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  ■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■ 

      第 二 部         vol.08(不定期発行)  
                    2005年12月15日発行

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こんにちは。阿部です。
さて師走。年の瀬も押し詰まってきました。今年もあと半月を
余すのみ。すぐに新年です。
一年が余りにも早く過ぎて行くことに、唖然とする思いです。
個人の思いなどとは関わりなく、せわしなく過ぎて行く日常。
その中で、できるだけ個人の思いを刻印する形で残すことが
できれば、それは幸せの一つかもしれませんね。

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   ◆ 西行の京師 第二部 第八回 ◆

 目次 1 伊勢神宮の歌 (2)
     2 御裳濯河歌合と宮河歌合
     3 歌合・物合
     4 通親
     5 雑感

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  (1) 伊勢神宮の歌 (2)

伊勢神宮の歌として先号の神路山に続いて、今号は御裳濯川の歌を
取り上げます。御裳濯川とは内宮を流れる五十鈴川の別称です。

  「御裳濯川の歌」

  御裳濯川のほとりにて

1 岩戸あけしあまつみことのそのかみに櫻を誰か植ゑ始めけむ
                 (125P 岩波・全書・注解)

  みもすそ二首

2 初春をくまなく照らす影を見て月にまづ知るみもすその岸
              (225P 岩波・集成・全書・注解)

3 みもすその岸の岩根によをこめてかためたてたる宮柱かな
              (225P 岩波・集成・全書・注解)

  公卿勅使に通親の宰相のたたれけるを、五十鈴の畔にてみて
  よみける

4 いかばかり凉しかるらむつかへきて御裳濯河をわたるこころは
                 (125P 岩波・全書・注解)

5 流れたえぬ波にや世をばをさむらむ神風すずしみもすその岸
                 (125P 岩波・全書・注解)

  御裳濯川歌合の表紙に書きて俊成に遣したる

6 藤浪をみもすそ川にせきいれて百枝の松にかかれとぞ思ふ
                 (125P 岩波・全書・注解)

  返事に歌合の奧に書きつけける        俊成

7 ふぢ浪もみもすそ川のすゑなれば下枝もかけよ松の百枝に (俊成)
                 (125P 岩波・全書・注解)

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○みもすそ川=御裳濯川。内宮の五十鈴川の別名。伝承上の第二代
       斎王の倭姫命が、五十鈴川で裳裾を濯いだという
       言い伝えから来ている川の名です。

○岩戸=記紀にある神話の「天の岩戸」のこと。内宮は天照大神を
    祭神としています。弟のスサノオの乱暴さに怒った天照
    大神は岩戸を閉じて、その中に隠れてしまいます。天照
    大神は太陽神とされていて、それで高天原は暗くなった
    といわれます。 

○あまつみこと=天照大神のこと。神話ではイザナギ、イザナミの
        娘です。

○そのかみに=(その、かみに)で、(その)とは天照大神を指し、
       (かみ)で上代のこと、神話の時代を言い、はるか
        昔に・・・という意味です。

○公卿勅使=源通親が公家勅使として都を立ったのが寿永二年
     (1183年)4月26日のこと。通親35歳。西行66歳。
      この時、伊勢神宮の主な祭りもなく、皇室にも特に
      慶事もありませんでしたので、何のための勅使で
      あるか不明です。源平争乱期でもあり、国家安泰の
      祈願のためであるのかもしれません。

○通親の宰相=源通親のこと。後述。   

○神風=伊勢神宮の神域を吹く風の事。
    倭姫命が天照大神の鎮座地を求めて伊勢に来たときの
    「この神風の伊勢の国は、常世の浪の重浪帰(しきなみ
     よ)する国なり」という神託にも拠っています。 

○御裳濯河歌合=西行の自歌合です。後述。

○俊成=御裳濯河歌合の加判をした藤原俊成のこと。

○藤浪=中臣鎌足から続く藤原氏の氏族の系統を意味しています。
    ちなみに山家集には藤の花と藤袴の植物は別にすると、
    藤の付いている名詞は藤衣と藤浪です。藤衣は葬送の時の
    喪服のことです。 

 (5番の歌の解釈)

「昔から絶えることのない流れに立つ波によってこの世を治める
 のだろうか。神風が涼しく吹く御裳濯川よ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

◎ 君が代は尽きじとぞ思ふ神風や御裳濯川の澄まむ限りは
                   (源経信 後拾遺集)

◎ 神風や御裳濯川のそのかみに契りしことの末を違ふな
                  (藤原良経 新古今集)

◎ 神風や五十鈴の河の宮ばしら幾千世すめとたてはじめけむ
                  (藤原俊成 新古今集)

◎ やはらぐる光にあまる影なれや五十鈴河原の秋の夜の月
                    (慈円 新古今集)

