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  ■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■ 

   第 二 部            vol.03(不定期発行)  
                    2005年6月20日発行

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こんにちは、阿部です。
いよいよ梅雨入りしました。梅雨の期間はほぼ一ヶ月間続くことに
なります。梅雨明けは京都では祇園祭の頃です。
この季節はアジサイがとりわけ美しいですね。雨上がりに、雨滴を
含んでしっとりとたたずんでいるアジサイの風情は、この季節だけ
の風物詩です。三千院、藤森神社などのアジサイの名所はとても
にぎわいます。

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    ◆ 西行の京師 第二部 第三回 ◆

 目次  1 「遠く修行」の詞書と歌
       2 前斎院について
       3 藤原成通
       4 雑感

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    (1)「遠く修行・・・」の詞書

 先号に紹介した「さりともと・・」歌の前にある詞書以外の、
「遠く修行・・・」に旅立ったと解釈できる詞書と歌を記述
 してみます。

1 「遠く修行し侍りけるに、象潟と申所にて」 

  松島や雄嶋の磯も何ならずただきさがたの秋の夜の月 
                      (73P秋歌)

2 「年頃申しなれたりける人に、遠く修行するよし申して
  まかりたりける、名残おほくて立ちけるに、紅葉のした
  りけるを見せまほしくて侍りつるかひなく、いかに、
  と申しければ、木のもとに立ちよりてよみける」
                      
  心をば深きもみぢの色にそめて別れて行くやちるになるらむ
                     (105P離別歌)

3 「遠く修行に思ひ立ち侍りけるに、遠行別といふことを
   人々まで来てよみ侍りしに」
                      
  程ふれば同じ都のうちだにもおぼつかなさはとはまほしきに
                     (105P離別歌)

4 「年ひさしく相頼みたりける同行にはなれて、遠く修行して
  歸らずもやと思ひけるに、何となくあはれにてよみける」

  さだめなしいくとせ君になれなれて別をけふは思ふなるらむ
                     (105P離別歌)

5 「修行して遠くまかりける折、人の思ひ隔てたるやうなる
  事の侍りければ」

  よしさらば幾重ともなく山こえてやがても人に隔てられなむ
                     (133P羇旅歌)

6 「秋、遠く修行し侍りけるほどに、ほど経ける所より、侍従
  大納言成道のもとへ遣しける」

  あらし吹く峰の木葉にともなひていづちうかるる心なるらむ
                     (133P羇旅歌)

7 「遠く修行しけるに人々まうで来て餞しけるに
  よみ侍りける」             
   
  頼めおかむ君も心やなぐさむと帰らむことはいつとなくとも
                     (280P補遺)

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以上の「遠く修行・・・」の詞書と歌を読んで、それぞれがどこに
旅立った時のものであるかということを考えてみましょう。

(1)京都を出発した頃が不明ですから問題外。陸奥に旅立つ前の
  歌ではなくて、「象潟と申所・・・」での歌です。象潟は現在
  の山形県です。
  西行上人歌集(異本山家集)のみにあり、西行の歌ではないと
  みられています。西行が象潟まで行ったという確証もありま
  せん。

(2)この詞書と歌は、旅立ちが秋です。129ページにある白河の関
  での歌は秋歌なのですから、時間的に整合しません。陸奥旅行
  前の京都での歌ということからは除外していいと思います。
  可能性としては京都を旅立つのも秋で、一年後に白河の関に
  着いたということはありますが、およそ常識的ではありません。

(3)「人々まで来て・・・」は「人々まうで来て」の誤りのはず
  だと思います。詞書で季節などを明示していないだけに、初度
  陸奥旅行の時の可能性はあります。しかし山家集中の歌の配列
  順序からみて、四国旅行の時のものだと思います。

(4)四国旅行の時の歌と解釈するのが自然です。西住法師ととも
  にしていた旅も、法師が先に都に帰ることになり、あとは一人で
  旅を続けることになって詠んだ、しみじみとする歌です。親愛
  とか愛惜とかいう言葉で表される情念が強く出ている歌です。

