けたといい、融通念仏を広めました。法金剛院も融通念仏の道場
 になりました。上人はたびたび念仏会を催し、嵯峨の清凉寺などでは参集
 する人々が10万人にもなったそうで「十万上人」とも呼ばれています。
 謡曲の「百万」は、円覚上人と清凉寺大念仏会の功徳について書き表した
 ものです。
 
 法金剛院のもともとの創建は右大臣、清原夏野が830年頃に山荘を建てた
 のが始まりといわれています。夏野の死後、山荘はお寺に改められ双丘寺
 と号しました。857年には伽藍も整えられて、元号そのままの天安寺と改称。
 しかし、壮観を誇っていた天安寺も974年に火災が起きてからは、歴史から
 消えました。
 この天安寺の跡地に、待賢門院が法金剛院を建てました。1130年のことです。
 この時代は浄土信仰が盛んな時代で、本尊は阿弥陀仏とし、庭園も浄土思想
 に基づいて造られています。待賢門院は1142年にここで落飾して、1145年に
 三条高倉第にて崩御。遺骸は法金剛院の三昧堂の下に納められました。
 その後の法金剛院は、娘の上西門院が伝領しました。1171年に南御堂、1172年
 には東御堂も建てられています。
 以後、衰退に向かいますが、先述した円覚上人が再興。それも応仁の乱の
 戦火や、地震などにより荒廃に向かいます。
 江戸時代初期に再建され、近世を通じて四宗兼学寺院として続いていました。
 明治になって、山陰線の鉄道施設のために境内の真中で二分され、1968年
 には丸太町通り拡幅のためにも寺域が削られています。その時に本堂も移築
 しています。したがって法金剛院が現在の寺観になったのは、わずか35年ほど
 前のことです。  

               平凡社刊「京都市の地名」
               淡交社刊「法金剛院」
              上記著作を参考にしています。 
 
 2 待賢門院

 藤原公実の娘の璋子のこと。1101年から1145年まで存命。白河天皇の猶子。
 鳥羽天皇皇后。崇徳天皇・後白河天皇・上西門院などの母です。ほかには
 三親王、一内親王がありますので、七人の母ということになります。
 幼少から白河天皇の寵愛を受けていた彼女は1117年に入内し翌年、鳥羽天皇
 の中宮となります。そして1119年に崇徳天皇を産んでいます。末っ子の本仁
 親王(仁和寺の覚性法親王)が1129年の生まれですから、ほぼ10年で七人の出産
 ということになります。このうち、崇徳天皇は白河院の子供という風説が当時
 からあって、それが1156年の保元の乱の遠因となります。
 白河院は1129年に崩御しました。それからは、鳥羽院が院政を始めました。
 1134年頃に藤原得子(美福門院)が入内すると、鳥羽院は得子を溺愛します。
 得子は1139年に近衛天皇を産みます。鳥羽院は1141年に崇徳天皇を退位させ、
 まだ幼い近衛天皇を皇位につけました。
 この歴史の流れの中で鳥羽院の皇后、崇徳天皇の母であった待賢門院の権威も
 失墜してしまって、1142年に法金剛院で落飾、出家しました。同時に、女房の
 中納言の局と堀川の局も落飾しています。
 1145年8月22日崩御。法金剛院の三昧堂の下に葬られ、現在は花園西陵と呼ば
 れています。
 
 3 待賢門院の女房達

  待賢門院の女房には以下の人達が知られています。

○中納言の局
  
  藤原定実の娘。215Pの「さだのぶ入道=藤原定信=世尊寺定信」の兄弟。
  川田順氏の「西行研究録」では、(藤原俊成が養子に行っていた葉室家の
  ゆかりの人で、俊成の姪にあたる俊子という女性ではなかろうか)と
  あります。年齢的に見て、中納言の局は西行や俊成よりはるかに年配だと
  思えますので、俊成の姪という人ではないでしょう。

○堀川の局

  神祗伯源顕仲の娘。兵衛の局や260Pの忠季の兄弟。西行との贈答歌が
  山家集の中に四首あります。

○兵衛の局

  堀川の局の妹。待賢門院のあとに上西門院に仕えています。西行との贈答歌
  が山家集の中に三首あります。

○帥の局
  
  備後前司季兼の娘といわれます。中納言の局が小倉の庵を出て天野に
  隠棲したときに尋ねて行き、西行と共に粉川や吹上の浜に同行したことが
  135Pに書かれています。
  帥の局は待賢門院のあとに上西門院、その後に建春門院に仕えています。

