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  ■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■ 

   第 二 部            vol.05(不定期発行)  
                    2005年8月22日発行

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こんにちは。阿部です。
すでに大文字の送り火も過ぎ、九月の声を聞こうとしています。
さすがに暑さも峠を越したのか、そこはかとなく秋の気配さえ
感じられます。
まもなく今年の三分の二が終わろうとしています。日常の些事に
かまけて、日頃は気にすることもなく打ち過ぎていますが、もう
そんな頃であることに、今更ながら愕然とします。

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   ◆ 西行の京師 第二部 第五回 ◆

 目次 1 鈴鹿の関と鈴鹿の歌
     2 西行と伊勢の国
     3 東海道の変遷
     4 雑感
      
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   (1)鈴鹿の関と鈴鹿の歌

初めての陸奥行脚のために、近江の逢坂の関を越えた西行法師は、
当時の東海道を利用して瀬田、草津、石部、水口、土山という
集落をたどり鈴鹿山を越えたものと思います。
鈴鹿には古代三関の一つの鈴鹿の関がありましたが、789年に廃止
されていますので、西行の時代には鈴鹿の関はありません。

この鈴鹿の山を詠んだ歌が岩波文庫山家集に二首あります。

 (鈴鹿の詞書と歌)

  (詞書)
 世をのがれて伊勢の方へまかりけるに、鈴鹿山にて

  (歌)
1 鈴鹿山うき世をよそにふりすてていかになり行く我身なるらむ
              (岩波文庫山家集 124P 羇旅歌)
  (歌)
2 ふりず名を鈴鹿になるる山賊は聞えたかきもとりどころかな
              (岩波文庫山家集 250P 聞書集)

○世をのがれて=出家したということ。

○ふる・ふり=(なる)(なり)とともに鈴の縁語。

○なる・なり=(ふる)(ふり)とともに鈴の縁語。

○鈴鹿山=後述。

○うき世=浮世・憂き世。現世の世俗的な世界を指す言葉。

○ふりず名=古りず名か?。(名)では文法として誤りという指摘
      が和歌文学大系21にあります。
      名声とか評判が衰えることなく今も有名である・・・
      というほどの意味。

○山賊=読みは「やまだち」。山を本拠として、街道を通行する
    人々に危害を及ぼす悪党達のこと。鈴鹿の山賊は有名。(注1)
    和歌文学大系21では「山立」と記載しています。
 
○とりどころ=捕りどころ、盗りどころ、取り得などの重層的な
       意味をこめている言葉。

  (1)の歌の解釈

 「都を捨てて鈴鹿山を越える。なりふり構わず憂き世は振り
 捨ててきたが、明日の我が身はどうなるというのだろう。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

 「俊頼譲りの縁語仕立てによる風情主義に、和泉式部の内省的
 自意識を加味する。身の在り方を問い続ける起点としての出家
 を詠んで、初期西行和歌の完成度を示す。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

 「出家直後の多感な青年僧の、自身の未来に対しての不安な
 心情を直截に言葉に表していて、それは誰にも共感されるもの
 でしょう。
 何の保証もなく、不安な行く末ではあるけれども、こうした妙に
 明るく、リズムの良い、浪漫ささえ感じられる一首を読むと、
 不安な心情の中にも強固な意志力なり、決して悲嘆のうちに沈み
 込んではいない明るさなりが認められます。それは作者その人の
 人間性が強く出ているということでもあると思います。」(阿部)
                  
  (2)の歌の解釈

「(ふり)(なる)(聞え高き)(とりどころ)などの語を
 すべて鈴の縁語としているため、ユーモアが生じ、(略)山賊を
 揶揄するかたちになっている。」
            (窪田章一郎氏著「西行の研究」336P)

「古くから有名であったが、今もなお高名な鈴鹿山の山賊は
 その有名なのも一つのとりどころ(とりえ)なのであろう。」
         (渡部保氏著「西行山家集全注解」914P)

(1)の歌は詞書から解釈すると、1140年の出家後の比較的早い
時期に、実際の旅の途上で詠んだものであると思われます。 (注2)
1147年の初めての陸奥旅行の時に詠んだ歌ではなく、それよりも
以前の旅の時のものであるといっていいでしょう。つまり、西行は
出家直後は都の近郊にいくつかの庵を結んで移り住み、都を離れ
なかったと理解していいのですが、こういう旅をしていることも
注目に値すると思います。

(2)の歌の作歌年代は不明ですが、伊勢での歌会の時の詠歌で
あることは確実でしょう。伊勢での歌会は何度もありますので、
年代を特定できません。窪田章一郎氏は晩年期の作品であると
推定されています。(西行の研究 336P)

