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■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■
vol.47(隔週発行)
2004年4月12日号
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メールマガジン「西行の京師」ご購読ありがとうございます。
2月17日に46号を発行して以来、2ヶ月近くが過ぎたことになります。
この一春を咲き誇ったソメイヨシノもほぼ花を落として、変わって瑞々しい
柔らかな新緑がやさしい響きを伝えてきています。
陽春という言葉通りのすばらしい季節の到来です。
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■ 西行の京師 第47回 ■
目次 1 今号の歌と詞書
2 補筆事項
3 所在地情報
4 関連歌のご紹介
5 お勧め情報
6 エピソード
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《 1・今号の歌と詞書 》
《 歌 》
1 春風の花のふぶきにうづもれて行きもやられぬ志賀の山道
(36P 春歌)
《 詞書 》
1 松風如秋といふことを、北白河なる所にて人々よみて、また水聲秋
ありといふことをかさねけるに
(54P 秋歌)
この詞書の次に下の歌があります。
松風の音のみなにか石ばしる水にも秋はありけるものを
2 北白河の基家の三位のもとに、行蓮法師に逢いにまかりたりけるに、
心にかなはざる恋といふことを、人々よみけるにまかりあひて
(270P 残集)
この詞書の次に下の歌があります。
物思ひて結ぶたすきのおひめよりほどけやすなる君ならなくに
今号の地名=北白河・志賀の山道
今号の人名=基家の三位・行蓮法師
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(1)の歌の解釈
○北白河=前号既出。京都市左京区にある地名。
○志賀の山道=志賀の山越えと同義。前号参照願います。
前号で紹介した歌とセットになっているような感じの歌です。併記します。
ちりそむる花の初雪ふりぬればふみ分けまうき志賀の山越 (46号掲載歌)
春風の花のふぶきにうづもれて行きもやられぬ志賀の山道 (今号掲載歌)
藤原良経の主催した「六百番歌合」に「志賀の山越え」の題詠があります。
そこには「志賀の山道」歌もあり、志賀の山道は志賀の山越えと同義として
詠われていますので、西行の志賀の山道の歌も志賀の山越えの歌と解釈して
さしつかえないものと思います。
一場の情景と西行の心象が手に取るように分かる平明な表現の歌です。
舞い散る桜の花びらを雪になぞらえるのは常套的ですが、その分、どなたにも
歌の世界のイメージが自然に喚起されると思います。二つの歌の間には時間的
な経過があります。吹雪という限りは風が強く、風のために桜花が盛んに散り
敷いている状況を指しています。そういう状況の中で「行きもやられぬ」は風
の強さのために進み行くことが困難であるということとともに、ただ散って
いくしかない桜の花びらに対しての西行独自の愛惜の念がこめられていると思い
ます。むしろ、桜に対しての思いを、より強く言いたいためにこそ、この歌は
あるという解釈も成立すると思います。
(1)の詞書と歌の解釈
○石ばしる(いわーばしる)=
「枕ことば」《岩の上を水が勢いよく流れる意》
「滝・垂水・近江」などにかかる。
(講談社「日本語大辞典」より引用)
(詞書)
「吹きわたる松風は秋の感じだということを、北白河という所で人びとが歌に
詠んで、またその上に流れる水の声にもすでに秋の感じがあるということを
加え、つまり二つの題を重ねて詠んだのであるが」
(宮柊二氏著「西行の歌」より抜粋)
(歌)
「松風の音を聞くと秋の訪れを思わせられるが、そればかりではなく、石の上を
勢いよく流れてゆく水の音にも、秋ははっきり感じられることだよ。」
『松風の音、石走る水の音と、聴覚に訴えるものに秋を感じとった歌』
(新潮日本古典集成「山家集」より抜粋)
尚、日本古典全書「山家集」、新潮日本古典集成「山家集」では
「音のみなにか」は「音のみならず」と表記されています。
(2)の詞書と歌の解釈
○基家の三位=藤原道長の子の頼宗を祖とする家系に連なります。後高倉院や
後鳥羽院は基家の姪の子、後堀河院は孫に当たります。
○行蓮法師=不明です。法橋行遍のことだといわれています。後述。
○おひめ=結び目のこと。
(詞書)
北白河の三位藤原基家の家に行蓮法師(法橋、行遍の誤りか?)が来ている
とのことですので逢いに行きました。そのときに「心にかなわない恋」という
題で人々が歌を詠んでいました。
(歌)
あなたのことを思って、心の中で結ぶたすきの結び目はしっかりと固く結んで
