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  ■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■ 

     第 二 部         vol.13(不定期発行)  
                    2006年6月15日発行

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こんにちは。阿部です。
一週間ほど前に梅雨入りしたはずですが、雨は降らず、梅雨という
感じをさせないままに日々は移ろい過ぎて行きます。連日30度ほど
の気温で、まるで初夏の陽気と言ってもいいでしよう。
けれど、これからはいかにも梅雨という日々が到来するはずです。
今年も、豪雨による被害ができるだけ少ないことを祈ります。

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   ◆ 西行の京師 第二部 第13回 ◆

 目次 1 尾張の歌
     2 伊勢からの旅
     3 伊勢からの推定順路
     4 愛知県の西行歌碑
     5 雑感
           
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     (1)尾張の歌

1 波あらふ衣のうらの袖貝をみぎはに風のたたみおくかな
  (岩波山家集171P雑歌・山家心中集・西行法師家集・夫木抄)

2 出でながら雲にかくるる月かげを重ねて待つや二むらの山
                    (岩波山家集70P秋歌)

3 思ひきやよそに鳴海のうらみして涙に袖を洗ふべしとは
                  (松屋本山家集39番恋歌)

○衣のうら
 愛知県知多半島東側の入り江にある地名です。衣浦漁港があり
 ます。西行の歌では(ころものうら)と読みますが、固有名詞と
 しては(きぬうら)と読みます。平安時代は(ころもうら)か
 (きぬうら)か、それとも両方の呼称なのか判然としません。

○袖貝
 本州中部以南に生息するスイショウガイ科の巻貝の総称。
 袖貝は約40種類があります。(日本語大辞典から抜粋)
 しかし不思議なことに袖貝はアコヤ貝の異称とか、アコヤ貝も
 袖貝の一種という資料もあります。アコヤ貝はウグイスガイ科の
 二枚貝であり袖貝は巻貝ですから、まったく別種のものだと思わ
 れますが、なぜ同一視されるのか私にはよく分かりません。
 ご存知の方、ご教示願いあげます。

○みぎは
 水際のこと。海辺、渚のこと。

○二村の山
 三河の国の歌枕。二村山は現在の愛知県豊明市沓掛町にある海抜
 72メートルほどの小丘といいます。豊明市を南流する境川が三河
 と尾張を隔てる境界ですが、この境川の流路より少し西の尾張側
 に二村山はあります。現在の境川の流路が平安時代と変わって
 いる可能性もあります。東海道の道筋にあり、尾張と三河の国境
 上に位置していたので、尾張の歌枕ともみなされています。
 延喜式における東海道の尾張の国の最後の駅は両村にありました。
 古代には(二村)は、両村(ふたむら)と表記されていました。
 両村駅を1キロほど過ぎてから三河の国に入ったとのことです。
 ということは境川の流路は変わっていないとも言えます。
 このことから見ても二村は地理的には三河の歌枕ではなくて、
 尾張のものだとも言えるでしよう。

 晴れやらで二むら山に立つ雲は比良のふぶきの名残なりけり
                  (岩波山家集100P冬歌)

 この歌の場合の「二むら山」は近江にあったと解釈するほうが
 自然だと思います。

○鳴海のうら
 鳴海の浦。現在の名古屋市緑区鳴海町です。江戸時代の東海道の
 宿場町があった所です。海辺の村であり「鳴海潟」「鳴海の海」
 という形で詠まれ、海辺の景物である「浪」「千鳥」などが縁語
 として詠み込まれることが多くあります。
 また「浦」を「恨」、「鳴海」と「成る身」を掛け合わせて詠わ
 れています。
 鳴海は満潮の時は難所であったことが更科日記の記述から伺え
 ます。鳴海の戸数は1691年の記述に約400戸とあります。当時と
 しては大きい町だったのでしよう。更科日記の作者の通り過ぎた
 1020年頃はひどい寒村であったことと思いますが、それは西行の
 時代においても大差なかったはずです。
 江戸時代の鳴海は木綿の有松絞りの販売で有名ですが、いつの頃
 からか有松絞りは鳴海絞りとも言われ出しました。有松は桶狭間
 の古戦場のあった付近の地名です。有松絞りは有松で生産されま
 した。
 鳴海と二村山は指呼の距離にあります。

○よそになるみのうらみして
 (よそになるみのうらみして)は次のようになります。
 (よそになる)(なるみのうら)(うらみして)であり、技巧を
 凝らしていることが分かります。

(1番の歌の解釈)