(5)この歌も(1)の歌と同様に、出発時が不明で問題外。

(6)成道が大納言になったのは1156年のことといわれます。です
  から、この詞書は年代的にみて初度陸奥旅行の時とは違うこと
  があきらかです。                  (註1)

(7)西行法師歌集にのみあります。
 「遠い旅に出るに当たって、人々が餞別の歌会をしてくれた
  のであるが、この「人々」は伊勢の神官たちのグループで
  あったろうと考えられる。」
         (窪田章一郎氏著「西行の研究」から抜粋) 

  以上のように考えられますので消去法でいくと、菩提院の斎院
  というフレーズのある106ページの詞書が、初度陸奥旅行に
  出る折のものであると解釈して良いと思います。

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    (2)「菩提院の前斎院」について

先号に「菩提院の前斎院」として上西門院統子内親王のことに
触れています。前斎院については久保田淳氏監修の「和歌文学
大系21」に『あるいは後白河院皇女亮子内親王(殷富門院)か。』
とあります。そこで、二人の内親王について比較してみます。

      統子内親王       亮子内親王

父     鳥羽天皇        後白河天皇   
母     待賢門院        藤原成子
生年    1126年         1147年
没年    1189年         1216年
斎院卜定  1127年(第28代賀茂斎院)1156年(第61代伊勢斎宮)
斎院退下  1132年         1157年
院号    上西門院(1157年)   殷富門院(1187年)

西行法師が京都から陸奥に旅立ったのは初度の旅の時だけであり、
それは1147年頃、西行30歳頃の年と見られています。二度目の
旅は伊勢から旅立ったものと見られています。
1147年といえば亮子内親王は生れたばかりです。したがって、
亮子内親王が初度の旅の時の「菩提院の前斎院」ということは
ありえないことでしょう。賀茂の場合は「斎院」であり、伊勢の
場合は「斎宮」です。山家集の記述も「斎宮」ですから、つまり
「斎院」ではなくて「菩提院の前斎宮」が正しい記述だとしても、
亮子内親王説は成立しないものと思えます。

    (3)上西門院関係の歌

統子内親王(上西門院)関係の歌と詞書を紹介します。

  (詞書)
 1 遠く修行することありけるに、菩提院院の前の斎院にまゐり
   たりけるに、人々別の歌つかうまつりけるに (106P) 

  (歌)
  さりともと猶あふことを頼むかな死出の山路をこえぬ別は

  (詞書)
 2 同じ折、つぼの櫻の散りけるを見て、かくなむおぼえ
   侍ると申しける              (106P)

  (歌)
  此春は君に別のをしきかな花のゆくへは思ひわすれて

  (詞書) 
 3 十月中の十日頃、法金剛院の紅葉見けるに、上西門院おはし
   ますよし聞きて、待賢門院の御時おもひ出でられて、兵衛殿
   の局にさしおかせける           (194P)

  (歌) 
  紅葉見て君がたもとやしぐるらむ昔の秋の色をしたひて

  (詞書)
 4 寄紅葉懐舊といふことを、法金剛院にてよみけるに
                        (194P)
  (歌)
  いにしへをこふる涙の色に似て袂にちるは紅葉なりけり

 懐舊の(舊)は(旧)の古い字です。

以下の詞書は山家心中集と西行法師家集にあります。岩波文庫
山家集では16ページにあり、「題しらず」の四首のうちの一首
です。

  (詞書)
 5 山水春を告ぐるといふ事を菩提院前斎宮にて人々よみ侍りし
                        (16P)
  (歌)
  はるしれと谷のほそみずもりぞくるいはまの氷ひまたへにけり

