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■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■
vol.50(隔週発行)
2004年6月13日号
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メールマガジン「西行の京師」ご購読ありがとうございます。
いよいよ梅雨の季節になってしまいました。いかにも梅雨の頃らしく
どんよりとした天候の日々が続いています。
でも雨上がりの、雨滴を包んでしっとりとした風情のアジサイは、この
季節の風物詩とも言えます。不思議な魅力に満ちています。
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■ 西行の京師 第50回 ■
目次 1 今号の歌と詞書
2 補筆事項
3 所在地情報
4 関連歌のご紹介
5 お勧め情報
6 エピソード
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《 1・今号の歌と詞書 》
《 歌 》
1 雪わけて外山をいでしここちして卯の花しげき小野のほそみち
(236P 聞書集)
2 小野山のうへより落つる瀧の名のおとなしにのみぬるる袖かな
(277P 補遺)
《 詞書 》
1 山里の春雨といふことを、大原にて人々よみけるに
(23P 春歌)
この詞書の次に下の歌があります。
春雨の軒たれこむるつれづれに人に知られぬ人のすみかか
《参考の詞書と歌》
2 老人述懐といふことを人々よみけるに
(189P 雑歌)
この詞書の次に下の歌があります。
山ふかみ杖にすがりて入る人の心の底のはづかしきかな
今号の地名=小野・小野山・大原
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(1)の歌の解釈
○卯の花=ウツギの別称。六月頃に白い花が咲きます。卯月(四月)という
月名は卯の花から来ています。
○外山(とやま)=人里の近くの山のことです。「端山」と同義語です。人里
から離れた深い山の対語です。
「卯の花が盛りに咲いている季節に小野の里の小道を歩いて行けば、たく
さん積っている雪を押し分け踏み分けして、外山を出てきているような気
がします。」
この歌には「卯花似雪」という詞書がついています。陰暦の四月頃、みごとに
咲き誇っている卯の花を見て、その白さから雪を連想したことによって成立
している歌です。誰もが思い浮かべることのできる共通認識のある雪を比喩的に
持ち出して、卯の花が盛りに咲いている状態と、花の白さを際立たせています。
ここにある「小野」は野原という普通名詞というよりも、むしろ「小野」という
土地を指す固有名詞の意味合いが強いような雰囲気を持っている気がします。
野原の中の「ほそみち」というよりも、人々の生活の用に供されている小道と
して解釈するほうが自然な感じがします。
しかしどちらにも受け止めることのできるものでしょう。
尚、岩波文庫山家集の中に「外山」という名詞の読み込まれている歌は他に
以下の四首があります。
「端山」の用例も一首記述しておきます。
雪分けて外山が谷のうぐひすは麓の里に春や告ぐらむ 22P
時鳥ふかき嶺より出でにけり外山のすそに聲のおちくる 47P
松にはふまさきのかづらちりぬなり外山の秋は風すさぶらむ 89P
秋しのや外山の里や時雨るらむ生駒のたけに雲のかかれる 90P
つららはふ端山は下もしげければ住む人いかにこぐらかるらむ 166P
(2)の歌の解釈
○小野山=この歌では比叡山西麓の三千院や来迎院の背後の山をいいます。
○おとなしにのみ=音のしないままに、の意味。滝名から採られた言葉。
「小野山の嶺より落ちてくる一条の滝。その音無しの滝のように、声もなく
偲び泣けば袖ばかりが涙でぬれてきます。」
音無しの滝の歌は直接に滝を説明的に歌うのではなくて、恋歌として涙という
言葉と結びついて詠われています。恋の悲しみを詠うために、音無の滝という
言葉が利用されています。
私見で言えば、お遊び歌そのものだとも思います。補筆事項で詳述します。
(1)の詞書と歌の解釈
○たれこむる=すだれ、とばりなどを垂れて、そのなかに閉じこもること。
(講談社「日本語大辞典」より抜粋)
(詞書)
