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     ■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■    

                      vol.53
                      2004年9月07日号
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 メールマガジン「西行の京師」ご購読ありがとうございます。
 9月5日、二度の地震がありました。関西、東海地方の広範囲にわたって
 のもので、二度ともに震度3から5という報道でした。揺れている最中は
 何も手につかず、ただ不安感ばかりが増幅しました。書物に半身埋もれた
 10年前の忌まわしい記憶が蘇ります。地震はやはり怖いと改めて感じま
 した。読者の方で被災された方がいないようにと祈りあげます。
 自然災害は仕方ないとはいえ、万一遭遇したとしてもできるだけ軽度の
 被災ですむ様に、日頃から気をつけたいものですね。 
  
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     ■ 西行の京師  第53回 ■

   目次  1 今号の歌と詞書
        2 補筆事項       
        3 所在地情報
        4 関連歌のご紹介
        5 お勧め情報
        6 エピソード

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  《 1・今号の歌と詞書 》

  《 歌 》

 1 大原は比良の高嶺の近ければ雪ふるほどを思ひこそやれ
                           (101P 冬歌)
 
  《 詞書 》 
 
 1 寂然入道大原に住みけるに遣しける
                          (101P 冬歌)

   この詞書の次に(1)の歌があります。「かへし」として寂然の下の歌が
   あります。

   思へただ都にてだに袖さへしひらの高嶺の雪のけしきは (寂然)

 2 同じさまに世をのがれて大原にすみ侍りけるいもうとの、はかなく
   成にける哀とぶらひけるに
                         (207P 哀傷歌)

  この詞書の次に下の歌があります。

  いかばかり君思はまし道にいらでたのもしきらぬ別なりせば

  「かへし」として寂然の下の歌があります。

  たのもしき道には入りて行きしかど我が身をつめばいかがとぞ思ふ(寂然)

 3 入道寂然大原に住み侍りけるに、高野より遣しける
                            (138P 羇旅歌)  

  この詞書の次に寂然に宛てた十首の歌があります。初句はすべて
  「山ふかみ」で始まります。一首のみ取り上げます。

  山ふかみなるるかせぎのけぢかきに世に遠ざかる程ぞ知らるる

  「かへし」として寂然の歌が十首あります。結句はすべて「大原の里」
  で終わります。一首のみ取り上げます。

  もろともに秋も山路も深ければしかぞかなしき大原の里 (寂然)

 4 参考詞書 1

  12号に掲載したものですが、ここでも再度取り上げて触れてみます。

   新院、歌あつめさせおはしますと聞きて、ときはに、ためただが
   歌の侍りけるをかきあつめて参らせける、大原よりみせにつかはすとて
                           (178P 雑歌)

    この詞書の次に下の寂超の歌があります。その下は西行の返歌です。
                  
   木のもとに散る言の葉をかく程にやがても袖のそぼちぬるかな 
                          (寂超長門入道)
   
   年ふれど朽ちぬときはの言の葉をさぞ忍ぶらむ大原のさと (西行)

 5 参考詞書 2

  岩波文庫山家集にはありませんが松屋本にありますので取り上げます。

  大原に侍りけるすみやきのまうで来けるが、うせにければ、子にてはべり
  けるものの、かはりてまうで来けり。それもなくなりて、孫にて侍りける
  ものの、かはらずまうで来けるを
                          (山家集松屋本)

  この詞書の次に下の歌があります。

  つづきつつあるもなくなるあとの人のまたくる人につづくなりけり 

 今号の地名=大原・比良・ときは・高野 
 今号の人名=入道寂然・新院・ためただ・寂超長門入道

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  (1)の歌と(1)の詞書の解釈

○比良=近江の国(滋賀県)の地名。歌枕。
○袖さへし=寒さが際立っていて、袖も凍るほどの厳しい冷たさのこと。

 この歌は御裳濯河歌合と藤原定家撰の新勅撰集にも採られています。
 出家して大原に住んでいた寂然との贈答の歌です。この詞書からは西行の
 居住地は分かりませんが、新勅撰集の詞書によって、高野山にこもっていた
 西行から寂然に贈った歌であることが知られています。
 先号の補筆事項の「2 をはりの尼上」で寂然出家は1144年から1155年の間と
 記述しましたが、宮柊二氏著「西行の歌」では1155年7月の出家とあります
 ので、それを信じるなら、1155年冬以降の贈答歌です。
 詞書も歌も解説の必要もないほどに分かりやすいものですが、歌のみ記述し
 ます。
 大原に住む友人の寂然を思いやる友愛にあふれている歌だともいえます。

