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  ■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■ 

       第 二 部         vol.17(不定期発行)  
                    2006年10月23日発行

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こんにちは。阿部です。
社会や政治関係ではきなくさい話題が多いのですが、自然とか日常
などについて言えば、秋色が濃厚に漂う日々が穏やかに過ぎている
と言えるでしょう。
季節は緩慢に、しかし確実に移ろい行きます。彼岸の頃に咲く
彼岸花もすでに過去のものとなりました。来月になれば、紅葉
が我々を楽しませてくれます。

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   ◆ 西行の京師 第二部 第17回 ◆

 目次 1 駿河の歌(1)
     2 清見潟・久能・三保
     3 駿河の国の推定順路
     4 駿河の国の主な歌枕
     5 ちょっとした疑問
     6 雑感

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   (1) 駿河の歌(1)

1 清見潟おきの岩こすしら波に光をかはす秋の夜の月
     (岩波文庫山家集72P秋歌・西行上人集・山家心中集・
                    宮河歌合・夫木抄)

   駿河の国久能の山寺にて、月を見てよみける

2 涙のみかきくらさるる旅なれやさやかに見よと月はすめども
               (岩波文庫山家集128P羇旅歌)

3 おなじ月の来寄する浪にゆられきてみほがさきにもやどるなりけり
                   (松屋本山家集秋歌)

4 清見潟月すむ夜半のうき雲は富士の高嶺の烟なりけり
                 (岩波文庫山家集73P秋歌) 

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○清見潟
 駿河の国の歌枕です。後述。

○駿河の国
 現在の静岡県中部から東部を含めた地域です。遠江の国と相模の
 国に挟まれていて、駿府に駿河の国の国府がありました。駿府は
 駿河と国府の合体した地名です。「府中」という地名もかつて
 国府があったという証拠です。
 駿府は後に徳川家康の拠点となり、駿府城が作られます。
                 
○久能の山寺
 久能寺のことです。後述。
 この歌は初度の陸奥への旅のときの歌と断定していいのかもしれ
 ません。再度の旅では、旅の途上のお寺で逗留する時間的な余裕
 などはないと解釈するべきだと思います。ただし断定してしまう
 だけの材料もありません。陸奥までの旅以外にもこのあたりまで
 来た可能性がありますが、その検証は不可能です。

○かきくらさるる
 (掻き暗らさるる)こと。空を暗くする、とか、心が悲しみで
 暗くなる、という意味があります。
 古典的な用い方ではないはずですが、日本語大辞典では
 「掻き暮れる」「掻き昏れる」ともあって、「掻き暗す」とほぼ
 同義です。

○みほがさき
 所在地不詳。「三保」は出雲の国と駿河の国にあり、どちらかを
 特定することはできません。
 駿河の国とするなら、静岡市清水区にある清水港の南東側の地名の
 三保のこと。ここには美しい松並木が続いていて、「三保の松原」
 として有名です。

○富士の高嶺
 富士山のことです。西行作とみられる「富士」の名詞入り歌は
 6首を数えます。詳しくは次号に記述します。

 (1番歌の解釈)

 「清見潟では、沖の岩を越す白波に、秋の夜の月の光が重なり
 合って、いっそう白さが意識されることだ。」
                (新潮日本古典集成から抜粋)

 (3番歌の解釈)

 「毎日泣いてばかりいる旅になってしまった。旅の月は美しく、
 誇らしげに澄んでいるのを見るにつけても感涙で月が曇るの
 だが。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

 (4番歌について)

この歌は西行詠ではなかろうと思います。山家集の秋歌に収めら
れているとはいえ、ほぼ同じ歌が続拾遺集311番に登蓮法師詠と
してあります。

 清見潟月すむ夜半のうき雲は富士の高嶺の烟なりけり
              (岩波文庫山家集73ページ秋歌)

 清見潟 月すむ空の 浮雲は 富士の高嶺の 煙なりけり
              (新潮日本古典集成山家集319番)

 清見潟月すむ夜半のむら雲は富士の高嶺の煙なりけり
                  (登蓮、続拾遺集311番)

これは本歌取りの歌などであろうはずはなく、ほぼ同一歌であると
解釈するべきでしょう。どうしてこういうことになったのかという
と、現在まで伝わる内に書写した人の勘違いなどの理由により、
登蓮法師の詠歌を西行詠歌として山家集に入れたものと思われます。
逆に、西行詠歌を登蓮法師詠歌としたという可能性はほとんどない
と思えます。