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  (2) 御裳濯河歌合と宮河歌合

両方ともに西行の自歌合(じかあわせ)です。自歌合と確定した
ものの中では現存する最古の自歌合です。
(みもすそがわうたあわせ)(みやがわうたあわせ)と読みます。
御裳濯河とは前述したように伊勢神宮内宮の御手洗川である五十鈴
川の別称であり、宮河とは伊勢神宮外宮の東を流れている宮川の
ことです。神聖視されていた両方の川の名称を自歌合の題名に借用
していることになります。それだけ、西行には伊勢神宮や伊勢の地
に対しての強固な思い入れが存在していたと解釈できます。

両歌合共に三十六番、歌は左右で七十二首です。
御裳濯河歌合は伊勢神宮内宮に、宮河歌合は伊勢神宮外宮に奉納
するために、旧作の中から西行自身が七十二首を選定して編んだ
ものです。
その具体的な時期は諸説あり不明ですが、1186年に二度目の奥州
旅行をして京都に帰ってきてから翌1187年の10月前には完成して
いただろうと見られています。歌人としての西行最晩年の集大成
とも考えられ、それは西行の執念でもあり自恃でもあっただろう
と思います。そこに私は西行の崇高な意思を感じます。

この両歌合奉納のために、西行は以後は歌を詠まないという起請
をしていたようです。278ページの無動寺大乗院での慈円との贈答
歌の中にある詞書中の「今は歌と申すことは思ひたちたれど・・・」
という記述がこれにあたります。よって、この贈答歌の交わされた
年代は1187年から1189年までの間のことです。

御裳濯河歌合は藤原俊成に判を依頼して、俊成は1187年の年末まで
には加判を終了。判を依頼した時、及び、終了して返却された時の
贈答歌が今号の「伊勢神宮の歌」の6番と7番です。他に二首ずつの
贈答歌が岩波文庫の281ページにあります。ただし御裳濯河歌合には
6番の歌は収録されていません。

宮河歌合は俊成の子の藤原定家に判を依頼していたのですが、定家
の加判の終了は1189年8月頃と見られています。それより以降、京都
から河内の弘川寺に移っていた西行のもとに届けられたもので
しょう。西行は1190年の2月に73歳で死亡していますから、亡く
なる4.5ヶ月前頃にに受け取ったということになります。西行の体調
が悪いということを伝え聞いた定家が、急いで加判して送り届けた
ということです。(窪田章一郎氏「西行の研究」70ページ)

宮河歌合は御裳濯河歌合と対をなす歌合であり、若い定家に判を
依頼したということは西行が歌人としての定家の感性なり資質を
認めていたからに他なりません。282ページの「宮川歌合の奥に」
の詞書のある贈答歌が、73.74番として收録されています。

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 【御裳濯河歌合】

この歌合の一番と俊成の判を記述します。山家客人と野径亭主と
いう架空の人物を作者として設定しています。

一番左
  岩戸あけしあまつみことのそのかみに櫻を誰か植ゑ始めけむ
                    (山家客人)

一番右
  神路山月さやかなる誓ひありて天の下をばてらすなりけり
                    (野径亭主)

「一番のつがひ、左の歌は、春のさくらをおもふあまり、神代の
 ことまでたどり、右歌は、天の下をてらす月を見て、神路山の
 ちかひをしれる心、ともに深く聞ゆ、持とすべし」
                     (俊成の判)

俊成の判は一番歌と二番歌の間に長い述懐の文章があり、そこには
俊成と西行の関係も説明されていて貴重な資料といえます。

 【宮川歌合】

宮河歌合は前述したように藤原定家に判を依頼しています。依頼
された時の定家は26歳。困惑が目に見えるようですが、さすがに
定家。2年ほどの後に、判を終えた後の長文の述懐は大変立派な
ものだと思います。ここでは紹介しませんが、一読の価値があり
ます。
玉津島海人と三輪山老翁という架空の人物による歌合です。
玉津島と三輪山は古来、和歌に縁の深い神を祀ります。

一番左
  万代を山田のはらのあや杉に風しきたててこゑよばふなり
                     (玉津島海人)
一番右
  流れいでてみ跡たれますみづがきは宮河よりやわたらひのしめ 
                     (三輪山老翁)

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   (3) 歌合(うたあわせ)

歌合とは平安時代以来、歌人達の間に広まった遊戯的な歌会と言え
ます。歌人達が左右に分かれて、ある題で歌を即興的に詠み合い、
その歌の優劣を競いあいます。優劣の勝負の判定を下すために
判者がいて、判者は単数の場合も複数の場合もあります。
優の歌には「勝」、引き分けの場合は「持(じ)」とします。

民部卿藤原行平歌合が現存最古の歌合といわれています。その
時代は884年から887年の間のことです。平安時代には約460回の
歌合が開かれたそうです。後鳥羽院の「千五百番歌合」や、藤原
良経が主催した1193年秋の「六百番歌合」などもあります。

歌合の歌は普通の創作歌と違って、一定の制約なり約束事があり
ました。
歌合の場は個人の創作の場ではなくして、多くの歌人のいる場
での詠歌であり、歌のありようが一般的な歌とは区別されます。
晴れの場での歌として、また題詠歌とか口誦歌としてふさわしい
歌、適切な歌が求められたようです。

