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■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■
vol.43(隔週発行)
2003年12月08日号
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メールマガジン「西行の京師」ご購読ありがとうございます。
いよいよ師走に入りました。今年もこの月を残すのみです。師も走る月、
寒さが厳しさを増して行くとともに、また、年と年の境目として、
せわしなさも1日ごとにつのって行きます。体調の維持に努めながら、
年の最後の月を充実させたいものと思います。
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■ 西行の京師 第43回 ■
目次 1 今号の詞書と歌
2 補筆事項
3 所在地情報
4 関連歌のご紹介
5 お勧め情報
6 エピソード
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《 1・今号の詞書と歌 》
《 詞書 》
1 遠く修行することありけるに、菩提院の前の斎宮にまゐりたりけるに、
人々別の歌つかうまつりけるに
(106P 離別歌)
この詞書の次に下の歌があります。
「さりともと猶あふことを頼むかな死出の山路をこえぬ別は」
2 堀川局仁和寺に住み侍りけるに、まゐるべきよし申したりけれども、
まぎるることありて程へにけり。月の頃まへを過ぎけるを聞きて、
いひ送られける (174P 雑歌)
この詞書の次に堀川局の下の歌があります。
「西へ行くしるべとたのむ月かげの空だのめこそかひなかりけれ」
返しとして西行の歌があります。
「さし入らで雲路をよきし月影はまたぬ心や空に見えけむ」
(参考詞書)
以下の詞書は山家心中集と西行法師家集にあります。岩波文庫山家集では
16ページにあり、「題しらず」の四首のうちの一首です。
山水春を告ぐるといふ事を菩提院前斎宮にて人々よみ侍りし
この詞書の次に下の歌があります。
はるしれと谷のほそみずもりぞくるいはまの氷ひまたへにけり
今号の寺社=菩提院・仁和寺
今号の人名=堀川の局
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(1)の詞書と歌の解釈
○遠く修行=遠くとはどこであるか不明です。初めの奥州行脚を指すものと
みられています。この時代にあって「修行」という言葉は
「旅」とほぼ同義であったようです。
○菩提院=岩波文庫山家集では抄物書きの「サ」を二つ縦に重ねたような合字
です。仁和寺の菩提院と断定できます。
○斎宮=斎宮はミスであり、正しくは「斎院」です。
○さりともと=古語。「さ、ありとも」の約。しかしながら・それにしても・
それでも・そうであっても・・・などの意味。
遠い所に旅に出るので、その前に統子内親王の住んでおられる菩提院に
挨拶に行きました。内親王に仕える女房達と別れの歌を詠みあいました。
上が詞書の意味です。下が歌の意味です。
遠く旅をしますので、どのようになるか分かりませんが、旅から帰り
つけば、是非ともまたお会いしたいものです。今度の旅は死亡後にたどる
旅路の別れではありませんから・・・
次に続く「同じ折、つぼの桜の散りけるを見て〜」という詞書によって、
この旅は桜の散る頃にはじめられたことが分かります。1145年8月に崩御した
待賢門院の喪に服するために、ゆかりの女性達は一年間を三条高倉第で過ごし
ました。この詞書と歌は喪のあけた次の年の春ということと解釈できますので、
1147年の春、西行30歳の時ではないかと思います。
(2)の詞書と歌の解釈
○まぎるる=行う事があり、取り紛れて。
○空だのめ=空頼め=頼んでいたのに頼りにならないこと。空は(そら)と(から)
に掛けています。
○西へ行く=死後、西方の浄土に行くということです。西行法師の名前に掛けた
