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     ■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■    

                      vol.48(隔週発行)
                      2004年5月01日号
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 メールマガジン「西行の京師」ご購読ありがとうございます。
 風薫る五月の到来です。暑くもなく寒くもなく、新緑が目に優しい、
 さわやかな季節です。この佳い季節の五月に、可能な限り外に出て、
 自然の景観に接したいものと思います。

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     ■ 西行の京師  第48回 ■

   目次  1 今号の歌と詞書
        2 補筆事項       
        3 所在地情報
        4 関連歌のご紹介
        5 お勧め情報
        6 エピソード

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   《 1・今号の歌と詞書 》

   《 歌 》

 1 こ笹しく古里小野の道のあとを又さはになす五月雨のころ
                          (49P 夏歌)

   《参考歌》

 1 ゆふ露をはらへば袖に玉消えて道分けかぬる小野の萩原
                          (60P 秋歌)

   《 詞書 》

 1 人に具して修学院にこもりたりけるに、小野殿見に人々まかりけるに
    具してまかりて見けり。その折までは釣殿かたばかりやぶれ残りて、
   池の橋わたされたりけること、から絵にかきたるやうに見ゆ。
   きせいが 石たて瀧おとしたるところぞかしと思ひて、瀧おとしたり
   けるところ 、目たてて見れば、皆うづもれたるやうになりて見わか
   れず。木高くなりたる松の音のみぞ身にしみける
                          (266P 残集)
   この詞書の次に下の二首があります。 

 1 瀧おちし水のながれもあとたえて昔かたるは松のかぜのみ

 2 この里は人すだきけむ昔もやさびたることは変らざりけむ

   今号の寺社名=修学院・小野殿・釣殿
   今号の地名=小野・修学院
   今号の人名=きせい

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 (1)の歌の解釈

○小野=小野という地名は京都にいくつかあります。今号の歌の小野は
      どこにある小野か特定できません。後述。
○さはになす=沢になる、という意味。
○古里=実際に生まれた土地、出身地ということを意味していません。
     以前は名のあった土地だけど、そこは少し寂れて古い里になった
     という事実に、哀感を託した言葉だと思います。同時に、雨の
     「降る里」ということをかけています。

 かつてはもう少し賑わいを見せていた小野の里も、今では少し寂れてきて
 います。小道には小笹が生い茂っていて、道の跡としか見えません。
 その道のあった所を、降り続いている五月雨は奔流となってほとばしり、
 雨水が勢いよく流れる沢にすることでしょう。

 歌にある全体の言葉の調子、統一感というものから見ると悪くはない歌だと
 思います。むしろ良い歌の部類だろうと私は思います。分かりやすい歌とも
 いえます。
 しかしやはり歌に込められた詠み手の情動そのものが読み手と響きあい、
 絡み合うという傾向の歌などから見ると、情景を詠った歌であることの弱さ
 みたいなものを禁じ得ません。

 (1)の参考歌の解釈

○小野=この歌にある小野は地名としての小野を指していないという説が
     あります。小さな野原という意味のようです。

 《「しとどに降りた夕べの露を払いながら行くとわが袖にふれて白露の玉が
  消え失せるので、それが惜しくて、狭い道を分けて行くのもためらわれる。
  この野の萩の花の原よ。」
  ○小野ー地名でなく「小」は接頭語で「野」のこと。》
         (《 》内は渡部保氏著「西行山家集全注解」より抜粋)
        
 「小野の萩原では通って行こうとすると、袖が触れて美しい夕露の玉が消え、
  魂も消えてしまうような気がして、路を踏み分けかねることである。」
                (新潮日本古典集成「山家集」より抜粋)
    
 新潮版の解釈では、小野は地名とも受け取れる記述です。しかし、歌から
 受ける印象としては地名でなくてはならない必然が希薄です。
 この歌にある小野が固有の土地を指すことばであるのかどうか、判断できる
 資料が私にはありません。どなたか、ご存知の方はご教示願います。
 
 1 夕されば小野の浅茅生玉散りて心くだくる風の音かな
                        藤原兼実 (千載集)

