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■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■
vol.52(隔週発行)
2004年8月6日号
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メールマガジン「西行の京師」ご購読ありがとうございます。
暑中お見舞い申し上げます。暑さの盛りです。
とはいえ、今年の天候も異常なままに推移しているようです。降雨の極端
に乏しい梅雨の期間が続き、7月に入れば真夏日の連続。それなのに八月
を目前にしての豪雨禍で福井県や新潟県に大きな被害をもたらせました。
京都では七月の末からどんよりとした雲の垂れ込めている日々が続いて
います。積乱雲の広がる晴れ上がった夏空が恋しくもあります。
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■ 西行の京師 第52回 ■
目次 1 今号の歌と詞書
2 補筆事項
3 所在地情報
4 関連歌のご紹介
5 お勧め情報
6 エピソード
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《 1・今号の歌と詞書 》
《 歌 》
1 大原やまだすみがまもならはずといひけむ人を今あらせばや
(190P 雑歌)
(266P 残集)
2 都近き小野大原を思ひ出づる柴の煙のあはれなるかな
(128P 羇旅歌)
《 詞書 》
1 大原に良暹がすみける所に、人々まかりて述懐の歌よみて、つま戸に
書きつけける (190P 雑歌)
この詞書の次に(1)の歌があります。
2 大原にをはりの尼上と申す智者のもとにまかりて、両三日物語
申して帰りけるに、寂然庭に立ちいでて、名残多かる由申しければ、
やすらはれて
(266P 残集)
この詞書の次に寂然と西行の連歌があります。
帰る身にそはで心のとまるかな (西行の句)
まことに今度の名残はさおぼゆと申して (句と句の間の詞書)
おくる思ひにかふるなるべし (寂然の句)
今号の地名=小野・大原
今号の人名=良暹(りょうせん)・をはりの尼上・寂然
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(1)の歌と(1)の詞書の解釈
○いひけむ人=言った人。良暹法師を指します。後述。
○今あらせばや=生きていて、今この場にいてくれたら・・・
という西行の願望の言葉。
○つま戸=(1)家の端にある両開きの板戸。(2)寝殿造りの四すみに
取り付けられた板の両開き戸。
(平凡社「日本語大辞典より引用)
この歌は雑歌と残集にあり、重出歌です。残集の詞書は以下です。
「かく申して良暹が、まだすみがまもならはねばと申しけむ跡、かかる
ついでに見にまからむと申して、人々具してまかりて、各々思ひのべて
つま戸に書きけるに」 (266P 残集)
雑歌の詞書も残集の詞書も同じようなものですから、残集の意味を記します。
(残集の詞書)
良暹法師が住んでいて、「大原やまだすみがまもならはず・・・」という
歌を詠った住処の跡を見に行こうという話になって、人々と共に行って、
それぞれに思いを歌にして、つま戸に書き付けました。
(西行の歌)
「大原やまだすみがまもならはず・・・」という歌を詠んだ良暹法師が、今、
ここにいて下さったらなあー。
下は詞花集巻十にある良暹法師の歌です。
「おおはらやまたすみがまもならはねば我やどのみぞ煙たえたる」
*「また」は誤記ではなく、詞花集の表記のままです。
歌自体は単純で平明な述懐の歌ですが、先輩歌人である良暹法師に対しての
西行の親しい感情が充分に伺える歌です。
(2)の歌の解釈
「下野の国にて、柴の煙を見てよみける」という詞書がついています。
下野の国とは現在の栃木県のことです。能因法師を追慕しての各地の歌枕を
訪ねることが目的の初度の旅の時の歌だといわれています。
「都に近い小野や大原をなつかしく思い出し、郷愁をそそられることだ。
小野大原には炭を焼く柴のけぶりがあちこちと立ちのぼっていたが、それと
同じく、ここ下野国にも柴のけぶりがさかんにたちのぼりしみじみとあわれに
思われることよ。」
(渡部保氏著「西行山家集全注解」より抜粋)
都出でてあふ坂越えし折までは心かすめし白河の関 (130P 羇旅歌)
白河の関を越えて信夫という所で詠んだ上の歌は21号で紹介しています。初度
の旅で平泉に行くまでの往路の途次の歌ですが、今号の歌は帰路での歌です。
帰り道で、都が近くなってくる分だけ、都に対してのなつかしい感情がが強く
なっていただろうと思わせる歌です。
(2)の詞書と歌の解釈
○をはりの尼上=待賢門院の女房の一人。待賢門院没後(1145年)、喪が明けて
から出家。金葉集歌人と見られています。後述。
○かふる=代える、代うる、という意味。
(詞書)
大原に「をはりの尼上」という仏教の研鑽を積んだ方がいます。その人を寂然と
共に訪ねて行って、二・三日お話を伺って帰りました。帰る間際に、庭に降り
