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  ■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■ 

         第 二 部     vol.10(不定期発行)  
                    2006年03月05日発行

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こんにちは。阿部です。
三月に入りました。3日のひな祭りの日には降雪もあり、まだまだ
春浅し・・・ですが、節季は明日には啓蟄です。季節は緩慢に、
しかし確実に移ろい過ぎています。
気象庁の桜の開花予報は京都では3月28日とのこと。あと3週間
ほどです。今から開花が待たれます。

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   ◆ 西行の京師 第二部 第10回 ◆

 目次 1 その他の伊勢の歌 
     2 伊勢の西行の庵
     3 都の人々との交流
     4 雑感
     
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    (1)その他の伊勢の歌

   伊勢のにしふく山と申す所に侍りけるに、庵の梅かうばしく
   にほひけるを
1 柴の庵によるよる梅の匂い来てやさしき方もあるすまひかな
                   (岩波山家集21P春歌)

   高野山を住みうかれてのち、伊勢国二見浦の山寺に侍りける
   に、太神宮の御山をば神路山と申す、大日の垂跡をおもひて、
   よみ侍りける
2 ふかく入りて神路のおくを尋ぬれば又うへもなき峰の松かぜ
     (岩波山家集124P 羇旅歌・千載集・御裳濯河歌合)

   内宮のかたはらなる山陰に、庵むすびて侍りける頃
3 ここも又都のたつみしかぞすむ山こそかはれ名は宇治の里 (注1)
         (岩波文庫山家集125P羇旅歌・神祇百首引歌)

   五條三位入道のもとへ、伊勢より濱木綿遣しけるに
4 はまゆふに君がちとせの重なればよに絶ゆまじき和歌の浦波
                  (岩波山家集239P聞書集)

   伊勢より、小貝を拾ひて、箱に入れてつつみこめて、
   皇太后宮大夫の局へ遣すとて、かきつけ侍りける
5 浦島がこは何ものと人問はばあけてかひある箱とこたへよ
            (岩波山家集185P雑歌・西行法師歌集)

   伊勢に人のまうで来て、「かかる連歌こそ、兵衛殿の局
   せられたりしか。いひすさみて、つくる人なかりき」と
   語りけるを聞きて
6  こころきるてなる氷のかげのみか           (注2)
                  (岩波山家集256P聞書集)

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○にしふく山
 場所不明。新潮版山家集では「にしふく山」は「もりやまと
 申す所」となっています。

○しかぞすむ
 原意は副詞の(然ぞ)です。(このように住む・・・)の意味。
 動物の(鹿)を掛けているという説もあります。

○和歌の浦波
 紀伊(和歌山県)の歌枕、和歌の浦の波ということですが、ここ
 では歌の和歌と地名の和歌の浦を掛けています。和歌の伝統は
 絶えることはないだろう・・・という意味です。

○皇太后宮
 天皇の后が皇后、先帝の后が皇太后です。皇太后の住む所が
 皇太后宮。そこの事務などの一切を統率するのが皇太后宮太夫。
 この場合は(だいぶ)と読みます。
 この時、藤原多子(まさるこ=1142〜1201)が1158年から皇太后、
 藤原忻子(よしこ=1155〜1209)も1172年に皇太后となっています。

○皇太后宮太夫の局
 この歌からは個人名が不明です。局とありますので皇太后宮太夫
 俊成のことではなく、皇太后宮に勤仕する女房のことです。
 和歌文学大系21では皇太后宮太夫を皇后宮太夫として、局とは
 殷富門院大輔のこととしています。

○浦島
 浦島太郎が亀を助けて竜宮城に行ったという説話のこと。西行の
 時代にはすでに浦島太郎のお話はできていました。浦島の物語は
 日本書紀や万葉集にも記述があるそうですから、古いお話です。
 原典は「丹後風土記」です。

 (5番の歌の解釈)
「浦島がこは(これはと籠とをかける)何ですかと(これは何が
 入っているのですか)人が聞いたならば、開けてみて、浦島の
 もらった玉手箱とはちがって、開けがいのある(かひに貝と甲斐
 をかける)(貝の入っている)箱だとこたえてくださいよ。」
          (渡部保氏著「西行山家集全注解」から抜粋)

