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■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■
第 二 部 vol.07(不定期発行)
2005年11月10日発行
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こんにちは。阿部です。
11月に入って随分と寒くなりました。節季はすでに立冬です。
天気は比較的安定している季節です。この季節の、春のように
暖かな日を指して「小春日和」といいます。
これから紅葉が目を楽しませてくれます。この年の、樹木による
紅(くれない)の祭典をしっかりと楽しみたいと思います。
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◆ 西行の京師 第二部 第七回 ◆
目次 1 伊勢神宮の歌 (1)
2 神宮の歴史
3 西行と伊勢
4 雑感
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(1) 伊勢神宮の歌 (1)
伊勢の地名が詠みこまれた歌や伊勢の地で詠んだ歌はたくさん
ありますが、すべての歌をご紹介することは不可能です。
今回から伊勢神宮関係の歌を少し取り上げます。
「神路山の歌」
高野山を住みうかれてのち、伊勢国二見浦の山寺に侍りけるに、
太神宮の御山をば神路山と申す、大日の垂跡をおもひて、よみ
侍りける
1 ふかく入りて神路のおくを尋ぬれば又うへもなき峰の松かぜ
(124P 羇旅歌・千載集・御裳濯河歌合)
神路山にて
2 神路山月さやかなる誓ひありて天の下をばてらすなりけり
(124P 羇旅歌・新古今集・御裳濯河歌合)
3 神路山みしめにこもる花ざかりこらいかばかり嬉しかるらむ
(280P 補遺・異本山家集・夫木抄)
4 神路山岩ねのつつじ咲きにけりこらがまそでの色にふりつつ
(280P 補遺・異本山家集・夫木抄)
5 かみじ山君がこころの色を見む下葉の藤の花しひらけば
(282P 補遺・夫木抄)
6 神路山松のこずゑにかかる藤の花のさかえを思ひこそやれ(定家)
(282P 補遺・拾遺愚草・夫木抄)
「5番歌は西行詠と定家詠の両説があります。窪田章一郎氏は
5番歌を西行詠として、藤原定家詠6番歌との贈答歌とみな
しています。」
○神路山=伊勢神宮内宮の神苑から見える山を総称して神路山と
いいます。標高は150メータから400メータ程度。
○又うへもなき=ここでは、尊いことがこれ以上にはない、という
こと。
○大日の垂跡=後述。(注1)
○みしめ=御注連。注連縄の内が花盛りの意味。内宮の神域に
咲く桜の花が盛りということ。
○こら=子等。内宮に奉仕する少女を指します。
和田秀松氏の(官職要解」によると、「宮守、地祭などの御用を
勤めるもので、童男女を用いた。その父を物忌父といい、
物忌の子を子良(こら)という。」とあります。
○こらがまそで=(がま)がわかりません。(こら)は子等、
(そで)は袖。(子等が、子等の)+(真袖)
と解釈するのが自然かと思います。
(1)の歌の解釈
窪田章一郎氏「西行の研究」には「詞書の筆者は西行・俊成の
いずれとも知られないが(後略)」とあり、歌は千載集の歌稿と
として、西行から俊成に送られたものであるとされています。
「本地垂跡の信仰を象徴の域にまで達して表現している。(略)
日本に渡来した仏教も、神仏習合は早くから行われ、平安末期
から鎌倉初期にかけて、神は仏の化現だとする思想が発達した。
(略)「また上もなき峰の松風」は、詞書にいう大日如来の垂跡
を、自然の相の中に認識しているのであって、西行の作品におけ
る自然が、生命をもって生き生きと活動する宗教的根拠をも、
つきとめることのできる歌である。」
(窪田章一郎氏著「西行の研究」328ページから抜粋)
神路山の歌は本来の山家集には一首もありません。山家集は伊勢
移住前に編纂が終わっていると解釈できますから、そのことに
より、神路山の歌はすべて伊勢移住後に詠まれた作品であると
推定できます。
それにしても初度の陸奥旅行の時に伊勢に立ち寄ったのであれば、
その時の神路山の歌がなぜないのでしょうか。その時だけでなく、
何度も伊勢に行っていますのに、神路山の歌は伊勢移住の時まで
ないということは不思議なことです。詠んでいたとしても歌稿が
散逸して現在の我々の眼に触れることはないという可能性もあり
ます。
おそらくは内宮神官の荒木田氏との交流が芽生えるまでは神路山の
歌はあえて詠まなかった、いや、詠もうとしても詠むことができ
なかったのではなかろうかとも思います。そう考えると、山家集に
ある伊勢神宮の神路山の歌は伊勢移住前後の荒木田氏との関係が
より親密になっていきつつあったことを証明しているようにも思え
ます。
荒木田氏との関係は、41ページの「過ぐる春潮のみつより・・・」
の歌の詞書にもあるように、伊勢移住前から歌会を開催するほどに
親密な交流があったことは事実ですから、その関係が、より深く
なったということでしょう。
