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  ■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■ 

   第 二 部         vol.16(不定期発行)  
                    2006年9月18日発行

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こんにちは。阿部です。
9月18日現在、台風13号が九州や中国地方で大きな被害をもたらせて
います。すでに10名近い方がなくなられています。残念なことです。
自然災害の脅威をまざまざと思わせます。
突然に命を奪われた方は、いかほどに口惜しいことだったか・・・
言葉もありません。
被災はできるだけ軽微であることを祈るばかりです。

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   ◆ 西行の京師 第二部 第16回 ◆

  目次 1 遠江の歌
     2 小夜の中山
     3 遠江の国の推定順路
     4 遠江の国の主な歌枕
     5 雑感 

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   (1) 遠江の歌

1186年7月末頃、遅くても8月初めには伊勢を出発した西行は尾張、
三河と過ぎて遠江(とおとうみ)の国に入ります。遠江の国は
現在の静岡県西部を指します。
遠江の国の歌は下の一首のみしかありません。この歌が再度の旅で
伊勢を出てからのものであると分かる初めての歌です。
「西行物語」では、遠江の国の出来事として「天中の渡り」での
事件が書かれています。

  あづまの方へ、相知りたる人のもとへまかりけるに、さやの
  中山見しことの、昔になりたりける、思ひ出でられて

1 年たけて又こゆべしと思ひきや命なりけりさやの中山
     (岩波文庫山家集128P羇旅歌・西行上人集・新古今集)

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○あずまの方
 平安時代は基本的には京都から見て東のことであり、逢坂の関
 以東は「東」となります。ここでは伊勢が出発地ですし、伊勢
 より東を指していると解釈できます。

○相知りたる人
 陸奥の藤原秀衡のことです。初度の陸奥行脚のときに面識が
 できていたことを表しています。

○さやの中山
 静岡県掛川市にある地名です。鈴鹿、箱根とともに東海道の難所
 でした。遠江の歌枕。
 地名としては「さよの中山」ではなく「さやの中山」と呼ぶのが
 正しいようです。ただし歌の場合は「さよの中山」と詠われて
 いる歌が多くあります。

○昔になりたりける
 出家して数年後の初度の陸奥旅行のときにも「小夜の中山」を
 たどったことを表しています。ほぼ40年前のことでした。

○年たけて
 69歳という自身の年齢を言っています。「たけて」は高くなって
 ということ。高齢ということを意味します。

○又こゆべし
 再度、小夜の中山の急峻な峠道を越えるということ。このことに
 よって、初度の陸奥までの旅の帰途は東海道ではなくて東山道を
 たどったという、その可能性を思わせます。

○思ひきや
 (思う)の連用形に助動詞(き)と反語助詞(や)の接続した
 もの。
 思ってきたことがあっただろうか・・・というほどの意味。

○命なりけり
 詠嘆のことば。自身のこれまでの来し方を振り返っての、さま
 ざまな思いの凝縮していることば。

(歌の解釈)

 「小夜の中山は歌枕として有名だが、その詠まれている多くの
 例歌からみると、難所で、荒涼として寂しい場所であり、旅の
 寂しさや苦痛が身にしみるところであった。
 西行の詠歌の発想は、しみじみと40年前の旅を想いださせるの
 に十分な孤独感を味わわせる、小夜の中山の風土にあったと思わ
 れる。そして「思ひきや」の表現によって、ふたたびこの地に
 くることができたという喜びが内包されている。しかし、この
 一首からうけるはげしい感動のみなもとは、「命なりけり」に
 凝集されたところにある。すなわち、西行自身、わが心をみつめ
 て、生きながらえているわが命を実感し、それを喜び感動して
 いる心と姿が、読者に強く訴えてくる迫力になっているのだと
 思われる。(中略)
 景物としての、伝統的な小夜の中山を詠んだだけのものでなく、
 伝統的な歌枕の地で、西行がわが命を直視した結果から生まれる
 喜びの、感動の詠出であったと理会したい。」
          (集英社刊 有吉保氏著「西行」から抜粋)