 (西行の歌)
 洛北大原の里は、比良の高嶺のすぐ側なので、雪の降る今の季節の寒さ、
 冷たさはどんな具合なのだろうか・・・と、気をもんでいます。
 
 (寂然の返歌)
 ただ想像してください。都の中であっても寒さは袖に張り付いていました
 のに、比良の高嶺に雪が降り積もる季節の大原の里の情景とその寒さを。
 袖に張り付く寒さもひときわ厳しく、冴えています。
 
  (2)の詞書と歌の解釈

○同じさま=同様に出家者となったということ。
○はかなく成にける=死亡したということ。
○いもうと=寂然の妹のこと。出家して大原に隠棲していたようです。
○哀(あはれ)とぶらひける=ははれ弔う=死を悼むという気持。 
○道=出家したということ。仏門に入ったということ。仏道。
○たのもしきらぬ=死後の安楽往生のこと。「きらぬ」で、その否定形。
○我が身をつめば=自分に即して言えば・・・という意味。

  (詞書)
 同じように出家して大原に住んでいた寂然の妹が亡くなりました。その死を
 弔いました。

  (西行の歌)
 妹さんが亡くなって悲しみに沈んでいるあなたは、どのように思われること
 でしょう。もしも妹さんが仏道に入らないで、死後の往生を頼むことのでき
 ない別れであったとしたならば・・・

  (寂然の返歌)
 妹は出家して極楽往生を願える死を遂げたと思います。さて私の身に引き
 替えて考えてみると、果たして同じように後世を頼む死を遂げられるもの
 なのか、その不安が強くあります。

 形式的な弔問の歌ではなくして、妹をなくした寂然の悲しみをすくい取る形
 の歌なのでしょう。西行はこの歌を贈ることによって、寂然のさらなる仏道
 修行を促し励まししているようにも感じます。
 寂然の歌は自省であり、謙遜でありするという出家者の美徳に満ちているよう
 にも感じられます。

 「西行の研究」の窪田章一郎氏は寂然の返歌を指して以下のように記述して
 います。
 
 「修行不十分であった不安のあることを、自分自身にひきつけて歌っている。
  正直に自己反省をする態度が、妹の死をあわれむ心と一つになっていて、
  さすがに肉親の愛のしみじみとした、すぐれた一首である。」


  (3)の詞書と歌の解釈

○なるる(馴るる)=馴れ親しむということ。
○かせぎ=鹿の異名。
○けぢかき(気近き)=近くに感じられること。

  (詞書)
 大原に住んでいる寂然法師に高野山から歌を贈りました。

  (西行の歌)
 高野山の山は深くて、鹿は私に馴れて近くに寄ってきます。それとともに
 一般の社会から遠く隔たって生活していることを思い知らされます。
 
  (寂然の返歌)
 秋も深まり、そして山の道も深くあり、そこで啼く鹿の哀調を帯びた声が
 ことに悲しく感じられる大原の里です。

 西行は高野山、寂然は大原に住んでいた頃の歌ですから、作歌年代は1155年
 以降のもの、寂然が出家してまだ間がない頃の贈答歌と見られています。
 互いに実際の生活や自然の環境を写実的に詠っている連作です。西行の歌は
 初句、寂然の歌は結句に同一の言葉を用いるという制約を設けて、歌にして
 消息を知らせ合うという書簡のような役割をもたせています。その分、歌と
 しては盛り上がりに欠けた平板さがあるとは思います。しかしながら心を詠う
 という、歌が歌である叙情性は、この連作でも味わえるものと思います。
 自然の景物に託しての二人の感興、その叙情が展開されていると感じます。

  (4)参考詞書1の詞書と歌の解釈

○新院=崇徳院(1119〜1164)のこと。第75代天皇。鳥羽帝と待賢門院の長子。
○歌あつめ=久安百首のこととも詞花集のこととも言われますが、1144年の
        詞花集のことと断定していいかと思います。
○ときは=常盤。藤原為忠の屋敷がありました。
○ためただ=藤原為忠。大原三寂の父です。1136年没。
○寂超長門入道=寂超。俗名は藤原為隆(為経とも)。1143年出家。為忠の子
          で寂然の兄。美福門院加賀との間に隆信がいる。加賀は後に
          俊成に嫁して定家を産む。    
   (詞書)
 崇徳院が歌集を作るために歌を集められるということです。常盤の屋敷に
 為忠の歌の草稿がありましたから、それを清書して詞花集のために差し出す
 ことにしました。その歌稿を大原に住む寂超が見せてくれるという事です。

 (寂超長門入道の歌)
 爲忠という一本の木の下に散り敷いている歌の言葉の数々を、木の葉をかき
 集めるように集めて清書していると、ありし日の父のことがいろいろ思い
 出されてきて、涙を拭く袖もぐっしょりと濡れてきます。

 (西行の返歌)
 父上(為忠)の遺した歌はどんなに年数が経ったとしても決して朽ちること
 のない言の葉、いつも瑞々しい常盤木のようなものでしょう。父上の歌を読み、
 お元気な頃の姿をさぞなつかしく思われることでしょう。大原に住むご兄弟は。 