登蓮法師の略歴については詳しくは分かっていません。西行と
同時代の歌人で1182年頃の没と言われます。勅撰集歌人であり
家集に「登蓮法師集」があります。
ほぼ同じ時代に成立した「玄玉集」や「歌仙落書」にも、この歌は
登蓮法師の歌としてあるそうですから、西行歌の可能性はほぼない
とみていいでしょう。

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◎ 廬原の清見の崎の三保の浦のゆたけき見つつ物思ひもなし
  (いほはら)          (田口益人 万葉集巻三) 

◎ 清見潟年経る岩にこととはん波のぬれぎぬ幾重ね着つ
                  (阿仏尼 十六夜日記)

◎ きよみがたむら雲はるる夕風に関もる波をいづる月影
                 (藤原良経 秋篠月清集)

◎ きよみがた月にくまなき秋のよは風こそ富士の煙なりけれ
                     (慈円 拾玉集) 

◎ きよみがたふじの煙やきえぬらん月影みがくみほのうらなみ
                 (後鳥羽院 後鳥羽院集)

◎ まちつくるみほのうらなみしづかにてみ船いさよふ秋の初風
                   (藤原家隆 壬二集)

◎ うどはまにあまのはごろもむかしきて
           ふりけんそでやけふのはふりこ
                 (能因 後拾遺集1172番)

◎ 有度浜のあまの羽衣春はきて今も霞の袖やふるらん
                   (藤原家隆 壬二集) 
   
* 有度浜は三保が崎にある地名です。ここには「羽衣の松」の
 伝承があります。天女伝説です。

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   (2)清見潟・久能の山・三保

(清見潟)

現在の静岡市清水区を流れる興津(おきつ)川から西の清水港に
向かっての一帯の海岸線を指します。現在の港湾は人工的に改変、
整備されていますので「潟」と呼ぶべきものは存在しません。

ここには平安時代には「清見が関」がありました。天武朝の679年
に関が置かれたとのことで、関を鎮護するために関のすぐそばに
清見寺(せいけんじ)が建てられたようです。
歌は万葉集にもありますが、平安時代後期になってから清見潟、
清見が関、月、波などの言葉を詠み込んで盛んに詠われました。
月の名所として有名です。
清水潟に南面して、羽衣伝説が伝えられる「三保」があります。

「清見が関は、片つ方は海なるに、関屋どもあまたありて、
 海まで釘貫したり。けぶり合ふにやあらむ。清見が関の浪も
 高くなりぬべし。おもしろきことかぎりなし。」
                   (更科日記から抜粋)

(久能の山)

清水港の少し西に位置し、駿河湾を望む標高216メートルの山。
久能山のすぐ北に標高308メートルの有度山があり、その山裾付近
を「日本平」といいます。有名な景勝地です。

詞書にある「久能の山寺」とは、久能山の山頂にあった補陀落山
久能寺のことです。1568年、武田信玄がこの地に久能山城を築く
ことになり、ために、お寺は清水港近くに移転させられました。
明治になってからの廃仏毀釈の暴挙の影響を受けて、すっかり荒廃
していたお寺を山岡鉄舟が再興しました。以後は「鉄舟寺」と寺名
を変えています。
信玄の久能山城は武田氏滅亡後に徳川氏の支配となります。
1616年、徳川家康が駿府城で死亡すると久能山城は壊されて、
その後に「久能山東照宮」が造られました。

真偽は別にして、久能寺は推古天皇の時代に建立されたとの言い
伝えがあります。奈良時代の僧である行基が旅の途上に立ち寄り、
千手観音像を作って安置して、その像がこの寺の本尊となったよう
です。その本尊は現在は鉄舟寺にあります。

(三保)

清水港を囲むようにして太平洋側に突き出て、湾曲した砂嘴が
「三保の岬」「三保が崎」と呼ばれている所です。清水港の天然の
防波堤の役目をしています。
白砂青松の「三保の松原」は国の名勝になっています。ここには
羽衣伝説があります。この伝説は「駿河風土記」にもあるそうです
から、古くからのものであることが分かります。能因や家隆などの
歌にもあるように、広く知られていたものでしょう。
後世、世阿弥作という謡曲の「羽衣」によって、三保の羽衣伝説は
さらに人々に知られることとなりました。

