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  ■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■ 

       第 二 部         vol.11(不定期発行)  
                    2006年4月18日発行

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こんにちは。阿部です。
桜の盛りの頃に合わせて、このマガジンを発行する予定でした。
しかし構成がまとまらず思案をしているうちに時間ばかりが、
どんどんと過ぎていき、心ならずも遅れてしまいました。
前号に「11号で伊勢の歌は最後にする」と書きましたが、編集の
都合で次号も伊勢関係の歌を取り上げます。

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    ◆ 西行の京師 第二部 第11回 ◆

  目次 1 伊勢二見の歌
      2 二見浦の西行
      3 伊勢と芭蕉
      4 雑感
      
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伊勢の地名の詠み込まれた歌について、これまでに第五号の鈴鹿の
歌から、順次触れてきました。今号は二見という地名の詠み込まれ
た歌と詞書を紹介します。

  (1) 伊勢二見の歌

   おなじこころを、伊勢の二見といふ所にて

1 波こすとふたみの松の見えつるは梢にかかる霞なりけり
(岩波山家集19P春歌・西行法師家集・山家心中集・夫木抄)

  伊勢の二見の浦に、さるやうなる女の童どものあつまりて、
   わざとのこととおぼしく、はまぐりをとりあつめけるを、
   いふかひなきあま人こそあらめ、うたてきことなりと申し
   ければ、貝合に京よりひとの申させ給ひたれば、えりつつ
   とるなりと申しけるに

2 今ぞ知るふたみの浦のはまぐりを貝あはせとておほふなりける
        (岩波山家集126P羇旅歌・夫木抄)

3 箱根山こずゑもまだや冬ならむ二見は松のゆきのむらぎえ
       (岩波山家集233P聞書集・夫木抄)

   海上明月を伊勢にてよみけるに

4 月やどる波のかひにはよるぞなきあけて二見をみるここちして
           (岩波山家集238P聞書集)

   高野山を住みうかれてのち、伊勢国二見浦の山寺に侍りける
   に、太神宮の御山をば神路山と申す、大日の垂跡をおもひて、
   よみ侍りける

5 ふかく入りて神路のおくを尋ぬれば又うへもなき峰の松かぜ
       (岩波山家集124P羇旅歌・千載集・御裳濯河歌合)

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○二見
 三重県伊勢市(旧度会郡)にある地名。伊勢湾に臨んでおり、
 古くからの景勝地として著名です。伊勢志摩国立公園の一部で、
 あまりにも有名な夫婦岩もあります。日本で最初の公認海水浴場
 としても知られています。
 
○さるようなる
 「然る様なる」で、それなりの理由ということ。ここでは「それ
 なりの身分のある家の女の子」という意味。

○わざとのこととおぼしく
 遊びや気まぐれではなくて必然のあることと感じられて・・・。
 何か目的があってしていることと思えて・・・。
 
○いふかひなき
言っても分からないだろう。だから、海人には言うだけの甲斐の
 ないことだ、ということです。なんだか海人を蔑んでいるよう
 な感じですが、この解釈でよいのでしよう。
 
○うたてきこと
 (転=うたて)きこと。平安時代後期から使われ始めた言葉だと
 辞書にあります。
 心に染まないことだ・見るに耐えないことだ・情けないことだ、
 というニューアンスで用いられています。源氏物語(浮舟など)
 や土佐日記にも用例があります。

○貝合
 「物合わせ」の一つです。物あわせについては8号の3に記述
 しています。平安時代に上流階級で流行した遊びで、装飾を施し
 た貝殻を、左右に分かれて出し合って、合わせた数の優劣を競う
 遊びです。

○おほふなり
 貝のかけことば。貝を合わせることを覆うといいます。二枚貝は
 同じ貝でなければ合いません。

○ゆきのむらぎえ
 雪がところどころまだらに消えているという情景のこと。
 
○波のかひ
 「かひ」である必然がよく分かりません。甲斐と貝をかけている
 はずですが、そしてそれは「あけてふたみ」につながっています
 が、ちょっと縁語仕立てにしすぎたために破綻している感じです。

○あけて二見
 夜が明けて二見浦という地を見る、貝をあけて蓋と身を見る・・
 ということを掛けています。少し凝り過ぎの気がします。

(1番の歌の解釈)

【「二見浦の松を、末の松山ではないが、波が越すと見えたのは、
 梢にかかる霞であったよ。」
「参考(君をおきてあだし心をわが持たば末の松山波も越えなん)
 「古今集・東歌」。霞は遠山桜と見まがわれると詠まれることは
 多いが、白波と見まがわれると詠まれることは珍しい。」】
          (【 】内は新潮日本古典集成から抜粋)