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以下の歌にある斎院については、統子内親王説と官子内親王説に
別れています。
(1)の詞書には新潮版他の山家集には「せか院の斎院」とあり
ます。窪田章一郎氏・川田順氏・尾山篤二郎氏・伊藤嘉夫氏など
は統子内親王説、目崎徳衛氏・久保田淳氏などは官子内親王説に
拠っています。私も官子内親王説が自然であると考えます。
清和院及び官子内親王についてはマガジン33号に少し記述して
います。下は33号。

http://sanka.web.infoseek.co.jp/sankasyu3/33.html

  (詞書)
 1 夢中落花といふことを、前斎院にて人々よみけるに
                         (38P)
  (歌)
  春風の花をちらすと見る夢は覚めても胸のさわぐなりけり

  (詞書)
 2 春は花を友といふことを、せが院の斎院にて人々よみけるに
                         (26P)
  (歌)
  おのづから花なき年の春もあらば何につけてか日をくらさまし

(詞書)
 3 としたか、よりまさ、勢賀院にて老下女を思ひかくる戀と申す
   ことをよみけるにまゐりあひて
                         (260P)
  (歌)
  いちごもるうばめ嫗のかさねもつこのて柏におもてならべむ 

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     (4) 上西門院 (じょうさいもんいん)
  
 鳥羽天皇を父、待賢門院を母として1126年に出生。統子
(とうこ・むねこ)内親王のこと。同腹の兄に崇徳天皇、弟に
 後白河天皇がいます。1189年没。
 幼少の頃に賀茂斎院となるが、6歳の時に病気のため退下。1145
 年に母の待賢門院が没すると、その遺領を伝領します。

 1158年8月に上西門院の一歳違いの弟の後白河天皇は、にわかに
 二条天皇に譲位して上皇となります。統子内親王は、後白河上皇
 の准母となり、1159年2月に上西門院と名乗ります。それを機に
 して、平清盛が上西門院の殿上人となり、源頼朝が蔵人となって
 います。

 同年12月に平治の乱が起こり、三条高倉第にいた後白河上皇と
 二条天皇、そして上西門院は藤原信頼・源義朝の勢力に拘束
 されています。1160年1月に義朝は尾張の内海で殺され、3月には
 頼朝が伊豆に流されています。

 上西門院は1160年に出家していますが、それは平治の乱と関係
 があるのかも知れません。生涯、独身で過ごしています。
 西行とは極めて親しかったことが山家集からもわかります。
       (29号から転載しています。一部加筆。)

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 (注1) 藤原成通について

 藤原成通とは以下の贈答歌があります。

  (詞書)
 1 「秋、遠く修行し侍りけるほどに、ほど経ける所より、
   侍従大納言成道のもとへ遣しける」

  (歌)
  あらし吹く峰の木葉にともなひていづちうかるる心なるらむ
                       (133P)
 (かへし)として成通の歌
  何となく落つる木葉も吹く風に散り行くかたは知られやはせぬ

  (詞書) 
 2 侍従大納言成通のもとへ、後の世のことおどろかし申し
   たりける返りごとに               (175P)

  (歌) 
  おどろかす君によりてぞ長き夜の久しき夢はさむべかりける

 (かへし)として成通の歌
  おどろかぬ心なりせば世の中を夢ぞとかたるかひなからまし

 (藤原成通)

 1097年誕生。1162年没。(1160年没説あり)権大納言藤原宗通
 の子。
 侍従・蔵人・左中将を経て1143年に正二位。1156年に大納言。
 1159年に出家。法名は栖蓮。家集に成通集。
 詩歌、蹴鞠に秀でていたことが「今鏡」に記述されています。
 蹴鞠は「鞠聖」とも言われ「成通卿口伝日記」に蹴鞠のことが
 書かれているそうです。蹴鞠の名手と言われた西行も、北面の
 武士の時代に成通から蹴鞠をならっており、以後、親交のあった
 ことがわかります。
 成通は1160年に美福門院の遺骨を藤原隆信とともに高野山に
 持って行って納めています。その時に西行も立ち会ったことが、
 204ページの哀傷歌からもわかります。

