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■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■
第 二 部 vol.18(不定期発行)
2006年11月23日発行
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こんにちは。阿部です。
本日は11月23日。勤労感謝の日です。
私は曜日や祝日についてはとても疎くて、11月23日は何かあったなー
と思いつつ、カレンダーを見ると勤労感謝の日でした。
曜日などが私の生活サイクルの基本ではなくして、むしろマガジン
の発行が私の生活の中心ともなっているとも言える日常です。
それもまた、私にとっては必然のあることなのかもしれません。
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◆ 西行の京師 第二部 第18回 ◆
目次 1 駿河の歌(2)
2 「風になびく・・・」歌について
3 富士信仰と富士の文学作品
4 田子の浦・浮島が原・千本松原
5 雑感
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今号では「富士の歌」に触れて記述します。
「富士」の名詞の入っている歌は下の6首に及びますが、しかし
ア・イ・ウの歌はとても西行の歌とは言えません。ウの歌は山家集
採録歌ですが、先号に記述したように登蓮法師の歌とみなして良い
でしょう。ア・イの歌については作者は不明です。
1番から3番までが西行の歌だと言えますが、この中で3番の歌は
西行自身が「第一の自嘆歌(慈円の拾玉集に記述)」とも言って
いるほどでもあり、西行歌を代表する一首であることは間違いない
ものと思います。
(1) 駿河の歌(2)
1 けぶり立つ富士に思ひのあらそひてよだけき恋をするがへぞ行く
(岩波文庫山家集153P恋歌・夫木抄)
2 いつとなき思ひは富士の烟にておきふす床やうき島が原
(岩波文庫山家集161P恋歌)
あづまの方へ修行し侍りけるに、富士の山を見て
3 風になびく富士の煙の空にきえて行方も知らぬ我が思ひかな
(岩波文庫山家集128P羇旅歌・西行上人集・新古今集・拾玉集)
ア 思ひきや富士の高嶺に一夜ねて雲の上なる月を見むとは
(源平盛衰記巻八)
イ 富士みてもふじとやいはむみちのくの岩城の山の雪のあけぼの
(諸国里人談)
ウ 清見潟月すむ夜半のうき雲は富士の高嶺の烟なりけり
(岩波文庫山家集73P秋歌・続拾遺集)
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○けぶり立つ
富士山から噴煙が立ち上っているということ。
西行の時代は噴火活動は治まっていましたが、噴煙は立ち上って
いたものでしょう。
○富士
富士山のこと。後述。
○思ひ
活火山である富士の活動の「火」と、自身の思いの熱さという
ことを「ひ」にかけています。
○よだけき恋
(よだけき)は形容詞のク活用。(よ)は(いよいよ)の(いよ)
の転で、「ますます」「いっそう」などの意味があります。
(たけき)は「猛き」のこと。
合わせて、仰々しい、大げさだ・・・という意味になります。
○するがへぞ行く
「する」は掛詞です。(恋をする)ということと、(駿河へ行く)
ということを掛け合わせています。
○おきふす床
起き臥す床で、寝起している床ということ。
新潮版では「うち臥す床」となっています。
○うき島が原
後述。
(1番歌の解釈)
「煙の立ちのぼる富士にわが胸の燃ゆる「思ひ」の火が争う、
そんなことごとしい恋をする、その駿河の方へ行くことだ。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(2番歌の解釈)
「いつまでも思い焦がれ続けるあの人への思いは富士の噴煙の
ように絶える時がないが、起き伏しする私の寝所は山麓に広がる
浮島が原のように、涙に濡れて浮いたように見える。」
(和歌文学大系21から抜粋)