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(2) 伊勢神宮の歴史
伊勢神宮の記述は古事記や日本書紀に見られます。天照大御神を
祭神とする内宮については、伝承の神話の時代から起源を説き起こ
され、崇神6年(BC92年)「皇居から倭笠縫邑に移し・・・」
垂仁26年(BC4年)に「伊勢の五十鈴川上に祀る・・・」とされ
ています。
外宮については、雄略22年(478年)「丹波国から渡会の山田が原
に移す」とあります。
壬申の乱の時に吉野を進発して伊勢に至った大海人皇子が、伊勢
神宮を遥拝したという記述があります。かつ、制度上の初代斎宮は
天武天皇内親王の大来皇女ですので、すでにその頃には伊勢神宮の
社格が確立していたことになります。式年遷宮の制度ができたのも
685年のことです。以降、両宮は20年ごとに遷宮をしています。 (注2)
天皇家を中心とした集権的な律令の制度とも関係があるのですが、
斎宮の制度がきちんと機能していた頃は、伊勢神宮は天皇家だけ
のものでした。当時、日本は仏教国家としての体制をほぼ整えて
いましたが、朝廷の祭祀は仏教化を厳しく拒んでいて、神宮は
天皇家の宗教的な権威を決定づける存在であったといえるでしょう。
天皇家だけの氏神社として機能していたのです。
一般の人々の奉幣も禁止されていました。奉幣は天皇と天皇の許可
を得た皇族に限られていました。
ところが武士階級の台頭、幕府の樹立により、相対的に天皇家の
権威や神聖さは失墜してしまいます。それとともに、神宮は天皇家
から離れて独自の活動を展開するようになります。両宮に対して、
源頼朝をはじめ有力武将が御厨、御園の寄進をするようにもなりま
した。
戦国時代は内宮と外宮、内宮の宇治の町と外宮の山田の町が反目
しあって、たびたび争っています。結局、利害関係による両宮
の争闘、対立は明治まで尾を引くことになります。
江戸時代になると伊勢踊りが発生し、「御蔭参り」「抜け参り」が
爆発的な流行を見せます。1830年には3月から9月までの期間に458万
人が参宮したという記録があります。当時の人口は3千万人程度と
言われますので、その規模のすごさがわかります。
この時代は、伊勢神宮が民衆のものになっていたということの証明
でしょう。伊勢信仰の庶民化といえます。
明治になって、民衆の信仰する神社という性格を断ち切って、国家
の神となります。神社制度が作られて、全神社の最高位に伊勢神宮
が位置するようになります。再び天皇の権威と一体化するものと
して、伊勢神宮と天照大御神は絶対化されます。そして、悪名高い
廃仏毀釈の運動が荒れ狂います。
それも第二次世界大戦の終結とともに、伊勢神宮の国家的性格は
解体されました。国家神道そのものが禁止されたのです。
現在の伊勢神宮は一宗教法人ですが、やはり人々の信仰は別格と
もいえ、人々の篤い信仰心に支えられています。
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(3) 西行と伊勢
西行が伊勢に旅したことは何度もあることからみて、やはり伊勢
には格別の想いがあったものと思えます。その格別の想いという
ことは伊勢神宮に対してだけのものではないはずです。
伊勢神宮そのものに対しての想いは、1180年から実際に伊勢に
在住することにより、むしろ深くなったと見るべきだと思います。
先述の神路山の歌が伊勢移住前にはないということからも、それは
推定できそうです。
西行が伊勢に移住したのは源平争乱期であり、具体的な時期は1180
年4月から5月頃です。初めに紹介した124ページの詞書にあるよう
に「高野山を住みうかれた・・・」ことが伊勢移住の直接の原因
なり動機であると思います。
西行の伊勢移住の動機として、目崎徳衛氏は「西行の思想史的研究」
の中で川田順氏・久保田淳氏・窪田章一郎氏などの以下の説を紹介
しています。
1 神官祀官荒木田氏の存在
2 高野山に対する失望
3 本地垂迹思想による神宮崇敬
4 源平争乱期の社会事情
そして、「西行の伊勢在住は戦乱からの避難・疎開であった」と、
記述してから、1と3の説が「伊勢行きの動機としてよりも、むしろ
在住によって、深まった物心両面への影響と考えたい・・・」と、
記述されています。
伊勢在住は、1186年7月頃までの6年少しの期間でした。
この時代においては西行の経済的基盤は全く失われていたものと
想像します。
佐藤家の紀伊田仲庄を伝領した甥の佐藤能清は西行伊勢在住の時代
までは活動していたことがわかりますが、平家方に与していました
ので平家没落以後ほどなくして消息不明となります。活動している
頃でも、西行に援助するだけの余裕はなかったものと思います。
もう一人の甥の後藤基清は鎌倉御家人に連なって播磨・讃岐の守護
職にもなりますが、西行とは交流を絶っていたでしょう。
それで伊勢在住時代には、内宮の神官である荒木田氏の援助を受け
ていただろうと思います。
そういう時代にあっても、都の藤原俊成、定家、兵衛の局などとの
交流があったことが知られています。
