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     ■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■    

                      vol.45(隔週発行)
                      2004年1月31日号
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  メールマガジン「西行の京師」ご購読ありがとうございます。
  本年もよろしくお願い申し上げます。
  事情があって、今頃になっての、今年はじめての発行となります。
  遅れてしまったこと、申し訳ございません。

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     ■ 西行の京師  第45回 ■

   目次  1 今号の詞書と歌
        2 補筆事項       
        3 所在地情報
        4 関連歌のご紹介
        5 お勧め情報
        6 エピソード

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   《 1・今号の詞書と歌 》

   《 詞書 》


 1 仁和寺の御室にて、山家閑居見雪といふことをよませ給ひけるに

                            (98P 冬歌)
   この詞書の次に下の歌があります。

   降りつもる雪を友にて春までは日を送るべきみ山べの里

 2 世の中に大事出できて、新院あらぬさまにならせおはしまして御ぐし
   おろして、仁和寺の北院におはしましけるに参りて、けんげんあざり
   出であひたり。月あかくてよみける
                            (181P 雑歌)

   この詞書の次に下の歌があります。
   
   世の中をそむく便やなからましうき折ふしに君があはずば

  (参考詞書)

 1 内に貝合わせむと、せさせ給ひけるに、人にかはりて
                           (171P 雑歌)

  この詞書は新潮版では「二条院の」という言葉が前置されています。
  「二条院の内に貝合わせむ・・・」です。よってここで取り上げます。
  この詞書の次に九首の歌があります。以下は、その内の初めの歌です。

   風たちて波ををさむる浦々に小貝をむれてひろふなりけり   

   今号の寺社名=仁和寺の御室・仁和寺の北院・二条院
   今号の人名=新院・けんげんあざり

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  (1)の詞書と歌の解釈

○み山べ=(み)は美称の接頭語。み雪などの用法と同等。
 
鳥羽院と待賢門院を父母とする覚性法親王の主催する仁和寺での歌会の時の
歌です。先号の詞書(3)でも紹介しましたように、覚性法親王の主催する歌会
に西行は少なくとも二回は出ていることになります。覚性法親王は崇徳天皇や
後白河天皇の弟に当たります。西行とは11歳の年齢差があります。

(詞書)
御室仁和寺にて、山家が冬の間ひっそりと閉じこもって雪を見ているという、
その情景を詠みあいました。

(歌)
降り積もってくる雪をみて、それを友とするしかないのが山家の人々の生活だ。
それだけに、寒気もゆるみ、花も開く春がことさらに待ち遠しいと思うのだ
ろう。山辺に住む人たちは・・・。

新潮版の山家集では、以下のようになっています。

 降りうづむ 雪を友にて 春来ては 日を送るべき み山辺の里

  (2)の詞書と歌の解釈

○大事=1156年7月10日に起こった保元の乱のことです。10日夜半に戦端が
      開き、崇徳上皇は12日以後に仁和寺に入りました。
○新院=崇徳上皇のことです。近衛天皇在位時に鳥羽院と崇徳院がいました
      ので、鳥羽院を一院、崇徳院を新院と呼称していました。
○あらぬさま=保元の乱で後白河天皇方との戦いに敗れたことを指しています。
○御ぐし=髪のことです。剃髪して仏門に入ったことを意味します。
○けんげんあざり=兼賢阿闍梨のこと。前号既出。

近衛天皇が1155年に崩御。その後に後白河天皇が即位しました。このことに
よって、崇徳院の不満は高まります。1156年7月2日に鳥羽院が崩御して、
崇徳院と後白河天皇という実の兄弟が戦うことになりました。
敗れた崇徳院は仁和寺に入り、23日に讃岐に配流されています。
この12日以降の早いうちに西行は仁和寺に駆けつけました。鳥羽院の葬儀に
出た西行は、高野山には帰らず、そのまま京都に留まっていたものでしょう。
仁和寺に行った時の詞書と歌です。この時は西行は崇徳院とは会えずじまいで
した。