 「長い人生の時間を一瞬にちぢめてのはげしい詠嘆とともに、
 また、ここまで年輪を刻んできた自らの命をしみじみと見つめ
 いとおしんでいる沈潜した思いが、一首にはある。調べも、そう
 いう内容にふさわしく、反語を用いての三句切れの後、さらに第
 四句でもするどく切れるという、小刻みに強い調べによって激情
 を伝えた後、名詞止めの結句によって、そういう激情はしっかりと
 受け止められているのである。(中略)
 「命あればこそ」の感慨は50歳を過ぎた西行の心中でいよいよ深
 まりつつあったのだと思われるが、その後さらに十数年を経て、
 思い出の地を通ったとき、その思いはいっそう痛烈に沸いたので
 あった。「命なりけり」、この平凡ではあるが重い感慨を心に深く
 いだきつつ、老いたる西行は、すでにはるかに過ぎてきた自らの
 人生の旅路を思ったのである。」
         (彌生書房刊 安田章生氏著「西行」から抜粋)

 「西行は自分の生命の不思議さに感動しているのだ。東大寺の
 あの毘盧舎那大仏をふたたび燦然と輝かせるために、今この老身
 をひきずって小夜の中山を越えようとしているわが身に対して、
 その驚くべき自分の役割に感動しているのである。(中略)
 小夜の中山の地名には、夜の中山を越えて夜明けへと向かって
 行くイメージがある。源平の争乱による亡者が続々と死出の山を
 越えて地獄の闇の底へ沈んで行く愚かさを西行が怒りをこめて
 歌っていたことはすでに述べたが、その同じ人間の愚かな戦乱に
 よって輝きを失い闇の中に身を隠した盧舎那大仏が、もう一度
 西行の勧進によって光明遍照の輝きを顕現するとすれば、それは
 西行にとってまさに千載一隅の限りない喜びであったろう。それが
 「命なりけり小夜の中山」の感動表現であった。」
     (春秋社刊 高橋庄次氏著「西行の心月輪」から抜粋)

 「「命なりけり」は「春ごとに花の盛りはありなめどあひ見む
 ことは命なりけり」「古今集巻二、よみ人しらず」が先行例で
 あるが、西行のそれには老齢で遠い陸奥への旅路であること、
 「さやの中山」の歌枕を越えることの切実な感慨、そういう
 ことが託されているのであろう。「身を捨ててこそ身をも助けめ」
 と詠って俗世を離れて以来、見まいとしても見ざるを得なかった
 人間曼荼羅の葛藤が心をかすめ、自分ひとりが生き残っている
 ような気持ち(中略)
 調べは流動して、三句の反語法も浮き上がらずに、四句の内容に
 強く転じてゆく。そして四句切で詠嘆。以上の全体をささえる
 結句の名詞止めの響きが、瑞々しくて高い。傑作である。」
      (河出書房新社刊 宮柊二氏著「西行の歌」から抜粋)

 「四十年以上も前に、はじめて小夜の中山を越えたことを憶い出して、
 はげしく胸にせまるものがあったに違いない。その長い年月の経験
 が、つもりつもって「命なりけり」の絶唱に凝結したのであって、この
 歌の普遍的な美しさは、万人に共通するおもいを平明な詞で言い
 流したところにあると思う。(中略)
 私の若い頃はまだ難所の赴きを多分にとどめており、特に頂上近くの
 急カーブは、車で行くと肝を冷やしたものである。そんなことももう知って
 いる人は少なくなったであろう。この度訪れてみて、まつたく景色が一変
 したことに私は驚いた。頂上の神社は昔のままだが、周囲は開墾されて
 なだらかな茶畑と化し、舗装された道路には危険な箇所など一つもない。」
              (新潮社版 白州正子氏著「西行」から抜粋)

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◎ 甲斐が嶺をさやにも見しが けけれなく横ほり臥せるさやの中山
                (よみ人しらず 古今集1097番)

◎ 故郷に聞きしあらしの聲も似ずわすれぬ人をさやの中山
                 (藤原家隆 新古今集954番)

◎ 雲かかる都の空をながめつつけふぞこえぬるさやのなかやま
                       (慈円 拾玉集)

◎ 枕にもあとにも露のたまちりてひとりおきぬるさよのなかやま
                   (藤原良経 秋篠月清集)

◎ 袖枕しもおくとこの苔のうへにあかすばかりのさよのなかやま
                      (源実朝 金槐集) 

◎ 都いでしその月影のめぐりきてまだありあけのさよのなかやま
                   (藤原雅経 明日香井集)