もう一首、鈴に関した歌があります。

 (詞書)
 讚岐の位におはしましけるをり、みゆきのすずのろうを聞きて
 よみける

 (歌)
 ふりにける君がみゆきのすずのろうはいかなる世にも絶えずきこえむ
            (岩波文庫山家集 183・184P 雑歌)

 これは崇徳天皇の御幸の「鈴の奏」のことを詠んだ歌です。
 「讃岐」とは、崇徳院が1156年に讃岐に配流されてからのもので
 あり、「讃岐院」と呼ばれていました。この詞書は普通に考え
 れば歌とは年代がかけ離れています。書写した人のミスかも知れ
 ません。
 歌は崇徳天皇時代に詠まれたものであり、崇徳院に寄せる西行の
 切々とした心情が表されています。崇徳院は西行より一歳年下
 です。賀歌そのものだともいえます。
 ちなみに崇徳天皇(上皇)とは、死亡後に贈られた諡号です。

(鈴鹿峠)

滋賀県と三重県の県境となっている鈴鹿山脈にある峠。山脈の最高
峰は御池岳(1241メータ)ですが、鈴鹿峠の標高は357メータ。
高くはないのですが、前を歩く人の足先を後ろの人は目の高さに
見ると伝えられているほどに急峻で、東海道の難所の一つでした。

この鈴鹿峠は古代から東海道の要衝でした。ただし鎌倉時代から
戦国時代は東山道の美濃路が東海道でした。江戸時代になって、
鈴鹿越えのルートが再び東海道のルートに組み込まれました。
東海道と関係なく、伊勢と京都をつなぐ交通路ですから、重要で
あることに変わりはありません。

現在はトンネルがあって、自動車では険しさを感じないままに
通過するようです。

(鈴鹿の歌)
 
◎ 世にふればまたも越えけり鈴鹿山昔の今になるにやあるらむ
                   (拾遺集 斎宮女御)

◎ いそぎこしことぞくやしき鈴鹿山紅葉時雨今ぞ降るなる
                     (能因 能因集)
 
◎ 鈴鹿川ふかき木の葉に日かずへて山田の原の時雨をぞ聞く
                  (後鳥羽院 新古今集)

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  (2)西行と伊勢の国

西行は若い頃からことに伊勢の国は好んでいたらしくて、何度か
訪ねていることが分かります。晩年には30年以上も住んだ高野山
を「住みうかれて・・・」伊勢に移住して七年ほどを過ごして
います。移住したのは1180年頃とみられています。源平の争乱期に
当たります。必然として伊勢の歌も多く詠まれています。
今号から四回に分けて伊勢の歌を紹介する予定です。

○ 伊勢神宮と斎宮及び神官、そして西行の宗教観
○ 御裳濯河歌合と宮河歌合ならびに二見浦歌勧進について
○ 島々の歌について

以上のようなテーマで書いてみたいと考えています。

下は伊勢の歌です。

 http://sanka.web.infoseek.co.jp/waka57.html

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  (3)東海道の変遷

東海道のルートは何度か変更されています。時代によっても違い
ますし、また短い区間では、別ルートが新設されたところも多く
あります。
都の所在地から尾張熱田(愛知県)までのルートを記述してみます。
地名は現在の地名で統一します。

○ 飛鳥時代

 明日香→桜井→榛原→大野→名張→伊賀上野→柘植→
 鈴鹿→四日市→熱田

飛鳥時代の東海道については良く分かりませんが、壬申の乱の
時に大海人皇子がたどった、上のルートが東海道と思われます。
ただ、大海人皇子は吉野を出発して、大宇陀を過ぎて榛原あたり
で東海道を使い、柘植で高市皇子、鈴鹿で大津皇子と合流して
います。

鈴鹿から熱田には行かずに志摩に出て、志摩から船で答志島→
伊良湖「伊羅胡(三河)」というルートもあったようです。
答志島には志摩国府が一時的に置かれていたという説があります。
その場合は一定の期間は愛知県(尾張)は通行していないという
こともあったものと思います。          (注3)

○ 奈良時代

 奈良→木津→笠置→名張→伊賀上野→柘植→鈴鹿→
 四日市→熱田

飛鳥時代と違って木津から笠置を過ぎて名張で旧東海道と合流
したようです。

○ 平安時代

 京都→草津→水口→土山→鈴鹿峠→四日市→熱田

このルートが平安時代の東海道です。西行法師はこのルートで
陸奥まで行ったものと思います。
当時の伊勢斎宮の群行もこのルートをたどり、鈴鹿から伊勢に
入っています。

