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■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■
第 二 部 vol.02(不定期発行)
2005年5月18日発行
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こんにちは、阿部です。
頃は皐月。春のとりどりの花が咲き乱れ、新緑が目に鮮やかな
新生の息吹に満ちた季節です。自然はまことにすばらしいですね。
入梅前のひととき、できるだけ外に出て、この季節だけの持つ
情趣を楽しみたいものです。
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さて、先回の続きです。以下の詞書と歌については「西行の京師」
43号に記述していますので、一部分加筆し、転載します。
下は、「西行の京師」43号。
http://sanka.web.infoseek.co.jp/sankasyu3/43.html
(詞書)
遠く修行することありけるに、○院の前の斎宮にまゐり
たりけるに、人々別の歌つかうまつりけるに (106P)
(歌)
さりともと猶あふことを頼むかな死出の山路をこえぬ別は
(詞書)
同じ折、つぼの櫻の散りけるを見て、かくなむおぼえ
侍ると申しける (106P)
(歌)
此春は君に別のをしきかな花のゆくへは思ひわすれて
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○ 遠く修行
遠くとはどこであるか不明です。初めの奥州行脚を指すもの (注1)
と、みられています。この時代にあって仏道では「旅」を
するということも「修行」のひとつの形であったようです。
西行は自分で勝手に出家して、出家後も特定の寺社には属して
いませんでした。従って、一定の場所で師について経典などを(注2)
基礎から学ぶというスタートをしておりません。
代わりに、さまざまな場所を経巡っての遊行が、西行のような
出家僧にとって、おのずから修行としての意味を持っていた
ものでしょう。
初度の奥州行脚から帰ってから真言宗本山の高野山に移住する
ことになります。あるいは、奥州行脚の期間中に高野山入山を
決意させるような何事かがあったのかも知れません。結局、
高野山での生活は30年ほどの長さに渡りますが、この間にも、(注3)
京都にはしばしば来ていますし、四国旅行もしています。
○ ○院=菩提院
○の中に該当する文字は抄物書きの「サ」を二つ縦に重ねた
ような合字です。上西門院(統子内親王)との関係で仁和寺の
菩提院であると断定できます。
この抄物書きについては、
「digital西行庵」のページをご覧願います。
http://tekipaki.jp/~archive/saigyo/html/syoumotu.html
下は「digital西行庵」のトップページです。
http://tekipaki.jp/~archive/saigyo.shtml
菩提院の斎院には異説もあって、明治書院「和歌文学大系21」
では後白河院の皇女、亮子内親王か?とされています。
このことについては次号にでも触れることにします。
○ 斎宮
斎宮はミスであり、正しくは「斎院」です。
○ さりともと・・・
古語。「さ、ありとも」の約。しかしながら・それにしても・
それでも・そうであっても・・・などの意味。
「詞書の解釈」
遠い所に旅に出るので、その前に統子内親王の住んでおられる
仁和寺の菩提院に挨拶に行きました。内親王に仕える女房達と
別れの歌を詠みあいました。
「歌の解釈」
遠く旅をしますので、どのようになるか分かりませんが、旅
から帰りつけば、是非ともまたお会いしたいものと望んで
います。今度の旅は長いものですが、死亡後にたどる旅路の
別れではありませんから・・・
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○ つぼの櫻
建物と建物の間にある庭の桜のこと。中庭の桜。
○ かくなむ
かく=副詞。「かく語りき」の「かく」で、(このように)
の意味。
なむ=係助詞。「なん」と同義。(かく)を強調する意味を
もつことば。
「詞書の解釈」
同じ時に、中庭の桜が散っている様子を見て、私はこのように