大原で人々とともに「山里に降る春雨」という題で歌を詠みあいました。
(歌)
「春雨が草庵をつつんで、すだれをおろしたようにうすぐらく降りかくして
いる所在なさに思えば、世間の誰にもそれと知られず隠れ住む人のすまいで
あることよ。」
(宮柊二氏著「西行の歌」より抜粋)
「春雨が降りそそいで、軒からおちる雫が簾をたらしたかのように思われる、
山家のつれづれ・・・、世をいとう人がのがれ住むこの大原の里で、いっそう
人に知られることもなくひっそりと閉じこもっている住家だなあ。」
(新潮日本古典集成「山家集」より抜粋)
(2)の参考の詞書と歌の解釈
○老人述懐=字義通りなら老いた人が昔を懐かしんで思いを述べる、ということ
ですが、ここでは別の意味も重ねているようです。
○山=仏道修行の険しい道とも取れ、また、人を恋うる恋情の深さとも解釈でき
ます。
(詞書)
老いた人達が思いを述べるということを題にして人々と詠みあいました。
(歌)
「山が深いので杖にすがりながらも、仏の教えを求めて入山する老人の心の
奥を、わが身に照らし合わせると、何とも恥かしく思われるわが心だよ。」
『夫木抄』では求道の述懐歌でなく、恋の歌。
◇山深み 法の山の深遠なことをいう。
(新潮日本古典集成「山家集」より抜粋)
題詠の場で即興的に詠われたもののはずですが、夫木抄に言うように恋の歌
と解釈するには、ここではそのための手がかりがありません。歌そのものを
素直に受け止めて、味わいたいと思います。
この歌は自身のことを歌っているものかという疑念があったのですが、おそ
らくは違うでしょう。自身に対してなら自嘲めいてもおり、他者に対してなら
揶揄的なものも感じ取れます。
どちらに対してのものであったとしても、完全な否定としては作用していず、
ユーモラスささえ感じさせる中に、杖を用いるほどまでに歩いてきた人生に
対しての揺るぎない自信のようなもの、敬意のようなものを表していると思い
ます。
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《 2・補筆事項 》
1 音無しの滝
来迎院の背後の山中を呂川沿いに約300メータほど登ったところに「音無しの
滝」はあります。垂直落下型の滝ではなく、二段になった傾斜のある岩に
沿って流れ落ちています。落差は約15メータほどです。
都名所図会には以下のように描写されています。
「来迎院の東四町にあり。飛泉(ひせん)二丈余にして翠岩(すいがん)に
傍(そ)ふて南へ落つる。蒼樹蓊鬱(そうじゅおううつ)として陰涼こころ
に徹し、毛骨悚然(もうこつしょうぜん)として近づきがたし。」
(註)一町は60間。約109メータ。一丈は約3.03メータ。
この「音無しの滝」は「五代集歌枕」でも順徳帝の「八雲御抄」でも紀伊国
熊野の歌枕としています。八雲御抄の成立は1220年以降のことですから、それ
より早く詠われた西行の歌が京都ではなくて紀州の歌だと解釈するのは疑問
です。やはり京都の歌と断定していいかと思います。音無しの滝名の由来は、
来迎院を住持した良忍上人(1073〜1132)の修行に関わるものという説が
ありますので、1100年代初頭には「音無しの滝」として認知されていたと
思います。
しかし、1000年初頭には成立していた紫式部の「源氏物語」夕霧の巻に
「朝夕に泣くねを立つる小野山は絶えぬ涙や音無しの滝」
とありますので、良忍上人のゆかりの滝名ではなくて、もっと以前から「音無
しの滝」と呼ばれていたものかもしれません。そうであるなら、なおさら八雲
御抄や五代集歌枕に「山城の大原の滝をもいう」とする添え書きが無いのか、
それが不思議です。八雲御抄の順徳帝にしろ、五代集歌枕の藤原範兼にしろ、
太原に音無の滝があることを知らなかったはずはないと思います。
歌に読み込まれた音無の滝は滝そのものを写実的に表現する形は採られずに、
恋歌として悲しい想いを表すための涙と結びついて詠われています。音が無い
ということ、音を出さないということは、自分だけの秘めたる想いのことです。
と同時に相手に自分の思いを知らせても相手からは何の音もない、つまり反響
がない。結局は悲恋の悲しみに打ちのめされて嗟嘆の涙が滝のように流れる
・・・そういう意味で解釈して良いと考えます。
音無の滝という実際の景物と、悲しみということ、涙とそして涙を流すほどの