立った寂然が別れがたく名残が惜しいと申しました。寂然の思いと同じで帰る
のがためらわれて、その場にたたずんで」
(西行の句)
これから帰るのですが、名残が惜しくて帰る気持にはなりません。
心はここに留まろうとしています。
(詞書)
まことに今夜の気持ちは、そのように強く覚えることです。
(寂然の句)
(尼上が)見送る思いに代えましょう。
「西行の句は、単純にみえて複雑である。『送る思ひ』は尼が見送る思いで、
名残を惜しむために心は身に添わずして離れるのを指している。したがって、
『かふるなるべし」は、尼の心は西行たちにつき添って、身を離れてくるの
で、その代りに西行はその心をとどめて来るのだろう、というのである。
これが、心を代うるという意になるのである。(中略)
見送る尼の立場に寂然が立って、西行の句に唱和しているところに、ある複雑
なものがある。そのような扱いをしているために二人だけの間のものではなく、
尼をも含めたこの三人の間の交わりが、どのように親密であったかを、おのず
からの味わいとして表現し得るところにまで達している。」
(窪田章一郎氏著「西行の研究」より抜粋)
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《 2・補筆事項 》
1 良暹法師
良暹法師は後拾遺集初出歌人ですが、その経歴については詳らかではありま
せん。後拾遺集に十四首が入っています。そのうちの一首が百人一首第七十
番に採られている下の歌です。
さびしさに宿をたち出でてながむれば いづくも同じ秋の夕暮
生没年未詳。川村晃生氏校註の後拾遺和歌集によると、998年頃から1064年頃
まで存命。67歳頃に没したと見られています。叡山の僧で、祇園の別当職に
就任したこともあるようです。
後拾遺集のほかに金葉集・詞花集・新古今集などの作者です。
津守国基(1023〜1060)・藤原孝善(生没年未詳、1078年内裏歌合参加)・
藤原国房(生没年未詳、1077年出家)・素意法師(生没年未詳、1064年粉川寺
で出家、和泉の国に住む)・慶範法師(生没年未詳)橘為仲(?〜1085)
などの後拾遺集歌人との親交が知られています。
おぼつかなまだみぬ道をしでの山雪ふみ分けてこえんとすらん
(詞花集巻十 良暹法師)
西行には初句が「おぼつかな」ではじまる歌が八首あります。このことを
指して「西行の思想史的研究」の目崎徳衛氏は、「この「覚束な」という
歌い出しは西行に継承された所でもあって、良暹が後世の数奇の遁世者に
与えた影響は顕著であったといえよう。(115P)」と記述しています。
2 をはりの尼上
(2)の詞書に書かれてある「をはりの尼上」を訪ねて行った時の年代まで
は分かりません。西行出家1140年、寂然出家1144年から1155年の間と見られ
ていますので、早くても1144年以降のことです。
「尾張の尼は兵衛の局らとともに待賢門院に仕えていた女房で、「金葉集」
初出の歌人であるが、待賢門院の世を去った後、出家して大原にこもって
いたのである。」
(窪田章一郎氏著「西行の研究」より抜粋)
「待賢門院に仕えて琵琶の名手とうたわれ、後に大原来迎院の良忍に帰依して
遁世した高階為遠女の尼尾張・・・」
(目崎徳衛氏著「西行の思想史的研究」より抜粋)
目崎氏説と窪田氏説は待賢門院に仕えていたことは同じですが、少しの異同が
あります。あるいは両者のいう尾張の尼は別人かもしれません。
尾張の尼が大原来迎院の良忍上人(1073〜1132)に帰依しての出家であると
するなら、1132年までと考えてよく、待賢門院病没(1145年)以前の出家なの
でしょう。待賢門院没後の出家であるとするなら、すでに良忍上人は没して
いますので、良忍上人に帰依しての出家ということは疑問です。
尾張は前斉院尾張ともいいます。白河天皇を父とする令子内親王に仕えていま
したので「前斉院」と表記します。令子内親王(1079〜1144。斉院期間は
1089年〜1099年)に尾張は何年頃に何歳頃で仕えたのか不明です。待賢門院
堀川も令子内親王に仕えていて、前斉院六條と呼ばれていました。
尾張は百人一首第七十八番の源兼昌の娘とみられています。源兼昌の生没年も
未詳ですから、兼昌から尾張のおおよその年齢もたどれません。いずれにして
も西行よりかなりの年配で、大原に隠棲していたことは事実だったと思います。
いとか山くる人もなき夕暮に心ぼそくもよぶこ鳥かな
(金葉集 前斉院尾張)
3 三千院
寂光院と同様に三千院も山家集に記述はありません。それもそのはずで、
寺名を三千院と呼称したのは明治4年になってからのことです。それまでの
三千院は円融坊、梨本坊、梶井宮などの複数の名で呼ばれていたようです。
ただし1708年に製作された霊元天皇筆による「三千院」の扁額があります。
西行の時代は小野山から流れ落ちる呂川と律川の内側に来迎院と極楽院、律川
の北側に勝林院があり、多くの塔頭をも総称して大原寺と呼んでいました。
その大原寺を管轄する政所が現在の三千院の中にありました。
三千院の本堂は往生極楽院です。もともとは極楽院でしたが室町時代になって、
往生という言葉を前置したそうです。この往生極楽院は源信僧都の妹の安養尼