 寂超の歌の初句(木のもとに)は、新潮版では(もろともに)となっています。
 いずれにしても亡き父親を偲ぶという濃密な情愛に満ちた一首です。
 この贈答の歌によって、西行が歌の世界で他の歌人から認められるように
 なっていたということが分かります。
 
  (5)参考詞書2の詞書と歌の解釈

 この詞書と歌は松屋本にあります。歌だけでは意味が判然とせず、詞書と歌が
 一体となっていると解釈できます。

  (詞書)
 炭の生産地である大原に、西行の家で使う炭を持ってきてくれる人がいま
 した。その人が亡くなってから、代わりに、その家の子が炭を運び続けて
 くれていたのですが、その子も亡くなって、以後は孫が運んで来るように
 なりました。代変わりしても必ず届けてくれるというその律儀さに・・・

  (歌)
 「いつも我が家に炭をもってきていた人が亡くなり、かわって次の人(子供)
  がもって来てくれていたが、その人も亡くなり、そのあとにまたくる人
 (孫)がつづくのであるよ。」
          (「 」内は渡部保氏著「西行山家集全注解」より抜粋)

 ◎西行の邸宅の場所
  「京都油小路二條の南の西側、北に家五.六軒あってその南にあったが、安元
  元年西行五七歳の暮れに焼けた。」
             (「 」内は伊藤嘉夫氏校註「山家集」より抜粋)

 ◎松屋本
  山家集は4系統が知られていますが、その中の一つが松屋本です。他の
  山家集にない歌が多くあります。


      この項は主に窪田章一郎氏著「西行の研究」を参考にしています。
               
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  《 2・補筆事項 》

   1 比良

 滋賀県滋賀郡にある地名。近江の国の歌枕。JR湖西線に比良駅があります。
 駅は比叡山の北東の湖岸に位置し、比良の山は比叡山の北側に連なる連山を
 指します。
 この山に吹く風の激しさは有名で、ことに春先の比良おろしの風を「比良の
 八講荒れ」といいます。
 歌では「風」「山風」などの言葉が詠みこまれ、雪、霰、凍る、冴えるなど
 の寒さの際立つ冬の情景を詠ったものが多くあります。
 西行と寂然の贈答の歌は、京都市左京区大原から比良の山を見て詠ったもの
 です。
 
   2 寂然との贈答歌

 山家集の中で寂然との贈答歌は9回あります。岩波文庫から贈答歌のある
 ページを記します。

 29・69〜70・101・138〜139・183・206(2回)・207〜208・210の各ページ。
 歌数は寂然22首、西行23首です。ほかに連歌が266ページにあります。
 このほかに寂然の名前があるページは88・89・179・259・264(2回)・265
 の各ページです。88ページは寂然が寂蓮、264ページには寂為と誤記されてい
 ます。
 未紹介の寂然の歌一首を記します。

 ともに見し嶺の紅葉のかひなれや花の折にもおもひ出ける (寂然)
                      (29P 春歌)

 「もみじの折でなく、花の折にも、あなたのことを思い出したのは、共に
 高野山の美しい紅葉を見たかいがあったためであろうか。」
 (かいに峡をかけている。峡は紅葉の美しいところ、また西行の住みし所か)
           (渡部保氏著「西行山家集全注解」より抜粋)

 寂然が前年に高野山に登って西行に逢い、その次の年の桜の季節に西行が
 寂然に歌を贈りました。寂然の歌はその返歌としてのものです。

  3 大原三寂

 藤原の為忠の子供達で出家した為業(寂念)・為隆(為経とも)(寂超)・
 頼業(寂然)の三人のことです。寂念は大原に住んだという確証はありません
 から、大原三寂というよりは常盤三寂と呼ぶほうが正確だと思います。
 
 為業=寂念。大原三寂の中で一番遅く出家。176Pに(為なり)名での贈答歌
       があります。
       
 為隆(為経とも)=寂超。西行より3年遅れて1143年の出家。178Pと215Pに
          贈答歌があります。

 頼業=寂然。1155年頃の出家。西行ともっとも親しい歌人だといえます。
       贈答歌については上記を参照願います。

 為忠の子は、この三人以外に為盛がいます。為盛については詳しく分かりま
 せん。179Pにある「兄に侍りける想空がもとより」とある想空という人物は、
 為盛もしくは寂念の別号とみていいと思います。
 いずれにしても、西住や俊成なども交えてしばしば歌会を催していたと解釈
 できますし、その作歌グループは西行にとっても貴重ものであったことは確か
 でしょう。 
         