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◎ 時知らぬ山は富士の嶺いつとてか鹿の子まだらに雪の降るらむ
(在原業平 新古今集1614番)
◎ 時わかぬいくよの雪をいただきてふじのたかねの年ふりぬらん
(藤原家隆 壬二集)
◎ 田子の浦にうち出でて見れば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ
(山部赤人 新古今集675番・百人一首第4番・万葉集)
◎ 東路はいづかたとかはおもひたつふじのたかねは雪ふりぬらし
(能因法師 能因集)
◎ ちはやぶる神もおもひのあればこそ年へてふじのやまももゆらめ
(柿本人麿 拾遺集597番)
◎ 不尽の嶺の煙絶えなんたとふべき方なき恋を人に知らせん
(和泉式部 和泉式部続集1121番)
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(2)「風になびく・・・」歌について
風になびく富士の煙の空にきえて行方も知らぬ我が思ひかな
上の歌は西行の歌として有名な一首ですが、山家集には収録されて
いません。岩波文庫山家集にはありますが、岩波文庫の校正ミスの
ため、歌の頭に○印がついていません。○印がないことによって
山家集所収歌と誤解されます。このことは岩波文庫山家集にたく
さんあるミスの一つです。
西行上人集が初出ですが、なぜか恋の部に入っています。新古今集
では雑歌の部にあります。
歌は1186年の二度目の陸奥までの旅の時のものとみられています。
小夜の中山を過ぎて、東海道を道なりに進んで行き、富士山を見て
の歌であろうと思います。
この歌については私個人の感想を書くよりも、先達の多くの方が
丁寧に考察されていますので紹介します。
「この明澄でなだらかな調べこそ、西行が一生をかけて到達せんと
した境地であり、ここにおいて自然と人生は完全な調和を形づく
る。万葉集の山部赤人の富士の歌と比べてみるがいい。その大き
さと美しさにおいて何の遜色もないばかりか、万葉集以来、脈々
と生きつづけたやまと歌の魂の軌跡をそこに見る思いがする。」
(新潮社版 白州正子氏著「西行」から抜粋)
「一切は空であることを深く観じるに至った西行の晩年の心境の
匂っている詩句ともなっているものである。かくて、富士の煙と
西行の思いとは一つに溶け合って、美しいイメージを描き、
「行方もしらぬわが思ひかな」の詩句は、不安がそのまま平安に
つながっているような趣を帯びるに至る。「行方もしらぬ」その
ままに、澄明で平安な世界に、西行の心は同化していこうとして
いた、ないしは同化していたのである。」
(弥生書房刊 安田章生氏著「西行」から抜粋)
「東海の広大な眺望にふり仰いだ富士の頂から立ちのぼって大空に
かすれ消えてゆく噴煙のさまは、万感に満ちた西行の胸郭を解放
したにちがいない。「行方も知らぬ」は、富士の煙であるのと
ともに西行の胸に湧いては消え消えては湧くといった、とどまる
ことのない思念であって、それは来し方行く方を自分自身に対し
ても問うのである。」
(河出書房新社刊 宮柊二氏著「西行の歌」から抜粋)
「心の丈高い、大空のように広々とした作で、富士と煙と空が無限
の広がりをもって迫り、広大無辺な宇宙のひろがりを感じさせる。
(中略)七十年生きて、わが心ひとつがついに捕らえきれないと
いうことを、わが心がようやく悟った。それが自分が歌に賭けた
答えだったのだ。」
(講談社刊 瀬戸内寂聴氏著「白道」から抜粋)
西行が1190年2月16日に河内の国、弘川寺で入滅した報を受けて
慈円は寂蓮に以下の歌を贈り、寂蓮もまた返答の歌を詠んでいます。
風になびく富士のけぶりにたぐひにし人の行方は空に知られて
(慈円 拾玉集)
たぐひなく富士のけぶりを思ひしに心もいかに空しかるらん
(寂蓮 拾玉集)
晩年になっての西行は、若い慈円とも懇意にしていました。
慈円は西行の勧めた「二見浦百首歌」に応えてもおり、「御裳濯川
歌合」や「宮川歌合」の歌稿の清書もしています。
西行最晩年において単なる歌友を越えた交誼が両者の間にあった
ことは確実です。