 2 夕暮は小野の萩原吹く風にさびしくもあるか鹿の鳴くなる
                        藤原正家 (千載集)

 上記二首においても小野という言葉の用い方は参考歌と同等と解釈できます。
 「小野の篠原」のように歌枕として地域を限定している時、あるいは「山」
 「里」などのように地域を限定する言葉によって補完されている時、「小野」
 は京都の小野と解釈できます。それ以外の場合は、小さい野という解釈の方が
 ふさわしいと思います。「小野の篠原」については次号にご紹介します。

 それにしても西行歌の露の「玉」を「魂」にかけているとする読み方は行き
 すぎでしょう。不自然な読み方だと思います。これが上記の藤原兼実の歌で
 あるなら、情景から心象にという展開をみせていますので、「玉」は「魂」
 であるとしても納得できる読み方だと思います。
 
 (1)の詞書と(1)と(2)の歌の解釈

○修学院=左京区にある地名及び寺社名。後述します。
○釣殿=寝殿造りで、東西の対の屋から南に延ばされた中門廊の端に、池に
      のぞんで建てられた建物。(講談社「日本語大辞典」より引用)
○小野殿=小野宮のこと。丸太町烏丸あたりにあった惟喬親王の邸宅をいいます。
○目たてて=注意して物を見ること。関心を持って見る事。
○きせい=不明。庭園作製者でしょう。

 (詞書)
 人と共に修学院にこもっていた頃のことです。人々が小野殿を見物に行こう
 と言うことですので、同行しました。小野殿の釣殿はその時までは形ばかり
 残っていました。
 池には橋が渡されているのですが、その様子などは唐絵に描いたように、鮮や
 かに見えました。ここは、きせいという庭師が大きな石を立てて滝を作って
 水を流していた所です。しかし、注意して良く見てみても、すべてが埋もれた
 ようになっていて、滝の跡も見分けがつきません。高く伸びた松の木を渡って
 行く風の音のみ聞こえることが、うら寂しくて身にしみます。
  
 (1の歌)
 かつては滝があり流れていた水も、今では絶えてしまっています。この邸の
 昔のことを語るものは何もありません。ただ、松風のみが往時と同じに吹き
 すぎて行くばかりです。
 
 (2の歌)
 この里、この惟喬親王邸宅では人がたくさん集まっていた昔でさえ、今と同じ
 ように、うら寂しいものであったことでしょう。

 この(2)の歌では第55代文徳天皇の長子でありながら、生母が紀氏のために
 天皇になれなかった惟喬親王に対しての深い同情の気持ちが込められていると
 思います。その気持ちが「すだきけむ・さびたる(賑やかだけど寂しい)」
 という背反する表現になっているものでしょう。

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   《 2・補筆事項 》

 1 小野氏と小野歌(1)  

 930年代に成立した「和名抄」によると、山城の国には宇治郡の小野郷と
 愛宕郡(おたぎぐん)小野郷が見えます。それとは別に北区にも小野の
 地があります。

 1 宇治郡の小野郷は現在の山科区小野あたりを指しています。
 2 愛宕郡小野郷は現在の左京区松ヶ崎、上高野、大原一帯を指していま
   した。しかし現在は小野と表記する地名は消えてしまっています。
 3 北区の周山街道沿いの山間部に小野があります。

 以上すべての小野の地は古代豪族の小野氏にゆかりのある場所だと思います
 が、愛宕郡小野郷以外は、その確証に欠けるようです。
 山科区の小野には小野小町ゆかりの随心院があります。
 北区小野には平安三蹟の一人である小野道風ゆかりの小野道風社があります。
 しかし、小野道風と小野の地及び小野道風社との関係ははっきりしていません。
 左京区の小野は小野氏との関係が最も濃厚な所です。小野毛人(えみし)の
 墓からは国宝の「金銅小野毛人墓誌」も出土しています。初代遣隋使を勤めた
 小野妹子ゆかりの「三宅八幡神社」もあります。

