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■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■
vol.51(隔週発行)
2004年7月10日号
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メールマガジン「西行の京師」ご購読ありがとうございます。
梅雨明けの報道がないままに連日30度を越す真夏日が続いています。
気象庁にすれば梅雨明け宣言を出せないままに真夏が到来したようなもの
ですが、問題は梅雨時に降雨が極端に少なかったということでしょう。
今後、農作物の不作や渇水問題が出てこないようにと願うばかりです。
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■ 西行の京師 第51回 ■
目次 1 今号の歌と詞書
2 補筆事項
3 所在地情報
4 関連歌のご紹介
5 お勧め情報
6 エピソード
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《 1・今号の歌と詞書 》
《 歌 》
1 大原はせれうを雪の道にあけて四方には人も通はざりけり
(100P 冬歌)
2 すみなれしおぼろの清水せく塵をかきながすにぞすゑはひきける
(246P 聞書集)
《 詞書 》
1 寂然高野にまうでて、立ち歸りて大原より遣しける
(69P 秋歌)
この詞書の次に下の歌があります。
へだて来しその年月もあるものを名残多かる嶺の朝霧 (寂然)
「かへし」として西行の下の歌があります。
したはれし名残をこそはながめつれ立ち歸りにし嶺の朝ぎり (西行)
今号の地名=大原・せれう・高野
今号の史跡名=おぼろの清水
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(1)の歌の解釈
○せれう=芹生。左京区大原にあった里名。
○四方(よも)=東西南北、前後左右、すべての方向のこと。
大原は、あたり一面深い雪の中です。ただ、芹生の里に行く道だけは降り
積もった雪が分けられていて、人々が往来できるようになっています。
その他の道は深く積った雪のために歩いて行く人は誰もいません。
大原の冬の、雪の積もった日の光景をそのまま平明な歌にしています。現在
から比べると平安時代は降雪量の多かったことが文献からも確認できますし、
この歌にあるように、ごく近い所にさえ通行できなくなることはしばしば
あった事だろうと想像できます。
単純に大原の自然の光景を詠った歌でありながら、雪によって隔絶された
大原に住む人々の厳しい生活ぶりを表しています。素っ気無いほどに、ただ
淡々と自然の情景を描写することによって、人々の生活、その生き様のよう
なものを浮かび上がらせています。
「大原は」という初句の次に「せれうを雪の道にあけて」と続きますので、
一読して意味が分かりにくい歌となっています。「せれう」が地名であると
いう予備知識がなければ、何を言おうとしているのか、まったくわからない
歌であるともいえます。地名であると理解しても、自然詠の歌であることの、
今ひとつの感興の弱さのようなものを感じます。
(2)の歌の解釈
○おぼろの清水=左京区大原草生町にある清水。
「住み馴れた(澄みをかける)おぼろの清水の水の流れをせきとめている塵
をかきはらって流してやると、その流れの末の方では、その水をひき入れて、
いろいろに使い生活に役立つ水としている。」
(渡部保氏著「西行山家集全注解」より抜粋)
この歌は「引接結縁楽」という詞書がついています。引接結縁楽とは源信僧都
の「往生要集」の上巻にあり、極楽往生を志す念仏行者に与えられる十種の
快楽の内のひとつで第六番目にあげられています。その意味するところは、
「浄土に往生した後、神通自在の身となり、生々世々に恩を受け、縁を結んだ
父母知人を引接し、化導して浄土へひきとることのできる楽」ということです。
(渡部保氏著「西行山家集全注解」より引用)
(1)の詞書と歌の解釈
○寂然=大原三寂の一人。藤原頼業のこと。
○高野=和歌山県高野山のこと。弘法大師空海の開いた真言密教の聖地。
○朝霧・あさ霧=新潮版では秋霧と表記。
出家してから大原に住んでいた、大原三寂の一人である寂然との贈答歌です。
(詞書)
寂然が大原から高野山まで来ました。そして大原に帰ってから歌を送って
きました。
(寂然の歌)
大原と高野山という住む土地の違い、その距離の遠さが二人の間を長く隔てて
いました。せっかく高野山まで行って会うことができましたのに、すぐに大原
に立ち帰ることになって、心残りなこと、名残ばかりが多いものです。高野山
に立ち込める霧のように、私の心は晴れやかなものにはなりません。
(西行の返歌)
「下の方は晴れていた霧の中でお別れしたあなたを慕う気持ちの名残がいつ
までも続き、もの思いに沈んだことでした。あなたが帰られると同時に、高野