この歌は山家集の春の歌にあります。ということは西行晩年の伊勢
時代の作ではないと考えて差し支えありません。
今号の2番歌や7番歌と同様に、西行が1180年に伊勢に移住するより
ももっと早い時代に詠まれた歌とみなしていいでしよう。
そのうち1番歌と7番歌は伊勢での歌会での題詠歌と見て間違いない
ものと思います。
7番歌の詞書に「神主などよみけるに」とあるように、西行は伊勢
移住前から伊勢神宮内宮の禰宜である荒木田氏などとの交流が
あったことを表しています。

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  (2)二見浦の西行

西行の二見浦の草庵について興味深い記述があります。荒木田満良
(蓮阿)の「西行上人談抄」から抜粋します。
荒木田満良は伊勢神宮内宮の禰宜の一族であり、240Pに西行との
「こよひしも・・・」の贈答歌のある神主氏良の弟にあたります。
氏良と満良の兄弟を中心にして伊勢における作歌グループがあり、
西行はそのグループの指導的な位置にいたものと思います。

「西行上人二見浦に草庵結びて、浜荻を折敷きたる様にて哀なる
すまひ、見るもいと心すむさま、大精進菩薩の草を座とし給へり
けるもかくやとおぼしき、硯は石の、わざとにはあらず、もとより
水入るゝ所くぼみたるを被置たり。和歌の文台は、花がたみ、扇
ようのものを用ゐき(後略)」

生き生きとしたリアリティのある言葉で草庵の情景が描かれて
います。西行の二見の庵での生活のありようが容易に想像できる
表現です。
前号でも少し触れましたが、この草庵の位置は二見浦の海岸線から
は少し離れていて、安養山(現在の豆石山)にあり、三河の伊良湖
岬に近い神島までが見えたとのことです。
1180年からの伊勢在住時代の多くは、西行はこの庵を拠点にして、
伊勢の国の美しい自然に触れ、そして荒木田氏を中心とする人々
との交流を深める日々をすごしていたことでしよう。

しかし不思議なことに、伊勢在住時代の伊勢の歌が極端に乏しいの
です。伊勢神宮の歌はありますが、二見の歌や島々の歌などの多く
が、1180年からの二見で庵を構えて住む以前の歌と解釈できるの
です。二見に住んでからも島々を巡ったであろうことは容易に推測
できますし、なぜ二見に住んで二見あたりの歌が少ないのか、詠ま
なかったのか、それが謎です。
後世になり書写した人の手によって伊勢二見時代の歌が山家集に
補筆転入されたという可能性も考えられますが、伊勢神宮の多くの
歌が山家集にはないという事実から見ても、その可能性は低いと
みて良いと思います。
西行歌は散逸しているものが多いらしいのですが、もしそれが事実
なら、散逸した歌の中に、この時代の伊勢神宮以外の伊勢の歌も
多いのではなかろうか、と思わせます。

  遠く修行しけるに人々まうで来て餞しけるによみ侍りける

 頼めおかむ君も心やなぐさむと帰らぬことはいつとなくとも
       (岩波山家集280P補遺・新古今集・西行法師家集)

280ページにあるこの歌が、歌の配列などからみて、西行が二度目の
奥州行脚に旅立つ前に伊勢の作歌グループとの惜別の歌会で詠んだ
歌と見られています。口語体の分かりやすい歌であり、高齢に
なって長途の旅をする西行の心境が凝縮されています。

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     (3)伊勢と芭蕉 

俳聖の芭蕉については私はまったくの門外漢なのですが、伊勢に
おける西行について考えるとき、西行を敬慕していた芭蕉のことに
触れないわけにはいかないでしよう。西行の関係する伊勢について
触れているものだけを少し記述してみます。参考までに関係する
西行歌も記述してみます。

1 1684年、41歳の時に「野ざらし紀行」の旅の途次に伊勢神宮に
  参拝。『 』内は「野ざらし紀行」から抜粋。

 『暮れて外宮に詣侍りけるに、一の華表(とりゐ)の陰ほのくら
 く、御燈火處ゝに見えて、また上もなき峯の松風、身にしむ計、
 ふかき心を起こして、

    みそか月なし千とせの杉を抱あらし
 
 西行谷の麓に流あり。をんなどもの芋あらふを見るに、

    芋洗ふ女西行ならば歌よまむ』

◎ ふかく入りて神路のおくを尋ぬれば又うへもなき峰の松かぜ
       (岩波山家集124P羇旅歌・千載集・御裳濯河歌合)

◎ 世の中をいとふまでこそかたからめかりのやどりを惜しむ君かな
              (岩波山家集107P羇旅歌・新古今集)

