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  ■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■ 

      第 二 部         vol.12(不定期発行)  
                    2006年5月20日発行

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こんにちは。阿部です。
五月皐月。陽春です。桜は一ヶ月以上も前に終わり、変わって木々
の新緑が目にまばゆいばかりに萌え立っています。それも日に日に
移り変わり、ういういしい若葉から緑の度合いを深めつつあります。
一年をサイクルにしての植物の営みは、神秘的としかいえません。
ともあれ、梅雨入り前の、一年でもっとも良い季節です。

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   ◆ 西行の京師 第二部 第12回 ◆

 目次 1 二見の歌と伊勢のその他の歌
     2 伊勢の島々の歌
     3 西行と海
     4 伊勢の固有名詞一覧
     5 前号の訂正
     6 雑感

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(1)二見の歌と伊勢のその他の歌

11号で1番と2番の歌も取り上げるつもりでした。ともに伊勢二見の
歌です。でも長くなりすぎるので断念して、今号にまわしました。
4番歌は二見の地名入りの歌ですので本来なら11号に取り上げる
べきですが、残念ながら、この歌は西行詠というには確証がありま
せん。4番と5番歌は西行歌として信頼できませんので、誰が詠んだ
か分からない伝承歌とみなすべきだと思います。
それでも伊勢の歌として一応はここに取り上げます。

1 逆艪おす立石崎の白波はあしきしほにもかかりけるかな
             (岩波山家集250P聞書集・夫木抄)

   伊勢にまかりたりけるに、みつと申す所にて、海邊の春の
   暮といふことを、神主どもよみけるに

2 過ぐる春潮のみつより船出して波の花をやさきにたつらむ
                   (岩波山家集41P春歌)

   福原へ都うつりありときこえし頃、伊勢にて月の歌
   よみ侍りしに

3 雲の上やふるき都になりにけりすむらむ月の影はかはらで
           (岩波山家集185P雑歌・西行法師歌集)

4 思ひきや二見の浦の月を見て明け暮れ袖に浪かけむとは
                    (異本山家集追而)

5 何事のおはしますをば知らねどもかたじけなさに涙こぼるる
             (西行法師歌集・異本山家集追而)

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○逆艪(さかろ)
 艪(ろ)でこぐ舟は普通は艫(とも)の近くに艪をつけます。
 艫とは船尾のことです。艪には∪状の穴を開けていて、その穴を
 艫近くに固定した∩状の取り付け金具に合わせ入れて、艪をこぐ
 ことによって舟は前進します。
 船首である舳先(へさき)に付けた艪を逆艪といいます。船尾
 方向に向かって前進することが目的として設置された艪です。
 
○立石崎
 二見浦にある夫婦岩付近のことを指しているそうです。
 地元の方々は夫婦岩そのものを立石(たてしっさん)と親しみ
 をこめて呼ばれているとのことです。

○白波
 波頭が立って白く見える波のこと。
 盗賊の異名としての意味を持ちます。

○みつ
 二見にある地名です。三重県伊勢市(旧度会郡)二見町三津の
 ことです。「満つ」と掛けていて、春という季節は、潮が満ち
 てきてから船出する(始まる)という感じを表しています。

○福原
 摂津の国。現在の兵庫県神戸市兵庫区の東部にある地名。
 1180年6月、平清盛は強引に遷都しましたが、福原京は都として
 機能しなかったために同年11月には再び京都に戻っています。
 この遷都の様子は平家物語に詳しく書かれています。

○都うつり
 遷都のこと。京都から福原に都が移ったことを指しています。

○雲の上や
 宮中を敬って用いている言葉。

○思ひきや
 (思う)の連用形に助動詞(き)と反語助詞(や)の接続した
 もの。
 思ってきたことがあっただろうか・・・というほどの意味。

○明け暮れ
 日々、日常のこと。海辺の二見での日常を詠っています。

(1番の歌の解釈)

逆艪(舟のへさきにも艪をとりつけて、逆にも進めるようにした
もの逆さ事にもかける)を押して舟を進めてゆく立石崎(伊勢二見
浦夫婦岩を立石、立岩という)のあたりの白波にあうのは都合の
わるい潮にかかつたことよ。逆事をする立石崎のあたりに住む盗賊
(海賊)はわるい機会にあったことだ。(捕らえられたことを
言うか。)
         (渡部保氏著「西行山家集全注解」から抜粋)

逆艪を押す立石崎のあたりにたつ白波は、舟が悪い潮の流れにさし
かかったと見え、海賊は悪い時に及んだなあ。(中略)
▽難解歌。海賊の破滅する運命を皮肉に詠むか。
                 (和歌文学大系21から抜粋)

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     (2)伊勢の島々の歌

  伊勢のいそのへちのにしきの嶋に、いそわの紅葉のちりけるを

1 浪にしく紅葉の色をあらふゆゑに錦の嶋といふにやあるらむ
                  (岩波山家集126P羇旅歌)