蛇足ですが、西行入滅の時、及びその後に哀悼の歌を詠んだ歌人
たちの歌を記述しておきます。
◎ 願ひおきし花の下にて終りけり蓮の上もたがはざるらむ
(藤原俊成 長秋詠藻)
◎ 望月の頃はたがはぬ空なれど消えけむ雲のゆくへかなしな
(藤原定家 拾遺愚草)
◎ 紫の色と聞くにぞ慰むる消えけん雲はかなしけれども
(藤原公衡 拾遺愚草)
◎ 君知るやそのきさらぎと言ひおきて言葉にほへる人の後の世
(慈円 拾玉集)
◎ ちはやぶる神に手向くる裳塩草かきあつめつつ見るぞかなしき
(慈円 拾玉集)
◎ 去年の今日花のしたにて露消えし人の名残の果てぞかなしき
(藤原良経 秋篠月清集)
◎ 花のしたの雫に消えし春はきてあはれ昔にふりまさる人
(藤原定家 秋篠月清集)
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(3)富士山と富士山の文学作品
日本最高峰の富士山は甲斐の国(山梨県)と駿河の国(静岡県)に
またがってそびえています。標高3776メートル。1707年11月23日に
噴火して以来、休火山となっています。
日本で一番高い山でもあり、かつ山容の秀麗さもあって、古代から
特別な意味を付託されてきたといえます。日本の象徴としての山と
いえば富士山であり、現在でも特別な感慨を持ってみられています。
不二、不死、などと表記することから見ても、人々の富士山に託した
心情をうかがい知ることができます。
これまで、たくさんの人が富士について書き残しています。以下に
少しのみ富士山について触れた作品を紹介します。
聖徳太子が黒駒に乗って富士山に登ったとか、役行者が伊豆の国の
配流地と富士山の間を自在に行き来して修行したなどという伝承は
早くから知られていたようです。
◎ 勅使にはつきのいはかさといふ人を召して、駿河の国にあなる
山の頂にもてつくべきよし仰せ給ふ。嶺にてすべきやう教え
させ給ふ。御文、不死の薬の壷並べて、火をつけて、燃やす
べきよし仰せ給ふ。そのよし承りて、つはものどもあまた具し
て山へ登りけるよりなん、その山をふじの山とは名付けける。
その煙、いまだ雲の中へ立ち昇るとぞ言ひ伝へたる。
(作者不詳 竹取物語)
◎ さまことなる山の姿の、紺青を塗りたるようなるに、雪の消ゆる
世もなく積もりたれば、色濃き衣に白きあこめ着たらむやうに
見えて、山の頂の少し平らぎたるより、煙は立ち昇る。夕暮れ
は火の燃え立つも見ゆ。
(更級日記 菅原孝標女)
◎ 田子の浦ゆうち出でて見ればま白にそ富士の高嶺に雪は降りける
(山部赤人 万葉集巻三318)
◎ 我妹子に逢ふよしをなみ駿河なる富士の高嶺の燃えつつかあらむ
(詠み人知らず 万葉集巻十一2695)
◎ 君といへば見まれ見ずまれ富士の嶺のめづらしげなく燃ゆるわが恋
(藤原忠行 古今集)
◎ 富士の嶺の煙もなほぞ立ちのぼるうへなきものはおもひなりけり
(藤原家隆 新古今集)
◎ 霧しぐれ富士を見ぬ日ぞおもしろき
(芭蕉 野ざらし紀行)
◎ 不二ひとつうづみのこしてわかばかな
(蕪村 蕪村句集)
◎ 西行の忘れおきしか笠一つ
西行の頭巾もめさず雪の不二
(正岡子規 竹の里歌)
◎ 狂者もり眼鏡をかけて朝ぼらけ狂院へゆかず富士の山見居り
(斉藤茂吉)
◎ 富士よゆるせ今宵は何の故もなう涙はてなし汝を仰ぎて
◎ 赤々と富士火を上げよ日光の冷えゆく秋の沈黙(しじま)のままに
(若山牧水)
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(4)田子の浦・浮島が原・千本松原
先号で予告していたように、歌枕の(浮島が原)と(田子の浦)に
ついて記述しておきます。合わせて、景勝地である千本松原につい
ても触れておきます。
(田子の浦)
田子の浦は古くは富士川の西を指していたようですが、阿仏尼の
頃には富士川の東をも含めていました。「十六夜日記」には富士川
を越えてから田子の浦に着いたという記述があります。
現在の、富士川の東を流れる潤井川の河口にある田子の浦港一帯の
海岸線を鎌倉時代でも「田子の浦」と言っていたものでしょう。
東海道名所図会では以下のように記述しています。