○ 鎌倉時代以後、江戸時代まで

 京都→草津→篠原→醒ヶ井→不破→墨俣→熱田

平安時代までの東山道、江戸時代の中仙道のルートが鎌倉時代には
東海道に転用されました。

○ 江戸時代

 京都→草津→水口→土山→関→亀山→四日市→熱田

それまでの東海道(美濃路)は中山道(中仙道)と名を変えます。
鎌倉時代までの東山道のことです。東海道は美濃路ルートから元の
鈴鹿越えルートに戻ります。 
起点は江戸の日本橋。京都までに53箇所の宿場がありました。

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(注1)

山賊は(やまだち)と読みます。255Pの宇治川合戦のことに触れた
「武者のかぎり群れて・・・」という詞書にある(山だち)と同じ
意味です。
これと似たような漢字で「山賤」があり(やまがつ)と読みます。
岩波文庫山家集では「山がつ」と表記されています。

山がつ=きこり、木地師などの山に関係する人達をいう蔑称。
    賤しい職種と見られていました。
山だち=前述。
    
鈴鹿山の山賊は有名とのことですが、手持ちに具体的な記述の
ある資料がみつかりません。 

(注2)

ここでは初めの陸奥旅行を1147年、西行30歳の時と解釈して進め
ます。出家後七年を経ての陸奥旅行です。
第一号に記述したように、初めての陸奥旅行は出家三年後の1143年、
西行26歳の時という説もあります。その場合は、鈴鹿での(1)番の
歌は、陸奥旅行の途次に鈴鹿を初めて訪れて、その時に詠った歌で
あるという解釈も成立します。川田順氏などもその解釈をされて
います。
しかし、詞書や歌の調子からみて、陸奥旅行の時以前の、出家後の
早い頃に鈴鹿に行って詠ったものであろうと解釈したほうが自然
であると思います。

(注3)

「古代の道」吉川弘文館、木下良 監修 武部健一著 45ページ。
渥美半島の伊良湖は尾張の国ではなく三河の国です。

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   (4)雑感

秋たつと人は告げねど知られけり山のすそ野の風のけしきに
                (55P 秋歌)

一人で住んでいると立秋になったと告げてくれる人が私にもいま
せん。その意味ではこの歌などは私の境遇に酷似しているといえる
でしょうか。でも猛暑の続いている八月七日の立秋の日に、秋を
感じることは都会では難しいのではないかと思います。
山で一人で住んでいて、初秋を詠んだこの歌には寂寥感がよく出て
いると思います。

今号から伊勢の歌を四回ほどに分けて紹介します。伊勢での歌は
ことに多くありますので、しばらく伊勢に留まります。

今号の(3)の「東海道の変遷」は蛇足すぎるとは思いながら何か
の参考になればと思って、ここに掲載することにしました。

前回発行の「古代七道について」の中に校正ミスがありました。
一番下の「西街道」は「西海道」の誤りです。(街)は(海)
です。お詫びして訂正します。

姉妹紙として「西行辞典」を発行しています。この、西行の京師と
うまく兼ね合いをつけて継続して発行するように頑張りたいと
思います。

今号の参考文献。

○ 古代の道  吉川弘文館  木下良 監修 武部健一著
○ 更科日記  角川ソフィア文庫 原岡文子訳注
○ 西行の研究 東京堂      窪田章一郎著
○ 滋賀県の歴史散歩   山川出版社
○ 三重県の歴史散歩   山川出版社
○ 歌枕歌言葉辞典 笠間書院  片桐洋一著     
○ 歴史と旅 「日本街道総覧」 秋田書店 昭和62年刊
○ 伊勢斎宮と斎王  塙書房  榎村寛之著
○ 壬申の内乱  岩波新書  北山茂夫著
○ 山家集/聞書集/残集 和歌文学大系21 明治書院

次号からこの参考文献の記載はやめる予定です。最終号に一括して
掲載するようにします。

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今号の紹介歌。西行歌は3番まで。
  (詞書)
 世をのがれて伊勢の方へまかりけるに、鈴鹿山にて

  (歌)
1 鈴鹿山うき世をよそにふりすてていかになり行く我身なるらむ
              (岩波文庫山家集 124P 羇旅歌)
  (歌)
2 ふりず名を鈴鹿になるる山賊は聞えたかきもとりどころかな
              (岩波文庫山家集 250P 聞書集)

 (詞書)
 讚岐の位におはしましけるをり、みゆきのすずのろうを聞きて
 よみける

 (歌)
3 ふりにける君がみゆきのすずのろうはいかなる世にも絶えずきこえむ
            (岩波文庫山家集 183・184P 雑歌)

◎ 世にふればまたも越えけり鈴鹿山昔の今になるにやあるらむ
                   (拾遺集 斎宮女御)

◎ いそぎこしことぞくやしき鈴鹿山紅葉時雨今ぞ降るなる
                     (能因 能因集)
 
◎ 鈴鹿川ふかき木の葉に日かずへて山田の原の時雨をぞ聞く
                  (後鳥羽院 新古今集)

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