 西行との贈答の歌の作歌年代は、両作ともに成通が大納言と
 なった1156年以降と考えてよいでしょう。

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     (4)雑感

過日、東福寺に参詣しました。東福寺は東山南部にあり、京都駅
すぐの東南に位置します。九条兼実の孫の道家が創建した九条家の
氏寺です。
兼実(1149〜1207)といえば、慈円の兄であり藤原良経の父です。
若く急逝した良経には秋篠月清集があります。
この兼実も当時の時代の波に翻弄された人物の一人です。摂政で
ありながら後白河院とは性格的に合わず源頼朝と親しくしています。
ところが後鳥羽帝幼少の時には源通親が朝廷の実権を握るように
なり、1196年、兼実は失脚。兼実の命令で天台座主となっていた
慈円も失脚。慈円は1201年に再び座主として返り咲いています。
慈円についてはマガジン54号をご覧願います。

http://sanka.web.infoseek.co.jp/sankasyu3/54.html

兼実には東福寺のすぐ東の山側に月輪殿という邸宅がありました。
その関係で東福寺が建立されたものでしょう。
兼実はまた歌にも理解があって、隆信、俊恵、道因法師、清輔らに
よる「兼実家歌壇」が構成されています。1180年頃からのこと
ですから、このことは西行も知っていたでしょう。
兼実の日記に「玉葉」があります。この日記は貴重な資料です。

東福寺の創建は1239年ですから西行の生存していた時代にはない
お寺です。だから私の京都写真集にも画像を置いていません。
ここには藤原俊成の墓もあるのですが、行かずじまいでした。
行ったのは本堂と戦国期の毛利家の政僧、安国寺恵瓊再興、小野
小町ゆかりの「退耕庵」。ここに尼子氏の遺児がいたものでしょう。
他には荻原井泉水ゆかりの「天徳院」。井泉水は尾崎芳哉の良き
理解者でした。庭にある盛りの桔梗が楽しませてくれました。
紅葉の頃には有名な通天橋は、もみじの青葉が見事で紅葉とはまた
趣を異にした魅力があり、それを堪能したという思いです。

そういう雑多なことを思いながらの数時間でした。いにしへのこと
を偲びながら、当時に活躍した人たちに思いを馳せることは、私に
とっては確実に幸せを感じる時間であるといえます。
同行された方々にも、この場を借りて、感謝します。

次号から京都を出発して陸奥行脚のあとをたどりたいと思います。

今号紹介の歌。17番と19番は藤原成道詠。

1  松島や雄嶋の磯も何ならずただきさがたの秋の夜の月 
                      (73P秋歌)

2  心をば深きもみぢの色にそめて別れて行くやちるになるらむ
                     (105P離別歌)

3  程ふれば同じ都のうちだにもおぼつかなさはとはまほしきに
                     (105P離別歌)

4  さだめなしいくとせ君になれなれて別をけふは思ふなるらむ
                     (105P離別歌)

5  よしさらば幾重ともなく山こえてやがても人に隔てられなむ
                     (133P羇旅歌)

6  あらし吹く峰の木葉にともなひていづちうかるる心なるらむ
                     (133P羇旅歌)

7  頼めおかむ君も心やなぐさむと帰らむことはいつとなくとも
                     (280P補遺)

8  さりともと猶あふことを頼むかな死出の山路をこえぬ別は

9  此春は君に別のをしきかな花のゆくへは思ひわすれて

10  紅葉見て君がたもとやしぐるらむ昔の秋の色をしたひて

11  いにしへをこふる涙の色に似て袂にちるは紅葉なりけり

12  はるしれと谷のほそみずもりぞくるいはまの氷ひまたへにけり

13  春風の花をちらすと見る夢は覚めても胸のさわぐなりけり

14  おのづから花なき年の春もあらば何につけてか日をくらさまし

15  いちごもるうばめ嫗のかさねもつこのて柏におもてならべむ 

16  あらし吹く峰の木葉にともなひていづちうかるる心なるらむ

17  何となく落つる木葉も吹く風に散り行くかたは知られやはせぬ

18  おどろかす君によりてぞ長き夜の久しき夢はさむべかりける

19  おどろかぬ心なりせば世の中を夢ぞとかたるかひなからまし

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