  伊勢のたふしと申す嶋には、小石の白のかぎり侍る濱にて、
  黒は一つもまじらず、むかひて、すが嶋と申すは、黒かぎり
  侍るなり

2  すが島やたふしの小石わけかへて黒白まぜよ浦の濱風
                  (岩波山家集126P羇旅歌)

3  からすざきの浜のこいしと思ふかな白もまじらぬすが嶋の黒
              (岩波山家集126P羇旅歌・夫木抄)

4  伊勢嶋や月の光のさひが浦は明石には似ぬかげぞすみける
                   (岩波山家集84P秋歌)

○錦の嶋
 伊勢に「錦島」はないようですが、度会郡紀勢町に「錦」という
 海に面した町があります。「錦の島」はここだろうとみられて
 います。

○たふしと申す嶋
 伊勢湾にある答志島のことです。鳥羽市に属しています。

○すが嶋
 伊勢湾にあり答志島の西に位置する菅島のことです。鳥羽市に
 属しています。

○からすざき
 三重県一志郡香良洲町にある岬のこととみられています。
 一志郡香良洲町は松坂市の北に位置していて、菅島とは離れて
 います。

○伊勢嶋
 伊勢にある島々を総称して「伊勢嶋」と言っているようです。
 伊勢嶋の歌は118ページにもあります。

他に伊勢の島嶼部・臨海部の地名として以下があります。

120P みきしま
 どこを指すか不明。三重県尾鷲市三木崎、あるいは紀伊にある
 二木島などの説があります。

126P さぎじま
 新潮版山家集では「崎志摩」としていて、三重県志摩郡波切付近
 とあります。西行山家集全注解では(志摩の国波切西南にある島)
 と明記されています。歌の感じと海流の関係をみれば、それで
 良いのかもしれません。

239P 麻生の浦
 伊勢の歌枕ですが場所は不詳のようです。三重県多気郡にある
 大淀海岸あたりとも、鳥羽市浦村町にある麻生の浦とも言われ
 ています。鳥羽市浦村町は志摩の国になり、厳密には伊勢の歌枕
 とは言わないという説もあります。

上の4首の島々の歌は山家集に記載されていますので、1180年の伊勢
移住前に詠まれたものと推定できます。三河の伊良湖の歌も、伊勢
に移り住む前に詠まれたものとみて間違いないでしよう。
伊勢に移り住んでからの、島と二見の歌は以下の4首のみとみてよい
と思います。6年数ヶ月間も伊勢に住んでいながら、島や二見の歌は
4首しかないということは、やはり少ないと言えるでしょう。
 
 箱根山こずゑもまだや冬ならむ二見は松のゆきのむらぎえ
                  (岩波山家集聞書集233P)

 月やどる波のかひにはよるぞなきあけて二見をみるここちして
           (岩波山家集聞書集238P)

 心やる山なしと見る麻生の浦はかすみばかりぞめにかかりける
                  (岩波山家集聞書集239P)

 逆艪おす立石崎の白波はあしきしほにもかかりけるかな 
                  (岩波山家集聞書集250P)

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   (3)西行と海

西行の家集名が(山家集)という位ですから、山に題材を取った
歌はとても多いですし、それが必然とも思います。しかしそのこと
によって、西行を山の歌人として位置づけてしまうことなどでき
ないことです。

山でもない海でもない、月でもない心でもない、ましてや桜でも
ない、つまりは歌に詠われる題材などによって○○の歌人などと
いうレッテルなど張れません。無理やり一つに集約してしまうよう
な断定化などは西行がもっとも嫌うでしよう。

山家集にはたくさんの海の歌、海辺に材を採った歌があります。海
に関係する歌が多くあるということには、とても奇異な感じさえも
覚えます。

それとは別に、西行はとても海が好きだったのではないかと確信
しています。宗教にさえも縛られない、縛られるとしたら西行その
人個人の心情以外にはないという、本質的に自由人としてあろうと
した西行が、海の歌を詠う時の姿勢には、自身を占めている雑多な
想念から解き放たれたような、どこか軽やかで、伸びやかな印象を
受けます。

「伊勢の答志の島から伊良胡へかけての一連の作品、錦の島での
作品など、海を歌った、明るい、ユーモラスな要素ももっている
のは、同じく若い頃のものと推定される。西行が海を愛する性情
をもっていたのも、作品を通して顕著な特質の一つに数えられる。」
          (窪田章一郎氏著「西行の研究」から抜粋)

