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  ■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■ 

      第 二 部         vol.09(不定期発行)  
                    2006年1月30日発行

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新しい年2006年もすでに一ヶ月が過ぎてしまいました。
ちょっと間があきましたが、「西行の京師」第九号をお届け
いたします。本年もよろしくお願いします。
今年も、ともに西行法師の勉強をしていくことができれば、
私にもうれしいことです。

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   ◆ 西行の京師 第二部 第九回 ◆

 目次 1 伊勢神宮の歌 (3)
     2 伊勢神宮の別宮および祭典
     3 西行伊勢時代と社会の動き
     4 雑感

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(1) 伊勢神宮の歌 (3)

マガジン七号は神路山、八号は御裳濯川の歌を取り上げました。
ともに伊勢神宮内宮の歌です。今回は両宮に関係する、その他の
歌を取り上げます。とはいえ神宮の歌は、ほぼ内宮の歌です。
「宮川」や「山田」歌を入れれば別ですが、純粋に神宮外宮を
詠った歌は5番の「風宮」の一首のみです。
それだけ、内宮の神官である荒木田氏と西行法師の結びつきの強さ
を表しているとも言えそうです。
今回取り上げた歌は、普通の山家集には1番歌の一首しかありま
せん。そのことによっても2番以降の歌は伊勢移住後の最晩年に
なって詠まれた歌であると見て良いと思います。

   伊勢にまかりたりけるに、太神宮にまゐりてよみける
1 榊葉に心をかけんゆふしでて思へば神も佛なりけり
     (岩波山家集124P羇旅歌・山家集1223番)
(岩波文庫山家集では、この詞書は2番までの二首にかかります。)
                            
2 宮ばしらしたつ岩ねにしきたててつゆもくもらぬ日の御影かな
  (岩波山家集124P羇旅歌、聞書集261P・聞書集260番・新古今集)

   桜の御まへにちりつもり、風にたはるるを
3 神風に心やすくぞまかせつる桜の宮の花のさかりを
       (岩波山家集125P羇旅歌・御裳濯河歌合・続古今集)

   伊勢の月よみの社に参りて、月を見てよめる
4 さやかなる鷲の高嶺の雲井より影やはらぐる月よみの森
       (岩波山家集125P羇旅歌・御裳濯河歌合・新古今集)

   風の宮にて
5 この春は花を惜しまでよそならむこころを風の宮にまかせて
               (岩波山家集279P補遺・夫木抄)

   伊勢にて
6 波とみる花のしづ枝のいはまくら瀧の宮にやおとよどむらむ
  (岩波山家集279P補遺・夫木抄)

* 梢みれば秋にかはらぬ名なりけり花おもしろき月よみの宮
              (異本山家集追而加書・西行物語)
 (この歌は確実に西行の歌であるとはいえないようです。) 

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○榊葉
 神域にある常緑樹の総称。特にツバキ科の榊の葉のこと。
 葉の付いた榊の小枝に「ゆふ」を付けて鳥居などに飾り、神域で
 あることを示します。

○ゆふしでて
 (ゆふ)とは植物の楮(こうぞ)の樹皮の繊維を用いて作った糸状
 のもの。「木綿」と書きます。(しで)とは(四手・垂)とも表記
 して、垂らすということ。
 現在、注連縄や玉串につけて垂らす白い紙のことを(しで)と
 いいます。

○神も佛
 端的に本地垂迹思想を表しています。日本の神も実は仏の垂迹
 したものだという思想です。伊勢神宮内宮の天照大御神は仏教
 の大日如来のことだと考えられていました。

○宮柱
 伊勢神宮の正殿などの建築物の柱の総称。「宮柱」「下つ岩ね」
 「しきたて」「日の御影」などの言葉は伊勢神宮の祝詞に用い
 られている言葉ということです。

○したつ岩ね
 下つ岩根。地中の岩盤のこと。「つ」は格助詞。「天つ神」など
 と同様の用い方。 

○しきたてて
 敷き立てること。いかめしく、堅固に立てること。124Pの
 「よろづ代を山田の原のあや杉に風しきたててこゑよばふなり」
 という歌の「しきたてて」とは明らかに意味が違うと思います。
 この歌の場合は「風が強く吹きすさぶこと」と解釈して良いかと
 思います。

