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■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■
第 二 部 vol.06(不定期発行)
2005年10月05日発行
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こんにちは。阿部です。
発行が少し遅れてしまいました。のんびりと構えていたわけでは
ないのですが、なかなか書けないうちに季節は移って、すでに
10月になってしまいました。
京都は秋の観光シーズンに突入です。普段は観れない宝物の特別
公開をする寺社も多くあります。22日には時代祭りも行われます。
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◆ 西行の京師 第二部 第六回 ◆
目次 1 伊勢への旅
2 斎王と斎王関係の歌
3 斎宮と斉院
4 伊勢の名所歌枕
5 雑感
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(1)伊勢への旅
伊勢に行ったことが記述されている詞書を紹介します。
これらのうち、すべてが別々の旅であるとはいえません。同一の
旅の中で「伊勢にまかりける」という詞書を複数回用いている
可能性も考えられます。それでも、何度も伊勢に行っていると
いうことは確実です。
晩年の1180年頃から1186年の7月頃までの期間、7年間ほどに
渡って伊勢に居住してもいます。
1 伊勢にまかりたりけるに、みつと申す所にて、海邊の春の
暮といふことを、神主どもよみけるに
(41P 春歌)
2 新宮より伊勢の方へまかりけるに、みきしまに、舟のさた
しける浦人の、黒き髮は一すぢもなかりけるを呼びよせて
(120P 羇旅歌)
3 世をのがれて伊勢の方へまかりけるに、鈴鹿山にて
(124P 羇旅歌)
4 伊勢にまかりたりけるに、太神宮にまゐりてよみける
(124P 羇旅歌)
5 修行して伊勢にまかりたりけるに、月の頃都思ひ出でら
れてよみける
(125P 羇旅歌)
以上の詞書における年次は不明ですが、3番以外は高野山時代
に伊勢に赴いたものであると推定できます。すべての詞書は
山家集に記載がありますから、1180年の伊勢移住前の詞書で
あると解釈してよいと思います。 (注1)
西行はなぜこんなに何度も伊勢に行き、晩年には七年ほども
庵を構えて住んだのでしょうか?。伊勢に対して格別の思い
入れなり結びつきなりがあったものと思います。
そのことについては今号では触れる余裕がありませんので、
できれば次号にでも書きたいものと思います。
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(2) 斎宮と斎宮関係の歌
伊勢斎宮の歌は下の一首のみです。
(詞書)
伊勢に斎王おはしまさで年経にけり。斎宮、木立ばかりさかと
見えて、つい垣もなきやうになりたりけるをみて (注2)
(歌)
いつか又いつきの宮のいつかれてしめのみうちに塵を拂はむ
(223P 神祇歌)
○斎王=伊勢の斎宮と賀茂社の斎院を総称して斎王といいます。
斎宮及び斎院は斎王の居住する施設の名称ですが、
同時に人物名として斎王のことも斎宮・斎院と呼びます。
「平安時代以降になると、斎王のことを斎宮というよう
にもなる。」
(「」内は榎村寛之氏著「伊勢斎宮と斎王」7ページ)
○斎宮=この詞書の場合は斎王の居住する施設(斎宮御所)の
ことです。
○さかと見えて=(さか)は(さり・さは)と同義のようです。
(然は=さは・然り=さり)の意味は(そうは・
そのように)です。
○つい垣=敷地の内外を仕切る垣のこと。築地塀。土塀のこと。
○しめのみうち=注連縄の張られている、その内側のこと。
詞書と歌の解釈
「伊勢神宮に斎宮がおいでにならなくて年を経たことだった。
斎宮御所は木々の茂っている木立のみが、そうか、斎宮の
いられたところかと思われるようになっていて、土塀もない
と同じように荒れていたので」
「いつの日にかまた、斎宮が心身を清めて神に奉仕され、注連縄
の張られた聖域のなかの塵をはらうか、その日の一日も早く
来ることを願っている。」
(渡部保氏著「西行山家集全注解」より抜粋)
「その他の斎宮、斎院関係の詞書と歌」
1 斎宮おりさせ給ひて本院の前を過ぎけるに、人のうちへ
入りければ、ゆかしうおぼえて具して見まはりけるに、
かくやありけんとあはれに覚えて、おりておはします所へ、
せんじの局のもとへ申し遣しける
君すまぬ御うちは荒れてありす川いむ姿をもうつしつるかな
(223P 神祇歌)
2 斎院おはしまさぬ頃にて、祭の帰さもなかりければ、
紫野を通るとて
紫の色なきころの野邊なれやかたまほりにてかけぬ葵は
(223P 神祇歌)
3 遠く修行することありけるに、菩提院の前の斎宮にまゐり
たりけるに、人々別の歌つかうまつりけるに
さりともと猶あふことを頼むかな死出の山路をこえぬ別は
(106P 離別歌)
4 夢中落花といふことを、前斎院にて人々よみけるに
春風の花をちらすと見る夢は覚めても胸のさわぐなりけり
(38P 春歌)
5 春は花を友といふことを、せが院の斎院にて人々よみけるに
おのづから花なき年の春もあらば何につけてか日をくらさまし
(26P 春歌)
5番まですべて賀茂斎院関係の歌です。1番と3番にある「斎宮」
は「斎院」の誤りです。「せが院」「菩提院」は退下した斎王
が居住していた所とみられています。
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(3) 斎宮と斎院
(斎宮及び斎院の制度)
政治を「まつりごと」と言うほどに、古代においては祭祀と政治
は一体でした。政冶も祭事も天皇の主催です。伊勢神宮の神嘗祭
(かんなめさい)などの行事で、天皇の名代となり統括責任者と