窪田氏の記述に共感します。「海を愛する性情をもっていた・・・」
ということは事実だろうと思います。

西行はことに伊勢二見の自然を好んでいたのでしよう。西行が発起
して定家、寂蓮などの都の歌人達に勧めた「二見浦百首歌」という
タイトルからも、そのことが伺えます。
二見浦の海岸線には現在は護岸が造られていますが、西行の時代は
砂浜が長く続いていて、その砂浜に座り、穏やかに押し寄せる波を
見、伊勢湾の潮騒を聞きながら二見浦という土地の持つ情趣の中に
終日浸っていたこともあったことでしょう。当然に伊勢在住時代
にも舟で答志島や菅島、そして神島や伊伊良湖あたりにも行って、
海を楽しんでいただろうと想像します。

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   (4)伊勢の固有名詞一覧

○寺社名
 太神宮・内宮・瀧の宮・桜の宮・風の宮・月読の社・斎宮

○山名
 鈴鹿山・神路山・にしふく山(?)・もりやま(?)・
 あひの中山(?)

○川名
 御裳濯川(五十鈴川)・宮川

○島名
 菅島・答志島・伊勢島(?)・立石崎(?)・さぎじま(?)・
錦の島(?)・みきしま(?)

○地名
 伊勢・二見・みつ・山田の原・宇治の里・からすざき・
 わたらひ・麻生の浦(?)

西行の歌に出てくる伊勢の固有名詞一覧です。場所を特定できない
名詞、または山名や島名と断定できかねる名詞は(?)としました。

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    (5)前号の訂正

前回11号の (2)二見浦の西行 の中で、私は以下のように記述
しています。

「この草庵の位置は二見浦の海岸線からは少し離れていて、安養山
(現在の豆石山)にあり、三河の伊良湖岬に近い神島までが見えた
とのことです。」

これは、1186年に西行が陸奥への二度目の行脚に旅立ってから、ほど
なくして安養山を訪れた鴨長明の以下の詞書と歌が下敷きとしてあった
からです。

【西行法師住み侍りける安養山という所に、人歌よみ連歌などし
 侍りし時、海辺落葉と云ふことをよめる

 あきをゆく神嶋山はいろきえてあらしのすゑにあまのもしほ火 】
                  (鴨長明 伊勢記)

長明のこの詞書と歌から目崎徳衛氏は「西行の思想史的研究」360
ページに
「草庵の所在地は神島を眼のあたりにする二見の安養山なる所で
 あったことが知られる。」
と明記されています。

それゆえにこそ、「伊良湖岬に近い神島までが見えた・・・」と、
私は前回に記述しました。

ところが二見在住の方から「安養山の西行の庵のあったと思える
場所からは神島は見えない」というご指摘をいただきました。
方角が違っていて、見えないそうです。
これはやはり現地の方が、実際に豆石山に上がって検証されたこと
が絶対的に正しいことだと思われます。
とすると、西行の庵の位置が違うか、もしくは、長明の歌が実際に
即したものではなくて想像で詠んだものかとも思えます。
ともあれ「伊良湖岬に近い神島までが見えた・・・」という私の
記述は撤回いたします。

わざわざのご指摘、ご教示いただいた方にお礼申し上げます。

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   (5)雑感

先号に予告したように、今号で伊勢の歌は終わります。当初は四回
程度と考えていたのですが、結果としては5号から12号までの8回に
わたって触れてきたことになります。それだけ伊勢の歌、伊勢での
歌は多いということですし、歌の多さはそのまま西行にとっても
伊勢は第二の故郷ともいうべき愛着のある土地だったということが
できるでしよう。
もし伊勢に神宮が遷座されていなかったら・・・という仮定の話
には言及しませんが、伊勢神宮の存在、そして荒木田氏との交流が、
西行をして伊勢に住まわせた、その主因であることは間違いあり
ません。そればかりではなくて二見浦の風土が西行の気質に合って
いただろうということも見逃してはならないことです。
私は二見浦には一度だけしか行ってないのですが、西行は本当に
二見が好きだったのだろうなーと思わせる土地柄だと思います。
日本人の拠って立つ精神風土の原風景がここにある・・・とも
思わせるだけのすばらしい所として私の記憶に焼き付けられて
います。

伊勢を離れての展開は、西行物語にあるコースをたどって陸奥まで
の歩を進めてみます。それはまた当時の東海道、そして東山道の
順路です。まあ、ゆっくりと歩を進めてみることにします。

私事ですが、11号を発行してからこれまでの間に、二人の親族を
見送りました。ともに90歳を越えての他界ですので、天寿を全う
したともいえます。すばらしい人生であったかどうかは個人の問題
であり、他者が口をさしはさむ余地はないのですが、私のできる
こととして二人の冥福を祈り、かつ私自身の残されている人生の
充実を図りたいものだと思います。それが先に逝った方々に対して
の礼儀であり、供養ということなのでしよう。

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■  姉妹紙「西行辞典」16号発行済み。

   http://www.mag2.com/m/0000165185.htm

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