にも秋霧がたちこめて、またあなたとの間を隔ててしまったことです。」
(新潮日本古典集成山家集より抜粋)
寂然と西行はもっとも親しい関係にある歌仲間であると言ってよいでしょう。
贈答歌もたくさんあります。
でもこの贈答歌を読んだ時の私の印象は「なんだか、素っ気ないなー」という
ものでした。「嶺の朝ぎり」という体言止めが、この歌の場合は厳しくて理知
的に強く突き放した印象を受けます。まさしく、嶺の朝霧が二人の関係性を
遮断する装置として働いていて、それは西行その人の寂然への拒絶のようにも
感じます。寂然の歌の返歌として、そつなく詠われているともいえますが、
揺るぎはしない二人の交誼が底流に流れていることを感じさせるよりも、むし
ろ何か意思の疎通に問題が起きていたような、一時的ないさかいがあったの
ではなかろうか・・・という、うがった見方さえさせます。
もちろん真相は二人だけにしか分からないことでしょう。
寂然との贈答歌は29ページを初めとしてたくさんあります。次号に寂然及び、
大原三寂と西行の関係について触れてみます。
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《 2・補筆事項 》
1 芹生(せれう・せれふ・せりょう)
(1)の歌にある「せれう」は大原草生町にあった里名です。ただし現在の
大原草生町に「芹生」もしくは「せれう」と表記する地名はありません。
この大原の芹生とは別に、京都府北桑田郡京北町に芹生があります。貴船の
奥にあたり、大原から10数キロ隔たった深い山の中の里です。
手持ちの資料によると「せれう」の場所は以下のようになっています。
○ 渡部保氏著「西行山家集全註解」では(大原の西、貴船の奥)
○ 後藤重郎氏校注の「新潮日本古典集成山家集」では(大原の西、貴船の奥。
丹波の国(京都府)北桑山郡)
*「北桑山郡」の「山」は原文のまま。正しくは「北桑田郡」。
○ 伊藤嘉夫氏校注の「日本古典全書山家集」では(大原の西)
歌の持つ雰囲気から考えて、「せれう」は大原から10数キロも離れた場所を
指すものであるとは思えません。大原の内か、もしくは大原から近い場所と
考えられます。
また、10数キロも離れていながら「せれう」行きの道が特定されているとする
なら、それは不可解なことです。貴船ルートを取るなら、芹生までに静原、
鞍馬、貴船などの里もあるのですから、それらの里名を使わずに、どうして
「せれう」としたのか、その説明がつきません。
ここは大原にあった「せれう」の里と解釈していいものと思います。
西行の時代は大原の中でも、それぞれに独立した、いくつかの里が点在して
いて、その中でも「せれう」の里は人の往来の激しい里だったのでしょう。
平家物語巻二の「烽火之沙汰」文中に(淀・はづかし、宇治・岡の屋・日野・
勧修寺・醍醐・小黒栖・梅津・桂・大原・しづ原・せれうの里に・・・」と
いう記述が見えます。
また「都名所図会」でも
《「芹生の里」 大原郷にあり。むかし和歌に多く詠ず。》とあります。
だから「せれうの里」は確実に大原にあったといえるでしょう。
この芹生の里も、江戸時代になって相伝の里そのものを廃して、里人は近くの
勝林院村に移り住んだということです。理由は不明です。それ以後は大原から
「せれう」の地名は消えたものと思います。
2 おぼろの清水
三千院から寂光院に向かう小道の傍らに「おぼろの清水」はあります。
歌枕として「八雲御抄」や「五代集歌枕」にもあげられ、平安時代から多数の
歌にも詠まれてきた有名な清水ですが、現在は小さな水たまりという感じです。
建礼門院が朧月夜に自身の姿をこの清水に写したということが、この清水の
名の由来との説もあるそうですが、それは事実ではありません。建礼門院より
も百数十年ほど前の良暹法師や素意法師の歌にも「おぼろの清水」とあります。
だから「おほろの清水」の名は建礼門院とは無関係です。
姿が映るほどに澄んだ清水であるということは、確かにそれほどにきれいな
清水であったことは寂然の歌などからも伺えます。
下は私撮影の朧の清水です。
http://kazu02aa.hp.infoseek.co.jp/saigyo2/ooha5.html
3 寂光院
寂光院は西行の歌、詞書ともに記述がありませんが、大原にある寺院のひとつ
ですので、ここでも取り上げてみます。
京都バス大原のバス停から案内標識を頼りに西の方に向かって小道を15分ほど
歩いていくと寂光院につきます。途中に「朧の清水」があります。
寂光院は大原の中でも隠棲の里というイメージが強い所だと思います。付近に
民家も多くはなくて今でもわびしい感じです。平安時代ともなると、さぞかし
隠れ住む里のイメージそのものの土地だったと思います。
寂光院は尼寺です。代々、女性が住持してきました。叡山の延暦寺に属して
います。寺伝によると推古2年(594)、聖徳太子の創建によるといわれます。
本尊の地蔵菩薩は聖徳太子の作製したものと伝えられています。
この寂光院に建礼門院が落魄の身を寄せたのは文治元年(1185)九月のこと