 山家集にある小野歌は左京区小野と山科区小野の二ヶ所の歌が混在している
 ものと考えられます。北区の小野を特定する歌、あるいは想定させる歌はない
 と思われますので、北区以外の二ヶ所の歌とみていいでしょう。
 「西行の京師」22号でも記述しましたが、小野歌はすべてここでまとめて取り
 上げます。(4)の関連歌で紹介する歌は、今号はすべて山科区の歌です。
 
 2 小野殿と惟喬親王

 文徳天皇の第一親王である惟喬親王(844〜897)は出家前に大炊御門烏丸
 の邸宅に住んでいました。親王は生母が藤原氏ではなかったために事実上、
 皇位に就く道を閉ざされていました。28歳の時に剃髪、出家。小野に隠棲
 しました。
 ここでの小野は比叡山の麓の大原のことです。親王と親交のあった在原業平
 が大原の山荘を訪ねて歌を詠んでいます。

 忘れては夢かとぞ思ふ思ひきや 雪ふみわけて君を見んとは
                         (在原業平 古今集) 

 白州正子さんの「西行」では、西行達が修学院から見に行った小野殿は、
 この大原の隠棲地だと解釈されていますが、ここはやはり大炊御門烏丸の
 屋敷と解釈するほうが自然です。大原の隠棲地に造園工事をして釣殿を建てる
 というのも不自然な話です。惟喬親王が小野に隠棲したために、親王は小野宮
 と呼ばれ、同時に、この烏丸の屋敷も小野宮とか小野殿と呼ばれました。
 この小野殿は約110メータ四方の屋敷です。大鏡の右大臣実頼「藤原忠平の
 長子(900〜970)」の項に実頼がこの屋敷を伝領したことが書かれています。
 実頼は小野殿に住んだので「小野宮の右大臣」と呼ばれていました。
 小野殿は914年、1057年、1121年、1144年、1167年に火災に遭っていて、以後は
 記録に見えませんので消滅したものでしょう。
 西行達は何年に小野殿を訪ねたのか、年数までは分かりません。火災に遭って
 数年してからと考えれば1150年前後、もしくは1170年前後でしょうか。ただし、
 1144年の被災後すぐに再建されているとしたら1170年頃ということでしょう。
 それでも高野山にこもっている時代に、京都にきて修学院にもこもったものか
 どうか疑問です。可能性としてはあるとは思います。
 
  小野と惟喬親王については下のサイトが詳しいと思います。

  http://www.infonet.co.jp/nobk/kwch/koretaka.htm

 3 修学院と修学院離宮

 叡山三千坊のひとつである修学院(修学寺)に由来する左京区にある地名
 です。
 修学院は叡山の勝算僧正を開基とするとありますが何年の建立か資料があり
 ません。980年代に官寺となっているということです。ここには兼好法師
 (1282頃〜1352頃)も庵を結んでいたことが知られていますので、南北朝の
 頃まで、もしくは応仁の乱頃までは存続していたものと思います。

 現在の修学院離宮は後水尾院が1656年に造営に着手、1659年にほぼ完成した
 ものです。1615年の「禁中並公家諸法度」や、1627年の「紫衣事件」で、幕府
 は朝廷を締め付けましたが、それを不満として後水尾天皇は1629年に退位しま
 した。退位後、洛北で旗枝御所(円通寺)という山荘を営みましたが、水回り
 の関係でそこには満足できず、適地を修学院に求めたものでした。完成した
 当時の離宮は上と下の茶屋のみでした。中の茶屋は明治になってからの造営
 です。
 この離宮は西京区の桂離宮とともに江戸時代初期の代表的な書院造りの建築物
 として高名です。自然の景観との調和美を優先した様式は国内だけでなく海外
 でも著名です。

     (補筆事項は主に平凡社の「京都市の地名」を参考にしました。)

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   《 3・所在地情報 》

   ◎ 修学院離宮 (しゅうがくいんりきゅう)

 所在地      左京区修学院藪添
 電話       075-211-1215 (宮内庁参観係)
 交通       京都駅烏丸口から市バス5番にて、修学院離宮道下車
          徒歩15分
 拝観料      無料(事前にハガキでの申し込み制)
 拝観日時     指定制
 拝観時間     問い合わせ願います 
 駐車場      なし 