いるのですが、あなたの心は私につれなく、その結び目よりも固く閉じています。
題詠歌の限界性ということもあると思いますが、この歌には躍動する作者の心情が
込められていないと思います。
それもそのはずで、題詠の場合は即興的に詠んで座興を高めるということが
必要だったのでしょう。他の題詠の恋歌も読んでみると分かりますが、西行
個人の内面性ということは想像さえさせない歌ばかりです。個人的な恋の感情
を詠わないという約束事が恋の題詠歌にはあったのかもしれません。
作者本人の恋愛感情を素直に表現するという形ではなくして、より一般的な形で
恋愛の歌を創作するということが当時の恋の題詠歌に求められていたものと
解釈できます。
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《 2・補筆事項 》
1 石ばしる
日本古典全書、新潮日本古典集成、西行山家集全注解ともに「いはばしる」
ではなく「いしばしる」としています。しかし和泉書院の「山家集類題」では、
「石ばしる」という表記ですので、西行自筆稿は「石ばしる」の可能性が強い
と思います。そうであるなら「いはばしる」という発音でもさしつかえない
でしょう。
石激る垂水の上のさ蕨の萌え出づる春になりにけるかも
(万葉集、巻八、志貴皇子)
この志貴皇子の歌の場合は「いはばしる」というイメージが合理的ですが、
西行の歌の場合は白河の流れの中の小石を流れが穏やかに洗って行くという
イメージを喚起させますので、「いしばしる」と読みを特定したほうが、ある
いはふさわしいのかもしれません。
2 基家の三位
藤原基家(1131〜1214)は藤原頼宗流に連なり、父は藤原通基、母は待賢門院
の女房だった一条という女性ということです。この女性は上西門院の乳母とも
言われていて、その関係で西行とも親しかったようです。
基家の姉か妹の休子という女性が殖子という娘を産みました。基家にとっては
姪に当たります。この殖子が高倉天皇との間に第82代後鳥羽天皇をもうけて
います。また、天皇にはなっていませんが後堀川天皇の父として院政を執った
後高倉院(守貞親王)も殖子を生母としています。
これとは別に基家の娘の陳子が後高倉院に嫁いで後堀川天皇の生母となって
います。基家の娘と、そして姪の子供との結婚ですから非常に近い血族間での
結婚といえます。基家は後堀川天皇の祖父に当たりますが、政治の中枢で活躍
した人とはいえません。基家が従三位であった期間は1172年から1176年までと
いう説がありますので、西行55歳以降の歌であるといえます。
この基家の経歴については良く分からないというのが実情です。従三位は
(1172年から1176年)、正三位は(1176年から1187年)、以後は従二位のよう
ですが、確実な資料がなくて異説もあるようです。
それにしても娘と、姪の子供との結婚ということは、年代的に見て可能なのか
どうか疑問でしたが、後鳥羽院が1180年生まれ、後堀川院が1212年生まれです
から、かろうじて可能でした。後堀川院の生母である藤原陳子は基家が60歳頃の
子供だったものでしょう。
3 行蓮法師
ここに出てくる行蓮法師は行遍のことだと言われています。新古今1548番
(岩波文庫)の詞書に西行との関連性のある記述があります。詞書と歌を
転載します。作者は法橋行遍です。
『月明き夜、定家朝臣に逢ひ侍りけるに、「歌の道に志深き事は、いつばかり
よりのことにか」と尋ね侍りければ、若く侍りし時、西行に久しく相伴ひて
聞き習ひ侍りしよし申してそのかみ申しし事など語り侍りて、朝に遣はしける』
『あやしくぞ帰さは月の曇りにし昔がたりに夜やふけにけむ』
定家と行遍はたがいに西行をよく知っていたというふうに解釈できる詞書です。
この詞書により、山家集の行蓮法師は行遍のことと解釈されたものでしょう。
行遍については「西行の研究」の窪田章一郎氏も「西行の思想史的研究」の
目崎徳衛氏も触れていません。日本古典全書の伊藤嘉夫氏が「川田説」と注記
した上で「行遍は勘解由次官藤原顕能の子。仁和寺阿闍梨」としています。
渡部保氏の「西行山家集全注解」でも、この説に従っています。
仁和寺菩提院を住持し、東寺長者にもなっていた行遍は後に大僧正にもなるの
ですが、西行死亡年にわずかに9歳です。1181年出生、1264年死亡といわれて
います。そうすると、基家の三位の歌会の年である1172年から1176年には出生
さえしていません。従ってこの行遍ということは確実にありえません。
ここにある行蓮法師は熊野別当行範の第六子の法橋行遍のことです。同名異人
です。西行が熊野に行った時に知遇を得たものだと思います。
このことは川田順氏の昭和15年11月発行の「西行研究録」に記述されています。
伊藤嘉夫氏が「川田説」として取り上げた書物は昭和14年11月発行の「西行」