言葉でもあります。堀川は、死に行く時の導きを西行に頼んで
いました。
この詞書は新古今集では以下のようになっています。山家集の詞書も併記します。
「西行法師を呼び侍りけるに、罷(まか)るべき由をば申しながらまうで
来で、月の明かりけるに門の前を通ると聞きて、よみて遣はしける」
(新古今集 1976番)
「堀川局仁和寺に住み侍りけるに、まゐるべきよし申したりけれども、
まぎるることありて程へにけり。月の頃まへを過ぎけるを聞きて、
いひ送られける」 (山家集 174P)
文言に大きな違いがあります。これはどういうことかというと、新古今集の
堀川の局の歌は、自分の家集である「堀川集」から採録されたからです。
山家集は西行の家集ですから、両者の家集の違いによって詞書も変わって
いるのは当然です。
こうして詞書を併記してしまうと、この歌を贈答しあった堀川と西行との
親しい間柄、その場の情景なども良く分かって、すでに私の解説などは要し
ません。下は歌の意味です。
「せっかく私の死後の案内役として頼みとしていましたのに、月も隠れて
しまったような気のする空のように、私の頼みも空約束の甲斐なき頼み
だったのでしょうか・・・」
待賢門院が崩御して1年間は堀川は三条高倉第で喪に服していたことは前号
でも記述しましたが、喪があけてから堀川は仁和寺に住んでいたこともあり、
その時の歌です。この時、堀川は少なくても68歳にはなっています。
下は堀川の歌に対して答えた、西行の返歌の意味です。
「あなたの家に月の光がさしこむことなく、雲路を通り過ぎたのは、月の
さしこむことを待っていない心が空から見えたからです(あなたの家に
立ち寄らないで通り過ぎたのは、あなたが私を待っていない心がおし
はかられたからですよ)。」
(新潮日本古典集成、山家集から抜粋)
(参考詞書と歌の解釈)
(1)の詞書と同様に菩提院で、山水が春を告げるという題で人々と歌を
詠みあった時のものです。1140年に出家してからの歌だと思いますが、
出家後まだ間のない頃だと思います。人々とは、統子内親王に仕えて
いた女性たちを指すものと思えます。
「山家住いでは春の来たことに気がつかずにいるが、谷の細水は春の来た
のを知れというように洩れ出て流れてくる。岩間にはりつめていた氷が
解けて隙間が見えて来たことだ」
(渡部保氏著「西行山家集全注解」より抜粋)
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《 2・補筆事項 》
1 菩提院の前斎院
106ページにカタカナの「サ」を下に二文字重ねたような文字があります。
これは「抄物書き」といい、合字です。「ササ菩薩」と言われます。仏教
関係の書籍では菩薩などという言葉は頻繁に出てくる言葉なのですが、仏典
などを書写する人は何度も書き写す名詞を略して記述するようになりました。
それが「抄物書き」です。
ところが「菩薩院」では明らかに変な名詞と思います。私も書物などで見た
記憶がありません。他の多くの資料では当該箇所は「菩提院」となっています。
仁和寺には実際に「菩提院」がありました。
今回参考詞書として取り上げた「はるしれと〜」歌にある詞書は「山家心中集」
と「西行法師家集」にあります。そこでは「菩提院」を表す合字が用いられて
いるそうです。(私は未確認です。)
やはり「さりともと〜」歌の「菩薩院」は「菩提院」の誤りと思います。西行
の自筆稿を岩波文庫新訂山家集まで書き写して来た過程で、どなたかが誤写
して、それがそのまま伝わってきたものでしょう。「斎宮」も「斎院」の誤写
といわれています。
菩提院は鳥羽天皇と待賢門院を父母とする統子内親王のものでした。そこに
住んだことがあるから菩提院の前斎院と呼ばれたものです。目崎徳衛氏の
「西行の思想史的研究」によれば、1126年に出生した統子内親王が第28代
賀茂の斎院となったのが1127年、斎院退下が1132年、入内が1157年。この内、