「清見・興津よりひがし、浮島原までの海辺の総号なるべし」
「田子の浦」は山部赤人の歌で有名になりましたが、平安時代は
「浦」「浪」を込めた歌が多く詠まれています。
◎ おぼつかな我が身は田子の浦なれや袖うち濡らす浪の間もなし
(和泉式部 続和泉式部集)
◎ 田子の浦に寄せては寄する浪のごと立つやと人を見るよしもがな
(和泉式部 和泉式部集)
(浮島が原)
静岡県東部、愛鷹山南麓の低湿地。砂州で生じた海跡湖の跡で、
沼はほとんど消失。干拓が進む。
(日本語大辞典から抜粋)
浮島が原は江戸時代東海道の原宿の北側に広がる沼沢地を言い
ます。
◎ つれなきをおもひしづめる涙にはわが身のみこそうきしまがはら
(肥後 肥後集)
◎ さみだれは富士の高嶺も雲とぢて波になりゆくうきしまのはら
(藤原家隆 壬二集)
(千本松原)
駿河の国、沼津宿近くから、駿河湾の美しい海岸線沿いに10キロ
ほどの長さにわたって続く「千本松原」があります。
「千本松原」の地名(?)自体は「東関紀行」や、平家物語の長門本
にも出ていて、古くからの名所であったようです。武田勝頼がこの
松原の松を伐り払わせたということであり(東海道名所図会)、
松は何度か植え替えられたものと思われます。
「千本の松原というあり。海のなぎさ遠からず、松はるかに生い
わたりて、緑の影きわもなし。」
見わたせば千本の松の末遠みみどりにつづく浪の上かな(光行)
(東海道名所図会から抜粋、初出は東関紀行)
ところが(静岡県の歴史散歩)では、富士川の河口までは連綿と
続く荒廃地で、松を植えようとしたが根付かず増誉上人が1532年
以降にこの地にやってきて、苦心の末、やっと植林に成功したと
あります。
東関紀行の記述する風景とは随分違いがあります。1500年頃に松が
なかった原因は、潮風による枯死のためだろうと思われます。
大正15年(1926)、静岡県が開発のために松原の松を伐採すると
いう暴挙を企てました。それに敢然として反対したのが歌人の
若山牧水です。
牧水の熱意と尽力によって、この美しい自然美は残されることに
なりました。近くに牧水の旧居や記念館があります。
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(5)雑感
先日、京都市の西にそびえる愛宕山に一人で登ってきました。4年
連続5回目の愛宕山登山です。
自宅から嵯峨野の二尊院まで自転車で行き、門前に自転車を停めて
から歩き始めました。清滝のバス停から愛宕神社前までの所要時間
は2時間10分。私の年齢だと、早く登った方だと思います。
平日であるのに、そこそこの登山者がいます。勤めを勤め上げて、
すでに自適の身とおぼしき年代の方が多かったのは、やはり平日で
あるからでしょう。
神社を参拝した後、今回はじめて水尾の里に下りました。道は急
勾配の地道であり、滑りやすくて、ちょっと危険な気がしました。
とはいえ、神護寺に降りる道(神護寺道)や月輪寺(月輪道)に
降りる道は道なき道ともいえる部分もありますので、どちらに
しても愛宕山単独行は危険なことに変わりありません。
こういう道を歩いて、古来から人々は愛宕詣でをしていたのです。
明智光秀が本能寺の変の5日前に、水尾から愛宕社での連歌の歌会
に参加して、「時は今あめか下しる五月かな」という意味深長な歌
を詠みました。
また、月輪寺は空也、法然、親鸞、藤原兼実などとも関係が深くて、
兼実は源通親との関係で失脚したときに籠もっていたともいいます。
そのように、愛宕山も歴史の中にしばしば立ち現れてくる山です。
水尾の里から保津峡に出て、二尊院前までも歩きました。全行程を
通して16キロほどの距離ですが、やはり年齢には勝てないのか翌日は
筋肉痛になりました。
(昭和4年から19年の間、山頂までケーブルが通じていて、下駄履き
でも登れる山でした。当時はホテル、遊園地、スキー場などがありま
した。現在もケーブルの山頂駅の建物が残っています。)
今年の紅葉は遅れています。20日から22日にかけて数箇所を見てきま
したが、今になってやっと色づいた気もします。
遅れている分、来月の中ごろまでは楽しめるのではなかろうかと思い
ます。