西行歌には羽衣の歌はただ一首ありますが、しかし三保の羽衣の
こととは関係なく詠われています。

 たなばたの今朝のわかれの涙をばしぼりぞかぬる天の羽衣
          (岩波文庫山家集274P補遺・御裳濯川歌合)

雅楽の「東遊」では三保の羽衣伝説を題材とした「駿河舞」があり、
「駿河舞」は枕草子にも記述されているほどですから、西行が三保
と羽衣伝説の関係について知らないはずはなかったでしょう。それ
なのに三保での羽衣の歌が無いのは不思議です。

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   (3)駿河の国の推定順路

初倉駅(島田市阪本付近)→小川駅(焼津市小川)→横田駅
(静岡市大和)→息津駅(清水区興津中町)→蒲原駅(富士市本市場)
→長倉駅(駿東郡長泉町)→横走(御殿場市駒門付近)→坂本駅
(神奈川県南足柄市)

大井川を越えてから、横走駅までは駿河の国。坂本駅は相模の国の
始めての駅です。当時は東海道の本路は足柄越えのルートでした。
駿河の国には小川駅から横走駅までの6ヶ所の駅がありました。
駿河の国の駅間距離は91.4キロですが、この中には初倉駅から大井川
までの距離も含まれていますので、若干の計算上の誤差があります。

(江戸時代東海道の駿河の国の宿場)

島田→藤枝→岡部→丸子→府中→江尻→興津→由比→蒲原→吉原
→原→沼津→三島

この行程の中で岡部宿と丸子宿の間に宇津の山峠(延喜式では小川駅
から横田駅の間)という難所があります。この峠を越えてから府中に
入り、しばらく行くと清見潟と三保、そして興津川をわたってすぐに
薩た(さった)峠があります。この峠も東海道の難所でした。
(た=変換不可。土遍の右に垂)

富士川の河口及びその西側の海岸線を「田子の浦」といい、山部赤人
の歌で有名です。富士川を渡ってから、愛鷹山の裾野に広がる湿原
が「浮島原」です。その湿原を左に見ながら、松並木沿いの美しい
道(当時は?)をたどって進めば沼津、そして三島に着きます。
さて、これからいよいよ東海道一の箱根山の難所を越えるわけですが、
箱根山越えは箱根路と足柄路の二ルートがあります。箱根路は峻険
ですが距離は短く、足柄路は山裾を迂回するために遠回りとなります。
足柄路が東海道の本路でしたが、江戸時代には箱根道が本路として
整備されたために、足柄路は寂れたようです。

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(宇津の山、蔦の細道)

東海道の難所である宇津の山は「蔦の細道=静岡県志太郡岡部町」
伊勢物語で有名になりました。

 宇津の山にいたりて、わが入らむとする道は、いと暗う細きに、
 つた、かへでは茂り、物心ぼそく、すずろなるめを見ることと
 思ふに、修行者あひたり。「かかる道はいかでかいまする」と
 いふを見れば、見し人なりけり。京に、その人の御もとにとて、
 文書きてつく。

 駿河なる宇津の山べのうつつにも夢にも人にあはぬなりけり
                (伊勢物語第九段)

以後、多くの歌人たちが「宇津の山」「蔦の細道」の名詞を絡めて
盛んに歌を詠んでいます。 

◎ 我がこころうつつともなし宇津の山夢にも遠き昔こふとて
                   (阿仏尼 十六夜日記)

◎ おとにきくうつの社の現にも夢にも見えぬ人の恋しさ
                 (藤原為家 現存和歌六帖)

(最林寺)
宇津の山峠の東側の十石坂に「最林寺」というお寺が明治時代まで
あったようです。西行山最林寺といい、西行が安置したという千手
観音が本尊とのことです。西行像もあって、その像は岡部町が管理
しているとのことです。

(薩た(さった)峠)

興津川を渡ってから由比宿との間にある(薩た峠)については良く
分かりません。(古代の道)では「延喜式」に記載のある東海道の
ルートとのことですが「薩た峠」という名称になったのが平安時代
末頃との説もあり(静岡県の歴史散歩)、そうであれば延喜式に
記載があろうはずはありません。薩た山は、それ以前は磐城山と
言っていましたので、(古代の道)の著者が、旧名の磐城山の名称
をあえて用いず、(薩た峠)と記載したものだろうと考えられます。

山自体は標高90メートルということですが、この峠越えは「健脚を
もってしても小半日を要する(歴史と旅「日本街道総覧」)とあり
ます。実際に歩いた方の体験談ですから事実でしょう。

