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  ■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■ 

   第 二 部         vol.19(不定期発行)  
                    2006年12月23日発行

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こんにちは。阿部です。
いよいよ年の瀬も押し詰まってきました。それとともに寒さも一段
と厳しくなっています。
もうすぐ正月です。「もういくつ寝ると・・・」にある正月の待ち
遠しさは、私の中ではいつのころから失われたものなのか・・・。
せわしなく追われた果てに、遠慮もなく正月がやってくるという
のが実態です。
それでも正月というのは一年の区切りとして格別の感慨を持ちます。
連綿と続く慣習の呪縛に捉われているようでもありますが、
たどってきた一年を回顧し、そしてまた、さらなる旅立ちのための
始発点としての大いなる意味があることは確かなことでしょう。

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   ◆ 西行の京師 第二部 第19回 ◆

 目次 1 甲斐の歌
     2 西行と甲斐の国
     3 甲斐の国までのルート
     4 身延山と甲斐の白嶺
     5 甲斐の国の主な歌枕
     6 雑感

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富士山は山梨県と静岡県にまたがっていますから、富士山の歌は
 甲斐の国の歌でもあります。すでに駿河の歌として紹介済みです
 から、ここでは割愛します。

    (1)甲斐の歌

1 雨しのぐ身延の郷のかき柴に巣立ちはじむる鶯のこゑ
            (岩波文庫山家集22P春歌・夫木抄)

2 君すまば甲斐の白嶺のおくなりと雪ふみわけてゆかざらめやは
               (岩波文庫山家集242P聞書集)

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○雨しのぐ
 雨をしのぐものは(蓑)であり、(雨しのぐ)で身延の地名を
 想起させるように詠まれています。

○身延の郷
 甲斐の国(山梨県)の地名。富士山の西側に位置します。

○かき柴
 (かき)は垣根のこと。柴の木を垣根に用いているということ。

○甲斐の白嶺 
 山梨県、静岡県、長野県の県境付近にある連山のことです。
 北岳(3193)、間の岳(3189)、農鳥岳(3026)を指して
 白根三山といいます。南アルプスの中心となる連山です。

 (1番歌の解釈)

 「身延の里(甲斐の国にあり)の垣根にしている柴の木に巣立ち
 はじめる鶯の声がきこえるよ。」
        (渡部保氏著「西行山家集全注解」から抜粋)

 (2番歌の解釈)

 「あなたが住むならば甲斐の白根山の、雪を踏み分けて行かない
 ことがあろうか、私は行くよ。」
 (難所もいとわない果敢な志を詠む。)
                (和歌文学大系21から抜粋)

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    (2)西行と甲斐の国

今号は東海道のルートからはずれて、ちょっと寄り道して甲斐の国
の歌を紹介します。
(ただし甲斐の国は東海道の一国であり、17号で紹介した東海道の
駿河横走駅の途中から甲斐路が続いていて、河口湖の東をたどって
甲斐国府にまで達していました。)

甲斐の国の歌は富士山の歌を除いて、前述した二首しかありません。
1番歌の初出は夫木抄、2番歌の初出は聞書集です。つまり甲斐の国
の歌は富士山の歌二首以外は山家集に入集していません。
これはどういうことかというと、現在にまで伝わっている西行歌
から類推する限りは、西行は甲斐の国にまで足を伸ばしたとは明言
できないということです。
もしも甲斐の国に行っているとしたら、それは初度の旅において
より他に無いと思えます。しかし初度の旅において甲斐の国を巡覧
したのであるなら、山家集に甲斐の国の歌が採録されていないのは
大きな疑問として残ります。
(ただし散逸していて今日にまで伝わらなかった歌稿の中に、甲斐
の国の歌があるのかもしれません。)

前号で紹介した「風になびく・・・」歌の富士山は、甲斐の国の歌
でもありますが、この歌は二度目の旅の時の歌であり、わざわざ
甲斐の国にまで寄り道して行って詠ったものではなかろうと考えら
れます。
二度目の旅の時は時間にも気持ちにも余裕があっての物見遊山的な
旅ではなくて、ひたすらに陸奥を目指して歩いたものでしょう。
はっきりとした目的を持っての陸奥旅行であり、当時の政治的な
状況が旅を急がせただろうと解釈できます。

