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  ■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■ 

   第 二 部         vol.14(不定期発行)  
                    2006年7月20日発行

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こんにちは。阿部です。
一ヶ月以上に及ぶ梅雨の季節が続いています。今年は降雨が少な
くて、このままでは琵琶湖の水位低下も懸念されると思いましたが、
祇園祭をはさんでのまとまった降雨がありました。
豪雨による被害も報道されていて、まことに痛ましい限りです。
これ以上の被災が無いようにと願うばかりです。

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   ◆ 西行の京師 第二部 第14回 ◆

  目次 1 三河の歌(1)
     2 高石・高師の歌について
     3 八橋
     4 二村山について
     5 雑感

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    (1)三河の歌(1)

1 こぎいでて高石の山を見わたせばまだ一むらもさかぬ白雲
             (岩波山家集234P聞書集・夫木抄)

2 朝風にみなとをいづるとも舟は高師の山のもみぢなりけり
 (岩波山家集276P補遺・夫木抄)
      
3 さみだれは原野の澤に水みちていづく三河のぬまの八つ橋 
              (岩波山家集273P補遺・夫木抄)

イ しぐれそむる花ぞの山に秋くれて錦の色もあらたむるかな
               (岩波山家集88P秋歌・夫木抄)

ロ 三河なる二村山をわかれては此世もわれもあらじとぞおもふ
                       (夫木抄?)

○高石の山・高師の山
和歌に詠われてきた「高石・高師」については、現在の大阪府
高石市と愛知県豊橋市高師町の二ヶ所があります。

○一むらもさかぬ白雲
桜を「白雲」に見立てています。遠景では白雲のように見える桜の
花が一群れも咲いていないという、桜の咲く前の季節を表しています。
下の歌のように、「白雲」を桜の暗喩として用いている西行歌は
10首ほどあります。

  おしなべて花の盛に成にけり山の端ごとにかかる白雲
                 (岩波山家集30P春歌)

  吉野山一むらみゆる白雲は咲きおくれたる櫻なるべし
                 (岩波山家集35P春歌)

○とも舟
友舟。高師の港を一緒に出港した僚船のこと。

○原野の澤
「原野=はらの」は固有名詞ではなくて、普通名詞の「原野」で
あり、「野原」のことだと思います。野原にできた「沢」という
解釈で良いと思います。

○いづく
(いずこ)と同義。場所を指す言葉として(どこか?)ということ。
「いづく三河のぬまの八つ橋」とは、水の中に没してしまった八橋
は一体、どこにあるのだろうか・・・という意味です。

○三河
旧国名で、現在の愛知県東部を指します。古い時代は「参河」の
文字が当てられています。矢作川・豊川・男川の三つの川がある
ことによって三河の地名となったという説が有力です。
三州と言われました。岡崎は徳川家康ゆかりの地として有名です。
現在の愛知県は、古くは穂の国(東三河地方)、三河の国、尾張の
国に分かれていて、穂の国と三河が併合し三河の国、明治時代に
なって、紆余曲折を経ながら愛知県となりました。

○ぬまの八つ橋
五月雨のために水かさが増えて、沼のようになった場所にある八橋
ということです。ここでは八つの橋という意味ではなくて(八橋)
という地名を指しているものと思います。

○(イ)の歌の「花園」について
この歌にある「花園」は山城(京都)にある花園を指していると
みられています。しかし確定できないというのが本当のようです。
昭和47年、大学堂書店刊行の「平安和歌歌枕地名索引」によると、
「花園」は三河の国の歌枕ということです。

新潮版山家集     場所の特定はなし
和歌文学大系21    場所の特定はなし
山家集全注解    (京都市北。愛宕郡花園村)
伊藤嘉夫氏校注山家集(愛宕郡岩倉村の南)

窪田章一郎氏は(西行の研究)の中で「しぐれそむる」歌は第一期
の歌と推定できるとされています。第一期とは23歳で出家するまで
と区分されていますので、その時代の西行の生活圏は京都が中心
でしたから、三河の「花園」ではなく、京都の「花園」とみなして
良いと思います。
花園については「西行の京師」40号に少し詳しく記述しています。
三河の花園についてはよく分かりません。一説に豊田市花園町を
指しているとあります。花園町にある養寿寺には「しぐれそむる」
の歌碑があります。

○(ロ)の歌について
東海道名所図会の二村山の項に(ロ)の歌があります。夫木抄に
あるとのことですが確認できませんでした。この歌は夫木抄のみ
にあり(?)他の資料にはありません。

(1番歌の解釈)

「船を漕ぎ出して高師の山を見わたすと、まだ一固まりも咲か
 ない、白雲のような桜は。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(2番歌の解釈)

「朝風を受けて港を出て行く友舟(連れ立ってゆく舟)は高師の
山の紅葉が風のために水の上に散らばっているように美しく見えて
いるよ。」
        (渡部保氏著「西行山家集全注解」から抜粋)