歌合は物合と結びついていて、物を合わせるために歌を詠んでいま
した。しかし、歌合は後には物合と離れて、歌そのものを競うよう
になったのです。
物合には実に様々なものがありました。
貝合、根合、絵合、薫物合、扇合、謎合、草合などがありました。
元来は相撲、競馬などから派生したものともいい、左右に分けて、
それぞれの事物を合わせて優劣を競うということが基本です。

ちょっと趣が違うのですが平安時代は「すごろく」が流行りました。
要するに博打で、すごろくの博打禁止令は何度も出されています。
各、物合も博打としての要素が強くなります。室町時代には連歌は
地下連歌として、金品のやり取りを含めて賭け事となることで隆盛
を極めました。各寺社も賭けの連歌の場となっています。白河の
法勝寺、清水の地主権現、毘沙門堂、清閑寺、西芳寺、法輪寺、
天竜寺、勝持寺などがことに有名です。

お茶も「闘茶」として大変に流行したものです。京都洛北栂ノ尾の
高山寺のお茶を本茶といいますが、各生産地のお茶を飲み比べて、
その産地や品質を当てるという賭け事が八坂神社などでは毎日の
ように行われていました。物合が発展した形態と見ていいでしょう。
現在の日本酒業界の「利き酒」なども、「酒合」もしくは「闘酒」
といえるでしょうか。
物合はその性質上、どうしても金品を賭けた遊戯に発展すると思い
ます。

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  (4) 通親

通親と西行とは直接の関係はありません。

源通親は1148年から1202年の期間に在世した政治家で、54歳で死亡。
内大臣、源雅通の子であり土御門通親ともいいます。
出自は62代村上天皇を祖とする村上源氏であり、その嫡流です。
久我源氏ともいわれます。
土御門というのは代々が現在の上京区に邸宅を構えていたからであり、
ここは後に鳥羽、崇徳、近衛の三代の土御門里内裏となります。
久我というのは現在の伏見区久我の地であり、ここに土御門家の
別邸がありました。通親はここに住んでいたものではないと思い
ますが、正確なことはわかりません。

私の通親像は、動乱の時代をしたたかに生き抜いた策謀家という
イメージです。
平家の時代には平氏にすり寄り、清盛死亡、平家退潮を受けて、
平家とは絶縁します。以後、後白河帝の近臣としての立場を確立
していきます。
1192年の後白河帝崩御の後も後鳥羽院の側近として権勢をふるい
ます。ことに後鳥羽院に養女を入れて、後の土御門帝の外祖父と
なると専横が激しくなります。藤原兼実とも対立して、ついには
兼実の関白職を取り上げます。この時に兼実の弟の慈円も天台
座主の地位を辞しています。

平安時代の終焉から鎌倉時代の草創という激動の時代に、武家の
争闘とは別に、朝廷内では利害をペースにして結びつき、離反し、
対立しという権力抗争があったのですし、その抗争の最も主要な
人物が源通親であったということは間違いないと思います。
彼は歌にもすぐれていて、各歌合に参加。岩清水八幡宮歌合の
判者も勤めています。

散りつもる苔のしたにもさくら花惜しむ心やなほ残るらむ
              (権中納言通親 千歳集 1155)

通親は曹洞宗開祖の道元の父ともいわれます。道元は三歳の時に
通親と死別しています。もっとも道元の父は通親の子の通具説も
ありますが、通具は道元を養育しただけとの説が一般的です。

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  (5) 雑感

この号の発行は12月15日、本年最後の発行となります。
「西行の京師」は四月に創刊してから、これまでで八号の発行。
まずまずの進捗状況でしょうか。八月からは西行辞典もあわせて
発行していますので、この発行頻度が限界です。
今後どのように構想を練るか、そのことが難しいと思います。
西行陸奥の旅に変りはないのですが、構成には毎回苦慮します。
伊勢を離れてからの陸奥までの旅については書くべきデータが極端
にありませんので、これまでのスタイルを継続するのは困難です。
まあ、なんとかしたいと思います。
今号は伊勢及び伊勢神宮についての具体的な記述ができません
でした。それも仕方ないことだと思います。

山ざくら初雪ふれば咲きにけり吉野はさとに冬ごもれども
                  (岩波文庫 97ページ)

葉を落としてしまった裸の桜の枝に雪が降り積む光景のことです。
各地から降雪情報があります。ですが、京都の市街地は初雪は
まだです。まあ、自然現象としての雪よりも

としたかみかしらに雪を積もらせてふりにける身ぞあはれなりける
                 (岩波文庫 239ページ)

ということのほうが、私には切実でしょうか。

「山家集の研究」のアドレスが変更になっています。お気に入りに
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新しいアドレスは下にあります。

「西行の京師」九号発行は来月下旬となります。
それでは、皆様、良いお年をと願いあげます。

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■  姉妹紙「西行辞典」七号発行済み。

   http://www.mag2.com/m/0000165185.htm

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