「衣の浦ゆかりの袖貝は、波にも洗われ、風に打ち寄せられても
 波打ち際に袖を畳んだようにきれいに並んでいたりする。」
 ○衣の浦ー尾張国の歌枕。「浦」に衣の縁語「裏」を掛け、
  「洗ふ」「袖」「畳み」も「衣」の縁語。
                (和歌文学大系21から抜粋)

この歌は貝合の席で人に代わっての代作歌、9首の中の一首です。
したがって実際に現地に赴いて現地で詠んだ歌ではありません。

「ころものうら」の歌は他の歌人も詠んでいますが、固有名詞と
しての「衣の浦」とは関係なくて「衣手」などと同様に衣服として
の「衣」の裏地を詠んでいるものがほとんどといえるでしよう。

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◎ そのかみの玉のかざしをうちかへし今はころものうらを頼まむ
                (新古今集1710番 東三條院)

◎ いくらともみえぬ紅葉の錦かな誰ふたむらの山と言ひけむ
                  (詞花集131番 橘能元)

◎ 風吹けばよそになるみのかたおもひ思はぬ浪に鳴く千鳥かな
                (新古今集649番 藤原秀能)
 
◎ よる浪もあはれなるみのうらみさへ重ねて袖にさゆるころかな
                  (後鳥羽院 後鳥羽院集)

◎ 祈るぞよわが思ふこと鳴海潟かたひく汐も神のまにまに
                   (阿仏尼 十六夜日記)

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     (2)伊勢からの旅

玉くしげあけて見つれど朝ぼらけ二見の浦はなほ浪ぞ寄る
                (大弐高遠集 藤原高遠)

夕づく夜おぼつかなきを玉くしげ二見の浦はあけてこそ見め
                  (古今集 藤原兼輔)

月やどる波のかひにはよるぞなきあけて二見をみるここちして
      (岩波山家集238P聞書集 西行)

このように詠われていた伊勢二見及び伊勢を離れて、西行は二度目
の陸奥までの旅に出ます。69歳という老境になってからの旅であり、
菩提山上人などにも、再びめぐり合うことのない惜別の挨拶をして
旅立ちました。

めぐりあはで雲のよそにはなりぬとも月になれゆくむつび忘るな
            (岩波山家集77P秋歌・西行法師家集)

吾妻鏡によると文治二年(1186)8月15日に鎌倉で源頼朝と会談して
いるという記述がありますので、伊勢を発ったのは7月下旬頃だろう
とみていいでしよう。伊勢から鎌倉までは陸路で約400キロほど
あります。
伊勢からのルートは海路を三河の伊良湖岬に渡ったものか、それ
とも陸路をたどったものか記録がありません。歌から類推すること
も不可能です。
白州正子氏の「西行」では海路を取って伊勢から三河の渥美半島の
伊良湖に渡ったと断定されていますが、そのように断定するだけの
確証はありません。
二度目の旅におけるものと解釈できる歌は伊勢以後は遠江の国の
「さやの中山」の歌までないですから、伊勢から「さやの中山」
までのルートは不明とみなすべきだと思います。だから海路、陸路
のどちらも可能性があるということでいいと思います。

陸奥までの旅の目的は東大寺の大仏に鍍金するための金の拠出を
藤原氏に要請するという公的な性質を持っていました。
源頼朝も東大寺の再建には熱心でした。1185年には米一万石、砂金
一千両、絹一千疋を東大寺に寄進して、造営費に当てさせています。
8月15日の西行との会談では、当然に東大寺再建のことについても
話し合われたのではないかと思います。

鎌倉から平泉までの距離はだいたい510キロですので、老年という
ことを考えても一ヶ月もあれば到着します。8月16日に鎌倉を発て
ば、9月の中頃には平泉に到着していたでしよう。この時の旅は
物見遊山の旅ではなくて、ひたすらに平泉を目指しての旅であった
はずであり、藤原秀衡と面談して目的を果たして、すぐに京都に
帰ったものと思われます。

所要日数の参考のために阿仏尼とシーボルトの例をあげます。

○ 十六夜日記の阿仏尼

 1279年。京都→垂井→箱根→鎌倉。13日間

○ シーボルトの江戸参府

 1826年。京都→鈴鹿→箱根→品川 (約500キロ)17日間

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   (3)伊勢からの推定順路

○ 伊勢から尾張領内までの東海道

 度会駅(伊勢市)→飯高駅(松阪市)→市村駅(津市)→鈴鹿駅
(伊勢国府)→河曲駅(鈴鹿市)→朝明駅(四日市市)→榎撫
(えなつ)駅(桑名郡多度町)→馬津駅(愛知県津島市)→新溝駅
(名古屋市中川区)→両村駅(愛知県豊明市)