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◎ 雲のゐる梢はるかに霧こめて高師の山の鹿ぞ啼くなる
                 (鎌倉右大臣 新勅撰集)

◎ 猶しばし見てこそゆかめたかし山ふもとにめぐる浦の松原
                  (藤原為氏 続古今集)

◎ しら浪のたかしの山のふもとよりま砂ふきまきうらかぜぞふく
                (祝部成茂 風雅集1708番)   

◎ 駒とめてしばしはゆかじ八橋のくもでにしろきけさの淡雪
                   (順徳院 順徳院集)

◎ 関路こえ都恋しき八橋にいとどへだつる杜若かな
                  (藤原定家 拾遺愚草)

◎ ささがにの蜘蛛手あやうき八橋を夕暮かけて渡りかねつる
                  (阿仏尼 十六夜日記)

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   (2) 高石・高師の歌について

「高石」「高師」は資料により、三河の国と和泉の国に分かれて
います。たとえば1番歌は伊藤嘉夫氏校注山家集では大阪府高石市、
和歌文学大系21では愛知県の高師となっています。

1 (和泉)現在の大阪府高石市
2 (三河)現在の愛知県豊橋市高師町

高石市のほうは万葉時代からたくさんの歌に詠み込まれています。
「高師の浜」の用例がほとんどで、「高師の山」とする用例は歌
では見つかりません。文章では高野山との関係で「高師の山」が
記述されていますから、和泉の国の高師の山で間違いないものと
思います。しかし和泉の国の「高師の山」とは、どの山を指すのか
私には分かりません。

一方、三河の高師は更科日記に「高師の浜」の記述がありますが、
歌には「高師の浜」の用例は私の知る限りは一首のみです。
ほぼ「高師の山」として用いられています。
そのことを考えると、ともに可能性があると認めた上で、乱暴では
ありますが、(浜)の場合は和泉の国の「高石」、(山)の場合は
三河の国の「高師」と考えてもいいのではなかろうかと思います。

1、2首ともに「山」ですから、ほぼ三河の高師の歌だろうと思い
ます。「高師」は愛知県豊橋市高師町に現在も地名が残っていて、
高師山は標高60メートルほどの丘ということです。

(大阪府高石市の歌)

 大伴の高師の浜の松が根を枕き寝れど家し偲はゆ
                  (置始東人 万葉集巻一)

 音に聞く高師の浜のあだ波はかけじや袖のぬれもこそすれ
            (裕子内親王家紀伊 百人一首第72番)

 沖つ波たかしの浜の浜松の名にこそ君を待ちわたりつれ
                  (紀貫之 古今集915番)

(豊橋市高師と高師の西行歌)

愛知県豊橋市にある高師町は渥美半島の根元に位置しています。
前号に触れた二村山からは50キロ程度の距離にあります。

私見ですが、1番歌、2番歌ともに三河の高師に遊覧しての実景歌
だと思います。1番歌は伊勢在住時代に渥美半島に渡って詠んだ歌
だろうと思います。聞書集に収められているということ、季節は
春先だということを考え合わせると、伊勢在住時代に詠まれた歌
だと推定していいと思います。

2番歌も陸奥までの旅の途中の遊覧ではなくして、伊勢時代の歌
ではなかろうかと思います。僚船を仕立てて一緒に高師の港を
出たということは、懇意にしている人々との遊覧を思わせるから
です。仮に高野山を離れてから住んだ伊勢時代の歌ではないとして
も、伊勢の人々との交友を思わせる一首です。

二度目の高齢になってからの陸奥までの旅の時には、伊勢から陸路
をたどったのであれば、一路鎌倉を目指したはずです。その行程は
二村山からは現在の豊明市、知立市、安城市、岡崎市、豊川市、
豊橋市になるかと思います。大部分が名鉄名古屋本線のルートと
重なります。
そして豊橋市の高師に着いたとしても、船を仕立てて遊ぶような
時間的余裕もなく、そういう心境にもなかったものと推察します。

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    (3)八橋

三河の国にある地名。現在の愛知県知立市八橋。
当時の東海道筋のすぐ近くにありました。

「伊勢物語」によって有名になり、その後、八橋は地名となった
(愛知県の歴史散歩下)ようです。
しかし、伊勢物語の文章を読むと、伊勢物語に記述される以前から
「八橋」だったものと思われます。

「三河の国八橋といふ所にいたりぬ。そこを八橋といひけるは、
水ゆく河の蜘蛛手なれば、橋を八つわたせるによりてなむ八橋と
いひける。その沢のほとりの木の陰におりゐて、乾飯食ひけり。
その沢にかきつばたいとおもしろく咲きたり。それを見て、ある人
のいはく、「かきつばたといふ五文字を句の上にすゑて、旅の心を
よめ」といひければ、よめる、

 から衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬるたびをしぞ思ふ
               (「伊勢物語」第九段から抜粋)  