思っています、という心境を歌にして
「歌の解釈」
今年の春は別れる事が惜しまれます。桜が散ってしまって、
散った後にどうなるかということなどは、すっかりと思い
忘れてしまって、ただあなたに、長く逢えないことだけが
惜しいことだと思います。
「この春は花よりも、あなたに別れの惜しいことであるよ。
桜が散ってどうなってゆくか、花に対する名残り惜しさを
思い忘れて」
「渡部保氏著(西行山家集全注解)から抜粋」
「つぼの桜の散りけるを見て〜」という詞書によって、この
旅は桜の散る頃にはじめられたことが分かります。
1145年8月に崩御した待賢門院の喪に服するために、ゆかりの
女性達は一年間を三条高倉第で過ごしました。この詞書と歌は
喪のあけた次の年の春ということと解釈できますので、1147年
の春、西行30歳の時ではないかと思います。
二首ともに詞書があることによって、旅に出る前の歌であると
いうことが理解できますが、歌だけが独立してあるとしたら、
別の解釈も成り立ちそうです。そういう意味で、この詞書と歌は
不可分のものともいえます。
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1 菩提院の前斎院
106ページにカタカナの「サ」を下に二文字重ねたような文字が
あります。これは「抄物書き」といい、合字です。「ササ菩薩」
と言われます。仏教関係の書籍では菩薩などという言葉は頻繁
に出てくる言葉ですが、書写する人は何度も書き写す名詞を
略して記述するようになりました。それが「抄物書き」です。
ところが「菩薩院」では明らかに変な名詞と思います。私も書物
などで見た記憶がありません。他の多くの資料では当該箇所は
「菩提院」となっています。仁和寺には実際に「菩提院」があり
ました。
岩波文庫16P「春しれと・・・」の歌は「題しらず」ですが、
「山家心中集」と「西行法師家集」には
「山水春をつぐるといふことを菩提院前斎宮にて人々よみ侍りしに」
という詞書がついています。そこでは「菩提院」を表す合字が用い
られているそうです。(私は未確認です。)
「さりともと〜」歌の「菩薩院」は「菩提院」の誤りのはずです。
西行の自筆稿を書き写して来た過程で、どなたかが誤写して、
それがそのまま伝わってきたものでしょう。
「斎宮」も「斎院」の誤写です。
菩提院には鳥羽天皇と待賢門院を父母とする統子内親王が住んで
いたようです。そこに住んだことがあるから菩提院の前斎院と呼ば
れたものです。
1126年に出生した統子内親王が第28代賀茂の斎院となったのが
1127年、斎院退下が1132年、入内が1157年。この内、斎院退下
から入内までの25年間が「菩提院の前斎院」と呼ばれていた期間
だと考察されています。
「目崎徳衛氏著(西行の思想史的研究)168Pを参考」
ところが前述したように異説もあります。前斉院を亮子内親王と
する説は、西行との関係からみれば、誤っているような気がします。
2 仁和寺
花園、双が丘の北に位置し、大内山の南麓にあります。阿弥陀三尊
を本尊とする真言宗御室派の総本山で、御室御所や仁和寺門跡とも
呼ばれます。
第58代光孝天皇の御願寺として886年に起工され、887年に完成
しました。始めての門跡寺院として知られています。
御室という地名は、仁和寺一世の宇多法皇が仁和寺の内に御座所
(室)を建てた事から御室御所と呼ばれ、その後、付近は御室と
いう地名になりました。904年のことです。
以来、仁和寺は代々、皇族が住持してきました。鳥羽天皇と待賢
門院の五男である覚性法親王は7歳の時に仁和寺に入り、1153年に
第五世として住持しています。1156年に保元の乱が起こり、敗れた
崇徳上皇は弟の覚性法親王のいる仁和寺に入りました。その時に
西行は仁和寺に駈けつけています。
この頃の仁和寺の寺地は広く、二里四方の寺地に100ほどの子院が
あったと伝えられています。菩提院はもちろん、法金剛院や遍照
寺も仁和寺の子院でした。
1119年と1153年に火災により大きな打撃を受けています。応仁の乱
では山名氏によって、ほぼ焼き尽くされてしまいした。本格的な
復興は、徳川家光の援助により1646年に成されました。ニ王門
(仁和寺の場合は「仁王門」と表記しません)や五重の塔はこの時の
ものです。
1887年(明治20年)にも大火。1913年(大正2年)に、現在の仁和寺と
なりました。