の持仏堂の旧跡とも伝わっていましたが、藤原実衡の妻の真如房尼が実衡の
菩提を弔うために実衡没年の1143年から1148年の間に建立したもののようです。
ここには国宝の阿弥陀三尊があります。像内に残っていた文書から、1148年の
造立と確定しているようです。
往生極楽院は入母屋造りこけら葺きの小さな建物です。小船をさかさまにした
ような船底型の天井や内部壁面に飛天図、千体仏、両界曼荼羅図などが描かれ
ています。創建当初の色彩豊かな浄土教的壁画から現在の密教的な壁画にと
描き替えされているということです。
三千院が門跡寺院となったのは堀川天皇の皇子の最雲法親王が1156年に大原寺
を住持してからのことです。南北朝の時代の後醍醐天皇の皇子、大塔宮尊雲
法親王も一時期、第三十一代門跡として三千院を住持していました。
穴太積みの威厳に満ちた御殿門をくぐると、さすがに門跡寺院らしい奥行きの
ある典雅な情趣に満ちた寺院であることが分かります。
三千院にはさまざまな名宝があり、その中には江戸時代に書写された古今
和歌集もあります。
下は私の撮影した三千院の画像です。
http://kazu02aa.hp.infoseek.co.jp/saigyo2/ooha2.html
(補筆事項は三千院発行「京都・大原 三千院の名宝」
平凡社発行「京都市の地名」などを参考にしています。)
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《 3・所在地情報 》
◎ 三千院 (さんぜんいん)
所在地 京都市左京区大原来迎院町540
電話 075−744−2531
交通 京都バスで京都駅から17番、18番で大原下車。徒歩約15分。
拝観時間 8時30分から16時30分まで(12月から2月)
8時30分から17時まで(3月から11月)
拝観料 600円
駐車場 なし
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《 4・関連歌のご紹介 》
1 こりつめてまきのすみやくけをぬるみおおはら山のゆきのむらぎえ
和泉式部 (後拾遺集)
2 君を我おもふ心はおおはらやいつしかとのみすみやかれつつ
藤原相如 (詞花集)
3 日かずふる雪げにまさる炭窯の煙もさびしおおはらの里
式子内親王 (新古今集)
4 炭がまのたなびく煙ひとすぢに心ぼそきは大原の里
寂然 (山家集)
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《 5・お勧め情報 》
五山の送り火
京都三大祭りとともに京都を代表する行事の一つです。
五山とは、東山如意ヶ嶽の「大文字」、松ヶ崎の「妙法」、西賀茂妙見山の
「船型」、大北山の「左大文字」、北嵯峨水尾山の「鳥居形」を指します。
8月16日の午後8時にまず東山の大文字が点火されます。最後の鳥居形の点火
時間は8時20分です。詳しくは下のサイトを御覧願います。
http://www.kyoto-np.co.jp/kp/koto/gozan/index.html
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《 6・エピソード 》
なんと言うことでしょう。今回も大幅に遅れてしまいました。申し訳ございま
せん。47号で不定期発行となる旨、お知らせはしていましたが、できる限り
隔週発行を遵守したいと考えていました。それなのに最近はゴールを目前にして
失速してしまったランナーのように、よれよれの状態です。こころならずも発行
が遅れるたびに「申し訳ございません。」と言わなくてはなりません。なんだか、
お詫びばかりの人生よ・・・という感じもします。
一応「西行の京師」は55号をもって終了する予定です。山家集記載の京都の地名
入りの歌と詞書は55号までで、すべてご紹介できることになります。
思い返してみると、二年以上も前の創刊当初はあまり時間もかけずに実に安直に
発行していたという印象です。もっと詳しく触れることがあったのではないか
と反省もします。また、西行落飾の地といわれる勝持寺についても触れないまま
ですので、そのあたりをどのようにするといいか、目下、思案中です。
大原にはこれまでに取り上げた来迎院、寂光院、三千院のほかに勝林院、実光院、
宝泉院、阿弥陀寺などがあります。可能なら次号に勝林院についてだけでも少し
は触れたいと思います。大原三寂と西行との関係も次号に回すことにします。
大原にはこれまでに四回は行っているのですが、狭い範囲なのにまだまだ知ら
ない所、知らないことが多くあります。これからも何度か尋ねて、実際に道を
歩いて大原の持つ歴史の中に浸ってみたいものだと思います。
明日は立秋です。吹いて行く風の中にもすでに秋の気配が漂っています。
16日は五山の送り火。京都の夏は送り火の日で終わり。それからは厳しい残暑が
続きますが、日ごとに季節は秋の色を深めて移ろい行きます。
お盆には3日ほどの休みを取って生地の愛媛県に帰省の予定です。
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