であり、川田氏は翌年発行の「西行研究録」で行遍についての記述ミスを認めて、
訂正されています。
新古今に採録されている法橋行遍の作品も仁和寺の僧の行遍ではなくて、熊野の
行遍の作品といえます。行遍の作品は新古今843番、1289番、1839番とあわせて
四首があります。(番号は岩波文庫によります。)
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《 3・所在地情報 》
できる限り、その号で紹介した歌や西行に関係する所を取り上げたいのですが、
今回は紹介するところがありません。
基家の北白川の屋敷が後堀川天皇の生母である藤原陳子の「北白河院」という
記述も見かけましたが、北白河院は、今ではどこか特定することは不可能です。
またこの時代の歌壇をリードしてきた源俊恵の「歌林苑」も白河にあったと
いうことですが、その場所も特定することはできません。
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《 4・関連歌のご紹介 》
1 遠方やまだ見ぬ峰は霞にてなほ花思ふ志賀の山越
藤原良経 (六百番歌合)
2 春深み花の盛りになりぬれば雲を分けいる志賀の山越
藤原家房 (六百番歌合)
3 道もせに花の白雪降り閉じて冬にぞかへる志賀の山越
源信定(慈円)(六百番歌合)
4 匂はずばふぶく空とぞ思はまし花敷きまよふ志賀の山道
藤原季経 (六百番歌合)
5 故郷に思ふ人ある家づとは花にぞ見ゆる志賀の山越
寂蓮 (六百番歌合)
6 誘はれて志賀の山路を越えぬれば散り行く花ぞしるべなりける
藤原経家 (六百番歌合)
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《 5・お勧め情報 》
南禅寺展
場所 京都国立博物館
京都市東山区茶屋町527
電話 075-541-1151
会期 4月6日から5月16日まで
時間 9時30分から18時まで
交通 市バス博物館、三十三間堂前下車すぐ
http://www.asahi.com/event/nanzenji/
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《 6・エピソード 》
「西行の京師」第47号をお届けいたします。大変遅くなり、申し訳ございません。
入院の件については号外でお知らせしたとおりです。たくさんの方から激励の
メールをいただきました。ありがとうございました。入院期間は二週間でした。
当初、素人考えで見ていた期間よりも少なくすんで助かりました。
4月までに何とか47号の発行をと考えていました。しかし退院してからもなんと
なく体調が優れず、何かをしょうとする気持ちが起きずに、いたずらに日々を
重ねている状態でした。ちょっと自身に甘え過ぎているとも思いましたが、同時に、
甘えられる良いチャンスとも思いました。そういうわけで47号の発行は見込みより
少し遅れましたこと、ご了承願いあげます。
今後の発行については、不定期発行とさせてください。ただし、できる限り隔週
発行を守りたいものと思います。
関西では今年の桜も終わってしまいました。ただし八重桜などはこれから開花
して、楽しませてくれます。
今年のお花見は勝持寺、大原野神社、十輪寺を訪ねました。あいにくと雨の日曜日
でした。しかし、それぞれの地で、桜はこの一春を咲き誇っていました。
私が20歳前頃、今から35年ほども前に自転車で勝持寺を訪ねたのが初めでした。
以来、何度となく訪ねています。4キロほどの近さですので、桜の頃だけでなく、
気が向けばふらっと出かけて行ったこともあります。
私の背丈ほどしかなかった西行桜も、立派な樹になって楽しませてくれています。
今では老いが忍び寄っているという感じもさせます。それだけ私もまた齢を重ねた
ということです。
西行法師の場合は特別な感じもしますが、桜に対しての思い入れの強さが年毎に
増幅されるようです。あるいは、それもまた自然なことなのかもしれません。
先回46号の「志賀の山越」のことについて、神戸市在住のY様から示唆的な
ご教示をいただきました。
今号は「基家」と「行遍」の同名異人が同時代に二人いて、調べるのに手間取り
ました。手元のわずかばかりの資料では、お手上げ状態で、仕方なくネットでも
検索しました。こういうのはもう学者の仕事の領分だともいえます。
とはいえ、やる以上はできるだけ調べてミスをなくしたいと思います。もし、何か
お気づきの方はご教示願いあげます。公開できる性質のものについては、ご了解
の上、公開したいと思います。
メールアドレスをOCNからYAHOOに変更いたしました。新しいアドレスは下に
記述しています。古いアドレスは使用不能になります。ご了承お願いいたします。
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