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     ■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■    

                      vol.44(隔週発行)
                      2003年12月22日号
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 メールマガジン「西行の京師」ご購読ありがとうございます。
 いよいよ年の瀬です。余すところ10日を切りました。日増しにあわただし
 さも、つのります。
 残りの日々は、誰もがそれぞれの思いで走って過ごされたであろうこの一年
 の締めくくりの日々です。年内にできることは年内にしょうと思います。

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     ■ 西行の京師  第44回 ■

   目次  1 今号の詞書と歌
        2 補筆事項       
        3 所在地情報
        4 関連歌のご紹介
        5 お勧め情報
        6 エピソード

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   《 1・今号の詞書と歌 》

  《 詞書 》

 1 ある人さまかへて仁和寺の奥なる所に住むと聞きて、まかりて尋ね
   ければ、あからさまに京にと聞きて帰りにけり。其のち人つかはして、
   かくなんまゐりたりしと申したる返りごとに
                         (176P 雑歌)

   この詞書の次に下の歌があります。

  「立ちよりて柴の烟のあはれさをいかが思ひし冬の山里」

  「かへし」として西行の下の歌があります。

  「山里に心はふかくすみながら柴の烟の立ち帰りにし」

  ある人との贈答歌が、まだ続けてありますが、割愛します。この贈答は
  やはり兵衛の局と見るほうが自然のように思います。 

 2 阿闍梨兼堅、世をのがれて高野に住み侍りけり。あからさまに
   仁和寺に出でて帰りもまゐらぬことにて、僧綱になりぬと聞きて、
   いひつかはしける
                         (178P 雑歌)
   この詞書の次に下の歌があります。

  「けさの色やわか紫に染めてける苔の袂を思ひかへして」

 3 仁和寺の宮にて、道心逐年深といふことをよませ給ひけるに
                        (214P 釈教歌)

   この詞書の次に下の歌があります。

  「浅く出でし心の水やたたふらむすみ行くままにふかくなるかな」
     
   今号の寺社名=仁和寺
   今号の人名=兼堅阿闍梨
   今号の地名=高野

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  (1)の詞書と歌の解釈

○ある人=不明。兵衛の局との説があります。 
○さまかへて=出家して、という意味。

 不思議な事に「西行の研究」の窪田章一郎氏は、この詞書と歌については
 全く触れていません。「西行の思想史的研究」の目崎徳衛氏も、詞書や歌
 そのものには詳しくは触れていず、ざっと流しているだけです。
 
 (詞書)
 ある人が出家して仁和寺の奥のほうに隠棲したと聞きましたので、訪ねて
 行ったら、京都の内に帰ったということですので、やむなく帰りました。
 その後、人に言付けて、先日、仁和寺の方に訪ねて行きましたが・・・と
 伝えましたら、その返事としての歌をいただきました。

 (ある人の歌)
 私が留守をしている間に立ち寄っていただき、冬の山里の寂しい庵から立ち
 上る柴の煙を見て、どのようにお感じになられたことでしょう。

 以上が西行の詞書の解釈と、ある人の歌の解釈です。かへしとして西行の歌が
 あります。
 ある人の個人的な事情なども推し測れば別の解釈も成立しますが、ここでは、
 わざと辛口の解釈をしてみます。

 (西行の歌)
 せっかく固い出家の決心をして山里に深く入ったというのに、その決心を
 柴の煙が流れるように翻して、もとの生活に帰られてしまったのですね。

 このあとにも数首の贈答の歌が続きます。
 この贈答歌に関してですが、相手は兵衛の局と断定していいと思います。
 兵衛の局は待賢門院崩御後、一年間を三条高倉第で喪に服して、それから
 姉の堀川の局と同様に一時的に仁和寺に住んだのでしょう。しかし「様
 かへて・・・」というのは人からの伝聞であり西行の誤解だと思います。
 出家しないままに住んで、それから、上西門院に仕えたものと思われます。
 仏門に入った人でも直ちに落飾する義務は、当時もなかったようです。

  (2)の詞書と歌の解釈

○阿闍梨兼堅=兼賢阿闍梨のこと。藤原道隆の孫の一人との説があります。
○僧綱(そうごう)=僧尼を統括する僧侶の官職名です。古くは僧正、僧都、律師
           の僧官のこと。
○けさの色=僧侶の着る衣の上に左肩から右脇下に懸ける布のことを袈裟と
        いいます。紫の色の衣は天皇が認可したことを表します。
○苔の袂=官位のない、普通の僧の衣のこと。墨染めの衣の袂のこと。

 仁和寺の古書に阿闍梨兼賢が法橋になったという記述が、1164年条にあるとの
 ことです。つまりこの歌は、それ以後のものです。保元の乱の時に、崇徳院は
 仁和寺に入りましたが、1156年のその時にも「けんけんあざり」として181
 ページに登場する人物です。兼賢阿闍梨も1156年以後、いつの頃か不明ですが
 仁和寺から高野山に移っていたということです。詞書と歌の意味は以下です。