仁和寺には有名な御室桜があります。お多福桜とも呼ばれています。
(平凡社(京都市の地名」を参考)
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注1 「初めての奥州行脚をさすもの」
「白河の関での歌が秋であるのによると、都を旅立つのが秋
闌けではなかったと考えられ・・・」
「前斎院は鳥羽院の皇女で待賢門院を母とされているので、
御母門院崩御の後、遠国への旅を志した西行としては、
挨拶に伺うのがきわめて自然・・・」
窪田章一郎氏著「西行の研究」185・186P
「さりともと・・・歌の「とほく修行する事」とは遁世数年後
の初度陸奥行とみなければならない。」
目崎徳衛氏著「西行の思想史的研究」168P
空也や一遍にみられるように、諸国をめぐり、山に籠もりして、
念仏を広めて歩く僧をさして遊行聖といいますが、それも僧侶の
修行の一つの形だったのでしょう。
ところが西行の旅の場合は宗教色はとても希薄です。宗教を離れた
位置で修行という言葉が用いられていると考えてもいいのではない
かとさえ思います。
注2 「出家後の仏道修行」
○ 世をのがれて鞍馬の奥に侍りけるに、かけひの氷りて水まで
こざりけるに、春になるまではかく侍るなりと申しけるを
聞きてよめる
わりなしやこほるかけひの水ゆゑに思ひ捨ててし春の待たるる
(94P)
○ 無言なりけるころ、郭公の初聲を聞きて
時鳥人にかたらぬ折にしも初音聞くこそかひなかりけれ
(44P)
以上は出家直後の詞書と歌だとみられています。短い期間とは
いえ、お寺に籠もって、僧侶としての修行に専念していたもの
とも思わせます。
この出家後すぐの期間と、そして高野山に住んでいた期間は、
仏教の勉学の期間であっただろうとも思います。少なくとも、
そういう環境にあったことは確かでしょう。しかし特定の師は
いなかったものと考えられます。
高野山に長く住んでいても、西行は真言僧であるとはいえません。
真言・天台のどちらにも属していず、特定の寺社にも属さない
ままでした。
ただし、五来重氏による「西行は高野聖であった」という説も
ありますが、西行研究諸家と同様に私も否定的です。
注3 「高野山での生活」
西行は32歳頃から63歳頃までの間、生活の拠点を高野山において
いました。その期間には、真言宗の教義についても随分と学んだ
はずです。しかし、一箇所で僧侶としての生活に専念していた
わけではなくて、四国、山陽、畿内一帯に足を伸ばしていました。
京都にも何度となく来ていることが山家集からもわかります。
以下、抜粋してみます。
○忠盛の八條邸(270P)○近衛院陵(202P)
○安楽寿院(202P)○仁和寺の歌会(98・214P)
○常盤の歌会(56・190P)○賀茂社の歌会(145・146P)など。
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《 雑感 》
正直に告白すれば、この第二部のマガジンの構成に戸惑って
います。どうしたものかと思います。まだ出し始めての初期
ですから、そのうちにかたまってくるかも知れません。
ともかく構成がきっちり確定としないと、記述が進まないことも
事実です。きちんと章立てをしてから書くほうが私には合って
います。
4月29日に城南宮の「曲水の宴」を見物に行きました。
城南宮についてはマガジン14号に記述しています。
http://sanka.web.infoseek.co.jp/sankasyu3/14.html
当日の画像は下です。
http://sanka.web.infoseek.co.jp/sankasyu2/0429toba.html
5月15日は葵祭り。嵐山では三船祭。松尾祭もありはしたのですが、
結局はどんよりとした天気ということもあって、どこにも出かけ
ませんでした。
出かけるべきだったと、かすかに後悔の念があります。
できるだけ出かけて、写真を撮って、フォトでもご紹介するように
努めたいと思います。
今号の紹介歌
1 さりともと猶あふことを頼むかな死出の山路をこえぬ別は
2 此春は君に別のをしきかな花のゆくへは思ひわすれて
3 わりなしやこほるかけひの水ゆゑに思ひ捨ててし春の待たるる
4 時鳥人にかたらぬ折にしも初音聞くこそかひなかりけれ
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