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     ■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■    

                          vol.49(隔週発行)
                          2004年5月21日号
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 メールマガジン「西行の京師」ご購読ありがとうございます。
 五月というのにすっきりしない天気の日々が続いています。くっきりと
 晴れ上がった五月晴れの日は数えるばかりの少なさです。
 今月の残りの日もわずか、入梅ももうすぐです。
 なんとか五月らしい陽気の日々が続いてほしいものです。
  
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     ■ 西行の京師  第49回 ■

   目次  1 今号の歌と詞書
        2 補筆事項       
        3 所在地情報
        4 関連歌のご紹介
        5 お勧め情報
        6 エピソード

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   《 1・今号の歌と詞書 》

   《 歌 》

 1 鹿の音を聞くにつけても住む人の心しらるる小野の山里
                         (68P 秋歌)

 2 宿ごとにさびしからじとはげむべし煙こめたる小野の山里
                         (102P 冬歌)

  《 詞書 》

 1 人を尋ねて小野にまかりけるに、鹿の鳴きければ
                         (68P 秋歌)
 
  この詞書の次に(1)の歌があります。

   今号の地名=小野

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 (1)の歌と(1)の詞書の解釈

○住む人=特定の個人を指しているものではなく、里の人々と解釈されます。
○人を訪ねて=個人名は不明です。
 
 (1)の詞書の次に(1)の歌が一首のみあります。
 ここにある小野の地は詞書及び歌で特定されていないために、どこの小野で
 あるか分かりません。左京区の小野、山科区の小野、北区の小野のどこでも
 可能性はあると思います。日本古典文学大系山家集では北区の小野として
 いるとのことです。当時であれば、どこの小野であれ野生の鹿が生息して
 いたと考えられます。

 「ここ小野の山里では、鹿の声を聞くにつけても、その鹿の恋情にまどわさ
 れることなく、ここに住み行いすます人の澄んだ心が知られるよ。」
                  (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

 「鹿の鳴く音を聞くにつけてもわが心はすむのであるが、ここに住む人の
 心はさこそ澄んでいるだろうと、住む人の心の知られるをのの山里よ。」
              (渡部保氏著「西行山家集全注解」から抜粋)
 
 鹿の鳴声を聞いただけで、住民の心がなぜ分かるのかということをつき
 つめていくという形の論理で考えると、この歌は理解できにくいと思います。
 理解できにくいと言うよりも、そんなことはあるはずがないと反発されるの
 ではないでしょうか。鹿の声を聞いただけで、多数の人がいる住民の心の
 ありようを知るなどというのは乱暴な論理とも思います。それほどに上二句
 と下三句の構造上の乖離がありすぎです。飛躍ではなくて断絶の比重が強い
 でしょう。
 その乖離を埋めるためにはどうしても散文にならざるをえませんが、それ
 では歌である理由がないともいえます。上句と下句の間にあるものを読者が
 自分の感覚で読み、味わいすることこそ、読者に求められていることかも
 しれません。
 歌が歌であることの必然が、そして読者が歌を読むことの喜びが、その
 あたりにあるのかもしれないとも思います。

 (2)の歌の解釈

○宿ごとに=家ごとに。
○さびしからじと=さびしいと見られないように。

 新潮版の山家集では以下のようになっています。一句「山ごとに」と、
 四句の「煙こめたり」に岩波版との異同があります。

 山ごとに さびしからじと はげむべし 煙こめたり 小野の山里 

 この歌は北区の小野を指しているということが日本古典全書山家集でも、
 新潮古典集成山家集でも記述されています。
 北区の小野は左京区の小野とともに平安時代は炭の産地として有名でした。
 それゆえに「煙」とは炭を焼く煙と解釈されています。

「あまりさびしい山里なので、さびしくないようにと家ごとに、つとめて火
 を炊いているのであろう、小野の山里に煙が一ぱい立ちこめているのは。」
             (渡部保氏著「西行山家集全注解」から抜粋)

 「この煙は、おそらく炭を焼く細くかすかな煙であろう。そこに作者は、
 しずかにさびしい冬の山里における人間のいとなみのかなしさを感じ取って
 いるのである。」         (安田章生氏著「西行」より抜粋)

 今号の二首の歌は、おごそかで清浄な感覚を味わえる歌だと思います。
 鹿の鳴き声を容易に聞くことのできる自然の情景と、そしてその自然の中に
 ひっそりと溶け込んでいて、確かな営みを続けている小野の里の人々。
 山の麓、山のふところで、炭作りを生業として誠実に一日一日の生活を続けて
 いる里の人々に対しての、西行の暖かいまなざしと敬意を感じさせる歌です。