斎院退下から入内までの25年間が「菩提院の前斎院」と呼ばれていた期間だと、
考察されています。
2 仁和寺
双が丘の北に位置し、大内山の南麓にあります。阿弥陀三尊を本尊とする
真言宗御室派の総本山で、御室御所や仁和寺門跡とも呼ばれます。
第58代光孝天皇の御願寺として886年に起工され、887年に完成しました。
始めての門跡寺院として知られています。
御室という地名は、仁和寺一世の宇多法皇が仁和寺の内に御座所(室)を
建てた事から御室御所と呼ばれ、その後、付近は御室という地名になりました。
904年のことです。以来、仁和寺は代々、皇族が住持してきました。鳥羽天皇
と待賢門院の五男である覚性法親王は7歳の時に仁和寺に入り、1153年に第五世
として住持しています。1156年に保元の乱が起こり、敗れた崇徳上皇は弟の
覚性法親王のいる仁和寺に入りました。その時に西行は仁和寺に駈けつけて
います。
この頃の仁和寺の寺地は広く、二里四方の寺地に100ほどの子院があったと
伝えられています。法金剛院や遍照寺も仁和寺の子院でした。
1119年と1153年に火災により大きな打撃を受けています。応仁の乱では山名
氏によって、ほぼ焼き尽くされてしまいした。本格的な復興は、徳川家光の
援助により1646年に成されました。ニ王門(仁和寺の場合は「仁王門」と表記
しません)や五重の塔はこの時のものです。
1887年(明治20年)にも大火。1913年(大正2年)に、現在の仁和寺となりました。
仁和寺には有名な御室桜があります。お多福桜とも呼ばれています。
以下は私撮影の仁和寺です。
http://kazu02aa.hp.infoseek.co.jp/saigyo2/koryu4.html
3 西行の奥州行脚について
西行はその生涯のうちに少なくとも二度の奥州行脚をしたことが知られて
います。最後の旅は1186年7月頃に伊勢を出発したもので、西行69歳の時と
いわれています。
この時の旅の目的は東大寺再建のための砂金勧進を奥州平泉の藤原秀衡に申し
込むためのものでした。
1180年12月に東大寺は平重衡によって焼かれました。その再建のために重源
が東大寺大勧進職につき、重源の要請により西行は平泉に向かったものです。
途中、鎌倉で源頼朝と面会している事が吾妻鏡1186年8月15日条に記録されて
います。翌年の夏頃までには京都に帰ってきたものと思われます。
最後の旅については吾妻鏡などの資料がありますので、確実に奥州に行った
ことがわかります。ところが初めの旅については確定する資料がありません。
旅の目的も、旅の期間も出発年も不明のままです。西行の研究をされた先達の
推測も多様で、西行26歳から30歳までの幅があります。
尾山氏説、窪田氏説の西行30歳での出発ということがもっとも自然であるよう
に思われますので、私も1147年の春、西行30歳の時の旅という説に賛同します。
ただし、あくまでも推測でしかありません。
補筆事項の参考文献
平凡社刊「京都市の地名」
吉川弘文館館、目崎徳衛氏著「西行の思想史的研究」
東京堂刊、 窪田章一郎氏著「西行の研究」
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《 3・所在地情報 》
◎ 仁和寺 (にんなじ)
所在地 右京区御室大内33
電話 075-461-1155
交通 京都駅烏丸口より市バス26番宇多野・山越行き
御室仁和寺下車すぐ
拝観料 無料。御殿は500円。
春秋のみ公開の霊宝館は別に500円
拝観時間 9時から16時30分
駐車場 120台。有料
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《 4・関連歌のご紹介 》
1 此世にてかたらひおかむ郭公しでの山路のしるべともなれ
堀川の局 (山家集137P)
2 西へ行くしるべとたのむ月かげの空だのめこそかひなかりけれ
堀川の局 (山家集174P)
3 しほなれし苫屋もあれてうき波に寄るかたもなきあまと知らずや