2 1687年、44歳の時に「笈の小文」の旅に出発。翌年二月、伊勢
 神宮参拝。『 』内は「笈の小文」から抜粋。

 『「保美村より伊良古崎へ壱里斗も有べし。三河の国の地つづき
 にて、伊勢とは海へだてたる所なれども、いかなる故にか、万葉
 集には伊勢の名所の内に撰入られたり。此洲崎にて碁石を拾ふ。
 世にいらご白といふとかや。後略。」

    鷹一つ見附けてうれしいらご崎

 『神垣のうちに梅一木もなし。いかに故有事にやと、神司などに
 尋侍れば、只何とはなし、をのづから梅一もともなくて、子良の
 館の後に一もと侍るよしをかたりつたふ

    御子良子の一もとゆかし梅の花

    神垣やおもひもかけずねはんぞう 』

◎ すたか渡るいらごが崎をうたがひてなほきにかくる山帰りかな
              (岩波山家集127P羇旅歌・夫木集)

◎ 神路山みしめにこもる花ざかりこらいかばかり嬉しかるらむ
             (280P 補遺・異本山家集・夫木抄)

3 1689年、46歳の時に「おくのほそ道」の旅に出発。最後の地で
 ある美濃大垣を発ち、伊勢神宮参拝。同年9月のこと。

 『旅のものうさもいまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の
 遷宮おがむまんと、また舟にのりて

    蛤のふたみに別れ行く秋ぞ 』

◎ 今ぞ知るふたみの浦のはまぐりを貝あはせとておほふなりける
        (岩波山家集126P羇旅歌・夫木抄)

その他には以下の句があります。

    何の木の花とはしらず匂哉
                  (笈の小文・杉風宛書簡)

◎ 何事のおはしますをば知らねどもかたじけなさに涙こぼるる
                      (西行法師家集)

   硯かと拾ふやくぼき石の露
              (奥の細道の旅の後での杉風宛書簡)

◎ 「西行上人二見浦に草庵結びて、浜荻を折敷きたる様にて哀
  なるすまひ、見るもいと心すむさま、大精進菩薩の草を座とし
  給へりけるもかくやとおぼしき、硯は石の、わざとにはあらず、
  もとより水入るゝ所くぼみたるを被置たり。」
 
「硯かと・・・」の句は、蓮阿の西行上人談抄にある以上の文章の
硯のことに関係しています。

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 (芭蕉)

伊賀の国上野、現在の三重県上野市で1644年出生。
父は松尾与左衛門、母は伊予宇和島藩の人。松尾家は伊賀平氏。
19歳頃に藤堂家に出仕。仕事は台所用人。
「宗房」名で19歳頃から句を作り俳諧の道を歩き始める。31歳頃に
出仕をやめ翌年頃に江戸に出る。「宗房」「桃青」の名で句作を
続け、名声を高める。
1684年、41歳の時に「野ざらし紀行」の旅に出て翌年、8ヵ月ぶりに
江戸に戻る。  
44歳のときに「鹿島詣」の旅、その後に「笈の小文」の旅をする。
46歳のときに曽良を同伴して「おくのほそ道」の旅に出る。旅の
最後の大垣から伊勢に向かう。以後二年ほどは伊賀、京、近江を
転々として、江戸に戻ったのは48歳の年、10月の末。
1694年5月、51歳の時に江戸を発ち西上。伊賀、京、近江に滞在。
9月9日大坂滞在。29日病臥し、10月12日午後4時頃に御堂前の
花屋仁左衛門方にて病没。14日に近江の膳所にある義仲寺境内に
埋葬される。
       (角川文庫「おくのほそ道」芭蕉略年譜を参考)
                   
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    (4)雑感

このマガジンを発行してから、まるまる一年が経過。創刊号から
今にいたるまで試行錯誤です。ことに構成に手間取ります。これは
終刊号まで変わらないことでしよう。うまく構成できたと思う号と
そうでない号がありますが、うまくいった時は自分でもある充足感
を覚えます。今号は反対に不満が強いものです。

3月9日に梅宮神社まで自転車で行きました。この小社は梅の名所と
して著名です。普通の梅は満開で美しいものでしたが、遅咲きの
梅は蕾だになし・・・という感じでした。
梅はともかくとして、境内の高木にアオサギが20羽ほど営巣して
いて、そのことに驚きました。他に左京の金戒光明寺の森もアオ
サキの営巣地になっているとのことです。どうして街中の森に営巣
するのか、不思議でもあります。

3月28日、気象庁の予報通りにソメイヨシノが、開花し西行MLの
方々と4月9日に西行ゆかりの仁和寺や法金剛院を巡ってきました。
奇跡的に穏やかな春らしい天気の一日でした。仁和寺の御室桜は
まだ蕾でしたが、紅枝垂れ桜、ソメイヨシノは満開で、今年の桜を
堪能した思いです。

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