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(注1) 本地垂迹説
(垂迹と垂跡は同義で、ともに「すいじゃく」と読みます。)
本地=本来のもの、本当のもの。垂迹=出現するということ。
仏や菩薩のことを本地といい、仏や菩薩が衆生を救うために仮に
日本神道の神の姿をして現れるということが本地垂迹説です。
大日の垂迹とは、神宮の天照大御神が仏教(密教)の大日如来の
垂迹であるという考え方です。
本地垂迹説は仏教側に立った思想であり、最澄や空海もこの思想
に立脚していたことが知られます。仏が主であり、神は仏に従属
しているという思想です。
源氏物語『明石』に「跡を垂れたまふ神・・・」という住吉神社に
ついての記述があり、紫式部の時代では本地垂迹説が広く信じら
れていたものでしょう。
ところがこういう一方に偏った考え方に対して、当然に神が主で
あり仏が従であるという考え方が発生します。伊勢神宮外宮の
渡会氏のとなえた「渡会神道」の神主仏従の思想は、北畠親房の
「神皇正統記」に結実して、多くの人に影響を与えました。
伊勢にまかりたりけるに、太神宮にまゐりてよみける
榊葉に心をかけんゆふしでて思えば神も佛なりけり
(125P 羇旅歌)
1180年の伊勢移住より以前に詠まれたこの歌が、西行の本地垂迹
思想を端的に物語っています。同時に僧体でありながら伊勢神宮に
参詣したということをも詞書によって読み取れます。
天皇の宗教的権威の象徴でもある伊勢神宮に僧侶や尼僧が参詣する
ということはタブーでしたが、そのタブーがゆるくなり始めた頃
だったのかもしれません。内宮神官の荒木田氏との親密な関係が
なければ、参詣することはできなかったものとも思えます。
つまり、特別に参詣したとみなしていいのでしょう。
奈良東大寺の重源が700人の弟子を引き連れ、大般若経を携えて
参詣したのは、西行よりも遅れて1186年のことです。この時、一行
は外宮では夜陰にまぎれて参拝、内宮では白昼に神前に参拝したと
いう記録があります。
神仏習合とか混交ということ自体は本地垂迹思想よりも早く、七世紀
頃にはきわめて自然に広まっていきました。お寺の中に神社の性格を
持つ「神宮寺」が多く建てられていることからみても、それがわかり
ます。神の「八幡神」と仏の「菩薩」が合体して「八幡大菩薩」など
という言葉も生れます。神と仏を融合させて、より自然に素朴な形で
信じられてきたものだと思います。
尚、僧侶や尼の参拝が公式に許可されたのは明治5年のことです。
(注2) 式年遷宮
伊勢神宮最大の行事です。20年に一度、正宮をはじめ諸宮が建て
替えられます。内宮の五十鈴川に架かる宇治橋や各鳥居なども
新しく建て替えられます。
式年遷宮の制度の始まりは天武天皇時代の685年。途中、延引され
たこともありますが、1300年以上経過した現在にまで続き、次回の
式年遷宮は平成25年第62回目となります。
現在の正宮の隣の敷地に、新たな正宮が建て替えられます。
この行事は現在は約10年ほどもかけて準備されています。
用材の檜は、1701年から木曾の山で伐採され、伊勢まで運ばれて
います。
京都の賀茂社(上賀茂神社と下鴨神社の総称)も20年目ごとの式年
遷宮の制度があります。1056年に制度化されています。上賀茂社は
権殿と本殿が、下鴨社は西本殿と東本殿が並び建てられていて、
20年目ごとに造替するということですが、これまでの式年遷宮では、
時代により少し修理を施すだけで式年遷宮とした例もあります。
現在は国宝や重要文化財の指定がありますので、新しく造替する
ことはせずに、部分的修築で式年遷宮としています。
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(4) 雑感
これまでの長い時間のなかで伊勢神宮がたどった道は半端なもの
ではないといえます。まさに波乱万丈の歴史を秘めています。
古代からの長い時間を、何事もないように堆積させたようなその
神域はどこまでも幽玄で、厳かな気配に満ちていますが、時代
ごとにさまざまなことごとを塗りこめてきた変遷のすごさに圧倒
されます。
伊勢神宮は天皇家の氏神社、国家神という位置から、徐々に武士の
神宮、一般大衆の神宮にと変貌します。
これには神宮の神官である「御師」達のしたたかな活動なくしては
語れないことです。彼らの活動があったからこその庶民の信仰する
神宮として変貌を遂げ、その果てに狂乱ともいえる「抜け参り」
とか「おかげ参り」があったのでしよう。
先日、奈良県の天理市から山の辺の道を桜井市まで歩いてきました。
偶然に気がついたのですが、ちょうど20年ぶりの山の辺の道でした。
天理の石上神社とか桜井の大神神社なども、記紀に記載のある、
とても古い社です。伊勢神宮と同様に、それぞれの歴史を秘めて
長い時間を連綿として続き、現在にあります。寺社などの構造物
だけでなく山の辺の道自体も古代からの道です。
格別の情趣に満ちているこの道を、また、近いうちに歩いてくる
ことになっています。
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