*(平安和歌歌枕地名索引)に採録されている「小夜の中山」歌は
 52首に及びます。このうち「さや」歌が33首、「さよ」歌が
 19首となっていて、当時でも歌に詠み込む場合は「さや」「さよ」
 のどちらでも良かったものと思います。
 物事がさやかに分明する意味で用いる場合は「さや」、夜の暗さ
 に掛けて用いる場合は「さよ」と歌人たちは使い分けていたよう
 です。西行の歌も「さや」ではなくて「さよ」に分類されて
 います。

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   (2)小夜の中山

○ さや-のーなかやま【佐夜ノ中山・小夜ノ中山】

 静岡県掛川市東部の峠。標高およそ200m。旧東海道の難所。
 「夜泣石」の伝説で知られる。さよのなかやま。
                  (国語大辞典から抜粋)

○ さや-のーなかやま【佐夜ノ中山・小夜ノ中山】

 静岡県南部、掛川市と金谷町を結ぶ途中にある坂路。曲折し左右
 に深い谷がある。さよのなかやま。(歌枕)
                 (広辞苑第二版から抜粋)

○ 小夜の中山

 二十四日、ひるになりて、小夜の中山こゆ。ことのままといふ
 やしろのほど、もみぢいとおもしろし。山かげにて、あらしも
 およばぬなめり。ふかく入るままに、をちこちのみねつづき、
 こと山に似ず、心ぼそくあはれなり。ふもとのさと、菊川といふ
 所にとどまる。

  こえくらすふもとのさとのゆふやみに松風おくるさよのなかやま

 あかつき、おきて見れば月もいでにけり。

  雲かかるさやの中山こえぬとはみやこにつげよ有明の月

               (阿仏尼 十六夜日記から抜粋)

○ 小夜の中山

 小夜の中山は、古今集の歌に「よこほりふせる」とよまれたれば、
 名高き名所なりと聞きおきたれどもみるにいよいよ心細し。北は
 深山にて、松杉嵐烈しく、南は野山にて秋の花露しげし。谷より
 嶺に移る道、雲に分け入る心ちして、鹿のね涙を催し、蟲の恨
 あはれふかし。

  踏みかよふ峯の梯とだえして雲に跡とふ佐夜の中山

               (作者不詳 東関紀行から抜粋)

○ 小夜中山

 おそらくは「狭谷(さや)の中山」というのが本来の名であった
 のだろう。
      (片桐洋一氏著「歌枕歌言葉辞典増訂版」から抜粋)

掛川市を中心とした一帯は古来、佐益郡(さやのごおり)と呼ばれ
ていました。続日本紀に見えます。また延喜式では(佐野)の文字
も当てられていて、(さや)(さの)と読みました。
この佐野郡は明治になってから郡名変更されています。
                  (掛川市史資料集を参考)

以上からみて、「小夜の中山」は、佐野郡(さやのごおり)に
ある中山という意味だろうと解釈できます。
 
明治初期になって(小夜の中山)の北に、新しく(中山新道)が
作られて利便性が良くなりました。現在の小夜の中山は、旧東海道
のうち3キロほどの距離を利用してハイキングコースとして整備され、
西行歌碑も立てられています。

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   (3)遠江の国の推定順路

 遠江猪鼻駅(静岡県浜名郡新居町)→栗原駅(浜松市若林町付近)
 →引摩駅(磐田市東町付近)→横尾駅(掛川市中宿付近)→
 初倉駅(島田市阪本付近)

以上が延喜式での遠江の国の東海道の駅です。初倉駅は島田市です
が大井川の右岸にあり、遠江の国となります。
遠江の国内の駅間総距離は69.2キロです。

 (江戸時代東海道の遠江の国の宿場)

 白須賀→新居→舞坂→浜松→見付→袋井→掛川→日坂→金谷

猪鼻駅の東に(江戸時代の宿では新居宿の東)に浜名川の渡しが
あります。しかしここに掛けられていた長さ170メータほどの浜名橋
はたびたび壊れては架け替えられていました。西行の陸奥までの旅
では渡し舟で越えたか、橋を渡ったかは不明です。
この浜名橋については更級日記や十六夜日記に記述があります。
1498年の地震で地形が変わって遠州灘と浜名湖が通じてしまいま
した。それからは湖上一里を渡し舟で越えることになりました。
渡し舟では、もちろん、代金が必要でした。

栗原駅と引摩駅の間(江戸時代では浜松宿と見付宿の間)に急流で
有名な天竜川(西行時代には天中川)が流れています。
天竜川(古代には広瀬川とも)は浜松市と磐田市の堺です。
「天中の渡し」として、舟や筏での渡しとなります。