○加賀の局 

  西行より13歳の年長ということです。母は新肥前と言うことですが、詳し
  くは不明です。千載集に一首採録されています。
  この人は待賢門院の後に近衛院の皇后だった藤原多子に仕えて、大宮の
  女房加賀となります。有馬温泉での贈答歌が135Pに二首あります。ただし、
  西行の歌は他の人の代作としてのものです。
  寂超長門入道の妻、藤原俊成の妻、藤原隆信や藤原定家の母も加賀の局
  と言いますが、年齢的にみて、この美福門院加賀とは別人とみられて
  います。

○紀伊の局  

 紀伊守藤原兼永の娘の朝子のこと。父親の官職名で「紀伊」と呼ばれます。
 藤原通憲(入道信西)の後妻。藤原成範、脩範の母。
 後白河院の乳母。従ニ位になり、紀伊ニ位、院の二位とも呼ばれます。
 1166年1月に没して、船岡山に葬られました。(208P)
          (35号から転載。詳しくは35号を御覧下さい。)

○安芸の局
  
 橘俊宗の娘といわれますが、詳しい事はわかりません。
 詞花集、新古今集、千載集に作品があります。
 
○尾張の局

 橘為遠の娘で琵琶の名手といわれます。あとに大原の来迎院の良忍上人に
 帰依して大原に住みましたが、266Pに西行は寂然とともに尾張の尼を訪ねた
 ことが記述されています。
  
○新少将

 源俊頼の娘。新古今集・新拾遺集に作品があります。

  他に数名いたようですが、詳しくはわかりません。

        創元社刊、川田順氏「西行研究録」
        吉川弘文館刊、目崎徳衛氏「西行の思想史的研究」
        この項は上記著作を参考にしています。

 4 上西門院 (じょうさいもんいん)
  
 鳥羽天皇を父、待賢門院を母として1126年に出生。統子(とうこ・むねこ)
 内親王のこと。同腹の兄に崇徳天皇、弟に後白河天皇がいます。1189年没。
 幼少の頃に賀茂斎院となるが、6歳の時に病気のため退下。1145年に母の
 待賢門院が没すると、その遺領を伝領します。
 1158年8月に上西門院の一歳違いの弟の後白河天皇は、にわかに二条天皇に譲位
 して上皇となります。統子内親王は、後白河上皇の准母となり、1159年2月に
 上西門院と名乗ります。それを機にして、平清盛が上西門院の殿上人となり、
 源頼朝が蔵人となっています。(ニ条天皇の准母説もありますが、すでに
 日+章子内親王がなっています。ここは後白河院の准母と思います。)
 同年12月に平治の乱が起こり、三条高倉第にいた後白河上皇と二条天皇、
 そして上西門院は藤原信頼・源義朝の勢力に拘束されています。1160年1月に
 義朝は尾張の内海で殺され、3月には頼朝が伊豆に流されています。
 上西門院は1160年に出家していますが、それは平治の乱と関係があるのかも
 知れません。生涯、独身で過ごしています。
 西行とは極めて親しかったことが山家集からもわかります。
           (29号から転載しています。一部加筆しています。)
  
 5 堀川の局と兵衛の局

 二人ともに生没年不詳です。村上源氏の流れをくむ神祇伯、源顕仲の娘と
 いわれています。姉が堀河、妹が兵衛です。二人の年齢差は不明ですが、
 ともに待賢門院璋子(鳥羽天皇皇后)に仕えました。堀川はそれ以前に、白河
 天皇の令子内親王に仕えて、前斎院六条と称していました。
 1145年に待賢門院が死亡すると、堀川は落飾出家、一年間の喪に服したあと
 に、仁和寺などで過ごしていた事が山家集からも分かります。
 兵衛は待賢門院のあとに上西門院に仕えてました。1160年、上西門院の落飾
 に伴い出家したという説があります。それから20年以上は生存していたと
 考えられています。
 上西門院は1189年の死亡ですが、兵衛はそれより数年早く亡くなったようです。
 