(詞書)
兄弟が争うという大変なことが起きました。崇徳院は敗れて出家するという
痛ましいことになりました。覚性法親王のいる仁和寺の北院に入られたのです
が、会うべく訪ねて行きますと、兼賢阿闍梨が出てきました。
月があまりにも赤くさえていたので詠みました。

(歌)
「こんな騒乱の世に、いつもと変わらずに澄みきっている月が恨めしい、
それをただ眺めているわが身さえ恨めしい」
               (高橋庄次「西行の心月輪」より抜粋)
 
「いたましくも新院が御出家になるようなこんな世の中が恨めしいばかりか、
常に変わることのない光を放っている月が、そしてそれを見ているわが身
までもが恨めしく思われるよ。」
                (新潮日本古典集成山家集から抜粋)
    
 (参考詞書)の詞書と歌の解釈

○浦々=入り江、浜などのこと。そういう場所のある集落。
○むれて(群れて)=集っていること。たくさんで、という意味。

この二条院での貝合わせの会は一説によると1162年のことといわれます。西行
45歳です。「人にかはりて」の「人」とは徳大寺実能の娘で二条天皇の皇后と
なる藤原育子のことだといわれています。

(詞書)
二条院で女性たちが貝合わせの会を行いました。その席で、人に代わって
歌を詠みました。

(歌)
風もなく波もおだやかな入り江に人々は参集して小貝をかき集めていることです。

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   《 2・補筆事項 》

 1 崇徳天皇(1119〜1164)

第74代鳥羽天皇と藤原公実の娘の待賢門院璋子を父母として、1119年5月18日に
出生し、1123年1月に第75代天皇となりました。1141年12月まで在位しました。
白河院の寵愛を受けていた藤原璋子が鳥羽天皇の中宮になったのは1118年です。
翌年、崇徳天皇は生まれましたが、当時から崇徳天皇は白河院の子供という
風説があったそうです。鳥羽天皇も、崇徳天皇は白河院の子供と認識していた
らしくて、「叔父子」として生涯にわたって嫌っていたことがわかります。
実際には、白河天皇は鳥羽天皇の祖父にあたります。
このことが保元の乱の遠因です。
1129年、白河院崩御。以後10年以上も崇徳天皇が天皇位にとどまっていたのは、
鳥羽天皇に待賢門院以外の女性との子供がいなかったからでしょう。
1139年、美福門院との間に近衛天皇が生まれると、1141年、鳥羽院は崇徳天皇を
強制的に退位させ、近衛天皇を第76代天皇とします。この近衛天皇が1155年に
早世すると、なんと崇徳院の弟の後白河天皇が即位して、皇太子は二条天皇と
なります。これによって崇徳院の血筋の者が天皇になる可能性が完全になくなり、
崇徳院の不満は高まります。この時、藤原忠通は崇徳院の血筋が皇位につくこと
に反対し、後白河即位を画策しました。また後白河天皇の乳母だった紀伊の二位
の局も、そして二位の局の夫である藤原信西も後白河即位に向かって暗躍した
ようです。二位の局は終生、西行と親しかった女性です。
1156年7月2日鳥羽院崩御。崇徳院は鳥羽院の遺体との対面も拒絶されていました。
そして同月10日からの保元の乱にと続きます。
白河北殿に拠っていた崇徳院は敗れて12日以降に仁和寺の覚性法親王を頼って
仁和寺に入ります。同月23日に讃岐に配流。1164年8月に讃岐にて崩御しました。

 2 崇徳院と西行の関係

崇徳院は西行とは、もっとも親しい天皇でした。もちろん身分の差があります
から、日常的に対等な交流があったわけではありません。
崇徳院は和歌に秀でていました。久安百首などが知られますが、藤原顕輔に
詞花集の撰集を命じたのも崇徳院です。
この詞花集に西行の歌は一首のみ、読人知らずとして撰入しています。