○つゆ
 わずかなこと・はかないこと。ここでは(曇らないこと)を、
「少しも・まったく」という意味で強調しています。

○桜の宮
 伊勢市朝熊町にある朝熊神社の摂社。朝熊神社は内宮の摂社。

○月よみの社
 伊勢市中村町にある内宮の別宮。月読宮のこと。外宮にも
 月夜見宮がありますが、この歌は御裳濯河歌合にある歌ですから
 内宮の月読宮の歌だとわかります。

○鷲の高嶺
 釈迦が修行し、説法したというインドの霊鷲山のこと。岩波文庫
 山家集では「鷲の山・鷲の高嶺」の歌は十三首あります。

○しづ枝
 「下枝」と書き(しずえ)と読みます。対語の「上枝」は
 (ほつえ)と読みます。

○いはまくら
 岩を枕とするということ。

○瀧の宮
 内宮の別宮で、宮川の上流の三重県度会郡大宮町にある滝原宮の
 ことだと言われます。滝原宮そのものを「瀧の宮」と呼ぶよう
 です。   (目崎徳衛氏「西行の思想史的研究」395ページ)
 
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 (1番歌の解釈)
「榊葉に木綿四手を掛けて、心をこめて祈願しょう。伊勢の神は
 国家の神であるが、見方によってはその本地は大日如来とも
 いわれていて、私の信仰する仏と同じなのだから。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)
 
「この歌はいつごろ詠まれたのか不明だが、晩年の伊勢時代の作
 ではあるまい。「思へば神も仏なりけり」という言い方には、
 西行の心の中でまだ神仏習合が成熟していないことを感じさせ
 るからである。西行が晩年の伊勢時代に大日如来の燦然たる
 輝きの世界に至るまでには、まだ長いさまざまな迷いの悪戦苦闘
 があった。」
          (高橋庄次氏著「西行の心月輪」から抜粋)

この歌は第7号の(本地垂迹)の項で少しだけ触れています。
西行法師の本地垂迹思想が顕著に現れている歌です。

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  (2) 伊勢神宮の別宮および祭典

内宮と外宮の別宮を列挙します。別宮とは「わけのみや」と言い、
伊勢神宮に所属する宮社のことです。

 「内宮」の10社の別宮

○荒祭宮(あらまつりのみや)内宮神域内。
○風日折宮(かざひのひのみや)内宮神域内。
○月読宮(つきよみのみや)伊勢市中村町。
○月読荒御魂宮(つきよみのあらみたまのみや)月読宮域内。
○伊佐奈岐宮(いざなぎのみや)月読宮域内。
○伊佐奈弥宮(いざなみのみや)月読宮域内。
○滝原宮(たきはらのみや)度会郡大宮町大字滝原。
○滝原竝宮(たきはらのならびのみや)滝原宮域内。
○伊雑宮(いざわのみや)志摩郡磯部町)
○倭姫宮(やまとのひめみや)伊勢市楠部町。

 「外宮」の4社の別宮

○多賀宮(たがのみや)外宮神域内。
○土宮(つちのみや)外宮神域内
○風宮(かぜのみや)外宮神域内
○月夜見宮(つきよみのみや)伊勢市宮後町。

この別宮以外に内宮は27社の摂社と16社の末社、外宮は6社の
摂社と8社の末社があります。
その他あわせて合計125社が伊勢神宮を構成する社です。
社名については「延喜式神名帳=927年」「延暦儀式帳=804年」
に記載がありますから、天皇家の氏神社であり国家の神社と
しての格式が西行の時代以前には整っていたことがわかります。

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伊勢神宮の祭典としては遷宮に関係する多くの祭があります。
ここでは遷宮とは関係のない月例祭を少し紹介します。

○六月月次祭(つきなみさい)(6月15日から25日まで)
○神嘗祭(かんなめさい)(10月15日から25日まで)
○十二月月次祭(12月15日から25日まで)

以上が伊勢神宮三大祭りで「三節祭=さんせつさい」といいます。
神嘗祭はその年の新穀を祭神に奉納する儀式、月次祭は特別な
「神せん」という食料?を奉納する儀式です。