 (詞書)
 阿闍梨兼賢は出家して高野山に住んでいました。「ちょっと京の仁和寺まで」
 と、言って出かけて行ったのですが帰って来ません。やがて僧綱になったと
 聞き及びましたので、高野山から仁和寺の兼賢に歌を贈りました。

 (歌)
 若紫色に染めた袈裟を身につけることのできる僧綱の位に出世したのですね。
 粗末な墨染めの衣のままに修行するという思いを翻して・・・。

 たしかに、この歌では僧としての出世をした兼賢に対しての揶揄や、皮肉が
 感じられます。西行自身は僧侶としての出世などをまったく望まない一僧侶
 としての姿勢を生涯に渡って貫きました。ですから、どのお寺にも属していま
 せん。高野山には長く住んでいましたが、特定の寺の僧ではなかったでしょう。
 西行にとって、仏教を信奉し仏道修行をするということは、世俗的なものとは
 隔絶することでもあり、当然に出世を望むというような卑近で世俗的な欲望は
 ありません。
 もちろん西行の意識の根底には、当時の時代背景とか末法思想が重たく存在
 しています。西行のいう「世を捨てる」という言葉が世俗的な慣習や常識や
 欲望からの離脱を意味していますし、それなのに僧侶という世界であっても
 出世したいという世俗的な欲望に執着している兼賢の姿勢は西行には見苦しい
 と映ったかもしれません。それに対して批判のひとつも言いたかったもので
 しょう。

 「西行の思想史的研究」の中で、目崎徳衛氏は以下のように記述しています。

 (前略)後年の作に見られる痛烈きわまる皮肉は、危急の際に奉仕を共にした
 側近人物の変節に対する、強い憤りの奔りと思われる。(中略)兼賢は「僧都」
 ではなく「法橋」に任じられたものらしいが、それはさて措き補任は折も折
 長寛ニ年(1164)、すなわち院が怨念を含んで配所に崩じた年であった。兼賢
 の心なき行動への憤激は、ひるがえって西行の院に対する痛惜の心情が如何
 ばかりであったかを推察せしめるであろう。」

 ○後年の作=「けさの色や〜」の歌のことです。
 ○奉仕を共にした=1156年の保元の乱でのことを指しています。
 ○院=崇徳院のことです。崇徳院が讃岐で憤死した年に兼賢は出世して
  います。  

 尚、新潮版山家集では兼賢は「源賢」、僧綱は「僧都」となっています。

  (3)の詞書と歌の解釈

○仁和寺の宮=鳥羽天皇と待賢門院の第七子。第五皇子。覚性法親王のこと。
        また法親王が仁和寺の奥に建てた紫金台寺のこと。
○道心=仏道に従う心のこと。
○浅く出でし=出家時代を指します。仏道に対して強固な決意に乏しく、仏法
        の知識も浅く未成熟であったという事の述懐のことばです。
○心の水=仏教的な心情を心の水という言葉で表しています。
○すみ行く=掛け言葉です。「住む」と「澄む」を掛けています。

 (詞書)
 御室仁和寺で、仏道に帰依する心が年と共に深くなるということを題にして
 詠みあいました。

 (歌)
 浅く涌き出ていた水が、時が経って、たたえて深い水となる。それと同じく、
 心の水、発心もはじめは浅薄だが、その求道の心がそのまま年を重ねると、
 道心は深くなることだ。(仏道を思う心ははじめは浅かったが、今では深く
 澄みまさっていることだ。)
             (渡部保氏著「西行山家集全注解」から抜粋)

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《 2・補筆事項 》

 1 僧侶の官位

 僧綱(そうごう)とは僧、尼を監督し、束ねる官の職掌のことです。僧綱の
 官職名は以下です。

  1 僧正 2 僧都 3 律師
 
 階級順ですが、僧正でも大僧正、僧正、権僧正に分けられているようです。

 官職名ではありませんが、僧位があります。制度として補任されるようです。
 
  1 法印 2 法眼 3 法橋 

 これとは別に、お寺を住持する責任者が座主(ざす)、貫主、別当などの名で
 呼ばれる事もあります。
 大師(弘法など)、菩薩(行基)などは死後に贈られる追号(諡号)です。
 上人、和尚、法師などは高徳の僧侶をさす敬語です。ただし、法師は必ずしも
 敬語としてのみ使用されているわけではありません。それは24号でも紹介した
 清少納言の一文に「法師ばら」として侮蔑的に用いられている事からも、
 あきらかでしょう。転載します。