 身を捨つる人はまことに捨つるかは捨てぬ人こそ捨つるなりけれ

崇徳院の歌のサロンに西行も関係していたのは183Pの次の贈答歌からも明白です。

 最上川つなでひくともいな舟のしばしがほどはいかりおろさむ (崇徳院)

 つよくひく綱手と見せよもがみ川その稲舟のいかりをさめて   (西行)

二人の間には、この種の歌を贈りあえる関係性が構築されていました。
崇徳院は待賢門院所生の長子として、西行にも、ある思い入れがあったもので
しょう。だからこそ、身分の差を越えて保元の乱後に仁和寺にも駆けつけまし
たし、また、讃岐にいた崇徳院とも「女房」を介して歌の贈答をしています。
崇徳院が1164年に讃岐で没してから数年後、西行は白峰の墓所に詣でています。
1168年秋のことだとみられています。下はその時の歌です。

 よしや君昔の玉の床とてもかからむ後は何にかはせむ  (111P き旅歌)
                        (き)の漢字が使えません。

尚、134Pの「宮の法印」とは、崇徳院の第二皇子にあたる元性法印のことです。
この法印とも親しく交流していたのは西行らしいと思います。

 3 保元の乱

保元の乱とは藤原摂関政治の終わりを告げる象徴的な出来事でした。
表面的には崇徳院と後白河天皇の皇位をかけての相克、そして藤原忠通と藤原
頼長の兄弟の権力争いといえます。ですがこの事変によって一挙に時代は動いて、
貴族の王朝の時代から武家政権の樹立に向かって進みます。続く平治の乱で平
清盛が実権を握って、この国の政治を欲しいままにしました。源平の争乱を経て、
鎌倉幕府成立は1192年のことです。保元の乱から36年後のことです。
以後、江戸時代まで武家政権が続くことになります。
貴族政治は終焉し、天皇の王権も弱体化していきます。

 4 二条院

二条院については二条天皇の住んでいた御所(二条高松殿?東三条内裏?二条
内裏?)を指すのか、それとも二条院と呼ばれていた建物を指すのか、判然と
しません。この詞書だけでは特定はできないと思います。現在の京都御所を指す
とする書物もありますが、現在の御所は南北朝の時代に光厳天皇が御所とした
のが始まりですから、それは間違いです。
二条院は現在の二条城の東側にある京都全日空ホテルの敷地にありました。
もともとは醍醐天皇の皇后であった藤原穏子の邸宅の跡です。それより古く、
800年代末葉には二条院の名が見えます。ここは穏子死亡後に道長が伝領した
とも言われますが、後に白河天皇第三皇女の令子内親王(1078〜1144)が住んで
いたようです。以後のことについては私にはわかりません。
二条殿、二条院、小二条殿、二条内裏とあり、それぞれに場所が違います。
二条内裏は後に二条高倉殿とも呼ばれます。 
ここでの二条院は二条院と呼ばれていた建物をさすのではなくて、二条天皇が
住んでいた御所を指すと解釈したほうが自然のようです。

 5 貝合わせ

「物合わせ」のひとつで平安時代に始まったといわれる、女性たちの遊びです。
二枚貝の内側に絵や和歌を書き込んで、同じ図柄や、和歌の上句と下句を合わせ
ます。この遊芸は廃れることなく続いてきました。
鎌倉時代には伊勢のハマグリがよく用いられたということです。
藤原定家の冷泉家に伝わる貝を見ましたが、芸術品としても見事なものだと
思います。
 
 6 白峰神宮

今出川堀川の交差点の少し北東にあります。讃岐で憤死した崇徳院の霊を祀るために
第121代孝明天皇が讃岐の白峰から神体を迎えて創建しょうとしましたが、果たせま
せんでした。明治天皇が父の意思を継いで、明治元年に創建したものです。
五年後には淳仁天皇も合祀されました。保元の乱で崇徳院方についた源為義・為朝も
祀られています。
同所はもともとは蹴鞠の飛鳥井氏の別邸のあったところで、地所は飛鳥井氏の寄付に
よります。現在はサッカーの関係者から崇敬を集めているようです。