感情ということを結びつけて詠われていますが、そういう方法には、私は感心
しないものを覚えます。釈然としないものが残ります。
身振り手振りの派手さばかりが目について、いかにもわざとらしい、あざとい
ものを感じます。そこにある作為性は遊戯そのものに根ざしていると解釈する
より他にないと思います。
お遊びの傾向のある歌でも差し支えなく、良い物は良いと評価するのですが、
作り物の不自然さが勝っている歌に対しては私は否定的です。
西行の紹介歌については、そういう不自然さは強くはないと思います。
西行の伝承歌に下の歌があるようです。
「音無の滝とは聞けども昔より世に声高き大原の滝」
(山と渓谷社「比叡山を歩く」より抜粋)
下は私の撮影の来迎院と音無の滝の画像です。
http://kazu02aa.hp.infoseek.co.jp/saigyo2/ooha4.html
2 小野山
小野山とは今号の西行の歌からも分かるように、比叡山の西麓にある三千院や
来迎院の背後の山を指しています。
古い時代はこの小野山を特定しつつ、同時に左京区小野郷にある他の山々をも
漠然と小野山と呼んでいたそうです。北区と山科区の小野には山としての
小野山はみつかりませんので、小野山は左京区だけにある山です。
以上は山名についてです。
山名ではなく郷の呼び名として小野山があります。
北区の小野郷については古代から中世を通じて、十村十郷の集落を総称して
小野山と呼び習わしていました。左京区の小野と区別するためのものです。
3 来迎院
このお寺の来歴については詳らかではありません。最澄の直弟子の慈覚大師
円仁(794〜864)が大原の地に堂宇を建立したことが始まりのようです。
円仁は渡唐し、中国に流行していた声明を延暦寺に伝えました。今の三千院、
勝林院、来迎院などの建っている地を大原魚山といいますが、円仁はそこに
声明道場を850年に建てたという説があります。
来迎院は比叡山延暦寺東塔の僧であった良忍上人が1109年に開山となり、創建
したものです。創建当初は薬師、阿弥陀、釈迦如来の三尊を祀ることから三尊院
と号して、100以上の堂塔伽藍を擁して(都名所図会)いたそうです。(来迎院
発行の由緒説明書では鎌倉時代初期の盛時に坊だけで49宇と記述)
1156年には延暦寺座主の最雲法親王が大原の地を領有して、大原支配のため
の政所を置き(現、三千院)、大原にある各寺を総称して魚山大原寺といい
ました。
来迎院は勝林院と並び魚山流声明の中心地でした。声明とは仏教経文を節を
つけて歌い唱えするもので、円仁が始めたそれを250年ほど後に良忍が魚山流
声明として集大成したものです。
良忍はまた融通念仏宗を開宗しています。(註)
平安中期から鎌倉期にかけての時代に、たくさんの貴顕が大原に隠棲しました。
政治権力と結びついて俗化していくばかりの延暦寺から距離をおきたい僧侶
たちも、この大原に住み、仏道修行に励んでいました。
(註)
融通念仏とは一人の念仏と衆人の念仏とが互いに融通しあって往生の結縁と
なること、という教え。(来迎院の説明書より抜粋)
4 卯の花
卯の花【うーのーはな】ウツギの別名。
卯の花腐し【うのはなーくたし】陰暦四月(卯月)の頃の長雨。卯の花を
腐らせるほどに降り続く雨。はしり梅雨のこと。
卯の花の【うのはなーの】[枕ことば]憂きにかかる。
(講談社「日本語大辞典」より抜粋)
下は卯の花を紹介しているサイトです。
http://www010.upp.so-net.ne.jp/pha/flo0305utugi.htm
5 老人述懐歌について
続後撰集に以下の記述があります。
「後徳大寺左大臣西行法師など伴ひて大原にまかれりけるに来迎院にて
寄老人述懐といふ事をよみ侍りける」 縁忍上人
「山の端に影傾ぶきて悲しきは空しく過ぎし月日なりけり」
当然に断定はできませんが、山家集記載の老人述懐歌は189Pにある
「山ふかみ・・・」歌の一首のみですから、この歌は来迎院でのこの歌会の
時の歌である可能性が強いものと思います。
後徳大寺左大臣は藤原実定(1139〜1191)のことです。西行が随身した藤原
実能の孫に当たります。藤原俊成の甥、藤原定家の従兄弟にもなります。百人
一首八十一番の作者です。
西行の「山ふかみ・・・」歌については、出家後かなりの年数を経てのもので
あることが藤原実定の年齢から類推できます。それは徳大寺家との交流が西行
出家後も長く続いていたということの証明になります。歌もやはり恋の歌など