 「正月に寺にこもりたるは、いみじぅさむく、雪がちに氷りたるこそをかしけれ。
 雨うち降りぬるけしきなるは、いとわろし。清水などにまぅでて、局する程、
 くれ階のもとに、車ひきよせて立てたるに、帯ばかりうちしたるわかき法師
 ばらの、足駄といふものをはきて、いささかつつみもなく、下りのぼるとて、
 なにともなき経の端うち誦み、倶舎の頌(ず)など誦しつつありくこそ、所に
 つけてはをかしけれ」 (清少納言「枕草紙」より引用)(24号より転載)

 2 阿闍梨(あじゃり) 

 1 弟子の行いを正し、その規範となる師
 2 密教の秘法を伝授する僧
 3 僧の職官の一つ
           (講談社「日本語大辞典」より引用)  

 延暦寺の台密と東寺の東蜜では、当時から阿闍梨の意味が違っているよう
 です。また、平安時代と現在では、阿闍梨という言葉そのものの意味も
 変わっているようです。残念ながら不勉強にして私にはその違いがわかり
 ません。ご存知の方は個人的にでも、ご教示いただけますとうれしく思い
 ます。
 延暦寺では千日回峯行という荒行を達成した僧に与えられる称号でもある
 ようです。

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   《 3・所在地情報 》    (43号から転載しています。)

   ◎ 仁和寺 (にんなじ)

所在地 右京区御室大内33
電話      075-461-1155
交通      京都駅烏丸口より市バス26番宇多野・山越行き
        御室仁和寺下車すぐ
拝観料     無料。御殿は500円。
        春秋のみ公開の霊宝館は別に500円 
拝観時間    9時から16時30分
駐車場     120台。有料

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   《 4・関連歌のご紹介 》

 1 さ夜ふけてきぬたの音ぞたゆむなる月を見つつや衣うつらん
                   仁和寺後入道法親王覚性 (千載集)

 2 よもすがら花のにほひを思ひやる心や峯に旅寝しつらん
                   仁和寺後入道法親王覚性 (千載集)

 3 はかなさを恨みもはてじさくら花憂き世はたれも心ならねば
                   仁和寺後入道法親王覚性 (千載集)

 4 虫の音もまれになりゆくあだし野にひとり秋なる月のかげかな
                      仁和寺法親王道性 (千載集)

 5 梅が枝の花にこづたふうぐひすの声さへにほふ春のあけぼの
                      仁和寺法親王守覚 (千載集)
 
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  《 5・お勧め情報 》

   除夜の鐘

京都で除夜の鐘をつけるお寺がたくさんあります。思い出に、初詣を兼ねて
鐘をつきに行くのも一興かと思います。
以下のページにお寺の紹介があります。

 http://allabout.co.jp/travel/travelkyoto/closeup/CU20011207A/

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  《 6・エピソード 》

まず先回43号の訂正です。補筆事項の 1 菩提院と前斎院 の項で
 
「菩提院は鳥羽天皇と待賢門院を父母とする統子内親王のものでした。
 そこに住んだことがあるから菩提院の前斎院と呼ばれたものです。」

上の記述は間違っていると考えます。確証はありません。内親王が菩提院の
前斎院と呼ばれたらしい1132年から1157年までの間の一時期に大僧正了遍が
住持しています。菩提院は統子内親王などが住持出きるはずもないお寺だと
思います。そこで冒頭の「菩提院は」を「菩提院の中の斎院御所は」と訂正
します。それでも確証はありません。

12月20日、寒波が襲来し京都でも今冬はじめての降雪がありました。各メディア
で雪の金閣寺などの写真が発表されたので、ご存知の方も多いと思います。
積雪量は多くはなく、市街地は数センチ程度でした。
20日は仕事のために外出できなくて、やむなく昨日21日に撮影に行きました。

  玉がきはあけも緑も埋もれて雪おもしろき松の尾の山 (99P)

と、詠われている松尾大社の雪景色の撮影が目的です。昨日の朝七時半に家を
出て八時前には松尾大社に着いたのですが、あいにくと積雪量が二センチほど
しかなくて歌の雰囲気が出ていません。積雪の多いときに、またチャレンジ
してみます。
松尾大社で数枚撮影してから徒歩で浄住寺に行きました。アジサイがまだ咲いて
いました。先回、12月3日に見た時は一輪だけ咲き残っていたという記憶ですが、
なんと二輪ありました。見落していたのでしょう。
先回、当欄にお知らせした12月3日の撮影の記録は以下のページです。

  http://kazu02aa.hp.infoseek.co.jp/saigyo2/1203koyoa.html

私は例年のように正月は愛媛県の生地で過ごします。そして1月11日は愛宕山
新春登山に参加する予定です。

今号を以って本年の発行は終ります。この一年のご購読、感謝申し上げます。
次号は新年12日の発行予定ですが、あるいは少しずれ込む可能性もあります。
この一年、充実のうちに過ごされた方も、心ならずも、そうではなかった方も、
おられるでしょう。どなたにも、ただただ、ご健勝をと願いあげます。
では皆様、良いお年をと念じ上げて今年最後の稿を終えます。

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