ある所の女房=堀川の局 (山家集178P)
4 吹く風の行方しらするものならば花とちるにもおくれざらまし
堀川の局 (山家集201P)
5 時知らぬ 谷の埋れ木 朽ちはてて むかしの春の 恋しさに
何のあやめも わかずのみ 変わらぬ月の 影見ても 時雨に濡るる
袖の浦に 潮垂れまさる 海人衣 あはれをかけて 問ふ人も
波にただよふ 釣舟の 漕ぎ離れにし よなれども 君に心を
かけしより しげき愁へも 忘れ草 忘れがほにて 住の江の
松の千歳の はるばると 梢はるかに 栄ゆべき ときはの影を
頼むにも 名草の浜の なぐさみて 布留の社の そのかみに
色深からで 忘れにし もみじの下葉 残るやと 老蘇の森に
尋ぬれど 今はあらしに たぐひつつ 霜枯れがれに おとろへて
かきあつめたる 水茎に 浅き心の 隠れなく 流れての名を
鴛鳥の 憂きためしにや ならんとすらん
堀川の局 (千載集)
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《 5・お勧め情報 》
○ 京都情報満載の「平安京」様の、ホームぺージを紹介します。
http://heiankyo.co.jp/
マガジンも発行していますので、是非ご購読をお勧めします。
○ 朝日新聞社刊、仏教を歩くNO、9 「西行」
現在、発売中です。
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《 6・エピソード 》
12月3日に最後の紅葉を求めて、自転車で出かけました。遠距離ではなく、
拙宅の近くです。
西芳寺(苔寺)の少し南に浄住寺と地蔵院があります。浄住寺は葉室氏の菩提寺
です。一時は49院の塔頭を数えた大きなお寺だったのですが、現在は1689年
建立の本堂と小さな堂宇が残るばかりです。ここの紅葉は美しいものですが、
今年は色も悪く盛りも過ぎていて楽しめませんでした。その代わりに意外な
花に出会いました。なんとアジサイが咲いていました。驚きました。
地蔵院は管領の細川頼之が夢想疎石を開山として1368年に創建したものです。
竹の寺として知られています。ここも紅葉はダメでした。西芳寺、鈴虫の寺にも
外から見る限りではハッとさせる真紅の紅葉はありませんでした。
次に行った松尾大社に一本だけ本当の紅葉を発見しました。それでなんとか
満足しました。西行が庵を結んでいた所と伝えられる西光院は小さな所ですので
カエデはありませんが中に入りました。ここには珍しい西行像があります。
西光院から法輪寺はすぐです。法輪寺も普段はひっそりとしたお寺です。ここでも
紅葉は良くありません。今年の京都の紅葉はおしなべて、できが悪い感じです。
法輪寺から渡月橋に出て、右岸を北上。嵐山の中腹にある大悲閣千光寺に詣で
ました。千光寺上り口までに歌枕で有名な「渡無瀬の滝」があります。現在は
標識もなく渡無瀬の滝はどこかわかりません。嵐山の中腹にも一本だけきれいな
紅葉がありました。嵐山・嵯峨は観光客が多いのですが、この千光寺まで足を
伸ばす人は多くはありません。春と秋の参拝をお勧めしたい所です。
芭蕉も「花の山二丁登れば大悲閣」の句を遺しています。
千光寺を辞してからニ尊院に行きました。12月初めの平日でもまだ大変な人出
です。11月15日から三度目のニ尊院でした。門前の紅葉は一週間たったけで、
きれいに色付いていましたが、紅葉の馬場の紅葉はやはりダメでした。
これで今年の紅葉は見納めです。
この日の画像は次のマガジン発行までにアップしたいと思います。
さて、今年も余すところ20日あまり。「もういくつ寝るとお正月〜」などと正月
が来る事を楽しみにしていた子供時代から大きく隔絶した年齢にあります。
時間がたつのが惜しくて、正月もできるだけ遅く来てほしいという感じです。
これからの数日間、師などではないのに、ひとしなみにドタバタとあわただしく
過ごすことでしょう。
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