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  《 2・補筆事項 》

  1 「小野歌」について

 「山家集にある小野歌は左京区小野と山科区小野の二ヶ所の歌が混在して
 いるものと考えられます。北区の小野を特定する歌、あるいは想定させる
 歌はないと思われますので、北区以外の二ヶ所の歌とみていいでしょう。」
                         (48号から抜粋)

 先回48号で、以上のように記述したばかりですが、今号の歌は二首ともに
 北区の小野の歌のようです。訂正します。しかし歌からはどこの小野かと
 いうことまでは特定されていません。北区と左京区の小野は当時は炭の
 生産地として知られていましたが、山科区の小野は竹、茶、ナスなどが
 特産品でした。しかし、山科区の小野でも当然に炭は作っていたものと
 考えられます。

  浅茅生の小野の篠原忍れど あまりてなどか人の恋しき
                    参議等 (百人一首三十九番)

  かりにさす庵までこそ靡きけれ野分に堪へぬ小野の篠原
                      藤原家隆 (六百番歌合)
 
  ふる里も秋は夕をかた見とて風のみおくる小野のしの原
                        俊成女 (新古今集)

 上記三首にある「小野の篠原」の場合は、篠の生えている野の意味として
 用いられていて、小野という土地を指してはいないと解釈されています。
 ただし「小野の篠原」は平安時代後期に成立した藤原範兼の「五代集歌枕」
 や「八雲御抄」によると、京都の小野を特定する歌枕とのことですから、
 歌によっては地域を限定することがあります。

  里遠み小野の篠原分けて来し我もしかこそ声も惜しまね
                            (源氏物語)

 源氏物語の夕霧の巻にある上の歌は歌枕として用いられていて、京都の小野
 を指しているそうです。そうは言ったところで、この歌が京都の小野を指し、
 先述三首は京都の小野を指していないということは、なんとなく釈然と
 しないものが残ります。景物や内容から判断するべきとはいえ、判断でき
 かねるということが実情だと思います。

  夕されば小野の浅茅生玉散りて心くだくる風の音かな
                         藤原兼実 (千載集)

  夕暮は小野の萩原吹く風にさびしくもあるか鹿の鳴くなる
                         藤原正家 (千載集)

 小野歌はたくさんありますが、普通は「小」は接頭語、「野」は野原の意味
 で使われています。上の二首なども地名ではありません。
 歌の中で、山や里、炭などのように地域を限定する言葉によって補完されて
 いる時、あるいは詞書で説明されているときには「小野」は地名としての
 小野と解釈されていいのですが、それ以外の場合は、単純に野原という解釈
 の方が正しいと思います。

 2 惟高親王の小野殿について

 再び惟喬親王(844〜897)の小野殿について触れてみます。
 山家集266ページに記述されている、西行達が修学院から訪ねて行った小野殿
 は、洛外大原の小野殿か、それとも洛中の小野殿かということについてです。
 これについては説が分かれていて、洛外説と洛中説とがあります。私の
 手持ちの資料から紹介します。

 洛外説  目崎徳衛氏「西行」
      白州正子氏「西行」

 洛中説  渡部保氏「西行山家集全注解」
      伊藤嘉夫氏「日本古典全書山家集」

 先達さえ両論ありますので、私などが分かるはずはないのですが、どちらか
 というと洛中ではないかと思っておりました。以下にその理由を記述します。
 はじめに当時の政治状況について簡略に触れます。

 惟喬親王(844〜897)は第55代文徳天皇(858年32歳没)の長子として誕生
 しましたが、母の出自が紀氏ということでもあり、即位はしていません。
 文徳天皇の次に、858年に第56代天皇となったのは異母弟の9歳になる清和
 天皇でした。生後一年を経ずして皇太子となっています。851年のことです。
 この年にはすでに惟喬親王即位の芽は摘まれていたということになります。
 文徳天皇の父は仁明天皇、母は藤原良房の妹です。清和天皇の父は文徳天皇、
 母は良房の娘の明子であり、良房は外舅、外祖父として二代の天皇の上に
 君臨しました。
 そういう良房にとっては惟喬親王の存在は邪魔者でしかなかったと思います。
 惟喬親王は872年7月に出家、大原に隠棲。それを見届けたように良房は同年
 9月に69歳で死亡。親王出家前に良房から強い圧力があったとも考えられます。
 そういう時代背景があります。

 次に古今集から、大原の小野殿に関連する在原業平の詞書と歌を引きます。

 「これたかのみこのもとにまかり通ひけるを、かしらおろして、小野といふ
 所に侍りけるに、正月にとぶらはむとてまかりたりけるに、比叡の山のふもと
 なりければ、雪いとふかかりけり。しひてかのむろにまかりいたりて、をがみ
 けるに、つれづれとして、いとものがなしくて、かへりまうできてよみて
 おくりける 」
        
