もどる
===================================
■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■
vol.54
2004年10月07日号
===================================
メールマガジン「西行の京師」ご購読ありがとうございます。
懸案事項をいくつか抱えながら、私のそういう事情には関わりなく時は
移って、すでに今年も十月の声を聞きました。
風景はすっかりと秋の装いをしています。天は高くなり、盛りに茂って
いた街路樹も朽葉、わくら葉を落としています。
駆け足で通り過ぎていく季節を実感しています。
===================================
■ 西行の京師 第54回 ■
目次 1 今号の歌と詞書
2 補筆事項
3 所在地情報
4 関連歌のご紹介
5 お勧め情報
6 エピソード
==================================
《 1・今号の歌と詞書 》
《 歌 》
1 晴れやらで二むら山に立つ雲は比良のふぶきの名残なりけれ
(100P 冬歌)
2 比良の山春も消えせぬ雪とてや花をも人のたづねざるらむ
(259P 聞書集)
《 詞書 》
1 前大僧正慈鎮、無動寺に住み侍りけるに、申し遣しける
(181P 雑歌)
この詞書の次に下の歌があります。
いとどいかに山を出でじとおもふらむ心の月を獨すまして
「返し」として慈鎮の歌があります。
うき身こそなほ山陰にしづめども心にうかぶ月を見せばや (慈鎮)
2 無動寺へ登りて大乗院のはなち出に湖を見やりて
(278P 補遺)
この詞書の次に下の歌があります。
鳰てるやなぎたる朝に見渡せばこぎゆくあとの波だにもなし
「かへし」として慈鎮の詞書と歌があります。
歸りなむとて朝のことにて程もありしに、今は歌と申すことは
思ひたちたれど、これに仕るべかりけれとてよみたりしかば、
ただにすぎ難くて和し侍りし
ほのぼのと近江のうみをこぐ舟のあとかたなきにゆく心かな (慈鎮)
今号の地名=二むら山・比良・近江
今号の寺社名=無動寺・大乗院
今号の人名=慈鎮
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(1)の歌の解釈
○二むら山=二村山は愛知県にあります。この歌では滋賀県にあった山だろう
と推定できます。しかし現在の琵琶湖周辺に二村山はみつかり
ません。
二村山を見れば、晴れてはいずに雲がかかっています。その雲は、比良の
連山に吹雪をもたらせていた雲の名残のようにも思います。
情景の写生に寄りかかりすぎていて、作者の心、作者の呼吸が見えてこない
歌であることに不満が残ります。しかしそれは、あえて作者自身の心情など
を直接的に出さないという創作姿勢のもとでの歌なのですから、これはこれ
でいいのだろうと思います。分かりやすい歌です。なんとなく、孤独である
ことの人としての寂寥感を漂わせながら、しかし、情景との親和性を感じさ
せもします。
この歌は「百首歌の中、雪十首」の詞書がついている十首の中の一首です。
詞書に十首歌と明記されているのは13回あります。それぞれに意図的な構成
を試み、作者なりの計算のもとで、ある秩序が保たれているともいえます。
「西行の研究」の窪田章一郎氏は以下のように考察されています。
「旅と庵との生活を歌い、実感・実景を歌い、独白形式を多く用いている点
が他の「十首」に比べてあざやかである。それは、雪という素材が、出家
後の実生活に密着したところからとり上げられているからである。」
(2)の歌の解釈
「花雪に似たりといふことを、ある所にてよみけるに」という詞書が付いて
います。この詞書によって、三句の「雪とてや」は桜花のことであることが
分かります。西行の歌の中では雪を桜花になぞらえている歌、逆に桜花を雪
なぞらえている歌がたくさんあります。この技法を「見立て」といいます。
「比良の山に桜の花が散って雪のように見えているのだが、それは春になって
も消えない雪と思うのであるからか、雪ではなく、花の場合でも(雪と思って)
人がたずねないのであろう。」
(渡部保氏著「西行山家集全注解」から抜粋)
(1)の詞書と歌の解釈
○慈鎮=慈円のこと。慈鎮は慈円死後に贈られた諡号。
○無動寺=比叡山にあるお寺。
○いとど=ますます。いっそう。
○出でじ=出ないこと。出づるの対語(?)