 「二十三日、てんちうのわたりといふ、舟にのるに、西行が
 むかしも思ひ出でられて心ぼそし。くみあはせたる舟ただひとつ
 にて、おほくの人の往き来に、さしかへるひまもなし。」
              (阿仏尼 十六夜日記から抜粋)

阿仏尼の時代にはすでに「西行物語」ができて人々に読まれて
いたことが分かります。

「小夜の中山」は、横尾駅と初倉駅の間にあります。(江戸時代
では日坂宿と金谷宿の間)西行の時代の東海道は小夜の中山を越え
てから金谷には行かないで菊川の坂を南下して、大井川の渡しを
越えていました。この大井川が駿河と遠江の境界です。

 (阿仏尼)
 1222年〜1226年頃の出生。1283年4月没。実父母は未詳。
 安嘉門院(後高倉院の邦子内親王)に仕えて安嘉門院四条、安嘉
 門院越前、右衛門佐などと呼ばれていたようです。
 1253年以降に藤原定家の子である為家の側室となって為相、為守
 を産んでいます。この為相が今日まで続いている冷泉家の祖と
 なります。ちなみに、為家は正室である宇都宮頼綱の娘との間に
 数人の子女を設けていましたが、この頃には離縁していたよう
 です。
 嫡子為氏は二条家、三男為教は京極家を興して御子左家は分裂
 しましたが、二条家、京極家ともに後に断絶しました。
 阿仏尼の鎌倉下向は為家の所領であった播磨の国細川荘の帰属を
 巡っての嫡男為氏との相続争いが原因です。その訴訟の裁定の
 ために鎌倉まで下向しましたが、その紀行文が「十六夜日記」と
 して結実しました。1279年10月16日に都を出発したことによって
 表題となりました。鎌倉着は29日。14日間の道中でした。
 阿仏尼は鎌倉で没したとも、また、京に帰ってから没したとも
 言われます。
 「安嘉門院四条百首」、歌論書「夜の鶴」などがあります。

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   (4)遠江の国の主な歌枕

○浜名橋(浜名郡新居町)

◎ 白波のたちわたるかとみゆるかなはまなのはしにふれる初雪
                (前斎院尾張 金葉集298番)

○小夜の中山 (掛川市佐夜鹿)

◎ こしかたのさかひやいづこあともなしおぼろ月夜のさやのなかやま
                   (順徳院 順徳院集)

○引馬野 (浜松市?磐田市?)

◎ かり衣みだれにけらしあづさゆみひくまののべの萩のしたつゆ
               (式子内親王 式子内親王集) 

* 「引馬野」については五代集歌枕、八雲御抄ともに三河の歌枕
  としています。しかし浜松市には曳馬町があり、古代東海道の
 「引摩駅」は、浜松市東方の磐田市に比定されています。

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   (5)雑感

今号は遠江の歌は一首しかなく、はからずも「小夜の中山」特集と
なりました。
この「小夜の中山」を一度は歩いてみたいと思って、昨日の17日に
予定していたのですが、台風13号のために降雨との予報でしたから
断念しました。しかし近日中にと思います。西行時代の小夜の中山
と現在の小夜の中山では当然に違いがありますが、その違いを認め
た上で、歩いてみるのも一興でしょう。
西行が二度目に歩いた時と現在の私との年齢の開きは丁度10歳あり
ますが「命なりけり」は、あるいは私もまた同じなのかも知れません。
西行のように多感でもなく、表現能力もなく、かつ、ドラマチック
な人生を閲したわけでもありません。それでも「命」は「命」なの
でしょう。残り少なくなった、我が人生の来し方を思いながら、
ゆったりとした気持ちで歩いてみたいと思います。

京都府に住んで45年ほど、そのうち京都市には30年ほどになります。
これほど長く住んでいながら京都のことはあまり知らないという
のが実情です。もっともっと京都について知りたいという思いも
あります。
昨年、天竜寺で「八方にらみの龍」の天井画を見ました。この原画
ともいうべき「雲龍図」が妙心寺法堂にあります。狩野探幽の作に
なります。この秋は、じっくりとこの作品を見たいと思っています。
それにしても妙心寺は何度も行っていながら、未見であることが
不思議です。あるいは、見たことがあったとしても、忘れているの
でしょう。よくあることだと思います。