日本書紀には「甲斐の黒駒」の記述があります。古代から中世に
かけて甲斐の国には朝廷の牧があって、良質の馬を生産したよう
です。
源頼義の子である新羅三郎義光が甲斐源氏の祖です。その支族で
ある武田源氏の興亡は、甲斐の国の歴史にとても重く、かつ、華や
かな彩りを添えています。

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    (3)甲斐の国までのルート

古代東海道の支路である「甲斐路」もそのルートは推定によるしか
ないそうですが、「古代の道」によると横走駅(御殿場市駒門付近)
を越えてから、東海道の本路と分岐して山中湖の西岸、河口湖の
東岸をたどって春日居にあった甲斐国府まで通じていました。
この路はあとに「御坂道」と呼ばれ鎌倉往還道でしたから、律令の
時代の東海道甲斐路であるともみなされます。

この東海道とは別に駿河と甲斐、相模と甲斐を往還する一般道が
とても古くからできていたはずです。甲斐の国にも縄文や弥生の
遺跡が多く発見されており、富士川沿いには天神堂遺跡(南巨摩郡
富沢町)があります。人がいる所に道ができるのは道理ですから、
駿河の田子の浦あたりから甲斐の国にまで達する富士川沿いの一般
道ができていたものと思われます。現在「富士川街道」と呼ばれる
道です。(現在の富士川街道は静岡県興津から山梨県韮崎までの区間
を指し、韮崎からは国道20号線として塩尻市まで伸びています。)
初度の旅において、西行が身延や白根三山あたりまで足を伸ばした
とするなら、この富士川沿いの道を通ったものでしょう。
尚、南巨摩郡南部町には西行峠や西行公園があります。

初度の旅では京都を桜の頃に旅立って、伊勢や久能の山寺などに
逗留しながら、陸奥までの道程をゆっくりとたどり、出発後、約
半年をかけて平泉に着いたと解釈できます。平泉着は10月12日。
(岩波文庫山家集131P)旧暦ですから10月12日は「雪ふり嵐はげ
しく・・・」という冬になっていました。

(10月12日着の記述は二度目の旅の時のものだとみる説もあります
が、二度目の旅の時のものとするには歌の持つ雰囲気や時制に整合
性を欠いているとみられ、やはりこれは初度の旅の時とみなして
いいと思います。二度目の旅の時の平泉着は1186年の9月初め頃
かと思います。

確証はありませんが、陸奥からの帰りは東山道や北陸道をたどって
京都に戻ったものと思われます。北陸道や東山道の国々の歌がわず
かであれあること、そして歌の配列などを勘案して、そのように
推測します。
距離的にも甲斐の国は北陸道は無論のこと、東山道のルートからも
遠く離れていて、それらのルートから甲斐の国に入った可能性は
ほぼないだろうと考えます。

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    (4)身延山と甲斐の白嶺

(身延)

山梨県南巨摩郡身延町は富士山の西、富士川の流域にある地名です。
身延は歌枕ではなく「平安和歌歌枕地名索引」では「身延浜」と
して一首のみ採録されています。

身延で有名なお寺として日蓮宗総本山の「身延山久遠寺」があります。
このお寺は日蓮(1222〜1282)が、配流先の佐渡から許されて帰った
1274年に身延山西谷に草庵を結んだのが起こりと言われます。
1475年に諸堂を移転して現在の久遠寺の原型ができたようです。
                (「山梨県の歴史散歩」を参考)

◎ みのぶはまなにかは波のよるをまつひるこそかひの色もみえけれ
                  (高遠集 藤原高遠)

「みのぶはま」は富士川の川岸を「浜」に見立てたものです。

(甲斐の白根)