 窪田章一郎氏は「西行の研究」の中で兵衛は80歳は超えていたのではないか
 と推定しています。ちなみに、川田順氏「西行研究録」では、西行と堀川の
 局の年齢差は約20歳としています。「西行の研究」の中の森本元子氏説では
 西行と堀川は39歳の差があります。それから勘案して兵衛は西行より年長で
 あることは確実です。
 いずれにしても西行の生まれた1118年には兵衛の局は14.5歳だったはずです。
 1124年の白河殿の花見に兵衛も同行していますので、それまでには待賢門院の
 女房となったものでしょう。
 二人ともに歌には秀でていて、西行とはとても親しかった女性歌人であったと
 いえます。
               (29号より引用。一部加筆しています。)
    補筆事項は主に、目崎徳衛氏著「西行の思想史的研究」
            窪田章一郎氏著「西行の研究」を参考にしています。

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   《 3・所在地情報 》

  ◎ 法金剛院 (ほうこんごういん)

 所在地    右京区花園扇野町49
 電話     075‐461‐9428
 交通     JR嵯峨野線花園駅下車徒歩5分 
         市バス四条烏丸より91番で花園駅下車徒歩5分
 拝観料    400円
 拝観時間   9時から16時まで
 駐車場    20台。無料

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   《 4・関連歌のご紹介 》

 1 長からむ心も知らず黒髪の乱れて今朝は物をこそ思へ
                堀川の局 (千載集・百人一首八十番)

 2 此世にてかたらひおかむ郭公しでの山路のしるべともなれ
                       堀川の局 (山家集)

 3 憂かりける世々の契りを思ふにもつらきはいまの心のみかは
                       兵衛の局 (千載集)

 4 うき世をばあらしの風にさそはれて家を出でぬる栖とぞ見る
                       兵衛の局 (山家集)

 5 かねてより思ひしことぞふし柴のこるばかりなる歎きせんとは
                     待賢門院加賀 (千載集)

 6 桜あさのをふの下草しげれただあかで別れし花の名なれば
                     待賢門院安芸 (新古今集)

 7 うつりけむ昔の影やのこるとて見るにおもひのます鏡かな
                      新少将 (新古今集)

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   《 5・お勧め情報 》

   アンコール・ワット拓本展

 場所   京都文化博物館
       中京区高倉三条下る
 会期   2003年12月09日から2004年01月12日まで
 入場料  500円
 電話   075-252-1860

    京都文化博物館ホームページ
   http://web.kyoto-inet.or.jp/org/bunpaku/

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   《 6・エピソード 》

今回の発行も遅れてしまいました。申し訳ございません。
このマガジンも三分の二を過ぎているのに、今ごろになってきついことだと
自覚しています。継続は力なりという言葉はいまだに何を言っているのか理解
できないのですが、継続することの難しさは常々感じています。私のような
門外漢がこの種のマガジンを発行するのですから、なおさらのことです。

11月15日、一人で愛宕山に登ってきました。愛宕山は京都の西に位置し、東の
比叡山と比べられる山です。平安京から見て、比叡山は青竜、愛宕山は白虎と
いいます。方位として、ともに国家鎮護の意味を持っています。両山ともに、
古来から崇められてきました。比叡山は標高848メーター。愛宕山は924メーター
です。

「ふりつみし高嶺のみ雪とけにけり清瀧川の水のしらなみ」(山家集15P)

清滝川は愛宕山の麓を貫流しています。麓の登山口から二時間少しを要して
山頂にある愛宕神社に無事に着きました。始めての愛宕神社参拝です。
全国にある愛宕社の総本山がここです。平安時代の貴顕は、奈良の長谷参り
などに比して、ここにはあまり参詣しなかったようですが、それは道の険しさ
ゆえにでしょう。自分の足で歩いて登り降りする他に方法のない山ですから、
平安時代の貴族には敬遠されたのかもしれません。でも時代が下がって庶民
の信仰の対象になることによって、「伊勢には七度、熊野に三度、愛宕山には
月参り」と言われるほどに、参拝者は多くなりました。私が登った当日も三歳
ほどの幼児から八十歳ほどの人達まで、多くの人が登っていました。

22日は広隆寺の「御火炊祭」に行き、一年にこの日だけ公開される「聖徳太子像」
を見てきました。太子三十三歳の時の像と言われます。霊宝殿でさまざまな
仏像にも接しました。紅葉は色具合が感心しませんでしたが、ひっそりと咲いて
いる寒の桜が印象に残っています。
次いで嵯峨のニ尊院に行ったのですが、紅葉はやはり美しいとは感じません
でした。年によって当りはずれがあるのは仕方ありません。

さて、もうすぐ師走です。一年の締めくくりの月です。今年はもうどこかに
行くということは私には無理でしょう。でもなんとか時間の余裕を作って、
出かけてみたいと思います。

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