○うき身=憂き身のこと。憂いの多いこと。
(詞書)
前大僧正慈鎮が比叡山の無動寺に住んでおられましたので、歌を送りました。
(西行の歌)
このまま山を出ないで、仏道を究めるために修行に没頭したいと、いっそう
そのように思っておられることでしょう。ご自分の心の中の月を一人静かに
みつめて・・・
「ますます何とかして山を出まいと思っていることであろう。心の月を一人で
澄まして。」
(「 」内は、渡部保氏著「西行山家集全注解」より抜粋)
(慈円の返歌)
迷い、悩み、悲しみに満ちていて憂きことの多い身は、山の陰に沈潜している
感じですが、けれども沈潜している身とは違って、心の中の月は澄んで浮かん
でいます。それをお見せしたいものです。
慈円がこの無動寺で修行していた年代は1175年、21歳の頃と見られています。
西行とは37歳の年齢差がありますので、西行58歳以降の歌ということになり
ます。この贈答歌をやり取りした頃の慈円は、詞書にあるように大僧正でも
なく、また慈鎮という名前でもありません。そのことからみて、この詞書は
「慈鎮」の名を贈られた1237年以降に山家集を書写した人の加筆なり改変なり
がなされているということを示しています。
吉野山やがて出でじと思ふ身を花ちりなばと人や待つらむ (32P 春歌)
上の歌にある「やがて出でじ」という言葉は「まもなく出る」という風にも
解釈できると思いますが「やがて」は(まもなく・いつかは)という意味では
なくて(そのまま)の意味で用いられていて、「そのまま留まる・出ない」と
いうことを表します。
これと同様に、「山を出でじ」は(山を出ない)ということであり、仏道修行
に明け暮れている慈円の迷いのない強固な意志を、西行は称え、促し励まし
している歌でもあるといえるでしょう。年齢差を越えての二人の親密な交流に
驚嘆もしますし、年下の慈円に対しての西行の暖かいまなざしを感じもします。
慈円の歌は「思いわずらうことはいつもたくさんありはするけれども、しかし
自分が思って信じている道を懸命に歩いている」という若々しく純真な気持ち
が満ち充ちているようにも思います。
(2)の詞書と歌の解釈
○大乗院=無動寺の一子院です。
○はなち出=出窓のこと。現在でいうベランダ。
○鳰(にお)=鳥の名。カイツブリのこと。
○鳰てるや=琵琶湖の古称。
(詞書)
比叡山に登って無動寺の大乗院のはなち出から琵琶湖を見て
(西行の歌)
起床して朝日に輝いている湖面を見渡しています。湖面は凪いでいて、漕いで
いく船の航跡さえも無い静かさで広がっています。
(慈円の詞書)
一泊した西行法師が帰ろうとされて、しかし朝のことですし、ゆっくりできる
時間もありました。今は歌を詠む事を断っているけれども、この心にしみ入る
光景を見てということで歌を詠まれました。私も、何もせずに過ぎて行くのは
残念なことだと思って、歌を作って声に出して読みました。
(慈円の歌)
琵琶湖を漕いで過ぎていく舟の、後も残らないほどに静かな湖面のその光景
にほのぼのとした安らぎを感じて、私の心は無性に惹かれていきます。
白洲正子さんの「西行」におもしろい記述がありますので紹介します。
『「今は歌と申すことは思ひ絶えたれど」といっているのは、勝手に止した
わけではなく、起請文まで書いて絶ったということが、同じく拾玉集にのっ
ているが、ほかにもいくつか詠んだ形跡はあり、数奇のためとあらば、神の
誓いに背いて罪を得ることも、まったく意に介さなかったところに、西行の
強さといさぎよさと、あえていうなら面白さも見ることができる。』
(白州正子氏著「西行」より抜粋)
慈円と西行の贈答歌は山家集では、この二回のみですが、新古今集1782番の
慈円の詞書と歌によって、他にもあることが知られています。
1782番は作者名が誤記されていて、慈円ではなく八條院高倉となっています。
(詞書)
西行法師、山里より罷り出でて、「昔出家し侍りしその月日にあひ当たりて
侍る」などと申したりける返事に
(歌)
うき世出でし月日の影の廻り來てかはらぬ道をまた照らすらむ (慈円)
===================================
《 2・補筆事項 》
1 いとどいかに
いとどいかに西にかたぶく月影を常よりもけに君したふらむ (174P 雑歌)
「いとどいかに」という六文字の初句で始まる歌は、今号紹介の慈円との贈答
歌のほかには上記歌があり、合計二首のみです。他の歌人に「いとどいかに」
の用例歌がないものかと探してみましたが見つかりませんでした。「いとど