この峠越えとは別に、切り立った崖下の波の洗う道をたどるルート
があったそうです。これは安政年間の地震によって地形が変わった
ため、通行できるようになったコースのようですから、西行時代は
当然に峠道をたどっていたものと思われます。

◎ いはきやまこえてこぬみのはまひさぎひさしくなりぬ波にしをれて
                     (藤原家隆 壬二集)

◎ 駒なづむいはきのやまをこえわびて人もこぬみのはまにかもねん
                     (藤原定家 拾遺愚草) 

(田子の浦)と(浮島原)については次号で記述します。

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   (4)駿河の国の主な歌枕

田子の浦・富士・三保の浦・清見潟・浮島原・宇津山など。

○ 田子の浦(静岡県富士市田子)

◎ たごのうら蟹のぬれ衣きたれどもほしきにものはいはずもあるかな
                   (柿本人麿 人麿集)

○ 浮島原(静岡県沼津市)

◎ あしがらの関路こえゆくしののめにひとむらかすむうきしまがはら
                  (藤原良経 秋篠月清集)

○ 宇津の山(静岡県志太郡岡部町)

◎ 言の葉はつたのもみぢにかきつけつ都におくれうつのやまかぜ
                    (壬二集 藤原家隆)

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   (5)ちょっとした疑問

西行が「小夜の中山」を越えたのは二度のみなのでしょうか?。
三度は越えているのではなかろうか・・・という思いがあります。

(年たけてまた越ゆべしと思きや・・・)の歌の中にある(また)
について、及び、詞書にある(昔になりたりける・・・)の(昔)
の言葉は示唆的ですが決定的ではありません。

(また)とは通常は再びという意味で受け止めますが、しかし過去
に何度も体験していても、最新の体験を(また)というもので
しょう。したがって(また=二度目)に限定することはできません。
三度目や四度目の小夜の中山越えを経験していたとしても(また)
という言い方をしても不思議ではないのです。
(昔)も、前回は何年前のことであると明示していない以上は10年前
のことでも(昔)になるでしょう。要するに(また)も(昔)も
決定的な言葉ではありません。

先達の研究者の誰もが「小夜の中山の歌」は再度の陸奥の旅の時の
歌としています。これには疑問をさしはさむ余地はありません。
しかし、ほぼ40年ぶりに小夜の中山を越えたのかどうか、しかも
何度目の中山越えに当たるのか、それについては断定は不可能だ
と思います。陸奥への旅の時以外にも小夜中山を過ぎたことが
あるのかどうか・・・。それが疑問です。

山家集には小夜の中山歌は存在しませんから、そのことからみて
小夜の中山を越えたのは合計二度と解釈するほうが自然なのかも
知れません。もし他にも歩いているのなら、山家集に歌があって
もいいと思います。とはいえ、初めの旅の時の小夜の中山歌もない
のですから、どうなのでしょう。

岩波文庫山家集では「涙のみかきくらさるる・・・」歌は、「年
たけて又こゆべしと・・・」歌と「風になびく富士の煙の・・・」
歌の中にあります。それによって、あたかも「涙のみ・・・」歌は
陸奥旅行の時の一連の歌のような印象を受けます。
ところが新潮版の山家集では、「心をば深き紅葉の・・・」歌の次
に配列されていて、それにより、いつとは知れないけれども陸奥
旅行とは関係なく、駿河あたりまでの旅をしたことがあるのだろう
な、と思わせます。
窪田章一郎氏も「西行の研究」の中で「駿河あたりまで旅をしたの
かもしれない。」と記述されています。

西行の足跡をたどるには伝わっている歌や他の少しの書物に頼る
しかなく、断片的なデータをつき合わせた上で考えるしかありま
せん。いきおい、推定は可能でも断定はできかねるということに
なります。
小夜の中山を何度越えたのか、あるいは何十年ぶりに越えたのか、
それを断定するだけの根拠はなく、疑問は疑問として持ち続ける
しかありません。     

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    (6)雑感

今号は長くなりすぎました。雑感は簡潔にします。

もう一ヶ月前になるのですが秋晴れの「小夜の中山」を歩いてきま
した。なんとなく、一つの宿題を果たした感じです。当日の画像を
出しておきました。ご覧願います。

http://sanka05.web.infoseek.co.jp/nakayama01.html

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