伊勢物語は在原業平(825〜880)らしき人物を主人公にした歌物語
です。物語中にある歌の多くが実際には業平作ではないようですが、
句の初めをつなぎ合わせると「かきつばた」となる折句で有名な
この歌は、確実に業平の作と見られています。古今集採録歌です。

更級日記の1020年の記述では、

「八橋は名のみして、橋のかたもなく、なにの見どころもなし。」
と素っ気無く記述されています。

他に何人かの人が八橋について記述していますが、橋はあったり
なかったりです。
西行の旅においても八橋には二度は行ったと思いますが、「さみだ
れの・・・」歌しか残されていません。この歌は山家集からは洩れ
ていますが、初度の陸奥行脚の時の歌の可能性があります。

八橋は業平伝説の地として有名になって、現地の実際の光景とは
関わりなく想像の世界として一人歩きするようになりました。
後世、屏風絵などにも八橋の光景は描かれるようになりましたが、
もちろんそれは業平の昔を偲んでの、屏風絵などの作者が勝手に
創出したファンタジーの世界であるといえます。

知立市八橋にある「無量寿寺」が業平伝説を伝えているそうです。

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    (4)二村山について
 
先回の13号で二村山のことを少し記述しました。詳述するだけの
自信がなくて多くは書けませんでしたが、今号で補完的に記述して
みます。
東海道名所図会から抜粋してみます。

≪「和名抄」に「尾張の国山田郡両村」と云々。契沖「吐懐編」
に、「和名抄」によれば三河にはあらぬや。但し「詞花集」には
確かに三河とあり。按ずるに、この歌は橘能元(能因の曾孫)にて、
詞書に武蔵の国より登り侍りけるに、三河の国二村山の紅葉をみて
よめるなるべし」とあり。一説に猿投山(さなぎやま)ともいう。
また拳母里の東北にありとなん。今さだかならず。≫

東海道名所図会は秋里籬島によって1797年に刊行されました。
当時でさえ「今さだかならず」と記述されているように、歌枕と
しては江戸時代においても場所の特定はできなかったものでしよう。

二村山は三河の歌枕ともいわれています、13号に紹介した橘能元
の歌の詞書も詞花集では確かに「三河」とあります。

三河の岡崎市本宿町にある法蔵寺は山号を二村山といいます。お寺の
山号名のみなのか、それとも古代には法蔵寺近辺に実際に二村山と
呼ばれている山はあったものなのか、よく分かりません。

歌に詠われている二村山は豊明市にある二村山が圧倒的に多いと
思います。ですが、遠江国と三河の国の国境に近い「塩見坂」付近や、
「高師山」や「宮路山」なども二村山とみなされて誤まって記述
されたという資料もあって、二村山とはどこなのか私にも断定は
できかねるというのが実情です。
尾張の国二村の、たかだか70メートルほどの小丘を「山」というには
違和感も覚えます。
三河と尾張の境界が二村の近くの境川と定められたのは、永禄4年
(1561年)ともいいますし、それ以前の1235年にも尾張と三河の
国境に変動があったということをウエブサイトで知りました。
それでも律令の時代から両村(二村)は尾張の国領であったことは
間違いないものです。

私なりの結論として、歌で「二村山」と詠われた山は三河の国と
尾張の国の両方にあり、三河の国の二村山は特定不可だということ
です。

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    (5)雑感

内情を打ち明けます。古語辞典、日本語大辞典、広辞苑などを
含め15冊以上ほどの書物をパソコンの回りに広げて、参考にしな
がら、このマガジンと「西行辞典」の稿を打ち込んでいます。

発信する者としてはミスは犯してはならないし、できるだけ正確に
お伝えしたいと腐心しています。それでも800年以上も前のことを
取り上げているわけですし、時代の懸隔によって起こりえるさま
ざまな相違点は結果的にどうしても記述ミスに結びつくものです。

前号記述の「二村山」のことは私にはミスいう認識はありません
でしたが、記述がやや簡略であったとは思います。それで今回も
二村山のことに少し触れることにしました。

時代の変遷にしたがって二村山自体がよく分からなくなったという
ことが実態のようです。現在の豊橋市の高師山を二村山と混同して
いる資料もあるということです。江戸時代には徳川家の関係で山号
を「二村山」とする三河の法蔵寺が崇敬を受け、そのために二村山
歌は三河の歌枕としても見られているようです。

こうなってみれば、正確なことなど私に分かるはずもないとも言え
ますが、できるだけ多くの資料にあたり正確を期したいと思います。
たまたまミスがあって、それにお気づきの方はお知らせ願います。

今号の(1)の最後に紹介した歌のうち4首の確認が取れていません。
風雅集と十六夜日記は手元にありますので確認済みです。
図書館にも行かず、かつ、ネットでの検索も苦手ですが、今後は
図書館を活用したいと思います。拙宅の近くには区の図書館しか
なく蔵書量も乏しいものですから、大きい図書館に行ってみます。

次号は伊良湖の歌についてです。お盆を過ぎてからの発行となり
そうです。

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