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■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■
第 二 部 vol.01(不定期発行)
2005年4月15日発行
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こんにちは。「西行の京師」発行人の阿部です。
大変長らくお待たせしてしまいました。
マガジンのことなど忘れてしまって、太平楽を決め込んで
いたわけではなくて、ずっと気がかりでしたが、書こうとして
も書けないというのが実情でした。
まだ機が熟しているとは思えないのですが、西行陸奥旅行の
ことなどを含めて新たに不定期でマガジンを発行いたします。
西行法師のことについて、これからも皆さんとご一緒に勉強
できればと思います。よろしくお願いいたします。
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西行法師は二度の奥州旅行をしたことが、山家集などから伺え
ます。二度目の高齢になってからの旅は鎌倉で源頼朝に会った
事が吾妻鏡に記載されていますので、確実なことといえます。 (注1)
吾妻鏡、文治二年(1186年)八月十五日条に記載、西行
六十九歳の時のことです。
ところが初度の旅については、いつごろのことなのかわかり
ません。信用するに足る資料がないことから、遺されている
歌や詞書を参考にしての推定に頼らざるをえず、諸家により
説が別れています。
川田順氏説
康治二年出発(1143年=西行26歳)
天養元年帰洛(1144年=西行27歳) (注2)
尾山篤二郎氏説
天養・久安のころ(1144・5年=西行27・8歳)
または久安三年以前(1147年=西行30歳)(注3)
風巻景次郎氏説
康治二年か。
三十の境に近づく頃(久安三年の頃) (注4)
久保田淳氏説
康治二年頃か?(1143年=西行26歳) (注5)
目崎徳衛氏説
二十七歳前後 (1144年) (注6)
窪田章一郎氏説
風巻氏説に賛同 (注7)
(窪田章一郎氏著「西行の研究」及び
目崎徳衛氏著「西行の思想史的研究」を参考)
諸説から見て、初度の奥州行脚は西行26歳頃から30歳頃までと断定
して差し支えないものと思います。
しかしこの稿では西行法師が若い頃にも奥州行脚をしたという
その事実を認めるだけにして、厳密には何歳の時の旅かということ
にはこだわらないでおこうと思います。むしろ初度の旅も再度の
旅も一緒にして考えていこうとさえ思っています。必要な場合は
そのつど年数などを明示して初度か再度かを記述します。
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岩波文庫山家集の104Pから106Pにかけて離別歌があります。
それぞれに詞書がついています。その内容から見て、初度の
陸奥旅行の時の詞書と歌は以下のものだと考えられています。
(詞書)
遠く修行することありけるに、○院の前の斎宮にまゐり
たりけるに、人々別の歌つかうまつりけるに (106P)
(歌)
さりともと猶あふことを頼むかな死出の山路をこえぬ別は
(詞書)
同じ折、つぼの櫻の散りけるを見て、かくなむおぼえ
侍ると申しける (106P)
(歌)
此春は君に別のをしきかな花のゆくへは思ひわすれて
(○はカタカナの「サ」を二つ重ねたような文字。次号に詳述。)
二番目の詞書により、旅立ちは山桜の散る頃だと分かります。
現在の四月はじめ頃であり、ちょうど今頃の季節に当たります。
この二首が、長途の旅で京都を離れるため、上西門院の女房
たちに挨拶に行った時のものであると考えられます。詞書には
「遠く修行」とあるだけで「陸奥旅行」とは明示していません。
しかし旅の途上の白河の関での歌が秋の歌ですから、距離と
季節と、ほかに残されている旅立ちの歌とを勘案すれば、どう
しても京都を離れるのは春ということになり、上記の歌と特定
できそうです。
歌の解釈については次号に譲ります。
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注1 吾妻鏡
あずまかがみ。「東鑑」とも表記。鎌倉幕府が編纂した
歴史書。1180年から1266年までの出来事を日記体で記述。
全52巻。
「佐藤兵衛尉憲清法師也。今号西行云々。仍奉幣以後、心静
謁見、可談和歌事・・・」とあります。
注2 川田順氏「西行」
注3 尾山篤二郎氏「西行法師の生涯」
注4 角川選書。風巻景次郎氏「西行と兼好」102P
「三十の境に近づくころになって、彼の様子にも変化は
起こりつつあった。都にお別れをつげて伊勢にゆき、
その足で遠く東海道を奥州まで旅に出た。」
注5 久保田淳氏「新古今歌人の研究」
注6 吉川弘文館。目崎徳衛氏「西行」189P年表
「この年(天養元年)の前後、歌枕を探ねて陸奥・出羽に
赴く」
注7 東京堂。窪田章一郎氏「西行の研究」184・185P
「風巻氏の説が妥当。(略)長途の旅に出ようと計画を立てた
主体的条件が、三十歳頃のほうが強いのではないか。」
(注1・2・3・5は未確認)
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《雑感》
以上書き進めてきましたが、編集がまるで整っていません。
これも号を重ねるうちに体裁に目鼻がつけばいいという程度に
しか考えていません。
昨年、初めての奥州旅行を駆け足でやってきました。メルマガ
14号の「エピソード」でも記述しているように陸奥の地、とり
わけ平泉近辺はぜひとも訪れたい土地でした。二泊三日の短い
旅でした。
「東北は単独ですでに偉大なのである」とは司馬遼太郎氏の
「街道を行く」の中の言葉です。私の関心も縄文時代から
高い文化水準を誇っていた東北に、ずっとあり続けたともいえる
でしょう。
でも2泊3日などの、旅の真似事みたいなもので東北の多くを見て
回れるはずもなく、もちろん東北という土壌、その土地の放つ
息吹みたいなものが理解できるはずもありません。それでも、
東北に足を踏み入れたというその事実だけで、ある程度の充足感
を覚えながら帰路についたものでした。
この「西行の京師第二部」は、はじめは東北旅行の紀行文を五回
程に分けて書くつもりでいたのですが、個人的な紀行文などを、
わざわざマガジンにするほどの意味があるのかどうか・・・と
いうことを考えあわせると、躊躇せざるを得ませんでした。
いろいろ考えているうちに時間ばかりが経過しました。
ホームページも別のサイトに移行し、かつ、それなりに充実した
ものにするために多くの時間を費やしました。今になってみれば、
「西行の京師」が終了してからの、この六ヶ月間は充電などと
いう言葉では表せない密度の濃い期間であったとも思います。
「西行の京師」も三年前の4月15日に発刊しました。西行が
初度の陸奥行脚に出たのもこの季節。頃は良しです。
改めてマガジン「西行の京師 第二部」の旅立ちとしたいと思い
ます。
2005年4月15日
今号の紹介歌
1 さりともと猶あふことを頼むかな死出の山路をこえぬ別は
2 此春は君に別のをしきかな花のゆくへは思ひわすれて
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