 殷富門院大輔集にこの贈答歌があり、西行は殷富門院大輔に伊勢
 から貝を送ったものと思われます。殷富門院大輔の返歌は、

 いつしかもあけてかひあるはこみればよはひものぶる心ちこそすれ

 とあります。この時、殷富門院大輔も相当の高齢であったことが、
 返歌からも伺えます。

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     ( 2 ) 伊勢の西行の庵

岩波文庫山家集をみると、伊勢には少なくとも3ヶ所で庵を構えて
逗留したものと思わせます。今号の1番から3番の歌にあるとおり
です。

このうち1番の歌は山家集にありますから、1180年の伊勢移住前の
ものと考えられます。その年代はいつか、西行何歳の頃のことか
不明のままです。
「にしふく山」も、新潮版山家集にある「もりやま」も、現在
では所在地が不明ですから、どのあたりで住んでいたのかわかり
ません。

2番の歌は「伊勢国二見浦の山寺に侍る」とあり、果たして庵を
結んで住んでいたのかどうか確定はできかねる記述です。
しかし荒木田満良の「西行上人談抄」の「西行上人二見浦に草庵
結びて・・・」という記述によって二見浦にも草庵があったことは
確実視されています。
また鴨長明の「伊勢記」に「西行法師住み侍りける安養山といふ
所に、人歌詠み連歌などし侍りし時、海辺落葉と云ふことをよめる
・・・」という記述によって二見での場所も特定できます。二見の
安養山は現在では豆石山と呼ばれている所です。

3番の歌は百人一首第八番の喜撰法師の下の歌を本歌としています。

「わが庵は都のたつみしかぞ住む世をうぢ山と人はいふなり」

しかし西行の「ここもまた・・・」歌は、渡会元長(1392〜1483)
の神祇百首引歌を底本としていて、この底本は西行没後200年以上
を隔たって記述されたものです。
歌は蓮胤(鴨長明の法名)詠とも言われ、果たして西行の歌で 
あるのかはっきりしないということが実情のようです。

鴨長明の歌に
「是も又都のたつみうぢの山やまこそかはれしかは住けり」
という歌があるそうです。歌意は3番歌と同じようなものです。

芭蕉の「野ざらし紀行」に
 『西行谷の麓に流れあり。をんなどもの芋あらふを見るに、
   「芋洗ふ女西行ならば歌詠まむ」』とあります。

芭蕉の時代には内宮の近くに西行の庵があったと信じられていた
ものでしょう。

目崎徳衛氏は「西行の思想史的研究」で次のように結んでいます。
「西行谷は室町時代に発達した西行伝説の所産として注目すべき
 ものであって、西行が実際にここに草庵を結んだか否かは論証の
 術がないとしなければならない。」

伊勢に在住していた足かけ七年の間、二見浦の一ヶ所のみしか庵を
結んでいなかったというのも合理的な考えではないと思います。
「内宮のかたはら」にも庵があったとしても少しも不思議ではない
のですが、二見浦の庵の場合以外は確かな資料がなく検証すること
が不可能であるということです。

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( 3 )都の人々との交流

西行が親交を結んでいた人の多くが、西行伊勢時代にはすでに鬼籍
に入っています。変わらずに健在で、伊勢時代においても交流を
を保ち続けてきた人もいました。ここでは荒木田氏良(240P)や
菩提山上人(77P)などの伊勢在住の人々は別にして、伊勢時代に
おける都の人たちとの交流について記述してみます。今号紹介の
歌にある人々から始めます。

○五條三位入道(1114〜1204、藤原俊成、顕廣、釈阿と同一人物)