前述の北岳、間の岳、農鳥岳という3000メートル以上ある連山を
指して「白根山」といいます。「白嶺山」「白峯山」とも表記され
ます。
甲斐の白根は甲斐の国の歌枕として「甲斐の白根」「甲斐が根の山」
という形で詠まれています。
「白」から深い雪、「根」から高く険しい、ということを共通認識
として詠まれる傾向にあります。

◎しなのなるいなにはあらずかひがねにふりつも雪のとくるほどまて
                  (重之集 源重之)

◎おしなべて外山も雪はつもれどもかひのしらねはいふかひもなし
                  (壬二集 藤原家隆)

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    (5)甲斐の国の主な歌枕     

 甲斐嶺(甲斐の白根)・塩の山・差出磯など。

○甲斐嶺(甲斐の白根・甲斐の白嶺)(南アルプス市)

◎ かひがねに雪のふれるか白雲かはるけきほどはわきぞかねつる
                    (能因 能因集)

◎ いづ方とかひのしらねはしらねども雪ふるごとにおもひこそやれ
                 (紀伊式部 後拾遺集) 

(白根山の山名に「雪が深く、高く険しい山」という意味を含ま
 せて用いられます。)

○塩の山(塩山市、現、甲州市)

◎ 冬のよのありあけの月もしほのやまさしいでの磯に千鳥なくなり
                   (藤原家隆 壬二集)

◎ しほのやまゆきげの雲やはれぬらんさしいでの磯の月のさやけき
                    (平忠盛 忠盛集)

(差出の磯から見ると、笛吹川をはさんで直面して遠望できる山が
 「塩の山」です。差出の磯と組み合わせて詠まれています。)

○差出磯(山梨市万力区)

◎ しほの山さしでの磯にすむ千鳥 君がみ代をばやちよとぞ鳴く
             (よみ人しらず 古今集・伊勢集)

◎ やちよとぞ千鳥なくなるしほのやまさしでのいそのあとをたづねて
                   (藤原隆信 隆信集) 

◎ 闇の夜や巣をまどはして鳴く千鳥
                 (芭蕉 差出の磯の句碑)

(絶壁から張り出した奇岩のたたずまいが、ちようど海辺の磯の
 ように見えるので、この名がつけられた。
 コチドリ・イカルチドリ・シロチドリ・イソシギなどの生息が
 確認され、これらを総称して「チドリ」としている。
                (「山梨県の歴史散歩」を参考)  

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   (6)雑感

今号が本年最後の発行となります。この一年のご愛読、感謝します。
ありがとうございました。
振り返り見て、大過なく発行を続けてくることができたという幸運
を私自身で喜びとしたいと思います。
「西行辞典」とのかねあいもあって、1ヶ月に1度、年間12回の発行
のペースが少し崩れましたが、これはまあ、いつか辻褄を合わせる
つもりです。

すでに一ヶ月以上前のことですが、なんと21年ぶりに奈良の長谷寺
を訪ねました。この寺は「ボタンのお寺」ですが、ボタンは当然に
裸木のままでした。
紀貫之が「人はいさ心もしらず・・・」という梅の歌を詠んだお寺
と言われています。
平安時代はたくさんの貴顕が初瀬詣でをしました。京都から奈良に
入る手前の奈良坂は当時は追いはぎ・強盗・護摩の灰などの巣窟で
あり危険なコースでしたが、それでも多くの人々が長谷観音の霊験
を頼みに長谷寺まで通いました。

私は今回で2回目でした。以前は奈良周遊の自転車旅行の折でした。
吉野から壬申の乱のコースをたどって大野まで行き、その帰り道に
立ち寄ったのです。
21年ぶりに訪ねてみて、観音像はもっとふくよかであったとか、
舞台はもっと広かったような・・・とか、記憶との整合性が取れず、
しばし茫然です。記憶とはしばしば実像とは違った形で変容して
いるものなのでしょうね。

誰がどこで何を勘違いしたのか早々と年賀状が一通届いています。
私はこれから宛名書きです。それにしても年々、年賀欠礼の
はがきが多くなっています。私自身が高齢であることの証左ですね。

それでは、良いお年をと願いあげます。