  忘れては夢かとぞ思ふ 思ひきや 雪ふみわけて君を見んとは
                        (在原業平 古今集970)

 業平のこの詞書からは、小野殿は、うらぶれたさびしい印象を受けます。
 出家のときに大原に庵を創建して隠棲したのであるのなら、当然にものもの
 しい大掛かりな邸宅などを建てるはずもなく、従って釣殿などを建てるなど
 ということは論外であろうと思いました。だから先号で洛中の小野殿と解釈
 するほうが自然であると記述しました。
 ところが、その後の調べで大原の小野殿は惟喬親王が出家した872年より10年
 も前の862年に創建されているという記事に出合いました。歴史読本1989年
 4月号の佐治芳彦氏の「惟喬親王ー木地師の権力幻想」文中です。これが事実
 とするなら、そして惟喬親王没後に小野殿は放置されていたものであると
 するなら、山家集にある小野殿のさびれ具合などは納得できることです。
 ゆえに西行達が訪ねた小野殿は洛中ではなく、大原の小野殿であろうと思い
 ます。

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  《 3・所在地情報 》

  ◎ 曼殊院 (まんしゅいん)

 所在地     左京区一乗寺竹ノ内町42
 電話      075-781-5010
 交通      京都駅烏丸口から市バス5番にて一乗寺清水町下車
          徒歩約20分
 拝観時間    9時から17時まで
 拝観料     500円
 駐車場     50台

 今回の所在地情報は西行とは関係ありません。

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  《 4・関連歌のご紹介 》

 1 小野山はやくすみがまの下もえて烟のうへにつもる白雪
                  安嘉門院四条(阿仏尼) (風雅集)

 2 炭がまの烟に春をたち籠めてよそめ霞める小野の山もと
                         藤原為家 (風雅集)     
 3 炭がまの烟ばかりをそれと見て猶みちとほし小野の山里
                          平貞時 (風雅集)

 4 此頃の小野の里人いとまなみ炭やく煙山にたなびく
                       藤原良経 (秋篠月清集)

 5 雪の色をうばひてさけるうの花に小野の里びと冬籠すな
                         藤原公実 (金葉集)

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  《 5・お勧め情報 》

   平安神宮神苑の花菖蒲

  月日    6月4日(金)のみ無料。他の日は600円。
  交通    市バス5番にて京都会館、美術館前下車すぐ。
  電話    075-761-0221
 
  2000本といわれる菖蒲がこれから見頃になります。

   http://www.heianjingu.or.jp/09/0501.html

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  《 6・エピソード 》

五月というのに、まるで梅雨時のように雨ばかり降っているという印象です。
干天の慈雨なら歓迎もするのですが、最も春らしい五月に雨続きとは、少しく
もったいない感じです。でも五月の異称に「雨月」があります。これは陰暦の
五月の異称ですから新暦の気候とは合いません。(さみだれ)は(五月雨)
だから風情があるのですが、これが六月雨とか水無月雨ではなんだかしっくり
きませんね。明治に新暦に移行したのはいいのですが、自然の現象とのずれが
あって、その点がすこし困りますね。
入梅ももうすぐですので、今後も雨ばかりの日常というイメージです。
とはいえ、これからのシーズンは菖蒲、アジサイ、蓮などの花が眼を楽しま
せてくれます。いずれも雨が似合う花だと思います。

惟喬親王(844〜897)の小野殿について、いろいろと調べていました。ですが
図書館には一度も行っていませんので調べたうちには入りません。先号の補筆
事項の(2)で記述したように、出家、隠棲した28歳の時(872年)に、庵と
呼んでいいほどの小さな住居の小野殿を大原に建てたものとばかり思っていま
した。ところが、出家の10年も前の862年に小野殿は創建されたという記述を
発見しました。そうであるなら話は別です。比較的豪壮な山荘が営まれたこと
は想像できます。池を作り、釣殿も建築されたでしょう。そのように考えていい
と思います。それで、小野殿については先号では洛中説を採りましたが、洛外
大原説に改めます。

今号の所在地情報は西行とは関係ないのですが曼殊院にしました。迷った末です。
曼殊院は、修学院離宮を造営した後水尾院の孫に当たる良尚法親王が再興した
ものです。書院建築として有名です。
「山城名跡巡行志」に《小野、古の郷名也。小野ノ郷ハ松崎・山端己上大原静原
ニ至テ皆小野ノ郷也》とありますので、曼殊院の地も広義でみれば古くは小野
だったものでしょう。
このあたりの円光寺、曼殊院、赤山禅院、蓮華寺、そして岩倉の円通寺、妙満寺
などを、それぞれの来歴を偲びながら訪ない巡るのも、また一興です。
そういう楽しみに浸るのは、私には嬉しいことです。

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