しく」という言葉を使った歌はたくさんありますが、「いとどいかに」という
言葉は西行だけが用いているのかも知れません。
源氏物語の「若菜」集中などには使われていますので、散文としては使われて
いた言葉であることは間違いないものと思います。
【いと】 (1)ほんとうに。まったく。(2)たいして。それほど。
【いと‐ど】 いといとの転。いっそう。ますます。
【いとど‐し】(1)ますます激しい。(2)ただでさえ・・・なのに。
いっそう・・・である。
(講談社「日本語大辞典」より抜粋)
【いとどいかに=〔いと‐ど‐いか‐に〕】という副詞と形容詞の合わさった
言葉の意味を正確に理解するのは難しいと思います。また、この言葉に込めた
西行固有の感覚というものもあるはずですし、なおさら理解できにくい言葉
ではなかろうかと思います。
2 慈鎮
慈鎭和尚とは、慈円(1155〜1225)の死亡後に追贈された謚号です。西行と
知り合った頃の慈円は20歳代の前半と見られていますので、まだ慈円とは名
乗っていないと思いますが、ここでは慈円と記述します。
慈円は、摂政関白藤原忠道を父として生まれました。藤原基房、兼実などは
兄にあたります。11歳で僧籍に入り、覚快法親王に師事して道快と名乗ります。
(覚快法親王が11181年11月に死亡して以後は慈円と名乗ります。)
比叡山での慈円は、相應和尚の建立した無動寺大乗院で修行を積んだという
ことが山家集からもわかります。このころの比叡山は、それ自体が一大権力
化していて、神輿を担いでの強訴を繰り返したり、園城寺や南都の興福寺との
争闘に明け暮れていました。それは貴族社会から武家政権へという時代の大
きなうねりの中で、必然のあったことかもしれません。
慈円は天台座主を四度勤めています。初めは兄の兼実の命によって1192年から
ですが1196年に兼実失脚によって辞任。次は後鳥羽上皇の命で1201年2月から
翌年の1202年7月まで。1212年と1213年にも短期間勤めています。
西山の善峰寺や三鈷寺にも何度か篭居していて、西山上人と呼ばれました。
善峰寺には分骨されてもいて、お墓もあります。
1225年71歳で近江にて入寂。1237年に慈鎭和尚と謚名されました。
歴史書に「愚管抄」 家集に「拾玉集」などがあります。新古今集では西行の
九十四首に次ぐ九十二首が撰入しています。
(学藝書林「京都の歴史」を主に参考にしました。)
おほけなくうき世の民におほふかな わがたつ杣に墨染の袖
(前大僧正慈円 百人一首95番)
3 無動寺
無動寺は比叡山東塔に属していて、無動寺谷にあります。滋賀県坂本からの
ケーブルで、延暦寺駅に降りて、すぐ側の無動寺坂を一キロほど下った所に
あります。不動明王を祀る明王堂が本堂で、ほかに建立院・松林院・大乗院・
玉照院・弁天堂その他の堂宇を総称して無動寺といいます。
明王堂は千日回峰行の根本道場ともなっています。
慈円はこの無動寺の大乗院で何年から何年まで修行したのか私には不明ですが、
いずれにしても西行とは無動寺で2度は逢っているということになります。
尚、親鸞聖人も10歳から29歳まで大乗院で過ごしたことが知られています。
千日回峰行について書かれたページです。
http://www3.zero.ad.jp/noumanji/jyusyoku/kaihou.html
4 延暦寺
延暦寺は比叡山にありますが、特定の堂宇を指したお寺の名称ではなく、
総称して延暦寺といいます。元号の延暦(782〜806)からきています。最澄
は788年から一乗止観院という小さな草庵を造って籠もっていましたが、
寺名としては「比叡山寺」でした。最澄は822年に57歳で死亡。翌年の823年
に桓武帝ゆかりの元号である延暦を嵯峨帝から下賜されて「延暦寺」と改称
したものです。ちなみに最澄が伝教大師という大師諡号を賜ったのは866年、
空海の弘法大師は921年のことです。
天台宗の総本山である延暦寺はここで説明の必要もないほどに有名なお寺
です。日本の仏教にとって重要な役割を担ってきたお寺であり、宗教関係
だけでなく政治、社会、文化などの面においても多くの貢献をしてきました。
綺羅星のような多くの名僧・高僧が育ちました。浄土宗の法然、浄土真宗の
親鸞、臨済宗の栄西、曹洞宗の道元、時宗の一遍、日蓮宗の日蓮などの宗祖
は、延暦寺で修行をして巣立った人達です。
延暦寺も何度も火災で焼失しています。ことに1571年の織田信長による一山
焼き討ちでは瑠璃堂を除いた堂宇は灰燼に帰したということです。その時に
絶えた根本中堂の不滅の宝灯は、山形市にある立石寺に分灯していたものを