ではなくて、仏道上のものと考えて良いのではないかと思います。
縁忍上人についての経歴はわかりません。
(補筆事項は主に平凡社「京都市の地名」を参考にしています。)
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《 3・所在地情報 》
◎ 来迎院 (らいごういん)
所在地 京都市左京区大原来迎院町537
電話 075−744−2161
交通 京都バスで大原下車。徒歩約20分。
拝観時間 9時から17時まで
拝観料 300円
駐車場 なし
(大原方面は京都バスのみです。市バスは運行していません。)
来迎院ホームページ
http://www.gyozanen.com/oohara-raigouin.htm
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《 4・関連歌のご紹介 》
1 音なしの滝とぞ遂になりにける言はで物思ふ人の涙は
清原元輔 (王朝秀歌選)
2 恋侘びぬねをだになかん声立てていづこなるらん音無の滝
よみ人しらず (定家八代抄)
3 恋わびぬ独ふせやに夜もすがらおつる涙や音なしの滝
藤原俊忠 (詞花集)
3 都にも初雪ふればをの山のまきの炭がまたきまさるらむ
相模 (後拾遺集)
5 初雪はまきの葉白くふりにけりこや小野山の冬の寂しさ
源経信 (金葉集)
6 小野山や焼く炭釜にこり埋むつま木と共に積る年哉
藤原俊成 (長秋詠藻)
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《 5・お勧め情報 》
藤森神社のアジサイ
場所 伏見区深草鳥居崎町609 藤森神社
電話 075-641-1045
月日 開苑中。6月30日まで
時間 9時から16時まで
料金 300円
交通 京阪電車「墨染駅」から徒歩10分、
JR奈良線「藤森駅」から徒歩5分
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《 6・エピソード 》
いよいよ梅雨に入りました。約一ヶ月間の梅雨の期間があければ、京都は
祇園祭です。京都の夏は祇園祭から送り火までといわれますが、梅雨も暑い
夏を迎えるための大切な序章です。いや、梅雨そのものが自然のサイクルの
一つとして重要な意味を持っています。
過日、大原まで行ってきました。寺院は三千院と来迎院そして寂光院でした。
ツツジには遅く、アジサイには少し早くというタイミングでしたが、初夏の
陽光を浴びて樹木の緑の鮮やかさが印象的でした。
参拝客の絶えていた来迎院の本堂で薬師、釈迦、阿弥陀の三如来像を拝し、
優美に整った庭内を見て、しばらく静寂の中に気持ちを遊ばせました。ここが
平安時代にはたくさんの僧侶たちの念仏の道場であったことが不思議に思います。
寂然や寂超もここに坊を構えていたはずだと思います。
来迎院から音無の滝を見に登り、次いで三千院まで。三千院の苔の色具合に、
少し生気が乏しいように感じましたが、むろんこれは素人見です。
その三千院の文書の中に「惟喬親王、出家遁世して大原に隠棲する」という
一条があります。860年のことです。驚きました。これはミスでしょう。872年
出家ということが正しいはずです。仮に860年の出家であるなら山家集記載の
小野殿は洛中説を採らざるをえません。
平成12年5月9日に焼失した寂光院本堂は再建途上にあります。来年には落成
予定です。次号に寂光院について触れる予定です。
卯の花は見つけることができませんでした。下は当日の画像です。
http://photo.www.infoseek.co.jp/AlbumPage.asp?m=0&key=986865&un=135452
普段の私は自宅から出ることも少ない生活なのですが、このところ、四国に
老父の手術見舞いに帰り、そして大原行き、昨日は近くの竹林公園まで出向い
て見ました。10年ぶりほどの竹林公園でしょうか。自宅から歩いて20分ほどの
距離ですのに行くことも稀です。園内にはたくさんの種類の竹が植えられて
います。「竹の秋」といわれる時期を過ぎて、新しい葉が瑞々しい生気を伝え
てきます。
木々の緑に接していると気持ちが安らぎます。
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