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  ■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■ 

   第 二 部           vol.04(不定期発行)  
                    2005年7月20日発行

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こんにちは。阿部です。
時は移って、すでに7月も20日です。
時間に追われて懸命に何かをするということも意味のあることに
違いないのですが、気持を解き放ち、時を忘れて、ゆったりと
した空間に身心を浸すのも重要なことですね。でも、どうしたら、
そういう空間に出会えるのでしょうか。

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  ◆ 西行の京師 第二部 第四回 ◆

 目次  1 逢坂の関と逢坂の歌
      2 旅の順路
      3 古代七道について
      4 近江の名所歌枕
      5 雑感 

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  (1)逢坂の関と逢坂の歌

さて、西行法師は1147年の桜の散る頃に仁和寺菩提院での歌会に
参加したあと、すぐに初度の陸奥旅行に旅立ったものと思われます。

西行の時代においても、京都から東国に向かって行くとき、三条
粟田口、山科、逢坂の関というルートをたどるのが一般的でした。
古代七道のうち、東海道と東山道が逢坂の関越えをします。
当時の北陸道は山科から分岐する小関越えをして琵琶湖の西岸を
たどりますから、逢坂の関は通りませんでした。

○ 逢坂の関

逢坂山は近江と山城の国境の山であり、関の設置は大化の改新の
翌年の646年。改新の詔りによって、関所が置かれました。平安
遷都の翌年の795年に廃止。857年に再び設置。
795年の廃止は完全な廃止ではなかったらしく、以後も固関使
(こかんし)が派遣されて関を守っていたと記録にあります。
尚、古代三関として有名な鈴鹿の関、不破の関、愛発の関は
長岡京時代の789年に廃止されています。
逢坂の関の場所については不明。現在国道一号線沿いに「逢坂の
関跡」の石碑がありますが、これは昭和七年に建立されたものです。

実際の関の場所は大津市寄りの逢坂一丁目付近とも言われ、
また、京都の山科側にあったとの説もあります。         (注1)

逢坂山は通行の利便の良くなるように何度か掘り下げ工事がされ
ています。平安時代は、現在より険しい峠でした。

万葉集以来、逢坂山は多くの歌に詠みこまれています。逢坂の関を
越えれば都を離れるということでもあり、都に住んでいた人々に
すれば格別の感慨を覚えたことでしょう。そういう地理的条件が
離別歌を生み、他方、逢坂という名詞にかけて、男女の機微に触れ
ての恋歌がたくさん詠まれています。

○ 逢坂の歌

1 わきて今日あふさか山の霞めるは立ちおくれたる春や越ゆらむ
              西行(岩波文庫山家集14P 春歌)

2 都出でてあふ坂越えし折までは心かすめし白河の關
             西行(岩波文庫山家集130P 羇旅歌)

3 夜をこめて鳥の空音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ
          清少納言(百人一首・定家八代抄・後拾遺集)

4 これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関
             蝉丸(百人一首・定家八代抄・後撰集)

5 我妹子に逢坂山を越えて来て泣きつつ居れど逢ふよしもなし
                 中臣宅守(万葉集 巻一五)
                 
 西行の歌については下のマガジン21号をご覧願います。

  http://sanka.web.infoseek.co.jp/sankasyu3/21.html

 下は「逢坂の関跡」の石碑の画像です。

  http://sanka.web.infoseek.co.jp/sankasyu2/otowa01.html

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    (2)旅の順路

京都から陸奥までの往路、陸奥から京都までの復路については、
記録がありませんから推測するしかありません。
往路は当時の東海道を下り、途中の伊勢にしばらく逗留した後に
旅を続け、陸奥の入り口にあたる白河の関には秋頃に着いたと
考えるのが妥当です。                   (注2)

道中は徒歩ではなくて騎馬であっただろうという説もあります。(注3)
ですが、この騎馬説を私は採用したくありません。
僧体の墨染めの衣で馬に乗って行くことは不自然だと思います。
しかし二度目の旅の時には69歳という高齢ゆえに、部分的に馬を
利用したとしても不思議ではないようにも思います。

(往路の国名)

京→近江→伊勢→尾張→三河→遠江→駿河→

相模→武蔵→下総→常陸→陸奥

京から武蔵までは当時の東海道。武蔵から陸奥までの順路は不明。
あるいは東海道終点の常陸まで行き、常陸から一般道を歩いて
陸奥に入り、白河付近で東山道に出て、東山道で陸奥・出羽まで
行ったと考えるのが自然かと思います。

(帰路の国名)

陸奥→出羽→下野→上野→信濃→美濃→近江→京

以上のルートを想定して、これからのマガジンを進めてみます。

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  (3)古代七道について

646年、大化の改新の翌年に発布された(改新の詔り)にある
「駅馬、伝馬の制」は927年に完成した延喜式に引き継がれます。
平安時代は都が大和から山城に変わっていますから、すべての
道の出発点も山城の羅城門にと変わります。

道路網(駅路)の建設と整備は、646年から長い時間をかけて
続けられていたものと考えられます。この駅路の道幅は初期は
12メートル、平安時代になってから6メートルに変更されました。
しかしこの古代の道路も、現代の地層の下に埋没し、あるいは
他の名詞の道路にと転用されて、(たとえば東山道は中山道、
東海道は現在の国道一号線)今では文献のみに存在するのが
実態のようです。