   参観申し込み要項は下のページにあります。
 
    http://www.kunaicho.go.jp/13/d13-05.html

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   《 4・関連歌のご紹介 》

 1 きぎす鳴く岩田の小野のつぼすみれしめさすばかりなりにけるかも
                         藤原顕季 (千載集)

 2 今はしもほに出でぬらん東路の岩田の小野のしののをすすき
                         藤原伊家 (千載集)

 3 秋といへば岩田の小野の柞原しぐれも待たずもみぢしにけり
                         覚盛法師 (千載集)

 4 山科の石田の小野の柞原見つつか君が山路越ゆらむ
                      藤原宇合 (万葉集 巻九)

 5 秋ぞかし岩田の小野のいはずとも柞が原に紅葉やはせぬ
                       藤原有家 (六百番歌合)

 6 山科の岩田の小野に秋暮れて風に色ある柞原かな
                       藤原隆信 (六百番歌合)

 今回は山科区の小野を取り上げました。万葉集にもあるように古くからの
 地名です。
 柞原(ははそーばら)。ははそ、とはナラやクヌギなどの木の古名。
 枕言葉としては「母」にかかります。

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   《 5・お勧め情報 》

     葵祭り

 京都三大祭の一つである葵祭りが5月15日(土)に行われます。古式ゆかしい
 祭りです。下のサイトをご覧ください。

  http://www.kyokanko.or.jp/3dai/aoi.html

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   《 6・エピソード 》

今号の歌は小野歌です。小野の歌は比較的多くありはするのですが、どこの
小野をさしているのか判然としない歌が多いように思います。西行の歌で
言えば小野歌六首中、以下の二首が大原の小野を指すと特定できます。

 小野山のうへより落つる瀧の名のおとなしにのみぬるる袖かな (277P)
                        
 都近き小野大原を思ひ出づる柴の煙のあはれなるかな (130P)
             
ところで、小野という氏族名がそのまま地名となっている小野ですが、この号
を書いているうちに、私は小野氏の著名人を何人知っているのかなーと思って
数えて見ました。妹子、毛人、小町、道風、篁・・・と五人のみです。もう
あとの人名が出てきません。小野氏は著名氏族でありながら、多くの人材を輩出
してこなかったことは何が原因なのでしょうか。なぜ活躍した人達が少なかった
のでしょうか。篁や道風の時代は平安初期であり、まだまだ藤原氏の権力基盤が
強固ではなくて、他の氏族が登用され栄達を望める余地がありました。篁も参議
にまで昇進しています。
それが藤原氏一門が権力をほしいままにするという時代を迎えると、必然として
政治の中枢は藤原氏のほぼ寡占状態となり、他の氏族は藤原氏に押されて枢要な
位置から除外されてしまいます。藤原氏が時代を作ってきたというその陰で、
他の氏族は活躍の場を奪われてきたということです。そういう時代の趨勢が、
小野氏に著名人が少なかったことの原因のひとつであるのでしょう。
小野氏も悲運な氏族であったことは確実です。

私は修学院離宮には一度も行っていません。すでに記述しましたように参観の
為には申し込みが必要です。紅葉の頃にと思って一度は申し込みしたのですが、
申込者多数のために不許可でした。桂離宮とともに、いつかは行ってみたい所です。
後水尾帝が修学院離宮を造営する時、第一皇女梅宮(文智女王)の尼寺を奈良県
に移しました。なぜ奈良県なのか理解に苦しみますが、その円照寺は「北山の辺
の道」に現存する門跡寺院です。残念ながら通常は拝観謝絶です。奈良市街の
喧騒を逃れた、のどかな農村地帯に位置しています。二年ほど前に山門前まで
行きましたが、そこから見る印象はいかにも尼寺らしい侘びたる中に繊細な優美
さを感じたものでした。

今年のゴールデンウイークは暦のめぐり合わせに恵まれて、長期休暇を楽しまれ
る方も多いと思います。京都に来られる方は存分に楽しまれて欲しいものです。
葵祭りももうすぐです。

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