 藤原道長六男長家流、御子左家の人。定家の父。俊成女の祖父。
 三河守、加賀守、左京太夫などを歴任後1167年、正三位、1172年、
 皇太后宮太夫。
 五条京極に邸宅があったので五條三位と呼ばれました。五条京極
 とは現在の松原通り室町付近です。現在の五条通りは豊臣時代に
 造られた道です。
 1176年9月、病気のため出家。法名「阿覚」「釈阿」など。
 1183年2月、後白河院の命により千載集の撰進作業を進め、一応
 の完成を見たのが1187年9月、最終的には翌年の完成になります。
 千載集に西行歌は十八首入集しています。
 1204年91歳で没。90歳の賀では後鳥羽院からもらった袈裟に、
 建礼門院右京太夫の局が紫の糸で歌を縫いつけて贈っています。
 そのことは「建礼門院右京太夫集」に記述されています。
 西行とは出家前の佐藤義清の時代に、藤原為忠の常盤グループの
 歌会を通じて知り合ったと考えてよく、以後、生涯を通じての
 親交があったといえるでしょう。

○皇太后宮太夫の局(生没年不詳、殷富門院大輔)

 正しくは皇后宮太夫の局で後白河院亮子(あきこ)内親王の女房。
 生没年不詳で、年齢は西行より10歳ほど下らしく1200年頃の没の
 ようです。
 西行が陸奥から都に帰ってきて、1187年に殷富門院大輔百首歌を
 定家、家隆、隆信、寂蓮らに勧めていますので、西行は殷富門院
 大輔とも親しかったものでしょう。

○兵衛の局(生没年不詳、待賢門院兵衛、上西門院兵衛)

 藤原顕仲の娘で待賢門院堀川の妹。待賢門院の没後、娘の上西
 門院の女房となりました。1184年頃に没したと見られています。
 西行とはもっとも親しい女性歌人といえます。
 自選家集があったとのことですが、現存していません。

○上西門院(1126〜1189、統子(むねこ)内親王、菩提院の斎院)

 鳥羽帝と待賢門院の第二皇女です。崇徳天皇の妹、後白河院の姉。
 八条院ワ子(あきこ)内親王の異母姉。
 1145年に母の待賢門院が死亡すると、その所領を伝領して、三条
 高倉(現在の文化博物館のあるあたり)の邸に住む。1160年、
 法金剛院で出家。真如理と称する。生涯独身。
 歌は詠まなかったようですが、西行とは親しい関係であったこと
 が山家集からもわかります。
  
山家集補遺には宮河歌合の加判を依頼する藤原定家との贈答歌も
あります。これは西行伊勢時代の贈答歌ではなくて、陸奥から
都に帰ってきてからのものであると思えます。

伊勢時代の歌として(1)番に紹介した三首以外に人名のあるのは
八島内府の詞書で始まる「鶴の都・・・」(185P)の歌、他には
源通親(8号に記述済み)、源義仲の歌があります。
八島内府(平宗盛)と右衛門督(平清宗)は壇ノ浦の戦いで生け
捕りにされて鎌倉まで護送される予定でしたが、鎌倉には入れず、
京都に引き返してくる途中の近江篠原で斬首されました。1185年
のことです。右衛門督は平時忠の妹を母としていますので、時忠
と親しかった西行にしてみれば、ことに痛ましい思いを味わった
ことでしょう。そのことがよくわかる歌です。この時、西行68歳。

伊勢時代の歌には登場しないけれど、都に住む何人かの歌人たち
との交流も続いていたということは容易に推察できます。
西行は二見浦百首の勧進を1185年頃にしていますので、二見浦百首
に参加した歌人たちとは折衝のためのやりとりを重ねたことで
しょう。二見浦百首には慈円、家隆、寂蓮、隆信、定家、公衡
などが参加しています。

この時代の京都はひどいとしかいえない混乱の時代でした。
平氏の都落ち、源氏勢力の入京ということからくる混乱に加えて、
盗賊横行、大飢饉、大地震、疫病流行などが続きました。政治も
社会も統治のシステムが機能していない時代だったともいえます。
1182年、疫病や餓死により京の町に放置されていた死者は一条から
九条、京極から朱雀までの地域に4万数千人、郊外の加茂川、
白川、その他に遺棄された死者の数を合わせると限りがないほどに
多いものでした。
都にとどまって生きていくのは困難な時代でした。都のそういう
状況を西行は知っていたでしょう。知りながらどうすることもでき
ずに、やきもきしながら、都に住む交友のある人たちを見つめて
いたのではないかと思います。