移したということです。
最澄の教えの一つに「照于一隅、此即国宝」があります。「一隅を照らす、
これ即ち国宝なり」と読みます。自分の置かれている立場の中で誠心誠意、
努力する人、心豊かな人間になろうと努力する人こそ国の宝であるという
意味のようです。宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の作品は、一隅を照らすと
いう最澄の教えの真髄を表しているように思います。
補筆事項は山と渓谷社「比叡山を歩く」
学藝書林「京都の歴史」などを参考にしています。
===================================
《 3・所在地情報 》
◎ 延暦寺 (えんりゃくじ)
所在地 滋賀県大津市坂本本町4220
電 話 077-578-0001
交 通 坂本ケーブル・叡山ケーブル・京阪バス・京都バスなど
京都バス京都駅から比叡山山頂まで約1時間20分
拝観時間 8時30分から16時30分まで。西塔・横川などは16時まで
拝観料 国宝殿拝観料と巡拝料セットで850円
駐車場 無料
URL http://www.hieizan.or.jp/
私撮影の比叡山 http://kazu02aa.hp.infoseek.co.jp/hie1.html
===================================
《 4・関連歌のご紹介 》
1 鳰のうみや月のひかりのうつろへば浪の花にも秋は見えけり
藤原家隆(新古今集)
2 我が袖の涙や鳰の海ならんかりにも人をみるめなければ
上西門院兵衛(千歳集)
3 鳰の海や秋の夜わたるあまを船月にのりてや浦つたふらん
俊成女(玉葉集)
4 鳰の海や霞のうちにこぐ船のまほにも春のけしきなるかな
式子内親王(新勅撰集)
===================================
《 5・お勧め情報 》
東寺秋季特別展
東寺の名宝が公開されています。
月 日 公開中。11月25日まで
時 間 9時から16時まで
所在地 京都市南区九条町1(東寺宝物館)
交 通 京都駅から近鉄電車で東寺下車。徒歩10分。
電 話 075-691-3325
料 金 500円
===================================
《 6・エピソード 》
先回53号の「比良」の歌は京都側から見た歌ですが、今回54号の場合は、京都
側からとか滋賀側からということではなくして、ただ、比良の地名を歌いこん
だものだといえます。だから「西行の京師」に取り上げるのはためらうものが
ありましたが、編集上のこともあって取り上げてみました。比良の山は枕詞と
して万葉の時代から歌われたものですし、平安時代の家集などでは「比良の高
嶺」の歌がたくさんあります。それだけ身近な山であったともいえるでしょう。
比叡山については、私は、あえて仏教的なことには触れたくはありません。触
れるだけの知識も才覚もないというのが実態です。仏教の本質的な領域などに
踏み込んだりすれば、がんじがらめになって収拾がつかなくなるのは自明です
し、それが怖いともいえます。
私は信仰心の乏しい人間です。偶像崇拝などは宗教的でも論理的でもないと思
う方です。そんな私であっても、比叡山と延暦寺がこの国に関わってきた歴史
や、そこを人生の基点として活躍したさまざまな人達の生き様に思いをはせる
時、ただただ圧倒されるばかりです。
最澄が一乗止観院という小さな草庵を造って籠もった788年以来、平成の今日
まで延暦寺はさまざまな形でこの国の歴史に関与してきました。それが良い悪い
などという択一的な評価の下し方などはできるはずもありません。通史的にみた
時、現代という時代にあって仏教が政治や歴史に果たす役割はこれまでよりは
確実に小さくなっているとは思いますが、しかし、人は変わらずに人である
以上は、そして宗教が人間の精神世界に関わるものである以上は、宗教はこれ
からも人々に求め続けられる存在です。
先号で記述した青蓮院には結局は行きませんでした。城南宮には行って秋の植物
の写真を少し撮影しましたのでアルバムに出しています。ヤフーアルバムのURL
を貼り付けるとうまくいきませんのでホームページのアルバムから入って下さい。
http://kazu02aa.hp.infoseek.co.jp/index.html
「西行の京師」は来号55号をもって終刊の予定です。以後、どうしたものかと
いう迷いのさなかにあります。
===================================