「大御(み)け」という神事は午後10時から、そして翌日の深夜
午前2時からの二度、かがり火を焚いたなかで、おごそかに執行
されます。
ほかにも、ほぼ毎月何かしらのお祭りが月例祭として執り行われて
います。

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  (3) 西行伊勢時代と社会の動き

西行が1180年の5月頃に伊勢移住してから二度目の陸奥旅行に出る
1186年7月頃までの足かけ七年、具体的には六年二ヶ月ほどの間に
起こった社会の動きを追ってみます。
124Pの詞書「高野山を住み浮かれて・・・」から後、伊勢に居を
移したわけですが、それより以前に伊勢神宮の内宮の荒木田氏とも
親密な関係にあり、41Pの詞書「伊勢に・・・神主どもよみけるに」
のように、神宮の神官とは歌会などを開催する関係でした。今回の
1番の歌も伊勢移住前の歌です。それほどに西行は伊勢の地に親し
んでいたものでした。

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(1180年)
高倉天皇譲位。安徳天皇践祚。以仁王、頼政、宇治で戦死。
6月福原に遷都。11月福原から京都に帰る。重衡、東大寺、興福寺を
焼く。

(1181年)
高倉上皇没(21)。平清盛没(64)。天下大飢饉。京都強盗横行。

(1183年)
7月安徳天皇、建礼門院を同道して平氏都落ち。西海に下る。
義仲入京。後鳥羽天皇践祚。11月義仲法住寺に後白河院を攻める。
盗賊横行。

(1184年)
義仲近江粟津に敗死。
 
(1185年)
平氏、壇ノ浦で滅びる。安徳天皇没(8)。京都大地震、疫病流行。
東大寺大仏開眼供養。

(1186年)
西行7月末か8月初め頃に伊勢を出る。8月15日に頼朝と面談。
(吾妻鏡)9月には陸奥に着いたと思われる。同年中に帰洛か?
12月、義経追討の宣旨が出る。

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きわめて簡略に西行伊勢時代の社会の動きを追ってみました。
この六年少しの期間は激動の時代でした。表面的には日本を二分
しての源平の争いといえなくもないのですが、律令制度の崩壊、
天皇親政とか藤原摂関政治はこの時代に完全に絶えたともいえ
ます。それは平氏が仮に勝って覇者となっていたとしても
同じことでしょう。

ひとつの時代の終わりは、ひとつの時代の誕生を意味します。
終わったのは平安貴族の王朝の時代であり、始まったのは武士を
中心とする新しい政治の形です。日本における中世は1156年の
保元の乱を契機としているといわれますが、源平争乱という苦しい
胎動を経て、確実に新しい時代である中世が動き出しました。

西行は伊勢にありながら、激しくうねり変転する時代の潮流を
凝視していたのでしょう。伊勢の地で戦乱を避けていたという
ことはできますが、西行なりの批評精神で世の転変を見つめ続け
ていたはずです。それは、255Pの「死出の山・・・」などの一連
の歌などからも言えると思います。

1186年4月に東大寺の重源が伊勢に赴き、重源の依頼を受けた
西行が陸奥に旅立ったのは、7月末か8月の初めの頃です。
ほぼ40年ぶりに陸奥にまで行く目的は、藤原秀衡に砂金の拠出を
要請するためと見られています。

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 (4) 雑感

生地の四国愛媛から京都に戻って、調子の悪かったパソコンから
マガジン発行に関係するデータをバックアップ。秀丸エディタや
フレッツ接続のプログラムも、予備として持っているノートパソ
コンに組み込んで、ノートパソコンから西行辞典10号発行。

通常使っているパソコンは昨秋あたりから異常を感じていました。
なんとか修復できないものかと、私でできることは試してみたの
ですが、どうしても無理で修理回し。
ハードディスクが壊れていたということで、交換となりました。
思わぬ出費でしたが、修理から戻ってみるとスムーズに機能します。

今号は構成がうまく運ばず手間取りました。次号に、もう少し伊勢
のことに触れ、11号は二見の歌、12号から伊勢を離れるつもりです。
構成の関係で一号当たり多数の歌を紹介していますが、もっとじっ
くりと腰をすえて深い考察を試みるべきかも知れません。

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■  姉妹紙「西行辞典」10号発行済み。

   http://www.mag2.com/m/0000165185.htm

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