山家集に登場する主要人物の没年をアップしておきました。

 http://sanka05.web.infoseek.co.jp/sankasyu2/botunen.html

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   (注1)西行と長明

「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみ
に浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて・・・」
という格調高い文章で方丈記は書き起こされています。方丈記の
作者である鴨長明の名は山家集には記載がありません。しかし
西行は長明の存在は知っていたはずです。1187年に完成した千載集
に長明の歌も一首採録されていますから、当然に西行は長明の歌を
読んでいたでしょう。ただし両者に面識があるかというと疑わしい
ものです。
長明は1155年生まれです。32歳の時、伊勢を訪ねて「伊勢記」を
書きました。伊勢を訪ねたのは1186年秋から冬にかけてです。
西行が陸奥に旅立って、入れ替わりのように長明が伊勢に行き、
荒木田氏などと歌会をしています。そして今号の『(2)伊勢の
西行の庵』で紹介したような文言を残しています。
かつ、1210年頃に書かれた長明の発心集には、西行には妻と娘が
いたことが記述されています。西行とは36歳の違いがありますが、
ほぼ同時代人と考えてよく、したがって西行には妻と娘がいた
ことは事実なのだろうと思います。
「ここもまた・・・」歌については先述したとおりです。

   (注2)西行と上西門院兵衛

岩波文庫山家集では次の順序で記述されています。

  上西門院にて、わかき殿上の人々、兵衛の局にあひ申して、
  武者のことにまぎれて歌おもひいづる人なしとて、月のころ、
  歌よみ、連歌つづけなんどせられけるに、武者のこといで
  来たりけるつづきの連歌に
   
 1    いくさを照らすゆみはりの月   (上西門院兵衛)

  伊勢に人のまうで来て、「かかる連歌こそ、兵衛殿の局せられ
  たりしか。いひすさみて、つくる人なかりき」と語りけるを
  聞きて
 
 2    こころきるてなる氷のかげのみか   (西行)
                 (岩波山家集256P聞書集)

  申すべくもなきことなれども、いくさのをりのつづきなれば
  とて、かく申すほどに、兵衛の局、武者のをりふしうせられ
  にけり。契りたまひしことありしものをとあはれにおぼえて
    
 3 さきだたばしるべせよとぞ契りしにおくれて思ふあとのあはれさ
                   (岩波山家集257P聞書集)

  佛舎利おはします。「我さきだたば迎へ奉れ」とちぎられけり
    
 4 亡き跡のおもきかたみにわかちおきし名残のすゑを又つたへけり
                   (岩波山家集257P聞書集)

一連の詞書と歌から兵衛の局と西行との関係性がよくわかります。
互いの深い信頼に基づいた友情の上に、高い文学的境地を共有
しあっていたといえるでしょう。

「こころきる・・・」の西行の句はやや難解であり、高踏的という
批判も可能だと思います。西行が長い時間をかけて培った真理を
探求するための凝視の精神が、強く鋭い語調に表されています。
戦争という愚かな事象そのものの直接的批判ではなくて、人間その
ものへの厳しい問いかけの言葉として機能していると思います。

3番と4番の歌は上西門院兵衛の死を悼んでの哀悼の歌です。上西
門院兵衛を偲ぶ西行の心情が良く伝わってきます。二人が良い関係
を築いていたということに羨望のようなものを覚えます。

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    (4)雑感

近くの梅がちらほらと咲いています。
菅公の梅花祭は北野天満宮で2月25日に行われるのですが、今年も
ついに行かずじまいでした。梅宮神社も梅の名所ですので満開に
なれば、なんとか都合をつけて見に行こうかと思っています。

今月のうちには待望の桜も開くようです。気象庁の予報では京都の
開花は3月28日。別の予報機関の予報は4月5日。開きがありすぎで
すね。
西行忌の2月16日は今年は3月15日に当たりますので、桜は望めま
せん。残念なような気もします。

今号は長くなってしまいました。もう少し短くしなければいけない
とは、いつも感じていることです。
次号には二見のことについて触れます。来月になってからの発行に
なります。

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