です。建礼門院とは平徳子の院号です。徳子は平清盛の次女、八十代高倉帝の
皇后、八十一代安徳天皇の生母です。この年三月、すでに平氏は西海で滅んで
いるのですが、壇ノ浦で入水した建礼門院は助けられて京都に連れ戻され、
五月に東山の長楽寺の僧印誓を戒師として出家、九月に寂光院に入ったもの
です。従う女性に東大寺などを焼いた平重衡の北の方(妻)の「大納言佐」や
後白河帝の乳母だった院の二位の局の娘である阿波の内侍がいます。
翌年の1186年の春、後白河帝がお忍びで建礼門院を尋ねたことは「大原御幸」
として、平家物語の最後の章を飾っています。
思ひきや深山の奥にすまゐして 雲居の月をよそに見むとは 建礼門院
寂光院は平成12年5月9日、放火により本堂を全焼しました。現在、再建途中
です。
寂光院ホームページ
http://www.jakkoin.or.jp/index-j.html
(補筆事項は主に平凡社刊「京都市の地名」を参考にしています。)
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《 3・所在地情報 》
◎ 寂光院 (じゃっこういん)
所在地 京都市左京区大原草生町676
電話 075−744−3341
交通 京都バスで京都駅から17番、18番で大原下車。徒歩約15分。
拝観時間 9時から17時まで(12月から2月までは16時30分まで)
拝観料 500円
駐車場 なし
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《 4・関連歌のご紹介 》
1 水草ゐしおぼろの清水そこすみて心に月のかげは浮かぶや
素意法師 (後拾遺集)
2 ほどへてや月もうかばむ大原や朧の清水すむ名ばかりに
良暹法師 (後拾遺集)
3 いる月の朧の清水いかにして遂にすむべき影をとむらむ
順徳院 (続古今集)
4 ひとりすむおぼろの清水友とては月をぞすます大原の里
寂然 (山家集)
5 よをそむくかどではしたり大原やせれふの里の草の庵に
藤原実定 (夫木抄)
6 ながめやる人の思ひは大原や芹生の奥の槙の炭がま
慈円 (拾玉集)
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《 5・お勧め情報 》
祇園祭
京都の7月は祇園祭があります。祇園祭は葵祭、時代祭とともに京都を彩る三大祭
の一つです。八坂神社の祭礼で、たくさんの催し物があります。ことに16日の
宵山と17日の山鉾巡行はたくさんの人出でにぎわいます。
古い時代には「西行山」という「山」もあったそうです。
下は祇園祭のサイトです。
http://web.kyoto-inet.or.jp/org/yasaka/gionmaturi.html
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《 6・エピソード 》
今回の51号の発行も遅れてしまいました。一応は隔週発行をうたっているとは
いうのに、ずるずると先延ばしにしてしまいました。お詫びいたします。もう
少しで完結しますので、自身を戒めて、頑張らなくてはと思います。
過日の京都新聞に百人一首の歌碑建立の記事が出ていました。京都商工会議所
の企画です。
http://www.jcci.or.jp/nissyo/publication/2003061602.html
歌碑だけでなく「小倉百人一首の殿堂」という建物も清涼寺の中に建てるそう
です。立派な企画であり、来年の完成を今から楽しみとしています。でもなぜか
釈然としないものも残ります。今頃になって、なぜそういう企画なのでしょう。
しかも行政はタッチしていないようです。これまでに、行政主導のそういう企画
がなぜなかったのか、あったとして、なぜ実現しなかったのか・・・不思議な
ことです。
京都市行政は文化事業にはそれなりの取り組みをしているはずです。先人の遺し
た有形無形の財産を守り、継承し、公開していると思います。しかし、さらに
歴史都市京都にふさわしい充実した取り組みを要請したいものと思います。
西京区に西光院があります。西行の櫻元庵があった所だといわれています。西行
桜もあります。院内に櫻元庵の場所が更地となっています。ご住職は櫻元庵を
復元したいとご希望されていますが、こういう企画にも助成していただきたいと
個人的に切望しています。
市町村の合併が続いています。行政の都合による合併です。合併そのものには
反対ではないのですが、合併により歴史的な地名が消滅することがあれば、
それは残念なことです。今回取り上げた大原の芹生の里名は江戸時代には消えた
ようですが、地名として復活させるのは無理としても、何らかの形で有名な里で
あったことを伝え続けてほしいものです。
季節は緩慢に、しかし確実に動いていて、程なく祇園祭です。正確には祇園祭は
7月初めから始まっています。これから京都はさらに暑い炎熱の町となります。
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