  4 勝林院
 
 勝林院も山家集には記述がありませんが、西行の時代にもありましたので、
 簡単に取り上げます。
 勝林院は律川を挟んで三千院の北側に位置します。創建は835年、最澄の直弟
 子の慈覚大師円仁が天台声明の根本道場としたのが始まりだといわれます。
 勝林院と名づけられたのは1013年、中興の祖の大原入道寂源の時です。
 この勝林院で、1186年8月から法然上人を招いての100日間に及ぶという仏教
 談義が行われました。有名な大原問答です。その時には東大寺の重源や笠置寺
 の解脱上人など380人もの僧侶が参集していたそうです。
 その問答の場で、この寺の本尊でもある阿弥陀如来が法然上人の専修念仏の
 正しさを表して手から光明を放ったといい、その現象から「証拠の阿弥陀如来」
 と呼ばれます。しかしこれよりも早く200年ほども前から「証拠の阿弥陀如来」
 と呼ばれていたそうです。
 明治以前は実光坊(現在は実光院)法泉坊(現在は宝泉院)などの四坊を総称
 して勝林院といいましたが、明治以降は本堂を専称して勝林院といいます。
 勝林院の代々の住職が住んだという宝泉院は、よく手入れされた美しい庭を
 持っています。
             補筆事項は窪田章一郎氏著「西行の研究」
             平凡社「京都市の地名」などを参考にしています。

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  《 3・所在地情報 》

  ◎ 勝林院 (しょうりんいん)
  
 所在地     京都市左京区大原勝林院町187
 電 話     075−744−2531・2409
 交 通     京都バスで京都駅から17番、18番で大原下車。徒歩約15分。
 拝観時間    9時から17時まで
 拝観料     300円
 駐車場     なし

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  《 4・関連歌のご紹介 》


 1 さくら咲く比良の山風吹くままに花になりゆく志賀の浦波
                    左近中将(藤原良経)(千載集)

 2 さざ浪や比良の高嶺の山おろしもみぢを海のものとなしつる
                    (藤原)刑部卿範兼 (千載集)

 3 さざなみや志賀のから崎風さえて比良の高嶺に霰ふるなり
           法性寺入道前関白太政大臣(藤原忠通)(新古今集)

 4 さざなみや比良山風の海吹けば釣するあまの袖かへる見ゆ
                 よみ人しらず(万葉集巻九・新古今集)

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  《 5・お勧め情報 》

    平安神宮神苑

 平安神宮神苑が一日のみ無料(通常は600円)で公開されます。
 秋の花の萩やフジバカマなどが見頃となります。
  
 月 日    9月19日(日)
 時 間   8時30分から16時30分まで
 所在地   京都市左京区岡崎西天王町
 交 通   京都駅烏丸口から5番・100番・特206番で京都会館、
        美術館前下車すぐ
 電 話   075-761-0221
 URL   http://www.heianjingu.or.jp/

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  《 6・エピソード 》

  秋きぬと目にはさやかに見えねども 風の音にもおどろかれぬる
                  (藤原敏行 古今集・定家八代抄)
 
敏行のこの歌は立秋の日の歌ですが、それから月日は移って、もう白露の季節
です。これから秋の花が盛りとなります。試みに秋の七草の名詞を記します。
萩・薄(尾花)・葛・撫子・女郎花・藤袴・朝顔(朝顔=桔梗説が有力です。)
を指すそうです。
山家集の中にもこれらの植物名の入った歌があります。濱萩も含めて「萩」の
文字の入った歌が最も多くて二十五首、次いで女郎花十五首と続きます。藤袴
はわずかに一首しかありません。このことは西行が萩の花がとりわけ好きだから
多く詠んだというよりも、身近に萩の花が多かったということかも知れません。
萩が西行の心情に合う花であったということは確かなことでしょう。

 さを鹿の朝立つ野辺の秋萩に 玉と見るまでおける白露
                   (大伴家持 万葉集巻八)

萩は雁・鹿・露などの言葉とともに詠われる傾向がありますが、山家集には雁の
名詞を入れたは用例は無く、鹿は三首、露は十二首となっています。露が多い
のはなんとなく西行らしいとも思います。一瞬だけとどまり、はかなく消えて
いくしかない露の象徴するものと、萩の花との取り合わせの妙に、和歌でしか
表せない叙情を私は感じます。

「都名所図会4(筑間文芸文庫)」223ページに「高台寺萩の花」として説明が
ありますので抜粋します。

 「西行法師、宮城野の萩を慈鎮和尚に奉りし、その萩いまに残りしを、草庵に
 うつしうゑ侍りし。花の頃、その国の人きたり侍りしに
 ( 露けさややどもみやぎ野萩の花 宗祇 )
 ( 小萩ちれますほの小貝こさかづき はせを )」

この西行の萩が青蓮院にあるというので近いうちに行ってみようと思います。
また、源氏物語ゆかりの草花が植栽されている城南宮にも行って、秋の花の
撮影をしたいと思います。

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