西行の旅に無関係なことに触れる煩雑を避けたいので、以下は
できるだけ簡略に記述します。

○ 五畿七道 = 律令時代における国家運営のための行政区画
           のこと。畿内五か国と七道をいう。都から地方
           に七道の幹線道路を張り巡らして、全国を七区分
           したもの。中央集権的な構想によるものですが、
           平安時代後期には衰退します。

○ 駅(えき)= 官制道で都との通信、連絡のために用いる馬を
           替えるための施設。
           駅には必ず馬が配置されていて、馬を駅馬、
           その施設を駅家(うまや)という。

○ 伝馬 =   一般道の郡ごとに置かれていた馬のこと。
           道は伝路という。 

○ 五畿 =   大和、山背(山城)、摂津、河内、和泉の五ヶ国。

○ 七道 =   だいたい20キロ程度で一つの駅が置かれていました。
           七道とは山陽道・東山道・東海道・北陸道・山陰道・
           南海道・西海道をいいます。   

 東海道 =  京都から常陸まで 617キロ
 東山道 =  京都から出羽まで 716キロ 江戸時代には
         中山道と呼ばれます。
 北陸道 =  京都から越後まで 478キロ 
 南海道 =  京都から伊予まで 319キロ
 山陽道 =  京都から長門まで 545キロ
 山陰道 =  京都から石見まで 424キロ
 西海道 =  筑紫の大宰府から薩摩まで 
          東路 383キロ  西路 275キロ

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    (4)近江の名所歌枕

 朝妻・石山・伊吹山・老蘇の森・逢坂・唐崎・志賀・信楽・
 篠原・関山・瀬田の橋・高島・筑摩江・長等山・鳰の海・
 野路玉川・比良・三上山・守山・野洲川など。

山家集にある近江の歌は以下のページをご覧願います。

http://sanka.web.infoseek.co.jp/waka56.html

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(注1)

1020年の逢坂の関のことに触れている「更科日記」では関の近くに
丈六の仏の顔が見えるとありますので、その場所は現在の逢坂
一丁目付近かと思います。

「古代の道」武部健一氏著(吉川弘文館)では、「実際に関のあった
場所は、峠より西側の山科盆地東部であったらしい。(35ページ)」
とあります。

(注2)

「西行の研究」窪田章一郎氏著(東京堂)の初度陸奥の旅の項
184ページに、

「三好英二氏も(中略)都から伊勢へ赴き、しばらく滞留して
 東国へ旅立ったろうと考えている。」

と、三好氏の説を紹介されています。

山城から陸奥までは歩いて一ヶ月間程度かかりますので、途中の
お寺に逗留したりしての、ゆっくりとした旅であったはずです。

(注3)

どなたかが「旅の大部分は騎馬であっただろう。」と記述している
のを確かに読んだ記憶があるのですが、記録を残していず、誰が
どこに書いていたのか失念してしまいました。この稿を書くにあたり、
随分と探したのですが、探し出せませんでした。申し訳ありません。

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    (5)雑感

今回の第四号は旅の第一歩として近江の「逢坂の関」を取り上げ
ました。「あづま」と言えば普通は武蔵あたりを指しますが、
当時の都人にとっては逢坂の関以東は感覚的に「あづま」でも
あったのでしょう。西行法師も逢坂の関を越えてみて、陸奥まで
行くという覚悟を新たにしたのではないかと思います。

東海道のことを調べていて、思いもかけず、西行屋敷なる記述に
出会いました。参考文献の「古代の道」に記述があり、ネットで
検索したら、たくさんヒットしました。近江国府近くに西行の
屋敷があったということです。
この「西行屋敷跡」については全く知りませんでした。西行関係の
どの文献にも出ていないと思います。
おそらくは全国にたくさんある西行伝説の一つでしょう。西行没後
にそれらしく作られた話だとは思いますが、近くの「義仲寺」との
関係などを想像させて、おもしろいと思いました。
芭蕉が遺言で「義仲寺」に葬って欲しいと言いましたが、西行屋敷跡
の話は知っていたのかもしれません。

いよいよ梅雨明けしました。これから真夏日が続くことになります。
季節は季節として楽しめばいいことですし、この夏の暑さも私なり
に楽しみたいものではありますが、はてさて、この年齢になると
暑さを全身で楽しんでいた少年の時代に戻れるはずもなく、できれば
暑さは忌避したいものです。そうはいっても、避暑に行けるほどの
身分ではないのが、つらいところです。

次回は鈴鹿の歌を紹介する予定です。

今号の参考文献は以下です。

○ 古代の道  吉川弘文館    木下良 監修 武部健一著
○ 更科日記  角川ソフィア文庫 原岡文子訳注
○ 西行の研究 東京堂      窪田章一郎著
○ 滋賀県の歴史散歩   山川出版社
○ 歌枕歌言葉辞典 笠間書院  片桐洋一著     

今号の歌の紹介。西行歌は1番と2番。

1 わきて今日あふさか山の霞めるは立ちおくれたる春や越ゆらむ
              西行(岩波文庫山家集14P 春歌)

2 都出でてあふ坂越えし折までは心かすめし白河の關
             西行(岩波文庫山家集130P 羇旅歌)

3 夜をこめて鳥の空音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ
          清少納言(百人一首・定家八代抄・後拾遺集)

4 これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関
             蝉丸(百人一首・定家八代抄・後撰集)

5 我妹子に逢坂山を越えて来て泣きつつ居れど逢ふよしもなし
                 中臣宅守(万葉集 巻一五)

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