榎撫駅(桑名郡多度町)までが伊勢領内、馬津駅からは尾張領内
です。渡会駅から両村駅までの総距離は144キロです。
当時は桑名から宮(熱田)までの七里の渡しはありません。(注1)
木曽川や揖斐川の渡河は榎撫駅から馬津駅まで渡し舟を利用して
いました。 

ついでに行程距離について書いておきます。距離数は(吉川弘文館
発行、武部健一氏著「古代の道」)のデータから算出しました。

伊勢度会駅から尾張両村駅まで  144キロ
伊勢度会駅から浜田駅まで    399キロ(鎌倉の近く)
浜田駅から常陸国府まで     160キロ
常陸国府から松田駅まで     121キロ(東山道の駅)
東山道松田駅から磐井駅まで   226キロ
浜田駅から磐井駅まで      507キロ

陸奥の磐井駅から平泉までにも少しの距離があります。
伊勢から平泉までは900キロを越える距離があります。
こうして具体的な距離にしてみると、よく歩けるものだなあーと
いうのが素直な感想です。ただ、二度目の旅は高齢でもあり馬を
利用した可能性もあると思います。

(注1)

(七里の渡し)
江戸時代になって徳川氏は東海道の整備を進めました。江戸日本橋
が基点、京都までの間に53箇所の宿場を制定し、何箇所かの関所も
設けて、街道の実効支配をするようになりました。東海道の総距離
は500キロを少し越えています。
ちなみに延喜式における東海道の宿駅は京都から大井駅「東京品川」
までは31駅しかありません。ともに鈴鹿路です。
江戸時代の東海道で、尾張の宮宿(熱田神宮)から伊勢の桑名宿
までは海上七里の渡し舟での移動が本路となりました。朝7時半頃に
出港して11時過ぎに到着ということですので約4時間の行程です。
これとは別に脇路の「佐屋路」があって、これは木曽川などの大小
の河川が伊勢湾に注ぎ込む水郷地帯の横断になります。こちらの方
も河川は渡し舟で越えるしか方法がありません。「三里の渡し」
などとも呼ばれますが、平安時代の東海道は木曽川、揖斐川、長良
川の集中する水郷地帯を通りますので、当然に西行も渡し舟で伊勢
から尾張に入ったはずです。
江戸時代中期、このあたりの治水工事のために鹿児島藩は塗炭の
苦しみを味わいました。「宝暦の治水」として有名です。
 
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   (4)愛知県の西行歌碑

1 愛知県知多郡東浦町
 JR武豊線東浦駅下車。徒歩15分ほどの海岸近くに建立。
  
 「波洗ふころもが浦の袖貝を みぎわに風のたヽみおくかな」

2 愛知県豊田市花園町
 名鉄三河線三河八橋駅下車。駅の少し東の養寿寺の境内。

 「しぐれ降る花苑山に秋くれて にしきの色をあらたむるかな」

3 愛知県知立市八橋町
 名鉄三河線三河八橋駅下車。逢妻川を越えて徒歩10分ほどの知立
 文化会館の前庭に建立。

 「五月雨は原野の沢に 水みちていづく三河のぬまの 八橋」

4 愛知県小牧市北外山
 名鉄小牧線小牧駅もしくは小牧口駅下車。近くの桜井会館の前庭。

 「小芹つむ 沢の氷の ひまたへて 春めきそむる 桜井の里」

(以上は岡田隆氏著作の「歌碑が語る西行(三弥井書店)」から
全面的に引用しました。氏のような先学がいることを、とても
うれしく思います。市町名は合併前のものです。)

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  (5) 雑感

西行が伊勢を離れてからの最初のマガジンをお届けします。
このマガジンも伊勢から旅立ったのはいいのですが、さて私はうま
く陸奥までたどり着くことができるでしようか。未知の領域に足を
踏み出したことになり、資料も乏しくて、心もとない限りです。
それでもまあ、なんとか続けてみます。
西行の足跡を追って平泉までの道筋を実際に歩いてたどったわけ
でもありませんので、実際に歩いたことで発見できるもの、納得
できるものが私にはありません。
必然としていくつかの思い違いなどによるミスも犯すかと思います
が、ご海容願います。ミスがあれば、ご指摘していただければ、
とても助かります。

梅雨の季節はことのほか紫陽花が気になります。これほど梅雨の
季節に似合う花も無いのではないかと思います。
カタカナ表記の「アジサイ」よりも漢字表記の「紫陽花」のほうが
情趣が感じられて、ふさわしいと思います。
紫陽花といえば近くの桂高校でも「ニューバース桂」という品種を
作り出したそうです。私には新鮮な情報でした。すごいなーと、
素直に感心しています。サイトは以下です。

http://kawa-ese.hp.infoseek.co.jp/azisai-katura/katura_h1.html