             平凡社「京都市の地名」
             窪田章一郎氏著「西行の研究」
             その他を参考にしました。

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   《 3・所在地情報 》

   崇徳院ゆかりの寺社

 ◎  安井金比羅宮

 所在地   東山区東大路通り松原上る下弁天町70
 電話    075-561-5127
 交通    市バス東山安井下車すぐ。
 拝観料   無料

 ◎  白峰神宮

 所在地   上京区今出川堀川東東入る飛鳥井町261
 電話    075-441-3810
 交通    市バス堀川今出川下車すぐ
 拝観料   無料
 
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   《 4・関連歌のご紹介 》

 1 瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思う
                    崇徳院 (百人一首七七番)
 
 2 道のべの塵に光をやはらげて神も仏をなのるなりけり
                       崇徳院 (千載集)

 3 限りありて人はかたがた別るとも涙をだにもとどめてしがな
                       崇徳院 (千載集)  

 4 ひまもなく散るもみぢ葉にうづもれて庭のけしきも冬ごもりけり
                       崇徳院 (千載集)

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   《 5・お勧め情報 》

   北野天満宮の梅

 見頃は2月下旬頃からですが、蝋梅は咲いているそうです。

 ◎ 北野天満宮 (きたのてんまんぐう)

 所在地    上京区馬喰町
 電話     075-461-0005
 交通     京都駅から地下鉄で今出川まで。今出川から市バス
         51.102.203番などで北野天満宮前まで
         京都駅から市バス50.101番で北野天満宮前まで
 拝観料    無料。ただし毎月25日に開かれる宝物殿は300円
 拝観時間  冬期 5時30分から17時30分まで
         夏期 5時から18時まで
 駐車場    300台。ただし25日は駐車不可


   北野天満宮のホームページ

   http://www.kitanotenmangu.or.jp/top.html

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   《 6・エピソード 》

今号が本年初めての発行となります。いささかどころではなくて、大幅に時期を
失しましたので、新年のご挨拶は自粛します。前号発行から40日ほどがたちます。
大変失礼しました。

昨年暮れに風邪を引きました。39度以上の高熱の日々が続きました。床上げまで
に10日近くを要しました。夢かうつつか、うなされながらの数日は、さすがに
不安が増幅するものですね。そういえば、西行も山家集の中で「例ならぬこと」
とか「かぜわづらひて」と記述しています。薬も寝具も暖房も現在とは格段の差
がある当時の生活環境では、風邪を引けばそのまま命を落とす危険性もあったの
でしょう。
生来的に身体が頑健でなければ長生きできない時代であったことは確かです。

今月5日頃にパソコンがどうしょうもなくなって初期化しました。でもやはりうまく
作動しませんので、意を決して新しく買い換えました。
WIN98からWINXPに変えたのですが、セットアップに手間取りました。これまで
のソフトなどはすべてXP対応でなければ適合しません。独学でパソコンは使って
いますので、知らない面も多いのです。10日ほどかかってなんとか原稿を打ち
込める体制になりました。

ですが、しがない自営業の身ですし、仕事を最優先するしかなくて、原稿は遅々と
して進みません。悪いことに老眼鏡を割ってしまって、裸眼での打ち込み作業は
難渋しました。いまだに老眼鏡は新調していません。検眼して、眼にあわせて
レンズを作りますので、すぐにというわけにもいきません。

過日、新春耐寒登山と銘打って、愛宕山に登ってきました。八合目あたりから
積雪があり、登山時間は三時間以上を要しました。八名で登ったのですが、
それぞれに思い出の一日になったのではないかと思います。

西行の京師は残りは10回ほどです。きちんと発行できたとして6月頃には終
わります。しかし、少し書きたいこともあって、もう少し続くかも知れません。
まだまだ風邪も抜けきってはいず、本調子には遠いのですが、なんとか頑張ります
ので、本年もよろしくお願いいたします。

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