しての役割をになう。それが斎宮制度の作られた理由です。
斎宮は、天皇の代替わりごとに未婚の内親王か女王から亀卜に
よって選ばれます。
伊勢斎宮は伝承の時代は別にして、制度化されたのは天武朝に
なってからです。壬申の乱の翌年のことです。天武天皇の大来
内親王が初代伊勢斎宮として673年から686年まで奉仕しています。
賀茂斎院は嵯峨天皇の時代の810年に有智子内親王が初代斎院と
して卜定されています。「薬子の乱」が収束してからのことです。
これより以降、伊勢の斎宮御所と都の紫野斉院に斎王が居住する
こととなります。
賀茂斎院の場合は、天皇の代替わりごとに交替するという厳格性は
無く、第16代選子内親王などは五人の天皇の代に渡り57年間を斎院
として過ごし大斎院と呼ばれました。
時代が進んで、武士の政権である幕府の樹立があり、相対的に
天皇家の権威の失墜などの理由により、賀茂斎院は1212年、伊勢
斎宮は1330年頃をもって終わりました。伊勢斎宮の制度は600年
以上、賀茂斎院制度は400年間続いたことになります。
(斎宮の群行=平安時代)
新天皇が即位してから、遅くとも数ヶ月以内に卜定により、 (注3)
新斎王が決定されます。新斎王は二年から三年にかけて嵯峨の野宮
などで潔斎をしてから、多くは伊勢神宮の神嘗祭に間にあうように
旧暦の九月十日頃には都を立って伊勢に赴きます。
斎王の伊勢下向の行列を群行といい、都から伊勢までの130キロ程度
の距離を五泊六日をかけて行きます。
総勢500人以上の行列になります。斎王は輿に乗り、200人ほどは
馬、その他の人々は徒歩ということになります。
都を夜に立って明け方の午前四時頃に最初の宿泊地である滋賀県の
勢多屯宮に着きます。甲賀、垂水、鈴鹿、壱志の各屯宮を経て、
やっと伊勢にある斎宮御所に入ることになります。道中は禊祓を
繰り返しながらですから、普通では歩いて二日ほどの距離を倍以上
の時間をかけていることになります。
尚、屯宮とは一行の宿泊する施設のことですが、垂水屯宮以外は
具体的な場所までは今では分からないということです。
(斎宮の歌)
1 二人行けど行き過ぎ難き秋山を いかにか君がひとり越ゆらむ
(大伯皇女=「大来皇女」万葉集)
2 鈴鹿山しづのをだまきもろともに ふるにはまさることなかりけり
(規子内親王 斎宮女御集)
3 いかにせむ今日大淀の濱にきて あやめやひかむかひやひろはむ
(良子「ながこ」内親王 歌合集)
4 植ゑ置きて花のみやこへ帰りなば 恋しかるべき女郎花哉
(粛子「すみこ」内親王 新続古今和歌集)
この項は下の書物を参考にしました。
「村井康彦氏監修(斎王の道)向陽書房」
「榎村寛之氏著(伊勢斎宮と斎王)塙書房」
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(注1)山家集の成立について
山家集の編纂は伊勢移住前、高野山時代の終わり頃だろうと
みられています。
「私見では『山家集』の歌は、伊勢に移る前で打ち切られて
いると考えている。(略)伊勢定住時代から晩年の10年間の
作品には『山家集』中のものが一首も検出されないのである。」
(窪田章一郎氏著「西行の研究」34ページ)
伊勢に居住していて「伊勢にまかりける」という記述はありえ
ない事です。ですから山家集中にある「伊勢にまかりける」の
詞書は、すべて伊勢定住以前のものであると断定できます。
(注2)伊勢斎王の不在について
西行在世中に最も長期にわたって伊勢に斎王がいなかったのは、
1172年5月から1187年9月までの間です。「つい垣もなきやう」
という詞書の感じからみて、「いつか又・・・」の歌は、この
期間中に詠まれたものであると思われます。
(注3)卜定について
卜定(ぼくてい)とは占いで決定することです。亀卜(きぼく)
と言って亀の腹側の甲羅を用いて占い、新斎王を決定していました。
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(4)伊勢の名所歌枕
五十鈴川・伊勢・麻生浦・大淀・神路山・鈴鹿山・
二見浦・御裳濯川など。
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(5)雑感
今回は伊勢の歌の初めとして、斎王のことを取り上げました。
すべての事象は時代性という巨大な波の中のものですが、伊勢斎宮
にしろ、賀茂斎院にしろ、時代の波に翻弄された制度であり女性達
であったと言えるのかも知れません。
今号では斎宮のことについて簡略に書くしかなかったのですが、
詳しく知りたい方は、「斎王の道、向陽書房」「伊勢斎宮と斎王、
塙書房」などの書物をご参考にしてください。
先月の初めに急遽、思い立って伊勢に行ってきました。初めての
伊勢でした。伊勢神宮外宮、内宮、二見浦、それから斎宮にも
立ち寄ってきました。
宗教心などまるで持ち合わせていない私でも、伊勢神宮では少し
だけ敬虔な気持になりました。華美であることを徹底して峻拒して
いる神宮の庭内を経巡りながら長い歳月の中での、この神社の
果たしてきた役割などを考えていました。
伊勢神宮は原初は皇室だけの祭祀の社として機能していたものです
が、江戸時代の「おかげ参り」「抜け参り」などの狂乱は、民衆の
信奉する伊勢神宮にと変貌したことをあらわしています。
それもまた時代性のなせる業なのでしょう。
次号では伊勢神宮を取り上げるつもりです。
伊勢写真集
http://sanka.web.infoseek.co.jp/05ise01.html
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■ 姉妹紙「西行辞典」
http://www.mag2.com/m/0000165185.htm
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